2009年12月8日火曜日

01619■養老の滝伝説

ダンブリ長者の伝説は岐阜県の「養老の滝伝説」を調べる必要があるようです。
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養老山といえば、養老の滝、孝子伝説が有名です。霊亀3年(717年)、奈良朝元正女帝は、この地を訪れ霊泉で体を洗われると、ご病気が全快しました。帝はこれをお喜びになり、年号を養老と改めました。この話はあまりにも有名です。

「よーろー」の名はもともと養老の滝のまわりにあり、奈良期に養老の当て字がなされたようです。「よーろー」とはゆるやかな坂を示す地名で、全国14県、30ヶ所以上にあります。養老の滝は、江戸時代の美濃の3大名所のひとつでした。そして養老郡養老町の名は明治22年(1889年)の養老村の誕生に由来します。その養老が、次のような孝子伝説とつながりました。

美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、老父を家に残して山へ「まき」を拾いに行き、それを売って米や父親のための酒を買うのが日課でした。老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでした。
 ある日、丞内が山の中で転んで眠ってしまったところ、夢の中で酒の匂いがしました。目がさめると、香り高い酒が湧き出る泉がありました。丞内は喜んで、老父にその酒を与えました。すると老父の目が見えるようになるではありませんか。酒の泉は、不自由な体を直すということで有名になりました。それが帝の耳に達し、親孝行の丞内は、美濃の守に任ぜられました。


【参考】岐阜県小中学校長会(1970):美濃と飛騨のむかし話、岐阜県校長会館
服部真六・増田春風(2000):岐阜県おもしろ地名考、岐阜県地名文化研究会
岐阜地理学会(1978):岐阜県地理地名事典、地人書房
岐阜歴史地理学研究会(1981):各駅停車全国歴史散歩岐阜県、河出書房新社

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もともっと詳しい「養老伝説」はこちら


         「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」
  男の名前は後代になって「孝子」とされるようになります。養老伝説の初見は、続日本紀・養老元年十一月十七日条の「養老改元の詔」とされていますが、ここでは、孝子の話がない形で記録されています。また、ここではお酒が湧いているわけではなく、醴泉-美泉であり、若返る効果、薬効のある水が湧いていたという記録となっています。

癸丑、天皇、軒に臨みて、詔して曰はく、
「朕今年九月以て、美濃国不破行宮に至る。留連すること数日なり。
因て当耆郡多度山の美泉を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し。
亦、痛き処を洗ひしに、除き癒えずということ無し。朕が躬に在りては、
甚だその験有りき。また、就きて飲み治る者、或は白髪黒に反り、
或は頽髪更に生ひ、或は闇き目明らかなるが如し、自餘の痼疾、咸く皆平癒せり。
昔聞かく、
「後漢の光武の時に、醴泉出でたり。これを飲みし者は、痼疾皆癒えたり」
ときく。符瑞書に曰く、
「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり」
といふ。
寔に惟みるに、美泉は即大瑞に合へり。朕、庸虚なりと雖も、
何ぞ天のたまひものに違はむ。
天下に大赦して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし」とのたまふ。

霊亀三年(養老元年)九月二十日、美濃国に行幸していた元正天皇は当耆郡(たきぐん)におでかけになり多度山の美泉を御覧になった。 同年十一月十七日天皇は詔して次のようにおっしゃった。
私は今年の九月美濃国不破の行宮に至り、数日間逗留した。
そこで当耆郡多度山の美泉を見に行き、その水で手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようであった。また痛いところを洗ったら、その痛みが取れて治ってしまった。私の体でさえこれほどの効き目があった。
また聞くところによると、この泉の水を飲んだり浴びたりする者の、あるものは禿げた頭に髪が生じ、またあるものは見えない目が見えるようになった。その他の長く治らない病気もすべて治ったという。
昔、後漢の光武帝の時に醴泉が湧き出して、これを飲んだ者は長く治らなかった病気がすべて治ったと聞いている。符瑞書にも「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり。」とある。考えてみれば、美泉は大瑞にかなっている。私は平凡で才能がないが、どうして大瑞という天の賜物に背けようか。天下に大赦して、霊亀三年を養老元年とせよ、と。

この醴泉-美泉の最初の記録は、日本書紀・持統天皇七年十一月、八年三月の条にあり、そこでは、近江国益須郡で多くの病人を治した水が沸いたとしています。
同様の記録は風土記中に多く見られ、
出雲国風土記・楯縫郡佐香郡、
播磨国風土記・賀古郡酒屋村、
同揖保郡酒井野、
同揖保郡萩原里酒田、
同加毛郡下鴨里酒屋谷、
豊後国風土記・速見郡酒水条、
肥前国風土記・基肄郡酒殿泉条、
等が記録されています。

養老伝説が"酒"が湧くとなったのは、これらの美泉が、酒の醸造に使われ、実際、続日本紀・養老元年十一月十七日条の記事の後に、この水で酒を醸した、という記録が続日本紀・養老元年十二月条の記事として記録されています。

では、実際に酒が湧いた、と言う記録はないのか?と言うとあるんです。

これは「養老伝説」とは別に「酒泉伝説」とされ、播磨国風土記・印南郡含藝(かむき)の里、酒山の起源説話となっています。

又、酒山あり。大帶日子の天皇の御世、酒の泉湧き出でき。 故、酒山といふ。百姓飲めば、即ち酔ひて相戦ひ相亂(みだ)る。 故、埋め塞がしめき。後、庚午の年、人ありて掘り出だしき。 今に猶酒の気あり。

大帶日子(景行)天皇の御世に酒の泉が湧き出て、酒山と呼ばれた。人々がその酒を飲み、酔って相乱したため、埋め塞がせた。庚午の年(天智天皇九年=670年)にある人が掘り出した。今に至っても酒の気がある。

実際に"酒"が湧いた、という記録はこれだけですが、他の美泉も後代になると酒が湧いたという事になっていきます。

「養老伝説」ものち、孝子の要素が加わり、「養老の滝伝説」となります。
文献上の初出は、1252年成立の「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」に、また十訓抄から補入されたと思われる同様の話が「古今著聞集」に記録されています。

生命の水・若返りの水より、お酒が湧いた方がめでたいのかもしれません。

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こちらはダンブリ長者の「お酒」の部分です


二人は、雪解けの春を待って、川をさかのぼり、日暮れてたどり着いた平間田(ひらまだ)というところに住みつきました。ここでも田畑を作って、一生懸命働き、やがて三年目の夏になりましたが、暮らしはちっとも楽になりません。

  その日も、怠けず朝から汗みどろで野良作業。昼ごはんのあと、二人は疲れていつのまにか眠ってしまいましたが、不思議な夢を見ます。目ん玉がものすごくでっかく、尾っぽの長い大きなダンブリ(トンボ)が飛んで来て、長い尾っぽを振りながら二人の口に甘い香りの酒を注いでくれたのです。

目をさました二人は、口の中に酒の香りが残っているのを知り、また同じ夢を見たと驚きあいますが、そのとき尾っぽの長いダンブリがスイスイと夕焼け空を飛んできました。夢に出てきたのと同じダンブリです。二人が追いかけて行くと、ダンブリは大きな松が生えた岩かげに入って行きました。そこには、いい香りのする水が湧き出している泉があり、すくって飲んでみると、なんとその水は上等な酒だったのです。

  この酒は、味がいいだけでなく、病気も直るというので大評判になり、二人はこれを売って、たちまち大金持ちの長者になりました。二人にはまだ子どもがいなかったので、家の中に大きな大日如来さまをまつり、子どもが授かるようお願いし、やがてその願いが叶えられたのか、可愛い女の子が生まれます。女の子は大変きれいな娘に育ったので、その評判が都の帝(みかど)の耳にまで届き、召し出されて吉祥姫(きっしょうひめ)という名前をもらい、大層出世しました。
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(まとめ)

・滝ではないのですね。「香り高い水が湧き出ている泉」は共通です。
・時代も霊亀3年(713年)似た頃です。

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030261■行基は秋田には来ていない?

大日堂のことを調べていけば行基が出てきます。(行基図でおなじみです


1、行基は秋田に来ていない

比内独鈷大日堂の神成忠正元宮司のお話に出てきます、三つの大日堂のご神体は行基作と伝えられているが、学校の先生が「いや行基は東北には来たが秋田には来ていない・・・」「いや将来東北の歴史が判明したときには日本の歴史の1ページが変わるぞ!」と言われたとあります。(宮司さんは、やっぱり来たのだと言っています)

これは、「坂上田村麻呂伝説」と同じことになりますね。

(はりつけ)
それから聖武天皇。
大仏を造る、ということも思いつきました。それも、巨大な大仏。これを造れば、きっと世の中は平和になるに違いない、こう考えたのです。しかし、度重なる旅行と都の造営に人々は疲れ切っていました。この上に大仏とは・・・。

そこで聖武天皇。ひらめきます。
「危険な宗教家としていてマークしていた、僧の行基。あのカリスマを利用すればいいじゃないか。」
さて、この行基とは何者か。実は、それまで朝廷からは危険人物としてマークされていた人物です。なにしろ、当時の仏教は国家の統制にあったにもかかわらず、積極的に民衆へ布教し、民衆のために用水施設を造ったり、交通施設を造ったりと社会福祉に貢献していたので、人々から人気があったんです。一歩間違えれば朝廷にとって脅威となります。 

しかし、この人気を利用し、大仏建立のために中心となって働いてもらい、庶民を動員してもらうことにしました。こうして、大仏建立の詔が出され、まずは聖武天皇が都を移していた紫香楽宮で大仏を造り始め、しかししばらくして平城京に戻ったため、ここで再び大仏を造りはじめ、完成したのが東大寺です。行基は完成直前に亡くなっていましたが・・・。

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年代西暦年齢事項天智 7年6681この年、行基 河内の大鳥郡蜂田の里に誕生(現在の家原寺)。天武  元年6725壬申の乱おこる。   
2年 67363月、川原寺で一切経写経。   
11年68215行基出家する。
文武  2年69831薬師寺の建立ほぼ終わり、衆僧を住まわす。    
4年700333月10日道昭死す(72歳)、栗原にて火葬。 
大宝 元年701348月3日、大宝律令なる
慶雲 元年70437行基、生家を改め家原寺とする。   
3年70639行基、和泉国和泉郡に蜂田寺を建てる。   
4年70740行基、生駒の山房に移り住む。
和銅 元年70841行基、和泉国大鳥郡に神鳳寺を建てる。  
3年71043平城遷都。   
5年71245諸国の役民、都の造営に駆り立てられる。奔亡や、帰郷のとき飢える者多く、行基の布施屋設置はこのころからか?
霊亀 2年71649河内の大鳥・和泉・日根の3郡を和泉監(特別行政区)にする。行基、大和国平群郡に恩光寺を建てる。
養老 元年717504月23日、行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧する。   
2年71851元興寺建つ。僧徒の乞食を禁じる。薬師寺を平城に移建する。行基、大和国添下郡に隆福院を起工する。  
4年72053行基、河内国河内郡に石凝院を起工する。  
5年72154行基、寺史乙丸より屋敷を寄進され菅原寺を起工する。
養老 7年72356三世一身の法発布される。
神亀 元年72457聖武天皇即位。行基大鳥郡に清浄土院(高渚寺)と尼院を建立する。 
2年72558行基、河内国交野郡に久修園院を起工する。    3年72659行基、大鳥郡に檜尾池院を建立する。  
4年72760行基、大鳥郡に大野寺と尼院を起工する。
天平 2年73063行基、摂津国西成郡に善源院・尼院、兎原郡に船息院・尼院、嶋下郡に高瀬橋院・尼院を起工する。   
3年73164行基に従う61歳以上の優婆寒と55歳以上の優婆夷らに入道を許す。行基、摂津国河辺郡に楊津院・崑陽施院、河内国丹比郡に狭山池院・尼院、山城国紀伊郡に法禅院、葛野郡に河原院・大井院、乙訓郡に山崎院、大和国添下郡に隆福尼院を起工する。行基の狭山池修造はこのころか?   
5年73366行基、河内国茨田郡に救方院・薦田尼院を起工する。   
6年73467行基、和泉国和泉郡に隆池院、大鳥郡に深井尼院、山城国愛宕郡に吉田院、摂津国住吉郡に沙田院・呉坂院を建立する。  
9年73770行基、和泉国大鳥郡に鶴田池院、大和国添下郡に頭施院・尼院を起工する。 
10年73871このころ成立した大宝律令の注釈書に行基を精進錬行の大徳と記す。


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4、秋田県の行基に関連するもの

・温泉   湯沢市 鷹の湯温泉

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追記 2010・11・16
副島隆彦氏より


その前には、行基(ぎょうき)という男が聖武天皇(しょうむてんのう)のわきにいて、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)、奈良の大仏さまをつくる事業をした。おそらく2000人ぐらいの部下を率いていて、各地で土木事業を行っている。こういう技術も中国から伝来してきたものだろう。大事なことは水銀を持っていたということだ。この水銀を持っていないと、鉱山から、金を銅から分離することができないということがあったからだ。そのような技術を持っていた人々だろう。それが経済、あるいは生産活動としての初期の仏教が持っていた奇跡、あるいは、霊能者の才能に近いものとして、認められていたのだと思う。


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2009年12月2日水曜日

01227■大湯ストーンサークルの地質調査









東北縄文文化研究会では
大湯ストーンサークル周辺の地質について調べてもらいました。
2009/11のものです。










































































































































































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(まとめ)

・j版調査の渡辺広勝氏は、ストーンサークルの一帯は人工的につくられたものである。炭を混ぜて付きたてたものであるという。
・このことを確認するために調査を依頼したものであるが、結果はそのようなものではなかった。


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2009年12月1日火曜日

01017■鹿角民話・佐多六とシロ









鹿角の民話の「佐多六とシロ」が気になりまして調べました。先日秋田さきがけ新報に掲載された草木小学校の学校新聞に「佐多六が撃った“イノシシ”」とありましたのが気になったのです。

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【佐多六とシロ】(美の国あきたネットより)
昔、草木(くさぎ:現在の鹿角市十和田草木)に佐多六(さたろく)と言う「マタギ」(猟師)がいて、彼は、日本中どこの土地でも猟ができる巻物(免状)を持っていた。これは、佐多六の先祖が源頼朝公の富士の巻狩りで手柄をたてたことから、南部の殿様からもらった巻物であり、全国での狩猟が子孫代々まで許される天下御免のマタギの免状であった。
佐多六は、“シロ”という名の、とても賢くて主人思いの秋田犬を猟犬として飼っていた。
ある年の2月、冬の日としては珍しく晴れた日のことであった。佐多六はシロを連れて猟に出かけた。四角岳(現在、秋田県と岩手県の県境の山)のふもとまで行ったときに、岩の上に大きなカモシカを発見した。佐多六がカモシカを狙って鉄砲の引き金を引くと、カモシカはその瞬間棒立ちになったが、雪のうえに点々と血を流しながら、すぐに逃げて行った。佐多六とシロは血の後をどこまでも追いかけていき、気がつくと、いつの間にか鹿角と青森県三戸の境の来満峠まで来てしまっていた。
佐多六は、カモシカの血の跡が峠の洞穴で消えていたため、鉄砲を洞穴に向けて一発撃った。そのとき、三戸の方から来た5人の猟師達が「そのカモシカは俺たちが先に撃ったのだ。俺たちのものだ。」と強く迫ってきて、「お前はどこの者だ。そこの境小屋が見えないのか。お前もマタギなら勝手に他の領内で猟はできないことは知っているだろう。」と佐多六を捕まえようと詰め寄ってきた。佐多六は、しまったと思い鉄砲を振り回して逃げようとし、シロも主人を助けようと5人に向かって吠えたが、相手は5人であったためかなうはずはなかった。
佐多六はとうとう捕まえられて、無理やり三戸城に引っ張られていった。シロは、その後をこっそりとついて行った。牢屋に入れられた佐多六は、あの天下御免の巻物を忘れて来たことを後悔し、他の領内で狩猟をした罪のため明日にも打ち首になるかもしれないと思い、ため息をついたり涙をこぼしたり悔しくて仕方がなかった。
牢屋のそばに忍び込んだ主人思いのシロは、やつれた主人を見ると、「ワン」と一声吠え、暗い雪の道を草木へ向かって一目散に走りだした。
そのころ、佐多六の妻は、佐多六が3日も帰って来ないため心配して神様に祈っていたところであった。 シロは、山や谷を走りに走り、草木にやっと到着すると、まるで火がついたように吠えた。村人は、雪だらけになって帰ってきて吠えるシロを見て、何があったのかをなだめて聞こうとしたが、吠えるばかりのシロの状況からは何があったのかは理解できなかった。シロは、村人に理解してもらえないためどうしたらいいかわからず、食う物も食わずにすごすごと主人のもとへと帰っていった。
シロは再び遠い山道を越え、佐多六の所へ戻った。佐多六は帰って来たシロを見たものの、待っていた巻物が届けられずがっかりした。しかし、力をふりしぼって、「シロ、ほら、あの巻物わかっているだろう。竹筒に入れている巻物だ。仏さんの引き出しに入れている巻物を持って来ておくれ。それがあればおらは助かるんだ。シロたのむ。」と言った。
牢屋の中で、涙をためて言う佐多六のことばを黙って聞いていたシロは、やっと主人の気持ちを理解したのか「ワン」と大きく一声吠え、また草木へ向かって雪の中を走って行った。
草木へ着いたシロは、前よりももっと吠えた。ありったけの力をふりしぼって、仏壇に向かって吠えた。佐多六の妻は、ハッと思い急いで引き出しを開けて見ると、佐多六が猟に出るときにいつも持ち歩いているはずの巻物がそこにはあった。妻は顔色がサッと変わり「これだ、この免状だ。」と言い、ふるえる手で巻物の竹筒をシロの首にしっかりと結ぶと、「シロ、頼む。届けてくれ。」とシロの背中をなでてシロを見送った。
シロは疲れも忘れ、牢屋にいる主人の佐多六のために、雪の来満街道を、再び三戸に向かって夜通し走り続けた。来満峠を越えたときには、三戸の空が白々と明けてきた。
その頃、佐多六はシロが巻物を持って帰ってくるのを一生懸命待っていた。しかし、とうとう時間に間に合わず、夜明の鐘が鳴るとき、佐多六の命はこの世から消えてしまった。シロが命懸けで牢屋に着いたときは、主人はこの世の人ではなくなっていたのだった。処刑場に横たわっていた佐多六を見て、シロはとても悲しみ、しばらく死んだ主人のそばについていた。
それから何日かして、シロは三戸城が見える大きい森の頂上に駆け登り、三戸城に向かって恨みの遠吠えを幾日も幾夜も続けた。この森は今でも「犬吠森(いぬぼえもり)」と言われている。 その後間もなく、三戸には地震や火事など、災難が続き、町の人々は佐多六のたたりだと恐れた。
やっとのことで草木に着いたシロは、途中食べる物もなく寒さと疲れのため、とてもやつれた姿であった。
佐多六の犯した罪のために、お上のとがめを受けた一家は村に住むことができなくなり、村から出ることになった。佐多六の妻とシロは、南部領の草木から秋田領の葛原(現在の大館市句葛原)というところに移り住み、村人に親切にされて暮らした。そして、葛原で暮らしたシロはいつからか、「老犬さま、老犬さま」と呼ばれるようになった。
あるとき、村人が馬に乗り、村はずれのあたりを通ったとき馬が驚き、どうしても歩けなくなってしまった。不思議なことだと思い、その周辺を探してみると、シロが死んでいた。あわれに思った村の人々はシロの亡きがらを村はずれの南部領の見える丘に埋めてやった。
その場所は、現在でも“老犬神社”として、村の人々に祭られている。
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(まとめ)
・ここではカモシカとなっています。
・草木地区の案内板には「青猪」と書いてあります・・・小学生はこれからでしょうね。青猪は「青じし」と読むそうです。青じしとはカモシカのことです。
・もう一つの民話には「羚羊(れいよう)」と書いてありました。れいようとはWIKIではカモシカなどの総称とあります。
・これで納得しましたが、「イノシシ」であれば大変な問題が孕んでおりますから調べました。


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