2008年12月25日木曜日

03004■ミチノクとは

【問題意識】                                    

・なぜミチノク」というのでしょうか

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【資料】

ミチノク

1.奥儀。 道奥。 

2、ヒタカミミチノク(人名)。 

3.ヒタカミミチノクがヤマトタケに降服した後のヒタカミの国名。

時にタマキネ「相語り 昔 道奥 尽くさねば ここに待つ」とて 授けまし』6紋
ウケステメ 根の国に来て タマキネに よく仕ふれば 身に応え ココリの妹と 結ばせて 弥真道奥 授けます』15紋
『天の日嗣を 受くる日の 三つの宝の その一つ 天成文の 道奥ぞこれ』23紋
今のテニハに擬えて 形と技とその味を とくと得ざれば 道奥を行き違うかと 畏るのみなり』ミ序
『道は地道 早く遅きも 心あり 尋ね来たらば 我 会いて その道奥を 語るべし』ミ1紋



・鳥居礼 「宇宙原理ホツマ」p179

磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五カ国を「陸奥(ミチノク)」といいます。しかし、なぜ「ミチノク」というのかは知れていません。『ホツマツタエ』によれば、アマテル神が若きころ、日高見の多賀に坐すトヨケ神のもとで天の道を学ばれ、そこで;道の奥(奥義);を捧げられたことによる名称であることがわかるのです。「ミチノオク」がちぢまり「ミチノク」となったのです。


松尾芭蕉もこの日本の壺としての道の奥多賀にある「壺の碑(つぼにいしぶみ)」を尋ね、古をしのんで涙がこぼれそうだったと「奥の細道」に記しています。芭蕉もまたこの地で、俳諧の<道の奥>を悟ったのではないでしょうか。








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2008年12月23日火曜日

03003■日高見の地図



【問題意識】
・ヒタカミ 日高見とはどこなのでしょうか。
・その根拠は何か>
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【資料】
鳥居礼著「言霊ーホツマ」よ(p278~)

ホツマ古代地図







古代東北は
津軽と
日高見(ヒタカミ)

ホツマは関東















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天上の高天原と地上の高天原

アメミオヤ神と四十八神が、高天原に還られて鎮座する宮を精奇城(サゴクシロ)といい。それと同時に、地上で神を祀る所を高天原という。「ミカサフミ」にあります。

地上に四十九の言霊神を祀り、天上の高天原に鎮座する四十九の神と霊的なつながりをもつ。(ホツマ)









この地に天上の神を祀り高天原と称した。
五代タカミムスビのトヨケが四十九神を斎き祀られたことがわかります。
田の原文を厳密に検討していくと、地上の高天原がある日高見地方が、福島県の勿来以北の東北地方であることがわかります。
オシホミミ朝からは仙台の多賀が中心となります。
「日本古典文学大系」の「日本書記」でも、この日高見を宮城県の北上川下流域と推定している。「ヒタカミ」が「キタカミ」に訛ったものと考えられている。
「ホツマ」から、この日高見の高天原は司法、行政の中枢機関であったことがわかります。


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2008年12月22日月曜日

03002■ヒタカミ(2)



【問題意識】
・ヒタカミとはどこか、何か

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【資料】
ピーチェの「ヲシテのクニ」:キミのお心に生きた「タジマモリ」より

1、ヒタカミは建国の「クニトコタチ」以来の「タカミムスビ」の本貫地であり、9代アマカミ「オシホミミ」も、朝廷を置かれたところです。

2、また、イサナギ・イサナミさまから、タカミムスビノ系統にアマカミのみ位が受け継がれたこともあって、9代のオシホミミさま以後、ミツギも納めなくても良いという、別格な扱いとなり、自治を認められていた。

3、タジマモリの項(ホツマツタエ 39-17より)
やって慣れ親しむこともでき、隣国のヒタカミを巡り、あのツガルオオキミ「オオナムチ」さまのご子孫である、シマツのキミにもご縁を得ることができましたのに…。



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03001■ヒタカミ(1)


【問題意識】

・日高見・ヒタカミとはどこか、誰か

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【資料】

ヒタカミミチノク

タカキネの14代目の裔。 タジマモリが親交を深めたヒタカミ国主。 ヤマトタケの皇軍には最後まで敵対するがオオトモタケヒに説得されて帰順する。 これによって勿来より北はミチノク(陸奥)と名付けられ、ヒタカミミチノクはその国守に任命され百県の初穂を納めるようになる。 これを以ってヒタカミという国名は公式には無くなる。


先にタジマが遺し文「国 染まざれば 橘の木を得んと思えば タチバナのモトヒコが家に 年 経りて 馴染みて巡る ヒタカミシマツの君に会い知りて やや得て橘を引かぬ間に  神となる 千々悔み 今 若宮に奉る  がモトヒコに 結ぶ雫の水本を思してホツマ 領し召せ」』39紋
ヒタカミのミチノク シマヅミチヒコと 国造五人 県主 百七十四人 万族 丈の水門に 拒む時 タケヒを遣りて これを召す』39紋


タケヒ また行く ヒタカミのミチノクに告ぐ サヲシカ人39紋
日の神 ここに道 学ぶ  故 日高見ぞ 天の御子 チチ姫と生む 御子二人 アスカ宮 ハラミ(宮) その時 国を 賜わりて 十四のの までは 他所の 受けず』39紋
ヤマトタケ ミチノク 許し 勿来より 北はミチノク 国の 百県の初穂 捧げしむ』39紋



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【まとめ】
・ヒタカミミチノクがヒタカミを修めていた人物である。
・勿来より北がミチノクとなった。


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2008年12月19日金曜日

01022■タジマモリの真相










ホツマによるタジマモリ

http://julian.way-nifty.com/woshite/2006/05/post_f945.html

遺しフミの最重要な文は後半にあります。
「キミ やつかれが モトヒコに
むすぶシズクのミナモトを
おぼして ホヅマ しろしめせ」
ワカミヤ(ヲシロワケのキミ)さま、
私めが、モトヒコと結んだ水の一滴のようなご縁の、
そのミナモトとなりましたのは(父ギミ、イクメのキミのご密命にありました)
それを、良くお考えあそばし(お使いになって)
ホヅマ・・・すなわち、アメナルミチに表される治世を、
(ヒタカミにも)お広めになられますように。

この一文があればこそ、タジマモリさんのお心も良く分かるのです。
この事情を知った上で、あの唱歌を読むならば、
私達は、歌に表してはいない、隠れた歴史のまことを想い、
あらためて心打たれるような気がいたします。
まるで「乃木将軍みたいなお方」と私は書いたのですが、
お役も時代もはるかに違えども、
オオキミのお心を身に受けて、生涯を賭けられたことには変わりなく、
また、その「二君にまみえず」という、深い忠義のお心がそっくりです。
言わせて頂くならば、二君にお仕えできないほど、
全身全霊をすべて捧げつくされ、任務を全うされたのだと思いました。
そして、タジマモリさんは、
キミの御陵の前で、殉死されたのです。
イクメのキミ、垂仁天皇さまの御陵の壕中には、タジマモリさんの小さな墳墓があります。
いまも、キミを守っておられるのでしょうね。
クニの守りを強めたお方、タジマモリさま。
「タジ」とは(イタシ)致しか、足しということでしょうか。
「マモリ」はもちろん守ると言う意味なのですから。
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垂仁記を読む)から貼り付け
■タジマモリを遣わした垂仁天皇とは
(注)活目入彦五十狭茅・・・イクメイリヒコ・イソサチと読む。


垂仁天皇。通説ではイサチと「ソ」を落として読むが、これは古事記の用例イクメイリヒコ・イサチに合わせた読みで、「仲哀紀」「筑前風土記逸文」に見える「五十」は「イソ」と読むようにという要求に反する。古事記がなぜ「伊佐知(いさち)」として「五十狭茅」の「ソ」を落としたかについては、祟神紀でも説明したように古事記の持つ強い「日本王統列島内自生史観」の為せる業である。

そのことを否定するかのように、垂仁紀では本文にも分注にも「朝鮮半島からやって来た王族級の人物・ツヌガアラシトやアメノヒホコ」などが登場する。古事記では応神記に、神功皇后の出自を言うためにアメノヒホコが引っ張り出されるが、これは例外中の例外である。


さてイクメ天皇は私見では「イクメに入ったイソ(五十)の狭い茅葺きの王宮生まれの天皇」で、祟神天皇が半島から九州島は五十(糸島)地方に亡命移住して来た後にそこで生まれ育ち、やがて「大倭」のプリンスとして成長ののち、ヤマタイ女王国の「伊支馬(いきま=イクメ)」という植民地の総督のような駐在武官を経験したことを表す名を負ったと見る。その時代は260年の頃だと考える

■タジマモリとは
田道間守・・・タジマモリ。

3年条の分注によれば、祖は半島人アメノヒホコで、ヒホコ―モロスケ―ヒナラキ―キヨヒコ―タジマモリという系譜。その一方で古事記では「応神記」に、ヒホコ―モロスク―タジマヒネ―ヒナラキ―タジマモリ・タジマヒタカ・キヨヒコ(3兄弟)とする。違いは古事記の方に先々代のタジマヒネとタジマモリの兄弟が二人載っている事だが、おおむね同一といってよい。

それより大きな違いは、古事記ではさらに後嗣を載せていることで、キヨヒコの娘ユラドミとキヨヒコの兄ヒタカとの間に「葛城之高額ヒメ」が生まれるが、これが神功皇后の母親であると記す(古事記では父親を欠くが、書紀では父を開化天皇の曾孫「気長宿禰王」としている)。

それはさておき、半島辰韓人ヒホコの後裔が但馬に居住し、その5世孫タジマモリは垂仁天皇の命令で「トキジクノカクノコノミ(いつも光り輝いている木の実)」を求めて常世国にまで行き、無事に探し当てて十年後に帰ってみると天皇はすでに他界しており、悲しんだタジマモリは墓前に自死した――という説話の主人公として描かれ、その忠節を賞されている。


トキジクノカクノコノミを「橘」であろうとする見方が多いが、橘なら魏志倭人伝に倭国にあると記されているので間違いである。では何なのかと問われると心もとないが、常世国という現実の国ではない所にあるとされているのであるから、具体的な何かの名を挙げるのもおかしなものだろう。不老不死の魂に関する何かであるとだけは言えるが・・・。

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(まとめ)
・垂仁天皇もタジマモリもやはり渡来系ですね。
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2008年12月17日水曜日

02004■出雲のオオナムチをカシマダチ

【問題意識】
・出雲の初代大物主・オオナムチがなぜ津軽に追われたのか。


【資料】
ホツマ縄文日本の宝 池田満著 展望社(P81~)
多賀のオシホミミ(アマテラスの継子)の宮で橘が枯れ始めた。
橘は政りごとの善し悪しの鏡です。・・・
検察官が出雲に着いてみると、はたしてそこは独立国家のような様相を呈していました。出雲の国の国司(クニカミ)はスサノオの継子オオナムチでして、その宮(出雲大社)にはりめぐらした垣をタマカキと呼ばせ、また、人々にウチミヤと呼びならわせているのです。朝廷と同じ呼び名を用いることは朝廷を軽んじている証拠です。そしてさらに、宮はイサワの宮(アマテラスが住む)や多賀若宮(オシホミミが住む)よりも大きく立派だと、オオナムチは自慢しています。これでは、朝廷にとっていわば鼎の軽重を問われていることと同じです。
多賀に戻った検察官はオシホミミに報告します。
「出雲のオオナムチは人々を指導することに秀で、その国は大変豊かに人々も暮らしています。しかし、
『満つれば欠くる』とことわざにあるように、オオナムチは国土経営の成功のはてに、垣根を玉垣と呼ばせ、宮をウチミヤと人々に呼ばせています。これはオオナムチに朝廷を敬う心のない証拠です」

オオナムチはアマテルカミの右の臣(カの臣)であり、右(カ)の締まりを解くことからカシマダチと名づけ出発した。

平定軍が出雲の宮に着いた。
喧嘩腰で迫られたオオナムチは狼狽してしまいました。オオナムチとしては、そんなに悪いことをしでかした罪の意識がありませんでした。悪いことをした思いもないままに、朝廷から平定軍がやってきたのです。
継子のクシヒコに対応策をたずねました。
「平定軍を使わされてしまった今となっては、我々一族はこの出雲から去っていきましょう。出雲の国がいくら栄えているとしても、それはそれまでのことです。多くの国を束ね治めている朝廷は全国民の幸せを考えなくてはならない立場にあります。それなのに朝廷を軽んじるような仕儀は間違っています。朝廷に逆らう者は全国民を的に回したことになってしまいます。だから朝廷はとてつもなく貴いのです」

クシヒコの考えを聞いたオオナムチは、出雲を去る決心をします。しかし残念ながら、オオナムチは自分の犯した間違いについては未だよく分かっていませんでした。ただ朝廷に逆らってはならないといったクシヒコの言葉に従っただけだったのです。

こうして出雲を去ったオオナムチは、謹慎生活をおくることになります。やがて、誠実な態度が評価されて、オオナムチは謹慎を解かれ、当時未開発の津軽の開拓が許されます。津軽の岩木山神社はオオナムチの開拓を記念して建てられたのであったろうかと思えます。神社として珍しく黒ぬりの建物は、あるいはオオナムチの心を映したのでしょうか。
(以上が池田満氏の著から)




ホツマツタエ現代語訳 天の巻 10アヤから


















この時、オオナムチは配下の百八十神を引き連れて天(宮中)に昇り改めて帰順の意を表して忠誠を誓いました。その柔順な忠誠心の蔭には涙をこらえてもなお、忍びえぬ思いが去来していました。
 タカミムスビが今度の不祥事に至った原因を度々問い正した時も、オオナムチは誠意を尽くして素直に答え、それはいちいち理にかなって同情に値するものであったので情状酌量により、アマテル神の詔のりによりこの件は国替えと決まりました。この時正式にツガル、アソベのアカル宮(現・岩手山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜り、後に供の百八十神と力を合わせてツガルの国を再開発して良田を広げ再び豊かな国造りを成しとげました。

 オオナムチは賜ったツガルの国にアカル・アソベのウモト宮(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、その境内地の建築規模はチ(千・せん)ヒロ(一尋は1.515m又は1.818m)にも及び、宮殿の甍(いらか)は高々とそびえ、木の香も真新しい多くの棟々は掛橋(かけはし)で一体に列なり、それはあたかも緑なすアソベの岳を背景に出現した空中楼閣を思わせる佇まいでした。
 オオナムチに従ってツガルに下った百八十神の新築なった家並を遠望する時、それは丁度アカル宮を中心にオオナムチを守るようにお互い助け合い強い絆で縫い合わせた壮大な服従の白楯(しらたて)
を彷彿させました。国を移された御魂の意からウツシクニタマ(顕国玉神)と称えられたオオナムチは後にツカルウモトノ神(東日隅大元神)となり神上がりました。




(以上が池田満氏の著から)
【まとめ】
・出雲の国譲りの経緯がよくわかります。
・津軽の開拓を行った
・岩木山神社の黒塗りの建物の理由
・アソベがでてきました。
・壮大な宮殿をたてたこと。
・オオナムチに従って百八十の神(臣下)がいたこと。


2008年12月16日火曜日

04003■オオクニヌシ

【問題意識】                       

・大国主神、オオクニヌシ・・・同じ人物で多くの名前を持つ波瀾万丈のお方とは!!

【資料】ホツマツタエ解読ガイド

1、大国主神

現在では大国主といえばソサノヲの子のオホナムチのことをいう場合が多く、神社の祭神に大国主神とある場合、これは大概オホナムチを指している。
しかし、実は大国主とはオホナムチの子の
クシヒコ(コトシロヌシ)の別名である。 また大黒様というのも大国主を音読みしただけのもので、これもクシヒコ(コトシロヌシ)である。
しかしながら、大国主
(大黒様)のイメージ(種袋を担いで手には槌を持つ)、これはオホナムチのものなのである。
また『古事記』『書記』に須佐之男命の五世・六世の孫として大国主がでてくるが、これは
クシミタカマを言っている。

したがって神社の祭神に大国主神とある場合、
1.オホナムチ 2.クシヒコ 3.クシミカタマ
この3人のいずれかである。

2、オオモノヌシ・オホモノヌシ・ウモノヌシ

大物主。 =右の臣=剣の臣=八重垣の臣。 
司法・行政・軍事長官。 
モノノベを八百人(ヤモリ)司る主(10国=800算=25,600,000屋)。 これは十物の機の経糸の数(八百)と同じ。 コトシロヌシ副モノヌシ(ムラジ)とが補佐する。 この職は八重垣臣(初代はソサノヲの長男によって世襲される。 また同時に二人はいない。 クシキネはソサノヲの長男ではないが、ソサノヲが下民からもとの身分に戻され、八重垣臣になってから初めて生まれた子である。 ツミハコモリの次男で、その子のクシミカタマはオオモノヌシにはなれないため、オオモノヌシの断絶を怖れたオホナムチは、クシミカタマを嗣子のないフキネの養子にしてオオモノヌシを継がせた。

初代:クシキネ(オホナムチ) 
二代:
クシヒコ(ヲコヌシ) 
三代:
ミホヒコ(コモリ)
   (四代):
カンタチ  ←コモリが永かったのでオオモノヌシにはなっていないようだ。
四代:
フキネ 
五代:
ワニヒコ(クシミカタマ)

六代:アタツクシネ。  


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【まとめ】

・大国主命はたくさんの名前があるのですね。

・大物主これは役職なのですね

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04002■岩木山神社

【問題意識】

・ホツマ天の巻2アヤ

大国主の本当の名前はオオナムチといいます。生まれながらにして優しい性格の持ち主で、人々の信望が厚く、国土経営にも優れた手腕を発揮した。

このように一見順風満帆の国づくりにも、満ちれば欠けるたとえのように・・・・ついにオオナムチは、いわれない諸悪の根源として宮中から攻撃され、国を追われて最北の地、津軽に追放されてしまいました。(これが「出雲の国譲り」)

【資料】

宝亀十一年(780)、岩木山山頂に社殿を造営。









坂上田村麻呂が延暦十九年(800)に山頂社殿を再建し、
十腰内に、下居宮(おりいのみや=麓宮)を建立して、山頂を奥宮とした。
この下居宮が、現在の厳鬼山神社

寛治五年(1091)、神託によって、十腰内から、
百の沢を越えて、岩木山東南麓に遷し、百沢寺と称したのが本社の起こり。

『日本の神々』(白水社)に、当社に関する伝説が載っている。

昔、大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し
180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。
その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。
ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。
その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。
大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという。

村上天皇の御代、丹後由良港の海賊が、その神珠を盗み逃亡した。
郡司の長男・花若麿が、美女に扮して由良港へ行き、これを奪還。
以後、岩木の神が忌み嫌うので、丹後の者が領内に入ると風雨となるという。

さらに、山椒大夫で有名な安寿と厨子王の話。
母と安寿姫、弟の厨子王が、筑紫に配流された父をたずねて旅の途中、
姉弟はだまされて、丹後由良港の山椒大夫に売られてしまうが、
姉弟は、当地津軽へ逃れてきた。
そこで、安寿姫は岩木山の神となったという。
後年、厨子王は都に上り、丹後・越後・佐渡の領主となり、
山椒大夫を罰して仇を討ち、佐渡で盲目となった母と再会する。

ということで、丹後に対する独特の思いが、当地にはあったようだ。
藩政時代にも、突然荒天になると、港役人は、
丹後船や丹後人を詮議し、領外に追放したという。

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【まとめ】

・出雲を追放されたオオナムチ(初代大国主)は津軽に追放された(ホツマ)。

・岩木山神社にオオナムチがこの地に降臨(流れてきたこと)した。

・ホツマのオオナムチが出雲から津軽に追放されたことが明らかである。

・北斗信仰から当初は天台宗(慈覚大師)が建てたもの(荒俣宏説)

・坂上田村麻呂が再興したとなっているが、田村麻呂は来ていないので、田村麻呂伝説のと片付けることですむのだろうか。

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2008年12月15日月曜日

04001■アラハバキ一族と田道将軍

【問題意識】
・アラハバキとは何か
・津軽蝦夷とアラハバキの関係
・蝦夷征討の歴史

【資料】

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)によれば、(秋田の豪族安倍・安東(秋田)湊氏物語:長岐喜代次)

1、この頃、日向一族が東征を目指して五畿七道をおさめていた豪族安日彦、長髄彦を追討したため、邪馬台一族は破れて北方の“東日流(つがる)”に逃れた。再挙を図るために、原住民として既に定着していたツボケ(津保化)、アソベ(阿曾部)の民と混血し、アラハバキ(荒吐)一族と称する統一民族が誕生するに至った。そしてこの混血賊は、荒吐五王制を以て統一することになった。

2、荒吐五王とは、奥州五国の治領主としてその本拠を北上川平泉に置き、東西南北にそれぞれ王を配した。荒吐五王を“ウーワン”と称し、日の神(ヤン)を主神としたという。

3、安日・長髄を祖先とした“東日流”には、征夷の管軍は踏み入ることができなく、かの坂上田村麻呂も入れなかった。また、上毛野田道(かみのげのたじ)将軍は“東日流”には入ったものの荒吐一族のため打ち取られたことは周知のとおりである。

4、ただ、安倍比羅夫ばかりは、戦いによらず和をもって接したので、反逆を中止した。そこで荒吐一族の首長に官位を授け、」さらに“安倍”の性を与えた。また五王の一系たる総領を“安東”と称し、一族の総主とした』とある。

【まとめ】
1、津軽のアラハバキ一族(神ではない)はナガスネヒコを祖先とし、強く、管軍が踏み入れることができなかった。
2、田道将軍が打ち取られ、坂上田村麻呂も津軽には入れなかった。阿倍の比羅夫だけは和をもって信頼を得て入った。
3、田道将軍(たみち)を(たじ)と読んでいる。
4、東日外三郡誌は「偽書」扱いとされているが、謎に包まれている東北古代について調べる資料の一つとはなると思います。



01011■鹿角蝦夷と田道将軍



【問題意識】
・最も強かった蝦夷は津軽蝦夷であった。鹿角も津軽蝦夷だったのか。
・田道将軍はなぜ破れたのか


【資料】

/www7.plala.or.jp/t-aterui/akita/a-nisikigituka2.html

1、陸奥風土記逸文に「岩城の国造岩城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので、日本武尊が征討軍としてやってきた。そこで蝦夷は津軽の蝦夷に援護を要請したので、日本武尊は非常に苦戦した」とある。

2、日本書記に、斉明5年(659年)日本から唐に蝦夷二人を献上した。そのときの質疑に「・・・一番遠くにあって一番強いのが津軽の蝦夷=都加留(ツガル)で上津野(カヅノ)も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えればすぐ、出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷の圧政に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

3、元慶の乱において、鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)という、わざわざ岩手県を迂回して、最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ。鹿角を説得できれば他の11の反乱村も説得可能だったのだ。

4、上津野蝦夷の強さの伝承は日本書紀にある上毛野田道(カミケヌノタミチ)将軍の記述である。
『仁徳紀55年蝦夷叛けり、田道を遣わして撃たしむ、即ち蝦夷のために敗られて伊峙水門に死(みう)せぬ。時に従者有りて田道の手纏(たまき)を取り得てその妻にあたう。即ち手纏を抱きてわななき死ぬ。時に人聞きてかなしむ・・・』とある。
毛野氏は東国坂東の豪族で、上毛野氏はその宗族である。朝廷の命を受けて、主に蝦夷征伐と東北経営を任された。その将軍が今からおよそ1、600年前、ここ上津野村まで東征して来たが、伊峙水門(いじのみなと・米代川流域男神・女神の下流に石野村がある)で討ち死にしたのだ。実際鹿角の申(さる)が野という所に、田道将軍を祀る猿賀神社があり、その前に『田道将軍戦没の地』の石碑まで立っているいるからです。

5、日本海沿岸の蝦夷征討・阿部比羅夫から遡ること300年も前の話です。でも伊峙水門については、宮城県石巻説や、茨城県夷針郡説などがあり定説はない。

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【まとめ】
・津軽蝦夷(鹿角も津軽蝦夷とみなし)は強かった、田道将軍はわなないて亡くなった。

・強さの秘密は大和朝廷のい圧政に耐えが滝を耐えたため。

・田道将軍は東国坂東の豪族の親戚。蝦夷征伐と東北経営を任された。

・田道将軍の討ち死にした場所は、鹿角、石巻、茨城県説がある。

・阿倍の比羅夫から300年も前。

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01305■錦木塚伝説と蝦夷像の落差



【問題意識】
・錦木伝説が都人もが歌にするロマンの物語となっていることと、古代東北は蝦夷の国でその野蛮な様が述べられていることのギャップ。




(貼り付け)

1、鹿角郡は古代には上津野(かづの)と呼ばれていた。
この地の錦木塚・狭布の里は象潟と並ぶ出羽一級の歌枕ではあるが、出羽・陸奥最果ての賊地中の賊地にあるというこのミスマッチは、歴史の摩訶不思議を垣間見るここちなのだ。


2、この美しくも悲しい人間味あふれる伝説の発生は、日本書紀の蝦夷の性格の記述からは想像できないのです。

『・・・かの東夷たましい暴強(あらびつよく)凌犯(しのぎおかす)を宗とす。村に長なく邑に首(おびと)なし、各封堺(さかい)を貪りて相盗略(かす)む 亦山に邪神あり 野に姦鬼(かたましきおに)あり、ちまたにさえぎり、径(みち)に塞がりて多くの人を苦しまむ。
その東夷の中に蝦夷是れ最も強し。男女交居て父子別なし・・・。恩(めぐみ)を承けては則ち忘れ怨(あだ)を見ては必ず報ゆ・・・・』と。


3、侵略者にはあらゆる下劣な単語を羅列して、蝦夷がいかに野蛮且つ野卑な民族で、文化的大和民族との差異を強調しているのです
しかしこの歌枕伝説を見ればこの記述がいかに出鱈目であるか分かるはずだ。


4、しかもここは元慶2年(878年)秋田城司良岑近の苛政に対する、土着の蝦夷がついに反乱(元慶の乱)を起こした秋田城下賊地12村の一つで、奥羽山脈最奥地の賊地なのだ。


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【まとめ】
・一級の歌枕の地と賊地中の賊地であることのミスマッチは歴史の摩訶不思議。
・正史に書かれた、蝦夷の性格・状況はいかにでたらめなのか。(勝ったものは歴史を変えて記述)

■東北全体は、田村麻呂伝説や天台宗慈覚大師、そして歌枕、謡曲などのカモフラージュが行われたのです。
しかし、鹿角の「錦木伝説」「歌枕のケフの狭布」などは何か違うのです。都人があこがれた地・物語のような気がします。

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2008年12月13日土曜日

01304■鹿角の伝説の変化



【問題意識】
・蝦夷の時代、鄙の地の、鹿角錦木塚がなぜ世阿弥の謡曲に歌われ、都人の歌枕にまでなったのか?
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【資料】
伝説は時代とともに変わる・・・錦木塚・政子姫の伝説は7つの段階で変わってきた。
鹿角市錦木市民センター資料館による

錦木伝説の変化






















































1、はじめの頃のストーリー
鹿角由来集
鹿角由来記(美しくも素朴なロマンスとして語られていた)

2、名もない機織りの上手な娘が、天皇派遣の貴族後裔政子姫となり、いかめしい物語につつまれるようになった。
奥州峡郡錦木山観音寺延喜

3、天明五年 菅江真澄が古川村で聞き取ったのは、やはりある翁に養い育てられた美しい娘の悲恋の物語であった。
けふのせばぬの

4、天保九年 錦木古人 黒沢覚平が幕府巡見使に語った縁起も、老農夫に養われた女子、というままのものであった。
御巡見御用控帳
錦木塚の伝記

5、万延元年 藩主利剛のお側に随従した中奥御小姓 上山守古の扈従(ごしょう)日記には、錦木山観音寺縁起がそのまま書き写されている。
両鹿角扈従日記


6、昭和六年 曲田慶吉は土地に伝わる伝説と観音寺縁起の融合をこころみた形で述べている。
 曲田慶吉編
伝説の鹿角 (鹿角郡教育会刊行)

7、近年そのほとんどがヒロインを貴族の後裔政子姫として語られている。伝説の特徴である歴史化が完璧に進んだ結果といえる。
伝説の里 鹿角
陸中の国鹿角の伝説 (ともに 鹿角市発刊)



■wikiにも書いてありましたが、
「伝承も、謡曲も小野小町と深草少将との百夜通いの逸話と異口同音であり、袖中抄などから創作されたものと考えられます。


【まとめ】
・WIKIのとおり誰かが創作したものですね。
・昨年設置された現地案内板には「室町時代の世阿弥の創作に由来するとあります。これが上記2の段階でしょうか。
・今は歴史化が完璧となったのですね。


01608■だんぶり長者





【資料】
だんぶり長者の物語です・・・これは正統派






【問題意識】
・だんぶり長者とは
・都に行こうと考えること
・天皇の側室となったこと・・・篤姫ではないか!!
・五の宮皇子









キーワードは
・吉祥姫・・・・どうして都へ
・継体天皇・・・第26代天皇 531年~
・五の宮皇子・・・五宮嶽
・だんぶり・・・我が家にもお盆には必ず飛んでくるのです。

2008年12月11日木曜日

01010■石川啄木と鹿角




【問題意識】
石川啄木の「鹿角の国を憶うの歌」は、よほど鹿角の地に縁があるか、または長く住まないと詠めないほどのレベルです。
鹿角物語で調べました、やはり啄木は鹿角との縁が薄くなかったのです。

【資料】

「鹿角物語」収集データリストより





 △鹿角との関わり

①石川啄木の母カツは工藤条作の娘である。条作の母は、毛馬内常照寺の娘である。 つまり啄木は、母方の祖先の血(すなわち[鹿角のこと」)を、意識の底に持ち 続けていた。

………

②明治三十四年、啄木が数え年十六歳のとき、鹿角を訪れたと云う。
すなわち、金田一京助著『石川啄木年譜』によると、同年七月、金田一京助氏に 彼は、鹿角の伝説に就き、「錦木」「狭布の細布」の由来、錦木塚の所在などを 詳しく問うたとされる。

同年八月鹿角へ遊び、小豆沢の大日堂へ詣で、錦木塚を弔い、今に細布の遺製を 伝える農家古川氏(黒沢家のことか)を訪れたと云う。

………

③更に啄木と鹿角とのあまりにも不思議な縁を感じさせる事柄として、啄木の姉サダの 存在である。
サダ(田村姓)は、啄木と節子が婚約するのにあたって、母を説得し尽力したのは、 明治三十七年一月のことであった。
翌二月、夫に従って小坂鉱山に赴いた。
そして翌年、肺結核のため三十一歳で短い生涯を遂げた。

これは、啄木が初めて出会った肉親の死であった。
「錦木塚」の伝説のある所と、小坂鉱山とは、同じ鹿角郡であり、啄木の心は、 鹿角に向くのであった。



01607■大日堂「おば杉」



【問題意識】
大日堂にあった「おば杉」です。しかし不思議なことに石川啄木の「鹿角の国を憶うの歌」には「逆鉾杉」として出てきます。逆鉾杉であれば、大日霊貴(オオヒルメ=ウヒルキ)とともに不思議な世界のことになります。


【資料】
1、まずは、おば(姥)杉として、皆様の資料から。












杜の周りを杉並木が囲んでいる。境内にはご神木としてあがめられた「おじ杉」と「おば杉」の2本の巨木が立っていた。伝説では十四世紀に植えられた杉といわれる。おじ杉は数百年前に枯死したもののおば杉は寛文六年(1666)と昭和二十四年の社殿の火災の際にも焼け残った。しかし、木の傷みが激しく、昭和四十一年に切り落とされた。

『大日堂物語』には「おば杉の皮を煎じてのめば中風が治るとかいうので、明治三十年ごろにはしばしば皮がはぎとられた。」とも記されている。往時には四十㍍の高さを誇ったおば杉の巨大さは、外周十㍍にも及ぶ切り株から忍ぶことができる。切り株は現在お堂で覆われている。


2、逆鉾杉(さかほこすぎ)となれば

貼り付け「鹿角の国を懐うの歌

その流れに、身も心も清めた、
色白の鹿角の乙女たちが、
夕べの礼拝をする。
肩に白雲を頂いた、神寂びた逆矛杉、
その根元の深い溝の中に、
神が住んでいると伝えられている大日堂
壁の墨絵の大牛が、西陽をあびて、
浮き出てみえる日暮れ時、
沈む秋の陽の黄を映した衣裳の裾を乱しながら、
石段を静々と踏みのぼる。
伏目がちに、供物の神米を捧げ持って、
麻の服に素朴にわらで束ねた乙女達の、
黒髪は、まるで神代から続く水の香りがするようだ。
帰路の足どりは、こばしりに、杉の木陰の路を、
すたすたと、露に濡れた素足で、
ひらひら翻る襟を夕日に染めながら、
さながら神の使いのダンブリ(トンボ)が、
命の泉のあり処を教えに来た日のように軽やかに、
馬を飼う恋人の元へ急いだ。
そのつつましさ、美しさは、米白川流れが、
何時までも絶えることがないと同じように、
かって錦木を贈った、若者達の心を映し出しているようだ。
神代から延々と続いている、
そんな鹿角の国の情景を回想していると、
感動の涙でみたされます。

貼り付け終わり

【問題意識】
・逆鉾とは天の逆鉾(あめのさかほこ)のことで、その昔は「天のぬ矛」(あめのぬほこ)のことで玉で飾った美しい鉾のことです。この地球が生まれるころ、神々が使った由緒ある矛なのです。

(「宇宙原理ホツマ p346引用)
・かってのの本国土は、神の道のままに治まっていました。しかしオモダルノ尊時代は国内不安で、「道」が衰え国政が乱れていました。イザナキ・イザナミ尊は、この「道」を復興し守るべく、東北のトヨウケ神のもとに招かれ、葦原(滋賀・近江)出向の勅命をお受けになります。このときトヨウケ神が二神に授けられたのが、ヲシデと天の逆鉾の神器でした。二神はこのヲシデと天の逆鉾を用いて、「道」を教化し守ったのです。


2008年12月10日水曜日

01606■ 鹿角・大里館



【資料】
鹿角・大里館 案内板の内容を引用させていただきました。

















大里城は、八百十数年前の文治五年(西暦一一八九年)鹿角初めての郡地頭となった武蔵国の鎌倉御家人、成田四郎助綱が郡統治の本拠として築いたとつたえられています。
成田氏は、鹿角四氏といわれる安保、秋元、奈良、成田の統領として、南北朝期には、鹿角郡国代となり南部氏に比肩する勢力であった。
特に、成田小次郎左衛門尉頼時は延元元年(一三三六)及び同二年に比内の浅利氏、津軽の曽我氏の連合軍が大里城に攻め寄せたが、これを撃退しています。
しかし、それから約二百五十年後の天正十九年(一五九一)六月に起った九戸騒乱に城主大里修理親基が九戸方の部将として入城、全国六万五千の兵に囲まれながら僅か五千の城兵で三ヶ月も戦ったが、九戸城は落城、首謀者八人の一人として、栗原郡(今の宮城県)三迫厚地村に送られ九月二十一日、九戸政実と共に処刑された。
城の規模は広大で、本丸を含む七郭と、下モ舘の三郭があるが俗に云う「舘崩し」で浅野長政の従臣、内山助右衛門によって破却された。

【問題意識】
大里城(1,100年)頃でなく、さらに1,000年位前の「大里」が行基図に載るものと思います。



01605■行基図と鹿角大里

秋田県鹿角市の大歴史学者・安村二郎さんが「大里」について述べています。



















































大里という地名には、特別な意味がこめられているとかねがね思ってきました。里は人の住む所であるから、大里は大きい村で、ありふれた地名のようにみえます。しかし北東北秋田・岩手・青森三県のなかで、村名の大里は鹿角大里のほかは見当たりません。
十四世紀頃の百科全書「拾介抄」に載る行基図(ぎょうきず)と呼ばれる日本国図では、陸奥・出羽二国の北が津軽大里となっています。その境界線添ぞいに壺石踏(つぼのいしぶみ)と書き込みのある、なんとも不思議な感じの古地図です。私は、もともと大里は御里(おんさと)かもしれないと考えています。
文治五年(1189)九月、奥州を平定した源頼朝は、平泉において論功行賞を行い、奥羽の各郡いっせいに郡地頭職を任命したといわれます。

行基図































日本ではじめて地図が作られたのは、いつ頃だったのでしょう? 
646年、あの有名な「大化改新の詔」の中で、各地の地図を朝廷に提出するよう記されています。
これが記録上もっとも古い地図の起源でありました。


その後、奈良・平安時代にも、国家の一大プロジェクトとしての日本地図作成を記録上にみるとこができますが、いずれも伝存する図がないためその内容を確認することができません。


 そもそも実用の面から考えれば地図はその内容が常に最新である必要があって、古くなった図は廃棄される運命をたどります。貴重であるゆえに、紙を漉き直して再利用する時代のこと、なおさら古い地図は残らなかったのでしょう。


 「行基図」は、奈良時代の僧、行基(668~749)が作ったという伝承つきの地図。現在確認することのできるものではもっとも古い日本図です。お世辞にも正確な地図といえないその図のスタイルは、山城国を中心に七道を貫く線を引き、そこへ丸みをおびた形の国を並べるものでした。飛躍的発展をとげる江戸時代に至るまで、ながく日本図のスンダードとして利用され、写図や版本が江戸初期まで作られています。

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(まとめ)
・大里と「津軽大里」の関係はあるのだろうか。
・津軽とトヨプケ神・・・初代オオクニヌシノカミが岩城山麓に流され、のちに名誉回復しトヨウケ神に。
・書き込みのある(この図では見えませんが)「壺の石踏」・・・書き込みと石踏が不思議。

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01009■世界遺産候補に


大湯ストーンサークルが世界遺産候補に、大日堂舞楽が無形文化遺産候補になりましたので秋田ユネスコ協会で勉強会がありました。まだまだ果てしない時間が必要と感じました。 
  
2008・9・27新たな世界文化遺産候補(暫定リスト掲載)に、秋田県の大湯環状列石(国史跡、鹿角市)と伊勢堂岱遺跡(国史跡、北秋田市)を含む北海道、青森、岩手の計15の縄文文化遺跡で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」が選ばれた。

 またこれより早く2008・7・31報道で、鹿角市の「大日堂舞楽」がユネスコの無形文化遺産の候補に決まっている。れらこのことから勉強会を開催したものである。一般にも呼びかけていましたので、会員以外にも大勢が参加しました。

 菅原会長のあいさつでありましたとおり、我々ユネスコ協会の会員でも、大湯環状列石、伊勢堂岱遺跡、大日堂舞楽といわれても、どうも内容がよくわからない。どんなものかどんな価値があるのか。現地まで行ったことがある人はかなりおりましたが、秋田市に住んでいる人にとって鹿角市は遠いのです。

 教育庁文化課の武藤班長さん他二人の講師を招き、ご説明をいただきました。概要は、

1、ユネスコの世界遺産には大きくは「自然遺産」と「文化遺産」があり、文化遺産には「有形遺産」「無形遺産」があること。白神山地が自然遺産登録。今回の縄文遺跡群が有形遺産、大日堂舞楽が無形遺産となる。

2、世界遺産に登録までの流れは今回の「暫定リスト掲載」から「登録推薦」、審査を受け「登録」の流れとなる。今回の「縄文遺跡群」については、縄文文化の基盤となった落葉広葉樹林帯が広がる東日本に範囲を拡大するなどの検討課題が示されている。

3、今回のように県民に周知し、県民あげて盛り上げなければならないので、年度内には北秋田市、鹿角市の」ストーンサークル館、大仙市などで開催する。

4、大日堂の無形文化遺産は世界遺産と異なり書類審査のみであり、かなり可能性が高いと認識している。

5、ビデオで紹介
  ①大日堂舞楽 NHKビデオ編集でよく理解できました。
  ②縄文遺跡群 北海道・北東北の15か所の風景写真で紹介。(県内分も同じレベルで)

6、補足説明
  世界文化遺産になるためには、「縄文文化とはこういうものであって、世界の中で特殊な普遍的文化である、従って世界で守っていかなければならい」というストーリーが必要である。しかし縄文文化については日本の中でもまだ定まっていない。これから発見して熟成し、再構成していかなければならない。地下に眠っている心をどう発掘するかである、とのことでした。

7、質疑応答
 ①勉強し伊勢堂岱遺跡に行ったが、案内人は私の質問に満足に答えがなかった。
 ②北海道・北東北と範囲が広すぎる、集約が可能か。


 私もこの質問に尽きると思います。縄文時代を文化と捉えること、北海道・北東北の縄文文化をひとくくりすること、さらに広葉樹林体としてくくればまとまりがつくのか。個別には、大湯環状列石は早くから国指定の遺産となり、墓地説からやっと祭詞場、天体観測説が有力となってきた、しかしさらに深めていくためには、この問題は正統の学者は立ち入りたくない分野である。
説明を聞きながら、内容的にはこう思いました。また鹿角は、場所的に秋田市から遠い、心象的にも遠い存在ですので、いかにして盛り上げていくかが課題だと認識しました。

2008年12月9日火曜日

01008■鹿角の国を懐うの歌



【資料】
石川啄木の長詩
鹿角の国を懐うの歌」を掲載します。

【問題意識】
・石川啄木がどうしてこれほど鹿角のことを詠めるのか?
・枕詞?「青垣山をめぐらせて 天さかる鹿角・・」
・大日堂の杉を「うば杉」でなく「逆矛杉」と記していること


1、こちらが原文
(クリックで拡大できます)










































「鹿角の国を懐かうの歌」

青垣山をめぐらせる
霊気ただよう鹿角の国を偲べば
感動の涙が流れて太字きます。

錦木塚の大イチョウは、月夜の晩には、
夏でも黄金色に変わり、昔からの
若々しい恋の話を伝えてくれます。
風がふけば、枝から洩れる月の光が、
白糸のように静かに揺れ、
細布を織る筬(おさ)の音のようにゆったりと、
語ってくれるといいます。

十和田湖の嶽のある沢に、
昔から鬼が住むという深い峡は、
霊気こもれる滴りに、人の立ち入った跡もなく、
岩苔のを吸いながら流れ落ちる、
渓流の小路でに、鹿が妻を求めて恋い鳴くのに、
人が近づいても、恐れる風もないという。
そんな鹿角の国を偲ぶと、
感動の涙が流れてきます。

その昔、幾世にも朽ちずに、残る碑や、白石の回廊や、
玉垣、壁画、銅の獅子、それに物語など
確かな証は残っていないが、
その愛は受け継がれ、
太陽や月、星が生まれた
天界から伝えられたかのように
人の輝きや、芸術の基である「愛」に満ちたところ・・・。
若者の相愛が花のように映えて、
錦木の枝も紅く色どりをそえて輝いているところ。
昔から角笛鳴らす猟師たちも
枝により添う美しい雉子が、
つがいであるとみれば、
弓をひかなかったといわれる。
そんな人々が暮らす、鹿角を偲んでいると、
感動の涙が流れてきます。

神の使いのトンボが教えてくれた聖なる泉、
そこから流れ出た尽きることのない、
米白川の水が潤って、草茂る豊かな、
鹿角の国を思うとき、
感動の涙が流れてきます。

その流れに、身も心も清めた、
色白の鹿角の乙女たちが、
夕べの礼拝をする。
肩に白雲を頂いた、神寂びた逆矛杉、
その根元の深い溝の中に、
神が住んでいると伝えられている大日堂
壁の墨絵の大牛が、西陽をあびて、
浮き出てみえる日暮れ時、
沈む秋の陽の黄を映した衣裳の裾を乱しながら、
石段を静々と踏みのぼる。
伏目がちに、供物の神米を捧げ持って、
麻の服に素朴にわらで束ねた乙女達の、
黒髪は、まるで神代から続く水の香りがするようだ。
帰路の足どりは、こばしりに、杉の木陰の路を、
すたすたと、露に濡れた素足で、
ひらひら翻る襟を夕日に染めながら、
さながら神の使いのダンブリ(トンボ)が、
命の泉のあり処を教えに来た日のように軽やかに、
馬を飼う恋人の元へ急いだ。
そのつつましさ、美しさは、米白川流れが、
何時までも絶えることがないと同じように、
かって錦木を贈った、若者達の心を映し出しているようだ。
神代から延々と続いている、
そんな鹿角の国の情景を回想していると、
感動の涙でみたされます。
(訳者:貝沼志津子・一部補筆)



2008年12月8日月曜日

01007■縄文鹿角エリアマップ





問題意識】
・大湯から八幡平までのエリアが不思議な国鹿角エリアととらえています。
・もしかしたら、「常世の国」はここでないかとの問題意識がますます湧いてきます。


【資料】

縄文鹿角エリアマップ
・クロマンタ
・大湯ストーンサークル(大湯環状列石)
・クロマンタライン
・黒森山
・錦木塚
・大日霊貴神社(大日堂)

不思議な不思議な国 縄文鹿角の歴史探訪図です。

より大きな地図で 2-2、常世の国 鹿角エリア を表示


2008年12月7日日曜日

01604■曼荼羅と大日如来




【問題意識】

・マンダラニは金剛界と胎蔵界があります。なぜ大日堂に両界マンダラが出てくるのか。


【資料】

■マンダラの見方【】


鳥居礼氏「宇宙原理ホツマ」による曼陀羅とは

胎蔵界曼陀羅には、大乗仏教の中で取り入れられた仏
す。それは宇宙の森羅万象を包括するとされることから、《宇宙母胎》としての母性原理を見いだすことができる。

金剛界曼陀羅は、大日如来を中心とする、密教独自の三十七の仏、菩薩が選ばれ配置されています。数多くの仏菩薩の中から三十七尊を選別し、大日如来以外の三十六尊を四つの仏界に分け、整然と組織化したという点において、冷厳な不正原理をあてはめることができます。

しかし、このような両界曼陀羅に対する原理づけは、もともとのインドなどにはなく、日本で空海が考え出したと言われています。

そこで、胎蔵界を、宇宙の万有を内包する《宇宙母胎》としての胞衣(えな)の中にあって、天上の言霊四十九神の啓示を受信する地上「高天の腹」にあてはめ、
金剛界を、始原神アメミオヤノ神の周囲に整然とした宇宙原理によって、フトマニ図のごとく配置された四十八神の鎮座する天上「高天の腹」あてはめれば、両者の間には、明確な共通性を認めることができるでしょう。

空海は十種神宝(とくさのかんだから)をはじめとする日本の古神道に精通していた点、あるいは「高天の腹」の整合性の高い原理性などを考慮すれば、天上・地上の「高天の原」の二重構造の観念がもともと我が国に存在していたが故に、両界曼陀羅が、日本密教においてかくも尊重されるようになったのではないかと推測されるわけです。

胎蔵界の中央部である《中台八葉院》は、大日如来を中央に周囲に八菩薩を配しており、ホツマの「フトマニ図」のアメミオヤ神と周囲を取り囲むトホカミエヒタメの八御小神(やみこ)の構造と類似することが注目されます。
また金剛界の九つの仏界もやはり中央の成身界の内部もそれと共通する構造性を有しているといえましょう。

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【まとめ】
天界の始原神アメミオヤの神は、地上では天照大神であります。
このように、日本の「フトマニ図」や「高天の原」
の宇宙原理と、両界の曼陀羅には根元的な共通性があるように思われます。


01603■大日堂に金剛界と退蔵界が!



【問題意識】
大日堂舞楽には胎蔵界と金剛界のお面が出てきます。そんなバカな! 不思議なので調べました。


【資料】
1、例えば、三社神号といって、真中に「天照大神宮」両側に「八幡大菩薩」「春日大明神」があります。
これは室町時代から尊崇されてきた習慣らしく、両部神道といって、真言宗の金剛界、胎蔵界両部の教理を以て神道を説明しようとした神道説で神仏混合です。

2、鹿角市の資料によります
  「大日堂・大日信仰」
 小豆沢大日堂の大日如来は本来は金剛界であったが、寛文六年に焼失し、長牛大日堂 より遷座して胎蔵界日如来とされる。 

一方青森県大鰐町大円寺には、平安末期の作とされる丈六の阿弥陀如来座像が伝わり、大様として崇められて信仰されている。 

 天台宗の教義として、仏教を民衆に広めるために、本来仏教にない神々と習合させようとしての仮諦神を採り入れたのが、谷内の五大尊である。この五大尊舞は、正月二日、 小豆沢大日霊貴神社(大日堂)の養老礼祭に奉納される「大日堂舞楽の一つである。

 五大尊舞に用いられる面は、金胎大日(二面)・普賢・軍荼利・大威徳・金剛夜叉である。舞が伝わった当時(又は面の作られた時)においては、二面の金胎大日が菩薩面で不動明王に当たるもの とし、他四面が憤怒の相を表す明王面であったと推察される。それが、仮諦神である大 日・普賢・文珠・八幡(阿弥陀とも)・不動に何時変化したのかは明らかでないが、神仏習 合説が早くから採り入れられていたと思われる。

地元では五大尊を六体神と呼んで信仰 している。