2010年12月6日月曜日

2010年11月16日火曜日

■菅江真澄 寺内児桜図






[image.jpg]


こちらは補正したものです










 


2010年11月14日日曜日

■秋田の日吉八幡神社と天台宗

寺内地区会長会主催の歴史の勉強会がありました。

1、寺内・八橋地区の史跡探索マップ


講師は片岡一彦さん。観光案内人でもあります。

秋田市の寺内地区と八橋地区とは史跡探索では一体なのですね。
今回の八橋地区は、図の右側半分






























2、印象に残ったお話

①八橋の日吉神社(ひえい神社と呼ぶ)、秋田安東の頃からのもので、天台宗系である。もとは笹岡にあり、飯島に移動し、最後に八橋地区に来た。中央政府が地元を従わせるためにつくられたもの。
4月のお祭りには、今も元あった所の「飯島衆」が担いでいる(曳いている)。

②寿量院(元の気象台のあと)も徳川家への情報提供のためつくられて、日光東照宮(天台宗)から常時50~60人のスパイがいた。

③江戸時代は、八橋にはなぜ蕎麦屋が多かったか? 処刑場にいく罪人にそばを食べさせた(?)
それは・・さておき。文人墨客の散策コースであったがためである・・・こちらがいいですね。



3、八橋 日吉神社とは

wikiでは八橋が載っていませんが


日吉神社

日吉神社は各地に存在する神社。「日吉」には「ひよし」「ひえ」の両訓がある。
北海道・東北地方


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日吉八幡神社概要:
 日吉八幡神社は旧久保田城下の総鎮守であり、神社建築では秋田県内で随一です。
本殿(1797年)・拝殿安永七年(1778年)・舞殿・随神門・三重塔(1707年)・青銅鳥居は秋田県指定有形文化財です。朱塗りの木造三重の塔は、宝永4年(1707年)に豪商青木平兵衛が父の菩提供養のために建立したもので、秋田県内でここしかありません。
朱色の三重塔自体も他県と併せても珍しいかもしれません。随神門(神社山門)は元々は寿量院(敷地の南側に隣接し徳川家を祭っていた)にありましたが、明治3年に廃寺になったおり現在の場所に移築しました。


正面の鳥居から入ってくると少しわかりづらいかもしれません。正面からは神式、随神門からは仏式の伽藍配置になっていますので興味がある人には面白いかも知れません。又、随神門方向の道路から入ろうとしても、入り口が狭いのでやはりわかりづらいと思います。
日吉八幡神社の建物形式としてはは「権現造り」(日光東照宮栃木県日光市)で見られる形式)で拝殿などのの彫刻がみごとなことから秋田の日光廟と呼んでいる人もいます。出来れば参拝だけでなく建物を1周して建築の彫刻を見てみるのもよいかもしれません。又、正面の道路から拝殿までの距離はあまり長くはありませんが、2つの鳥居と3つの橋が掛けられており、奥性を感じることが出来ます。2つの橋には三猿」がほどこしてあり、ある種の結界を張っているようでした。本殿の屋根(写真だとわかりづらい)にも猿が鎮座しており、「日吉神社」系の守り神となっているのがよくわかります。 







4、何が興味なのか

八橋日吉神社について



①お祭りの主催者が、今も地元でなく元の飯島衆が担いでいること。
 これは寺内の古四王神社の祭典で、所在地の寺内地区の人々が主催しないで、少し離れた高野衆が主催していることのなぞ解きにつながるものです。


②ここにも、天台宗がでてきます。天台宗は田村麻呂から後の時代(100年くらい)に、武力のみでは蝦夷(えみし:我々の先祖)制圧ができないので、宗教の力も借りたことによります。その宗教とは天台宗だったのです。大きな寺院のほとんどが最初は天台宗で、のちに各宗派に分かれています。


だんだんだんだん 昔のベールが剥がれてくるようです。楽しいですね!

■西の古四王、東のニワ

はての塩窯さんより

なまはげの郷、秋田県「男鹿(おが)」の語源にもなった肉食習慣のある蝦夷「恩荷(おんが)」が信奉していたのは、『日本書紀』によって「齶田(あぎた)浦の神」であることがわかります。
この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。
つまり、齶田浦の神と、それを信奉する恩荷(おんが)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。
新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。
さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。
不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。
かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。
つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。
三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。
日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。
比率が逆であれば語呂がよかったのに、という幼稚な洒落はさておき、せっかくなのでこの三文字さんのデータをもう少し詳細に眺めてみます。
まず、「ミ」系28社のうち「三輪」を冠するものは5社、「ミ“ア”タリ」と称するものは5社でした。
そして「ニ」系42社では、社名に「鶏」を掲げるものが4社、「鬼渡」系は6社、「ニワタ“シ”」系は2社でした。この「鶏」「鬼渡」「ニワタシ」を合わせた12社を差し引いて無理やり少なく見積もったとしても、結局ニワタリ系は30社もあり、しかも鶏4社のうち一社は鶏足(にわたり)と読ませております。やはり私はこの信仰を「ニワタリ信仰」と呼ぶのが最も自然であろうと考えます。
さて私は、この神祀りは「二羽の鳥」に見立てられた外来在来二つの勢力の絆により生まれたものではないか、と想像していたわけですが、つまり私の仮説で言うならば、この神には少なくとも二柱分の性格が混在していることになります。
それが、「二羽の鳥」の韻から「鶏」に変遷し、そこに慈覚大師円仁を掲げて東北一円を教化した天台密教一派、あるいは南朝勢力と後醍醐天皇仕立ての真言立川流などの影響を経て、「鶏」という韻から弥勒下生に重要な「鶏足山(けいそくせん)」が重なり、仏教色が強まったものと想像しております。
日本海側の古四王(こしおう)が、蝦夷の信奉する齶田浦の神に、進出してきた中央氏族が奉斎してきた武甕槌(たけみかづち)命なり大彦(おおびこ)命なりが習合し、四天王を経て仏教色が強まっていったように、その顛末と極めて似通った歴史を辿ったのが太平洋側においてはこのニワタリではなかったか、と私は考えているのです。
さて、三春秋田氏の祈願所「真照寺(しんしょうじ)」にある古四王堂は当然秋田氏すなわち安倍氏によるものとして、この三春周辺の25社中7社ないし9社にも及ぶ集中的なミワタリ信仰は一体何者の影響によるのでしょうか。
ここで私は三春以外の集中地区にも注目するのです。
前述の三文字さんがとりあげたレジュメ『北上川と白鳥信仰』――1996年北上市で開催された「古代の北上を考える市民のつどい」配布資料集――にある『旧仙台藩領における庭渡社の分布』によると、ベスト5は以下のとおりです。


1、牡鹿(おしか)――現:宮城県石巻市周辺――22社
2、宮城11社
3、伊具(いぐ)9社
4、志田(しだ)8社
5、桃生(ものう)6社


2位の宮城郡は別枠記載の首府仙台城下の2社も含めると13社になるわけですが、これは伊達家以前にこの地を支配していた國分氏によるものでしょう。國分氏はニワタリを氏神と称しておりましたからほぼ間違いありません。
それにしても、牡鹿の22社は異常な集中です。隣接の桃生の6社を合わせれば28社も集中しており、ニワタリ信仰の本場として疑うには申し分がないと思います。はたしてこの地を領していた大物氏族とは一体何者なのでしょうか。
とりあえず、鎌倉期以降は坂東武士の葛西(かさい)氏でありました。
しかし、葛西氏は頼朝からこの地を賜ったものの奥州の安定をみるまではしばらく下総の地からこの地を遥任してきたことから考えると、もしニワタリが葛西氏による奉斎神であれば、本領である下総郡葛飾(かつしか)――現:東京都葛飾区あたり――周辺にも集中的に確認できてよさそうなものです。
また、葛西氏だとすれば陸奥国全域への思想的影響力や飛び地的な三春周辺の集中の説明が難しくなります。
したがって葛西氏が運んできた神というセンは弱いと思われます。
それでは、葛西氏以外で牡鹿を拠点に陸奥国全域に影響を及ぼせるような氏族とは一体誰でしょうか。
これはもう「道嶋(みちしま)氏」でしょう。
道嶋氏は、元々古代の有力氏族「和邇(わに)」氏の部民「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)」氏であり、蝦夷としては異例の大出世を遂げていたことが『続日本紀』によってもあきらかになっております。
実は、三春を含む古代の「安積(あさか)郡――現:福島県郡山市周辺一帯――」は、この丸子一族に大変縁が深い地でもあるのです。


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(まとめ)
・するどいお方です。ファンになりました!!

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2010年11月12日金曜日

■桓武天皇の蝦夷政策


はての塩さんより

桓武天皇の征夷政策

 東北地方の歴史的観光名所を巡っておりますと、頻繁に出てくる人物名があります。
「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」「源義経(みなもとのよしつね)」「松尾芭蕉(まつおばしょう)」他にもまだまだ見かけますが、特にこの四名はよく見かけます。
そして不思議にこの四名は、時代を超えて同じような場所に名が連なっていることに気づきます。芭蕉であれば比較的時代が下り、本人の記録が残っているために信ずるに足る部分があるのですが、他の三名については伝承を鵜呑みにすれば超人的バイタリティでみちのくに足跡を残していることになってしまいます。
特に田村麻呂や円仁に至っては東北地方の主だった寺院を「興した」ことになっております。
東北地方の古寺には彼らが開基したというものがすこぶる多く、おそらくその多くは後世に創られた伝承かと思われますが、だからと言って所詮伝承だと切り捨てるわけにはいきません。度々申しあげておりますが、それらの伝承が残るためのそれなりの理由があるはずと思うからです。
しばし田村麻呂と円仁の各々の役割を考えてみたいと思います。
思うに慈覚大師円仁は、みちのくに既に存在していた聖地を訪ね歩いているかのように見受けられます。
いや、必ずしも円仁自身が歩いたものばかりではなく、「天台宗」の一派がそういった聖地を探し求め、寺院を開基していったのかもしれません。そんな彼ら一団が後世「円仁」としてひとくくりに呼ばれたと考えるのが自然でしょうが、そのいわゆる「円仁」は何故徹底して陸奥や出羽に寺院を開基していったのでしょうか。少し当時の歴史的背景をのぞいてみます。
円仁は、師でもある伝教大師最澄が、あたかもコンプレックスを克服するが如く求めたこともあってか唐に渡り「密教」を会得してきました。それは最澄自身が果たしえなかった悲願の達成でもありました。これによって、最澄が創始した天台宗による、言うなれば比叡山総合仏教センターが完成されたようです。
円仁の師匠最澄は天台宗こそが最上であると信じ、それが時の政権に支持され援護されました。最澄は桓武天皇の信任が厚く、その期待を担って遣唐使に任命され、見事に天台宗、いや誤解を恐れずに言うならば「大乗仏教全般」の奥儀を獲得して帰国しました。
しかし、その総合仏教センターを運営するにあたって、実は「密教」についてだけは会得した満足感を得られていなかったらしく、ライバル空海にその教えを乞うたようです。   
ところが、最澄と空海には密教に対する認識に大きな隔たりがありました。密教を一教義としてしか捉えていない最澄と、密教こそが完成された教義で他の全てをひとくくりに「顕教(けんきょう)」として区別している空海とでは相容れるものではなく、そもそも成就するわけがありませんでした。決裂は当然といえば当然の帰結だったのかもしれません。
しかし、最澄にとっては皮肉なことに、時代そのものはあきらかに「密教の呪術性」を要求していたと思われます。
桓武天皇は、ある意味で自分が歴史の中にいることを強く認識していた改革者なのかもしれないのですが、一方で、自らが無実の罪で死に追いやった早良親王の祟りをはじめとするあらゆる厄災に怯え続けた陰気な側面も併せ持っていたようです。

イメージ 1

↑奈良市薬師堂町「御霊神社」で見かけました。祭神に桓武天皇の恐怖心が滲み出ております。

 そのためか、当時最新の科学「陰陽道」を駆使したかに思われる平安京への遷都や、不吉な鬼門方位に存在する蝦夷の征伐といった途方も無い「国家プロジェクト」を連発しました。これらはいずれも怨霊封じらしき宗教的な側面を強く感じさせます。そんなところからも、どうやら呪術性を秘めた密教の活躍する余地はたぶんにあったことでしょう。
桓武天皇にとって、平安京の鬼門に存在するまつろわぬ異国の野蛮な民、「蝦夷」は耐え難い恐怖だったに違いありません。
また一方で蝦夷の地は黄金の一大産出地でもあり、欲にくらんだ政権担当者たちの煩悩を刺激しました。
蝦夷は必ずしも野蛮ではなかったと思うのですが、軍事力行使の正当化のためかそのようなイメージを創作されたようです。
いわれなき侵略を受けることになる蝦夷は蜂起しました。特に胆沢の雄「アテルイ」を頭とする軍は、巧みなゲリラ戦法で朝廷軍を撃破しました。その後10年以上も侵略政策をやめない朝廷軍を翻弄したわけですから、よくよく考えれば日本史上でも最大の抵抗勢力であり、ひょっとしたら一つの国家でも築いていたのでは―対外戦争では―ないかとすら勘繰りたくなります。
しかし、アテルイと言えども、攻めて来る軍を撃退は出来ても、平安京まで攻め上れるわけではありませんので、最終的には物量に勝る朝廷軍に勝てるわけもありません。
朝廷の雄「坂上田村麻呂」が征夷大将軍に任命されると、アテルイは徐々に劣勢となり、やがて蝦夷は敗北します。どちらかといえば、10年以上も抗い続けたアテルイを田村麻呂が懐柔したと言ったほうが正しいのかもしれません。

イメージ 2

↑悪路王(≒アテルイ?)が籠ったとされる岩手県平泉町「達谷窟(たっこくのいわや)」

 田村麻呂は蝦夷に同情的で、また京の貴族たちと異なり彼らを対等な人間として捉えていたようでした。もしかしたら、一説に田村麻呂自身が渡来系の血統であったといわれることにも起因しているかもしれません。
田村麻呂はアテルイやモレといった蝦夷の首脳陣の助命を嘆願しますが、ヒステリックに蝦夷を嫌う桓武天皇に却下されてしまいます。田村麻呂の嘆願空しくアテルイやモレは処刑されてしまうのです。
田村麻呂が東北地方においても好意的に伝えられているのは、蝦夷にたいするそういった姿勢があったからなのでしょう。

■日本中央の碑(’つぼのいしぶみ)発見秘話






【引用です】

日本(ひのもと)の中央で愛をさけぶ 梅編

2007-03-05 11:08:31 | レイライン


「いやいや、しばらく~」と管理さんとは
城攻防ユダヤナチス歴史研究家の父上とは
同級生とのことであった。
うむぅ~、コレも何かの因縁で石に呼ばれたか。

明治八年(1875)明治天皇が東北巡幸する際に合わせ、
地元では千曳神社の下に「壷の碑」が埋められていると
いう伝説が伝えられていたので、発掘して天覧に供そうと
いうことになったが、結局発見されなかった

だが、1949年6月21日、東北町千曳の川村種吉氏によって
同町石文集落付近の赤川支流の湿地帯よりあっさり発見される。
川村氏は、家の馬頭観音として奉る石を探していたが、
そんなとき、半分土中に埋もれた大石があると聞いて、
青年団員の手伝いで掘り起したのが、コトの発端であります。

発見直後(昭和24年)伝説の「壷の碑」が発見されたとして
かなり話題となり、多くの学者先生等により調査されたが、
未だに賛否両論であり、確定されてない。
それはそれでよろしい。

今、目の前に石が存在すると云う事実だけがある。

実はもう何十回も見学しておるのですが、初めて見た時
風雨を凌ぐだけの粗末な小屋に置かれてときとはエラい違いで
うっすらとこの世のものではない妖しい光を放っている。
歴史公園に奉られる前に、よう磨かれた加工されたようでありますが、
石英粗面石の大石は、正面だけではなく側面にも文字の様なモノが
みられる。ペトログリフか星座を記したものか。

非常にギザ美しいのであります。

父上は、昔はもっと文字がはっきりくっきりして
いたとおっしゃる。

日本は当時、倭とか大和の国と呼ばれていて
日ノ本とは奥州を意味するのでした。
十三湊の安東氏は日ノ本将軍と呼ばれたし、
陸奥 北海道 千島を含めたエリアが日ノ本で
都母が大体その中央であった。

征夷大将軍坂上田村麻呂は、実は岩手県水沢あたりまで
しか来ていない。
3代目征夷代将軍文屋綿麻呂は、青森県浅虫温泉辺りまで来ているので、
彼らが刻んだ文字ではなかろうかと推測する。

発見場所には、他に同じ様な石は無いという。
自然に1.5mの石が地面に立っているのは、非常に不自然で
あるため、誰かが意図的に奥州レイラインの目印に
置いたのではなかろうか。
そして、「日本中央」と刻むず~っと前から時の移り変わりを
見守っていたのでなかろうか。

管理人さんが、見てないスキにマチュピチュのシャーマンみたいに
額を当て、石の記憶を読ませて頂こうと思ったが、
額に「日本中央」と転写されると、ヴィレッジヴァンガードのゴスロリ
姉さんに凝視されると思うのでやめた。


発見場所まで行ってアレを感じようかと思ったが、雪のため
また、降りられないとのことでございます。

正式には”ひのもとのまなか”と読むのだそうです。
マナカナ。

■「つぼのいしぶみ」とは


http:https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgjXrLIBCjeFHLThas_ic-GBzL1qTX_p3l-w7zLexE8kDWfbg0rHO9pgtcAa_-76XrQ7MZI2T49xm4kJLfhhX1EoSu4FJMW1dwElEhrqGpYFMgJyzxadrcBMQ68h3n88hDq8OlgxUnqRmQ7/s400/%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2588%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B5%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AB.PNG

【wiki引用】

つぼのいしぶみ

つぼのいしぶみ(漢字表記では「壷の碑」)とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、
矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。現存しない。
袖中抄』の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。
但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、
石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。
其所をつぼと云也」とある。
「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。すなわち、
藤原清輔寂蓮法師西行法師慈円源頼朝藤原仲実和泉式部
南部重信高山彦九郎岩倉具視大町桂月らがこの碑のことを詠っている。
その内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということを
テーマにしている。数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、
どこにあるか不明であった。

多賀城碑壺碑説 [編集]


多賀城碑
江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑多賀城碑)が発見された。
この碑は発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされ、当時の記録に残っており
(『国史舘日録』など)、多くの拓本もとられた。松尾芭蕉はこの碑を「つぼのいしぶみ」とし、
奥の細道』の旅中にここを訪れている。一方、菅江真澄らは文面や距離的な問題から
「つぼのいしぶみ」ではないと主張し、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。
田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、『袖中抄』にあるような、
日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の
石に書いたという記述とは一致しない。 多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられた
のは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。
多賀城碑が「つぼのいしぶみ」となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。

南部壺碑説 [編集]


日本中央の碑
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、
この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
このため、明治天皇が東北地方を巡幸した1876年(明治9年)、
この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり
地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。 1949年(昭和24年)6月、
東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)
集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返して
みると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。
 この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は
文屋綿麻呂である。しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける
傾向がこの地方に多い。実際に綿麻呂が書いたとすれば811年(弘仁2年)頃の出来事になる。
発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定が
はっきりと出されていないのが現状である。これは、『袖中抄』の記述とは一致するが、
常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達して
いないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。
 現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている