2009年11月20日金曜日

01226■915年十和田湖噴火・・早川説への疑問



大湯ストーンサークルの正確な築造年代を隠したい学説です。(第三次の田村麻呂伝説)



十和田湖の噴火
十和田湖の南,発荷(ルビ:はっか)峠の地表をつくる厚さ2mの毛馬内(ルビ:けまない)火砕流堆積物が,十和田湖の噴火堆積物の最上位を占める.この堆積物は,谷底だけでなく尾根の上にも薄く広く分布している.毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり,噴火口から20km以内のすべてを破壊しつくした(Hayakawa, 1985).
疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱いサーマル雲が立ち上がり,それはやがて上空の風で南へ押し流された(Fig. 1).十和田湖に南から突き出している二本の岬のうち,東側の御倉(ルビ:おぐら)山は噴火口に栓をした溶岩ドームである(大池,1976).この噴火のマグニチュードは5.7であり,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である(早川,1994).
秋田県の米代川流域では,洪水のあとしばしば平安時代の家屋・家具・土師(ルビ:はじ)器・須恵(ルビ:すえ)器などが出土してきた.菅江真澄(ルビ:すがえますみ)(1754-1829)は文化十四年(1817年)の洪水で出現した埋没家屋のスケッチをかいている.平田篤胤(ルビ:あつたね)(1776-1843)は『皇国度制考』の中で,出土した六角柱の暦(平山・市川,1966)の復元図を示している.十和田湖最後のこの噴火が平安時代に起こったことは以下に述べるように出土遺物から確かであるが,この噴火を記した古記録は,現地では,みつかっていない.平山・市川(1966)はこの地変をシラス洪水とよび,秋田県に伝わる八郎太郎伝説に結びつけた.
白鳥(1980)は,仙台市の陸奥国分寺跡において,古記録から870年と934年に対応することがわかる遺物層に挟まれてこの火山灰がみつかったと報告している.また秋田県鷹巣町の胡桃館(ルビ:くるみだて)遺跡では,902年に形成された年輪をもつ杉材(奈良国立文化財研究所,1990)がシラス洪水の堆積物中からみつかった. 
京都延暦寺の僧侶によって書かれた『扶桑略記』の延喜十五年条に次の記述がある.「七月五日甲子,卯時,日无暉,其貌似月,時人奇之.十三日,出羽國言上雨灰高二寸諸郷農桑枯損之由」
延喜十五年七月五日(915年8月18日)の朝日に輝きがなくまるで月のようだったので,京都の人々はこれを不思議に思った.七月十三日(915年8月26日)になって,「灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ」と出羽の国から報告があった,と書いている.なお,西暦表記には,早川・小山(1997)の勧告に沿って,ユリウス暦を用いた.
大森(1918)は,この噴火記録を「或ハ鳥海山ノ噴火ナランカ」と考えた.この解釈は長い間支持されてきたが(たとえば村山,1978),1981年になって,十和田湖から噴出したテフラの調査をした町田・他(1981)が,この古記録は鳥海山ではなく十和田湖の大噴火を記したものではないかと初めて指摘した.
鳥海山では,915年ころに大きな噴火があったことを示す地質学的証拠が知られていない(林,1995).そのときすでに大和朝廷の支配下にあった鳥海山神社の位階はこの噴火で上がっていないので,これは当時朝廷の支配下になかった北方の火山の噴火であると考えるほうがもっともらしい.
中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通である.しかし十和田湖のこの火山灰は南に分布している.この分布異常は,上空の西風が弱まる夏期に噴火が起こったと考えると説明しやすい.三陸沖を台風が北上中だったなどというシナリオが考えられる.『扶桑略記』の記述が晩夏であるのは,それを十和田湖の噴火とみる考えと矛盾しない.町田・他(1981)の指摘は適切であるといえる.
京都は十和田湖から800kmはなれている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流で100km/時程度であり,北風の場合はもっと遅いから,京都から見た日の出の陽光に異常をもたらすためには,その前日(915年8月17日)に噴火のクライマックスが起こっていなければならないだろう.
Stuiver and Pearson (1993)によると,915年に対応する放射性炭素年代は1140 yBPである.毛馬内火砕流堆積物中の炭化木から,1280±90yBP(GaK-548;平山・市川,1966),1470±100 yBP (GaK-10045;Hayakawa, 1985),1090±100 yBP (GaK-10046;Hayakawa, 1985) が報告されている.
なお,『扶桑略記』に「(延喜十九年)七月五日庚午(919 年 8 月 3 日),酉刻,日色赤黒,其光不明,又昨今之月色不似月之光」という日色・月色異常事件が書かれているが,十和田火山の噴火と関係があるかもしれない.
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915年(延喜15年)、十和田火山は大噴火を起こした。このとき毛馬内火砕流が周囲20kmを焼払った。この噴火は過去2000年間、日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる[4]。この噴火の火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定される。十和田火山の噴出物は通常偏西風に乗り十和田湖の東側に流れるが、この年の噴火では十和田湖の西側に流れている。これは夏のこの地方の気象現象であるやませが原因であると考えられている。東の三本木原は昔の十和田火山の噴出物でできているが、やませのため西に流れた噴出物は米代川流域を覆い尽くし、大災害をもたらした。そのことを人々は三湖伝説として残したと考えられている。


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(まとめ)

・昨日、ヒューマンクラブの会合で」秋田県における地質学の大御所・狩野豊太郎氏とお会いし、お話を聞く機会がありました。
質問「この噴火についてご存じですか、秋田県内に資料がないことはありえますか?」
答え「これほどの大噴火があったことは知らない訳は無い」
   「地元鹿角市にも秋田県にも噴火の記録がないことはありえない!」

・地元が経験した記録も、言い伝えもない日本史最大の噴火がありうるでしょうか。

・都会での「モノガタリ」みたいですね・・・昔の東北史の抹殺「田村麻呂伝説」と同じ手法です。
 「第三次の田村麻呂伝説」と名づけたいですね。第一次は純粋な田村麻呂伝説時代、第二次は「歌枕の時代」です。

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2013・8・24追加です

「やませ」と同じ冷たい空気が動く様子です。



桜島の噴火情報も合わせて

8月18日、鹿児島市の桜島で大規模な噴火が発生し、噴煙が5000mの高さにまで到達。

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2012意識のルネッサンスを経て
既存のすべての壁が壊れています。すべての事の真実がわかってきます。






01225■秋田県の地震活動記録



番号 発生年月日  M   被   害

1  830年2月3日7.0~7.5
天長地震秋田城内家屋倒れる、圧死15、支体折損100余名、地割れ多し
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*天長七年正月癸卯28日 
秋田で大地震、城を始め大きな被害。秋田川(雄物川)も地割れがおきた。(雄物川)も氾濫し田夷の村添川覇別付近も堤防が崩れ、被害に遭う。農民は、山崗(岡)に逃れた。
朝廷は、軍を派遣し救援した。その後878年(元慶二年)俘囚の乱が起こり、その際俘囚添川・覇別村・助川村は、国府側につく。三代実録同年七月の条

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2  850年7 出羽の国府の城柵傾類し、圧死者多数

3  1644年10月18日6.5
久保田大地震 本荘城郭大破、死者あり、石沢村に被害、院内で地裂け、水湧く

4 1694年6月19日7
富根、駒形、桧山等能代以南地方を中心として死者
394、倒潰・焼失家屋2,132、能代のみにて死者300あり

5  1704年5月27日7
能代を中心として以北の地方に大地震、能代のみに
て死者58、焼失家屋759、潰家435

6  1804年7月10日7
象潟地震 象潟湖隆起由利郡内のみにて死者183、潰
家2,000象潟のみにて潰家423、死者65

7 1810年9月25日6.5
男鹿大地震 南秋田郡で死者59、潰家1,078、山本郡で
潰家51

8  1894年10月22日7 庄内地震 秋田県では本荘以南に被害

9  1896年8月31日7.2
陸羽地震 県内にて死者205、傷者736、潰住家4,738、
仙北郡のみにて死者184、傷者603、全潰住家3,295

10  1906年10月12日5.6 阿仁合村で小被害

11  1914年3月15日7.1
強首地震 強首村を中心に、死者94名、傷者324名、住
家の全壊640戸

12  1914年3月28日6.1
強首地震の余震金沢西根村、藤木村で小被害

13 1939年5月1日6.8
男鹿地震男鹿半島を中心に、死者28名、負傷者127
名、住家の全壊565棟、半壊1,089棟、焼失9棟

14  955年10月19日5.9
二ツ井地震 二ツ井町、響村を中心に負傷者4名、住
家の半壊3棟、非住家の全壊1棟、半壊310棟などの被

15  1957年3月1日4.3 二ツ井付近で軽微な被害

16  1970年10月16日6.2
東成瀬村や山内村を中心に、傷者4名、住家の全壊
19棟、半壊48棟、一部破壊216棟、沈下3棟などの被

17 1996年8月11日6.1
雄勝町で住家の一部破損9棟、農地及び農業用施設
3箇所、国道の法面崩落・路肩陥没29箇所などの被害

18  1999年2月26日5.3
秋田県南部沿岸沖を震源象潟町で住家の一部破損
126棟などの被害

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(まとめ)

・地震だけです。

・三代実録に878年の天長地震は載っています。開聞岳の噴火も載っています。
915年の大噴火が記録にないことがありますか??

・秋田市のわが「こざくらの丘」には天長の地震が大きな出来事でした。

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03026■古代蝦夷関係年表












大湯ストーンサークルの正確な築造年代を隠したい学説を助けるものです。(第三次の田村麻呂伝説)

工藤雅樹氏の古代蝦夷関係年表がありました。
・830年の「天長の大地震」・・・雄物川が一夜にして新国道側から西に移動した
・915年の十和田湖の噴火



古代蝦夷関係年表                                             
工藤雅樹氏 作成  ~BC4世紀  
 
縄文時代。 BC3世紀~   津軽平野まで水田稲作がひろがる(田舎館村垂柳遺跡)
4世紀       会津大塚山古墳、郡山市大安場古噴、名取市雷神山古墳など。 
4世紀       東北北部に続縄文文化(後半段階)ひろがる。能代市寒川Ⅱ遺跡など          
東北北部の大部分は稲作が中断する。

5世紀       胆沢町角塚古墳、水沢市中半入遺跡など。
478          倭王武(雄略天皇)、南朝宋に使いをおくる。 
6世紀~7世紀中頃 国造制の時代(各地の有力豪族を地方長官に任命)、
      国造のクニの北限は阿武隈川と信濃川・阿賀野川の河口。 
7世紀       この頃から北海道で擦文文化の時代がはじまる。 

            
東北北部では稲作が復活しはじめる。 

7世紀後半   この頃から東北地方北部と北海道の一部に終末期古墳が出現する
645(大化1)   大化の改新はじまる。東国国司が派遺される。 
647(大化3)   渟足柵(新潟市)を置く。翌年には磐舟柵(新潟県村上市)を置く。
650年頃      評(コホリ)・国が設定され、陸奥国(はじめは道奥国といった)が置かれる。
 
658・59・60(斉明天皇4・5・6) 阿倍比羅夫の遠征。 

659(斉明天皇5) 遣唐使、蝦夷を中国に帯同し、洛陽で高宗に謁見。
701(大宝1)   大宝律令施行。 
708(和銅1)   越後国に新たに出羽郡を建てる。
709(和銅2)   陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍任命される。 
712(和銅5)   越後国出羽郡と陸奥国置賜・最上郡をもって出羽国を置く。
713(和銅6)   陸奥国に丹取郡[宮城県北部の大崎平野]を建てる。 
715(霊亀1)   陸奥の蝦夷邑良志別君[オラシベノキミ]宇蘇弥奈[ウソミナ]と              
須賀君[スガノキミ]古麻比留[コマヒル]の請により、香河村             
[不明]と閇村[へイムラ、宮古市附近]に郡家を建てる。

718(養老2)   陸奥国の南部の石城・標葉・行方・宇太・日理、常陸国菊多の六郡を
もって石城国を、白河・石背・会津・安積・信夫の五郡をもって              
石背国を置く。[両国は724(神亀1〕年ころまでに廃止] 
720(養老4)   暇夷反乱し、按察使[アゼチ] 上毛野広人を殺す。 
721(養老5)   出羽国を陸奥按察使の管轄下に置く。 724(神亀1)   
海道の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。多賀城が置かれる。

733(天平5)   出羽柵を秋田村高清水岡に遷す〔秋田村は秋田市附近] 

737(天平9)   大野東人、雄勝村[秋田県南部、後の雄勝郡、平鹿郡、
山本郡の地域] に城柵を置くために大軍を動員するが、雄勝村の
住民の反対により断念する。
 
749(天平21) 陸奥国、金を出す。 757(天平宝字1) 陸奥国眺生、出羽国小勝に
柵戸[キノヘ]を配し、桃生城・雄勝城の造営が始まる(759年中に完成)。藤原恵美朝臣朝 陸奥守となる。
762(天平宝字6) 多賀城の大改修が行なわれる。 767(神護景雲1) 
伊治城〔宮城県粟原郡築館町]作り終る。 
770(宝亀1)   蝦夷、宇漢迷公[ウガメノキミ]宇屈波宇[ウクハウ]ら、徒族を率いて            
賊地に逃げ還り、使をおくって呼び寄せても帰らず、同族を率いて必 ず城柵を侵すと言う。 
774(宝亀5)   海道の蝦夷が桃生城[宮城県桃生郡河北町飯野]を侵す。按察使の大伴     
駿河麻呂ら陸奥国の遠山村[宮城県登米郡]を撃つ。
776(宝亀7)   出羽国志波村[岩手県紫波郡地方]の賊と官軍とが戦い、官軍不利。          
陸奥国の軍3000人を発して胆沢[岩手県水沢市附近]の賦を伐つ。 
778(宝臼9)   睦奥。出羽国司以下、征峨に功ある呑2267人に叙爵。伊治公皆麻呂
外従五位下を与えられる。 780(宝竈11) 伊治公皆麻呂の乱。
781(天応1)   賊の首として、伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代の名が見える。
788(延歴7)   征東大使に紀古佐美を任命する。 789(延歴8)  
政府軍河を渡り阿弖流為[アテルイ]の率いる軍と戦い大敗。援軍5万余。

791(延歴10) 征夷大使に大伴弟麻呂を副使に坂上田村麻呂らを任命する

792(延歴11) 斯波[シワ]村の蝦夷の胆沢公阿奴志己ら、伊治村の俘にさえぎられて、   
王化に帰することができないので、伊治村の俘と戦って永く降路を開き           
たいと申し入れる。 794(延歴13) 征夷将軍大伴弟麻呂、斬首457級、捕虜150人、
獲馬85疋、焼落75処と             
奏す。征軍10万。 

797(延歴16) 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
801(延歴20) 坂上田村麻呂、蝦夷と戦う。征軍4万。 

802(延歴21) 坂上田村麻呂を遣して胆沢城を造り、多賀城から、鎮守府を遷す。   
     大墓公阿弖流為、磐具公母禮ら、種類500余人を率いて降る。
803(延歴22) 坂上田村麻呂、志波城を造る。
805(延歴24) 藤原緒嗣、菅野真道、天下の徳政を論じ、征夷と造都を中止。
810(弘仁1)  文室綿麻呂を按察使に任命。 
811(弘仁2)  和賀、稗貫、志波の三郡を置く。        
文室綿麻呂を征夷将軍に任命。         
出羽国、邑良志閇[オラシベ]村の降俘、吉弥侯部都留岐[キミコベノ              
ツルキ]の申請により、爾薩体村・都母[ツモ]村・幣伊村の夷を攻撃させる。

830(天長7)  大地震があり、秋田城に大きな被害。

850{嘉祥3)  出羽国で大地震。 
855(斉衡2)  陸奥国の奥地の俘囚が互いに殺傷し
あったため、非常に備えるために援助の兵2000人を発し、さらに近くの城の兵1000人を選んで危急に備える。 
869(貞観11) 陸奥国で大地震があり、多賀城に大きな被害。
875{貞観17) 渡嶋の荒狄が叛し、水軍80艘で秋田、飽海両郡の民21人を殺す。
878{元慶2)  元慶の乱はじまる。藤原保則を出羽権守に任命。
893(寛平5)  出羽国の渡嶋の狄と奥地の俘囚等が戦闘をしようとした。

915(延喜15) 出羽国に灰が降る(十和田湖の噴火)。

939(天慶2)  出羽国の俘囚が反乱し、秋田城の軍と合戦。 10世紀後半  
この頃、東北北部と北海道の一部に防御性集落が出現。。

1051(永承3) 前九年の合戦はじまる。
~1062(康平5) l067(治暦3)~1071(延久3) この頃、陸奥守、源頼俊、
閉伊七村の山徒と衣曾別嶋             
の荒夷を討つ。 

1083(永保3) 後三年の合戦はじまる

~1087(寛治1) 1094(嘉保1)~1104(康和6) この間に、藤原清衡平泉に居館を置く。
1189(文治5) 文治五年奥州合戦、平泉藤原氏滅ぶ。 


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2009年11月18日水曜日

01224■一ノ目潟年縞解析による噴火の疑問



秋田県立博物館の「年縞」展示と、その解説の中での十和田火山に」関する疑問点です。

1、年縞展示です



青札の上が白頭山の噴火の火山灰(938)
下が十和田a噴火の火山灰(915)


















左が白頭山火山灰
右が十和田a火山灰

これは別途資料










3、御がで確認された広域火山灰




赤の囲いが十和田a火山灰(915年)といわれるもの。





黒の囲いが十和田八戸火山灰(1万5千年前)














4、火山灰・降灰分布図




十和田a火山灰の範囲は西側にはほとんど来ていませんが、どうして男鹿に火山灰の跡が残っているのでしょうか。











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疑問点のまとめ

①白頭山火山灰の特定の根拠が、文献に残っている915年の十和田a火山灰としていました。
十和田a火山灰が文献で確認(  )できるというのは非常に疑わしい。

②上記図のとおり十和田a火山灰は男鹿半島には飛来していないのではないでしょうか。
(この関係をご説明いただきたいのですが・・・)
③十和田八戸火山灰が1万5千年前と今までの学説とピタリと一致しています・・・どうしてこんなに正確なのでしょうか。

④十和田八戸火山灰が飛来したのであれば、まだ解析していないようですが、その中間の9,500年前や、6,300年前の噴火の様子も解明できないのでしょうか。



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2009年11月17日火曜日

01223■秋田県立博物館で年縞展示



秋田県立博物館で一の目潟からの「年縞」が展示されています。
年縞は超古代からの歴史の年代が明瞭に分かる可能性があるすごいものです。

1、これが年縞


手前が現在

一年ごとのいろいろな出来事がわかるのだそうです。













なんと十和田湖の噴火も分かるのだそうです
青の下が十和田湖a915年の噴火。



































































































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2009年11月16日月曜日

01222■Towada Histryの十和田噴火記録(早川)



十和田噴火の最も分かりやすく、国・県の公式記録にも採用されている論文はこれです。

Towada Histryさんからです(早川1985)



十和田湖の成り立ちと平安時代に起こった大噴火

十和田湖の成り立ち
十和田湖は火山である.火山というと,富士山や浅間山のような円錐形に盛り上がった山を連想するかもしれないが,周囲より窪んだ地形をなす火山もある.そのひとつが火砕流の噴出にともなって生じる陥没カルデラであり,十和田湖はその好例である.北海道の屈斜路湖・支笏湖・洞爺湖,九州の阿蘇も陥没カルデラである.陥没カルデラのまわりには,大量の火砕流堆積物がかならず分布している.
十和田湖のまわりには,奥瀬火砕流(Q, 4万3000年前),大不動火砕流(N, 3万0000年前),そして八戸火砕流(L, 1万5000年前)の堆積物が分布している.白いシラスの崖で縁取られた火砕流台地は,青森県十和田市や秋田県鹿角市などでみることができる.

火砕流は,時速100km以上のスピードでジェットコースターのように山野を疾走した.とくに大不動噴火と八戸噴火では,十和田湖から50kmまでの地表が隈なく焦土と化した.
奥瀬噴火によって十和田湖の地下から噴出したマグマの量は100億トンだった.大不動噴火と八戸噴火では,それよりさらに多い500億トンずつが噴出した.これだけ大量のマグマが噴出したにもかかわらず,それに要した時間はわずか数時間だった.
状況証拠からいって,大規模火砕流の噴出と陥没カルデラの形成との間には密接な関係があることが確かだが,両者の具体的な因果関係は,本当のところ,まだよくわかっていない.大量のマグマが抜き取られて生じた地下の「空洞」にマグマだまりの天井が落ち込む(陥没)という伝統的な考えのほかに,激しい爆発によって地表ふきんの岩石が吹き飛ばされることが重要だという意見もある.また最近では,カルデラの陥没がマグマだまりの圧力を解放してマグマをいっせいに発泡させたために大規模火砕流が噴出したとみる逆転の発想も提出されている.
カルデラができる前の十和田湖全体を,富士山のような大円錐火山がおおっていた証拠はない.カルデラの北壁と西壁には第三紀のグリーンタフが露出しているから,カルデラ形成前のそこは非火山性のごくふつうの山地だった.
湖の南岸と東岸には,50万年前ころに北隣の八甲田山から流れてきた石ヶ戸(いしげど)火砕流の堆積物が露出している.これがつくる火砕流台地が,カルデラ形成前の南東半分には展開していた.
石ヶ戸火砕流の堆積物は溶結して堅い.崩れやすいシラスからなっている十和田湖の火砕流堆積物とみかけが大きく異なる.溶結とは,高温状態の火砕堆積物が自重でつぶれて密度を増すことをいう.奥入瀬渓谷の両岸に露出する石ヶ戸火砕流堆積物は整然とした柱状節理をもち,溶岩とみまちがえるほど強く溶結している.銚子大滝をはじめとする多数の滝はこの石ヶ戸火砕流堆積物にかかっている.
発荷(はっか)峠と青ぶな山にだけ,石ヶ戸火砕流堆積物の上に生じた火山の残骸が認められる.この二箇所には,十和田湖の東方にそびえる十和田山や十和利山に似た中型の円錐火山(発荷火山と青ぶな火山)がカルデラ形成前にあった.
八戸噴火のあとまもなくカルデラ内の南寄りで噴火が再開した.そのとき地表に現れたマグマは,SiO2含有量が18%も低下した玄武岩だった.
玄武岩マグマの噴火は,短い休止を挟みながら1000年ほど続き,小型の円錐火山である五色岩(ごしきいわ)火山をつくった.休屋(やすみや)から湖上遊覧船にのると,まず恵比須島・甲島・鎧島を訪れる.それらは不規則に曲がった柱状節理をもつ溶岩からなる島である.これは水冷によってつくられた構造だから,五色岩火山の形成末期の十和田湖の水面の高さが現在(海抜400m)よりやや高かったことがわかる.
1万3000年前ころから,噴出するマグマのSiO2が増えはじめ,安山岩をへてデイサイトに戻った.これに呼応して噴火の間隔が間遠になった.噴火様式は爆発的になり,高い噴煙柱をつくって軽石や火山灰を広範囲にまき散らすようになった.五色岩火山体の成長は止まり,逆に噴火のたびに中心火口が浸食されて拡大するようになった.
 瞰湖台(かんこだい)に露出する厚さ40mの粗粒軽石層は9500年前の南部噴火の堆積物である.基底近くの一部の層準は溶結し,つぶれた軽石塊は黒曜石に変化している.この南部軽石は,厚さ10cmの細粒軽石層として三陸海岸の種市町でもみつかる.
瞰湖台の眼下にある烏帽子岩は,堅い岩石が中心火道の浸食に堪えて烏帽子のような形状で残ったものである.これは,五色岩火山の地下でマグマが中心火道から側方に移動した通路(ダイク)である.五色岩火山の放射ダイクは,このほかに日暮崎・自篭(じごもり)岩がある.
6300年前の中掫(ちゅうせり)噴火では,70億トンのマグマが噴出した.この噴火末期に,五色岩火山の中心火口の壁が取り払われて外湖とつながる事件が起こった.爆発によって北側火口壁の一部が切断された瞬間,湖水が一気に火口内に流れ込んだ.こうして中湖(なかのうみ)が生じた.
流れ込んだ湖水はマグマとダイナミックに接触して,激しい水蒸気マグマ爆発が起こった.宇樽部の旧小中学校跡地にみられる成層したシルト層は,このとき発生した横なぐりの爆風(サージ)の堆積物である.火口内に勢いよく流れ込んだ湖水が刻んだ谷は,いまも湖底に残っている.
湖面にわずか頭を出す御門石(ごもんいし)は,カルデラ形成後に生じた溶岩ドームである.同時に噴出した火山灰がまだ知られていないので,この噴火がいつ起こったかわからない.
平安時代に起こった大噴火
京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.」(日付はユリウス暦に直した)という記述がある.これは十和田湖のもっとも新しい噴火を記録したものと考えられる.
十和田湖の噴火堆積物のうち,最上位にあるのは発荷(はっか)峠の地表をつくる厚さ2mの毛馬内(けまない)火砕流堆積物である.この堆積物は,谷底だけでなく尾根の上にも薄く広く分布している.毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり,五色岩火山の上に開いた噴火口から測って20km以内のすべてを破壊しつくした.
疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱い入道雲(サーマル)が立ち上がり,それはやがて上空の風で南へ押し流され,仙台市の上空まで達した.
仙台市の陸奥国分寺では,古記録で870年と934年に対応する遺物に挟まれて,この入道雲から降下した火山灰がみつかった.また秋田県鷹巣町の胡桃(くるみ)館遺跡では,902年の年輪をもつ杉材がこの火山灰におおわれている.
中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通であるが,この火山灰が南に分布している異常は,上空の西風が弱まる夏期に噴火が起こったとすると説明しやすい.『扶桑略記』の噴火記述が晩夏であるのは,それを十和田湖の噴火であるとみる考えと矛盾しない.
京都は十和田湖から800km離れている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流(西風)で時速100km程度,北風の場合はもっと遅いから,京都から見える水平線の位置で朝日の見え方に影響を与えるためには,噴火はその前日に起こっていなければならない.したがって,毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる.
この噴火では50億トンのマグマが噴出した.浅間山の1783年噴火(7億トン),雲仙岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい.十和田湖のこの噴火は,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である.

噴火の最終段階で火道を上昇してきたマグマは,五色岩火山の中腹に開いた火口から少し盛り上がったのち,斜面を北と東へ流れ下って御倉(おぐら)山を形成した.中湖に面した千丈幕の崖には,斜面をわずかに流れた厚い溶岩流の特徴である垂直方向の規則正しい柱状節理がみられる.
米代川流域でしばしば出土する平安時代の家屋や器は,この噴火後まもなく発生した大洪水によって埋められたものである.地形的に不安定な毛馬内火砕流堆積物がこの大洪水発生の誘因となった.菅江真澄(1754-1829)は,文化十四年(1817年)の豪雨のあとに出現した埋没家屋のスケッチをなまなましく描いている.
十和田湖の最近の噴火が平安時代に起こったことは出土遺物の種類と年代からみて確かであるが,噴火を記した古記録は,現地では,みつかっていない.このため,毛馬内火砕流以外の事件(たとえば噴火の開始,御倉山溶岩流の形成と噴火の終了,米代川大洪水の発生)の日時の特定はまだできていない.
日本の自然 地域編 2「東北」205p,岩波書店,58-60ページ,1997


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(まとめ)
・平安時代までは他の文献とも整合がとれ、年代もよく分かりすばらしい。
・しかし、平安時代の噴火については疑問がいっぱいですね。
・いっぱい根拠を探していますが、むりやりの作為が感じられます(われわれも過去にはよくやった手法です)。
・50万t ものマグマが噴出した、過去2000年の間で起こった最大規模(雲仙岳の約13倍)の噴火が起こったのに、地元にはなんらの記録が残っていないことがありうるはずがない。
(鹿角市の記録になし、秋田県もなし)
・平安の噴火は東北の歴史封印のための「現代の田村麻呂伝説」としか考えられませんね。学者先生方も真実を語れなくれ、お悩みのことでしょう。
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01221■鹿角市の噴火記録


5 火 山

(1) 概況
鹿角市の活火山は、十和田御倉山、秋田焼山及び八幡平であり、八幡平は奥羽山脈の北部、
秋田・岩手県境に位置し、那須火山帯に属する玄武岩の成層火山である。
最高峰(1,613m)を中心に頂部は高原状をほどこしており、付近には八幡沼、鏡沼
など多くの火山湖があり、八幡沼周辺は湿原となっている。
また、山腹には噴気地熱地帯、噴湯、湯沼、泥火山や温泉などが多数分布している。

(2) 過去の噴火活動

噴火記録はないが、昭和48年10月中旬から下旬ごろに有感地震が群発している。

(3) 火山観測

三菱金属鉱業株式会社では、大沼付近に地震計を置き、地熱発電所にテレメータして観測
している。
このほかに、気象庁、仙台管区気象台、地質調査所、秋田大学の臨時観測が実施されてい
る。

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概要

二重のカルデラと後カルデラ溶岩円頂丘とからなる。約55000年前に、現在の十和田カルデラの位置から爆発的なプリーニー式の噴火が起こり、大規模なデイサイト質の降下軽石及び奥瀬火砕流の噴出があった。約25,000年前には流紋岩質の降下軽石の大不動火砕流が流出、13,000年前には大量の火砕流
(八戸火砕流)を流出して、直径11kmの第1カルデラが形成された。その直後からカルデラ内南部に小型の安山岩火山(五色岩火山)が生じ、5,000年前頃まで、数回の軽石噴火を行い、山頂部に直径3kmの第2カルデラを生じた(現在2つの半島に囲まれている中湖(なかのうみ))(高橋:1999)。
第2カルデラ形成後には、溶岩ドーム(御倉山(おぐらやま))と湖上の御門石(ごもんのいし))が生じているが、このうち御倉山溶岩ドームは約1,000年前の軽石噴火に引き続いて形成された。



最近1万年間の活動

13000年前の大規模噴火によって、十和田カルデラの大部分が形成された。カルデラ形成後、約2000年間にわたって安山岩質マグマの活動が続き、五色岩成層火山が形成された。その後、約1万年前からは珪長質マグマが活動し、約8500年前と5400年前に大規模な降下軽石が噴出した(南部降下軽石、中せり降下軽石)。最新の活動は、約1000年前の平安時代に発生し(古文書によると915年)、プリニー式噴火による降下軽石噴出後に、大規模な火砕流(毛馬内(けまない)火砕流)が流出した(Hayakawa:1985)



記録に残る火山活動

915(延喜15)年  軽石噴火(大湯降下火砕物層と毛馬内火砕流)に続き、御倉山溶岩ドームの生成。




  ※「概要」及び「最近1万年の活動」については日本活火山総覧(第3版)(気象庁編、2005)、「記録に残る火山活動」については前述の活火山総覧及び最近の観測成果による。



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(まとめ)
・地元鹿角市の公式記録には「扶桑略記」を根拠とした平安時代(915)の噴火は見られません。

・秋田県=国(気象庁)=早川1985=Towada Historyである・・・これが日本国の考え方。

・国まで「扶桑略記」程度の資料で「記録に残る火山活動」となっているのは、何か意図を感じます。

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2009年11月15日日曜日

01220■縄文前期の環状列石の事例


9月8日(金) 上原(わっぱら)遺跡の環状石籬~信州の旅(1)
大町での目的地は上原遺跡。立山・黒部アルペンルートの長野側の入り口である扇沢行きのバスに乗り、途中の大町温泉郷で降りる(片道510円)。実は次のバス停の方が近かったのだが、バス通りを西に向かって歩いていくと南へ張りだしている尾根が見える。めざす上原遺跡はその尾根の斜面に位置する。

上原(わっぱら)遺跡は1942年に地元の人によって発見され、1951・52年に大場磐雄先生を中心に調査が行われた。その結果、前期の集石と立石群、小竪穴などが見つかり、立石群は大場先生によって2基の環状石籬として想定復元された。ちょうど文化財保護委員会による大湯環状列石の調査などが行われた時期であり、戦後の配石遺構研究の出発点の1つである。1960年に県史跡に指定された。ただ、当時知られていた分布圏からは外れており、しかも前期ということで阿久遺跡発見までは配石遺構の中ではかなり特異な存在だったという。

そんなことを思い出しながら歩いていくと田園の中に柵で囲まれた一角が2箇所見えてきた。1つは環状石籬で、もう1つは小竪穴である。小竪穴の方は、かろうじて凹みが残っている程度であったが、環状石籬の方はしっかりと立っていた。径3m~1.5mくらいの小さなサークルであった。
遺跡の景観についていろいろ指摘されるようになってきていることから、私もこの場所から周囲を見回したり、少し離れたところから遺跡を望んだりした。しかしこの日は曇り空。北アルプスの山々はほとんど見えない。近くで農作業をしていた方に山の名を聞いたが、晴れた日は比べものにならないほど山が美しいということだった。なんとも残念だが、こればかりは仕方あるまい。
この遺構が中期以降のいわゆる環状列石と関係があるのかどうか。前期の資料はまだまだ少ないし、未調査のまま遺跡周辺の開拓が行われてしまったこともある、それに本当に環状だったかどうかも不明であるので、なかなか難しい問題のようである。実際に見れば何か得るところがあるだろうと思って来てみたが、遺跡の環境は別として環状石籬そのものについては謎はあまり解けなかった。

さて、この遺跡から出土した資料が大町山岳博物館に保管・展示されているというので駅へ戻り、そこから25分くらい歩いて博物館へ行ってみた。ところが、「近世以前の山と人」を考える資料として僅かな土器・石器・石製品・環状石籬のパネルが展示してあるだけであった。たまたま博物館へきていた教育委員会の方によると、資料は国学院大学にあるのではないかということだったので、休みが明けたら調べてみたい。ただ、この博物館は「山と人の関わり」をテーマとし、・御嶽教などの信仰関係の資料や、明治以後のレジャーとしての登山のあゆみ、その道具類、そして日本アルプスに棲むさまざまな生き物について紹介されておりなかなか面白い。

上原遺跡は今なお配石研究上特異な存在であるといえそうである。石を使った祭祀の系譜をたどるにはこの遺跡は重要な鍵を握る。周辺の遺跡が残っているかどうかは分からないが、大町市内からは中期の環状配石も出土しているので、この地域からの新資料の出現を期待したい。
市立大町山岳博物館(私の行った日のアルプスの写真が出ています)

03025■日本年年表 日本考古学











大湯環状列石がいつ作られたか、縄文後期(4,000)と言われているが、6,500年前にはこんな事例はないのか。ありました
①7,500年前・・・函館航空遺跡:ストーンサークル
②6,500年前・・・上原遺跡:環状列石
大湯ストーンサークルより古い??
③6,000年前・・・大館市池内遺跡
④5,000年前・・・三内丸山遺跡


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01219■「扶桑略記」とは何かその批判



十和田火山の有史時代の噴火記録の根拠となるものに「扶桑略記(ふそうりゃっき)」(915)があります。扶桑略記とは何でしょうか。扶桑略記を根拠としている学者がいますので。

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1、扶桑略記とは

扶桑略記(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。
寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧皇円(こうえん。法然の師)が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。
内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。
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2、「扶桑略記」は信用できない


「納得できない「逆説の日本史」(1)」より
文字通り「はじめに」お断りしておきますが、『逆説の日本史』についての私の疑義をまとめるにあたって、その中心を、自分として最も関心があり、とりあえず読み終えている第2巻(古代怨霊編)に絞らせていただきます。
これについては、「一部だけを取り出して…」という批判もあろうかと思いますが、このシリーズは大変な大作でいまだに完結していないため、本来の「全体」を批判することは不可能です。また、このシリーズが本来、週刊誌への連載であることを考えれば、極端に言えばその1回ずつが独立した論考と見なされてもやむをえないでしょう。
この本(以下『逆説2』と略記します。頁数などは文庫によります)は、確かに面白く書かれています。
これが歴史推理小説なら別に構いません。
しかし『逆説2』を読んだ人は、この本に書かれていることこそが正しい歴史であり、歴史家や歴史教科書の内容の多くは"嘘っぱち"であると信じてしまうのではないか、それが問題だと思います。







批判するメディアもない中で、国家が一方的に編纂した、しかも現天皇(元正)のお祖父さんのことを、皇族である息子が編纂責任者としてまとめた本-そういう本に真実が書かれていると、頭から信じている人がいたら、よほどおめでたいと言わざるをえない。
ところが、世の中にそういう人が実在するのである、それも大勢-言うまでもなく、それは歴史学界の人々である。
こういう人々は『日本書紀』の記述を頭から信じ込み、『扶桑略記』などには目もくれない。
(P.216~217)

確かに、「歴史学界の人々」は『扶桑略記』よりも『日本書紀』の方が信頼性が高いと見ている、とは言えるでしょう。
しかし、それと「『日本書紀』の記述を頭から信じ込み、『扶桑略記』などには目もくれない」とではかなり違ってきます。ここまで言うなら、それは間違いです。
例えば井沢氏は坂本太郎をくりかえし批判されますが、坂本には『扶桑略記』について、どういう所が優れており、どういう点が信用できないかを考証した文章があり、彼の全集に収められています。短いものですが、これを見ただけでも、坂本が決して安易に『扶桑略記』を扱っているわけではないことが分かります。




(略)古代の、重要な機関はすべて国家が握っていて、ジャーナリズムも民間の研究機関もない時代に作られた「史書」に、当事者の天武のことが正確に書いてあると考えたら、そう考える方がおかしいだろう。
これは、学問以前の、人間としての常識ではないだろうか。
ところが、学者先生の中には、こういう常識がわからず、あくまで「書紀」を信ずるという人が多いのである。それは「古い史料の方が、より正確である」という歴史学の基本原則(?)を、なんとかの一つ覚えのように繰り返すからだ。
(P.221~222)

「なんとかの一つ覚え」「人間としての常識(がわからない)」という、相手の説ではなく人間性を非難する…こういう姿勢の著書が広く支持されるのはそれ自体嘆かわしいことです。この本を信じた読者は、もはや歴史学者の言葉には耳を貸さないことになるでしょう。
このような姿勢は、我々一般の読者や歴史愛好者と研究者との間に新たな溝を刻む、益少ないことだと考えます。
では、この本の内容は、これほど人を非難することができるほど完璧なものなのでしょうか。それが、そうでもないのです。
私が『逆説2』を読んで感じたことは、大きくは以下の4つです。
 1.史料や論文等を引用する際、大事な部分が抜けていることがあります。
 2.筋の通らない論証が時々見られます。
 3.時代差を考慮しない断定をしている場合があります。
 4.その他、調査不足・検討不十分などが目立ちます。
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3、「扶桑略記」醍醐天皇 抜き出し
醍醐天皇の項目の日記はこちらです・・・・

【扶桑略記】醍醐天皇24より
延略五年二月十日辛未。信乃國飛騨驛到來。依上野介藤原厚載為上毛野基宗等殺害也。
○三月一日辛酉。日食。廢務。
○四月七日丁酉。有擬階奏
○十二日壬寅。三箇日。於十一社。令仁王經。祈諸國京師疫
○卅日庚申。更衣從五位上藤鮮子卒。是齋内親王母也。
○五月六日丙寅。為疫癘百口僧仁王經御讀經停止。是淑景舎顛倒打殺七歳童穢也。
○廿一日。致仕大納言源湛卿薨。【七十三】
○廿二日。右衛門督藤清經卿薨。
○廿八日戊子。被囚廿三人。依旱也。
○六月廿日。於大極殿。臨時御讀經。祈雨也。○廿四日癸丑。於神泉苑。自今日五箇日。修請雨經法。又祈五龍
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○七月五日甲子。卯時。日无暉。其貌似月。時人奇之。
○十三日。出羽國言上雨灰高二寸諸郷農桑枯損之由
 (これが根拠となる日記の部分です・・・26/28にあります)
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○廿四日癸未。被九社奉幤。依祈雨也。
○八月十七日。右中辨藤良基召外記仰云。昨日烏咋抜奏時杭。令陰陽寮占者。
○廿三日辛亥。外記京中樹木華并天下赤痢時御祈之例勘申。
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4、平安噴火の根拠説(現代語訳)

TowadaHistoryさんは
延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,
・「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.
・8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.」
(日付はユリウス暦に直した)という記述がある.これは十和田湖のもっとも新しい噴火を記録したものと考えられる.
(上記が本文です・・・)


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(まとめ)
・必ず両論があるものですから。しかしこの程度の日記で日本の歴史が変えられるのでしょうか???
・東北の歴史封印のための「田村麻呂伝説」とのかかわりも調べたくなりました。
・まさか「扶桑日記」がネットで簡単に見られる時代が来るとは考えていなかった人もいるかも知れません。
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2009年11月7日土曜日

01218■大湯環状列石発掘調査報告書第一号火山灰層序


大湯環状列石発掘調査報告書第一号には、大湯環状列石周辺の地質・・・特に火山灰層序について・・・が記されています。
1、1953年文化財保護委員会調査
 大湯環状列石については、すでに文化財保護委員会によって「埋蔵文化財発掘調査報告(1953)」が出され、環状列石の堆積的観察という項目の中で、特徴ある火山灰と列石、異物含有黒土についてふれている。さらに本地域の層序関係、堆積物の生成年代についても考察を試みている。これらは当地域に関する初めての体系だった調査である。

2、その後の多くの調査報告踏まえたまとめ
 
 以上の研究をふまえ、この地域の火山灰層は下表のようにまとめることができる。

         第2表 遺跡付近の火山灰層序

No
名   称
14年代値
堆積様式
角閃石の有無
毛馬内軽石質火山灰層
1280±90
火砕流(軽石流)
×
大湯軽石質火山礫層
3680±130
降   下
×
申ケ野軽石質火山灰層
8600±250
降   下
鳥越軽石質火山灰層
12000±250
火 砕 流
高市軽石質火山灰層
25850±1360
火 砕 流
×
小ケ田軽石質火山灰層
火 砕 流?
×
小坂軽石質火山灰層
火 砕 流



①小坂軽石質火山灰層

 「報告」では全くふれられていない火山灰層であり、鹿角における第四紀層の中では最下部にあり、次のような産状を呈する。
 この火山灰は小坂町西方の小坂川をはさんで、両岸の段丘構成層として分布し、小坂鉱山 事務所付近や山手~内の岱にかけて露頭、小坂高校付近にも散在する。
 色は灰白~赤灰白色(ピンク)で成層した形態をとらず、急激に凹地をうめて堆積し、定着した産状を示す。固くしまった印象であり、石英、角閃石が目立つ。全般に風化しており輝石は変質した形状を示す。
 起源マグマ組成は石英安山岩質で、十和田火山灰層序の比較(第2表)で、中川、他(1972)の分類によると第二期噴出物とみなされるが、詳しい年代は不明である。

  

②高市軽石質火山灰層

 小坂町東方のあけぼの台への露頭で小坂軽石質火山灰層を覆う河床礫層を明瞭な浸食面でおおう。分布は鹿角盆地全域に及ぶが、大館、鷹巣の各盆地および、その周辺地域に散在してみられる。
後述する鳥越軽石質火山灰とともに十和田火山起源のものでは最大規模の噴出物で多くは鳥越火山灰に覆われ、場所によっては欠け、連続性はよくない。盆地内では高市から小坂にかけて広く分布し、毛馬内付近では水中淘汰をうけた二次堆積物が上部で発達する。急激な火砕流堆積物の供給、それにともなう一時的な“せきとめ湖”の形成があったものと考えられる。この二次堆積物の最上部は暗緑~黒色の粘土質層で、陸化後、相当長期間湿地や沼地であったと推定される。
「報告」では礫砂泥層(河川、湖盆堆積物)と記載されているが、二次堆積物に相当するものと考えられる。


③鳥越軽石質火山灰層

 高市軽石質火山灰層と産状、外観ともに区別しにくいが、現在の盆地内における主要な段丘すなわち、環状列石のある風張台地を含む鳥越面、関上面(内藤1966)の分布に一致する。この層の厚く発達する関上付近の段丘は大湯付近を扇のかなめとして扇状地の形態を示し、火砕流が旧大湯川(谷)沿いに流れ下り、堆積し、隆起(?)によって河床の下刻により侵食され段丘が形成されたと思われる。
この層にも二次堆積物をともなうことがあり、高市火山層と同様、一時的な“せきとめ湖”の形成があったとみなされる。
「報告」(1953)では、「段丘、堆積物は礫砂の分級淘別された水成層で偽層を呈し(二次堆積物のこと)、下位の十和田石層を不整合におおい・・・」とあり、この間に長い時間の経過を考えているが、産状、構成物などから一連のものと考えたほうがよさそうである。

 一次堆積物は無層理、灰白色の軽石を含み、炭化木片をしばしば混入する。本層の年代は約12,700±270年前と考えられるが、十和田カルデラ形成にともなう一連の火山噴出物である。この軽石流の大噴出後山体部は数本の断層に沿って陥没し、ほぼ現在の十和田湖の原型に近いカルデラがつくられた。


④申ケ野軽石質火山灰層

 鹿角盆地では鳥越面、関上面を構成して広く分布する。「報告」の中の下位火山灰層と区別されたものに相当し、地表面に近いためか、全体的に黄褐色を呈す。暑さは場所によって異なるが1m以下で、上部は軽石を多く含み、下部は石質岩片の多い部分から成る。
 中の湖がつくられた第三期の活動(大池、斉藤1984)で、十和田湖周囲には瞰湖台軽石を、周辺の山麓部には南部軽石を堆積し、鹿角地方には申ケ野火山灰を降らせたに違いない。


⑤大湯軽石火山灰層

  「報告」の中で“大湯浮石層”と命名され、上位火山灰層として、遺跡の年代決定に重要な意味を持つ軽石質降下火山灰層で、十和田火山に近いほど粒径が大きく厚くなり、角閃石を含まず、二枚の黒土中にうすく連続する。
  後述する毛馬内軽石質火山灰層と重鉱物組成が共通することなどから、両者は同一火山活動による降下物と火砕流堆積物である。


⑥毛馬内軽石質火山灰層

 米代川流域の最下位の河成段丘を構成し、能代平野まで連続して分布する。主として灰白色の軽石質火山灰で、場所によっては大湯軽石質火山灰層をおおう産状を示す。風張台地の段丘面よりも下の集宮付近では、“大湯浮石層”の上にかぶさる形で認められ、降下火山灰のあとで火砕流(毛馬内火砕流)が堆積したものと考えられる。
 一般に毛馬内面を構成するが、それより高い中間面にまで乗り上げた形で部分的に見出される。
・大池(1972)によれば、この噴出物は十和田火山最終のもので、噴火は約1,300年前におこり、十和田a降下火山灰、前述した“大湯浮石”などと共通点が多く同じマグマ起源としている。 
・町田(1981)はこの活動は有史時代の10世紀に発生したとし、この噴火を推定する降下の記録としては、扶桑略記(915年)に7月13日とあると述べている。
・大池、斉藤(1984)では毛馬内火砕流は古文にその災害の記録も残されているが、その噴出時期はほぼ十和田b降下火山灰と同時期のものとしており(約2,400~1,400年前)、時間的に幅をもたせている。

・いずれにしても「報告」第5節、火山灰、特に大湯浮石の噴出源という項目で示唆したように、噴出源は森吉山や黒森火山ではなく、十和田火山の「中の湖」火口湖の湖底噴火という考えは、その後の研究によってほぼ裏づけられた形である。

・ただ噴出年代については、遺跡との関係から縄文後期から奈良時代と考察し、その後、渡辺(1966)は炭化物のC14年代測定法によって、3680±130年と推定したが、その後の新しい考えはいずれも当時予測したよりは新しいという結果になっている。  (鎌田 健一)


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第2図 風張台地の柱状図(野中堂採石場に見られる火山灰層序)

















第3表 十和田火山層序の比較

















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