2009年9月30日水曜日

01613■大日霊貴はアマテル神で男神




大日霊貴はアマテル神で男神
 アマテラス神(天照大神)は幼名を「ワカヒト」「ウヒルキ」と、また別名「大日霊貴(オオヒルメムチ)」とも呼ばれます。



1、アマテル神の誕生
イザナキとイザナミの間に、めでたく元旦の初日とともにご誕生したのが男神アマテル神でした。
泣く御子の  声聞き取とれば

「あな嬉し」 これより諸が
名を請ひて  叔母より問へば
「ウヒルキ」と 自ら答う
御子の声   聞き切るときは
幼名の    ウは大なありと
ヒは日の輪  ルは日の内霊
キは杵ぞ   故ウヒルキの
尊なり    は女男の
男の君ぞ   
 聡明なシラヤマヒメはアマテル神の泣き声をお聞きになると、赤ん坊のアマテル神がご自分
で「生まれてきてとても嬉しい」とおっしゃていることがわかったのです。それを一同に告げ
ると、みなアマテル神のお名前をご自身にたずねてくれと頼みます。シラヤマヒメがお名前を
たずねると、ふたたびアマテル神は「ウヒルキ」とご自分でご自分の名前をおっしゃったとい
うのです。
・・・・おもしろいですね、だけど何か、作り話と思えない感動的なものがあります。

2、ウヒルキ
 「ホツマツタエ」がすごいのは、その「ウヒルキ」に対する言霊的解釈が付いていることです。
「ウ」は大いなること
「ヒ」は太陽のこと
「ル」は日の中の霊的なエネルギー
「キ」は男神を示す杵の略である
■アマテル神は太陽そのものではなく、太陽の霊気をもって生れ、太陽の巨大なエネルギーをお持ちの神なのです。そして地上にお暮しになった、国民の心を照らす人体の神ということになります。

3、大日霊貴(オオヒルメムチ)について
 大日貴は本来は大日貴と霊が靈となるのが本当です。
 ・「日本書記」にはいくつもの写本がある。「大日靈貴」という漢字で問題なのは「」か「」かの違いがあるのです。「孁」が女神論の根拠の一つです。
日本書記写本32種中「大日孁貴」が24種、「大日霊貴」が8種ある。
・「日本古典文学体系」には、「孁」という字は、「巫女」の意味で創作したのだろうといっています。何かしら作為的なものがあったと考えられます。
 ・もし、「ウヒルキ」というアマテル神の素晴らしい名前が先にあって、後の時代にその呼び名に漢字をあてたとしたら、「ウヒルキ」が「大日靈貴(うひるき)」となったと考えらえます。

4、アマテル神男神論
 アマテル神女神論は
  「ウヒルキ」(男神)→→大日霊貴→→大日孁貴→→オオヒルメノムチ(女神)
「ウヒルキ」という男神名があり、後の時代「大日靈貴」という漢字を当て、さらに後代、伝
承があいまいになったときに、誰かが女神を強調しようとして「大日孁貴」に改めてしまっ
た。そして「オオヒルメムチ」と読ませたとしたら。とても自然な推論だと思うのですが。
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(まとめ)
・男神のアマテル神が女神に変わった経緯が推論ですが、よくわかりますね。
・大日堂と大日霊貴神社の両方の名前があるのはこのことと関係はないのでしょうか。

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01612■秘められた大日霊貴神社



鹿角市の歴史は楽しいですね。今日は大日堂舞楽世界文化遺産に決まる日です。

秘められた大日霊貴神社

レイラインハンテング」さんからです
さすがに鋭い突っ込みですね、参考にさせていただきます。


 









八幡平を秋田県側に抜け、大湯へ向かって北上していくと、途中に大日霊貴(おおひるめむち)神社がある。地元では「大日さん」と親しまれているこの神社は、だんぶり長者の善行を後世に伝えようと、今から1500年前、継体天皇の時代に創建されたと伝えられている。

 昔々、小豆沢というところに住んでいた貧しい夫婦が、畑仕事を一休みして昼寝をしていると、一匹のトンボ(だんぶり)が飛んできて、唇の上にとまった。その尻尾には甘い酒がついていて、その美味しさに思わず目を覚ました二人は、飛び立っただんぶりを追いかけた。すると、そのだんぶりが飛んでいった方向に泉があった。その泉の水を飲んでみると、先ほど一滴だけ味わったこの世のものとは思えない酒だった。だんぶりに導かれて酒の泉をみつけた二人は、その酒を汲んで商いをして、おおいに潤った。それが、「だんぶり長者」の話だ。

 それは、大地がもたらしてくれる資源を見つけ、富を成したことをそのままストレートに伝えたもので、この周辺に何か貴重な地下資源が埋蔵されていることを暗示している話のようにも思える。

















この神社は、はじめ、「大日示現社」と名づけられたが、大日つまり天照大神がこの地に示現したという意味だ。

その後、いったん荒廃を見るが、200年後の元正天皇の時代に再建される。このとき、天皇はわざわざ都から東大寺大仏建立に貢献した僧、行基を下向させた。そのとき随行した工匠・音楽師等が、里人に舞楽を伝授し、それが大日堂舞楽として現代まで伝わっている。

 都から見ればまさに僻遠の地に、当時随一の僧侶を派遣して建立させたということは、それだけ、この神社が重要であったことを物語っている

仏と神を同一の概念とみなす本地垂迹説を取り、真言宗と関係の深い両部神道。行基によって建立法要が営まれた大日霊貴神社は、その両部神道生粋の神社だ。



 真言宗といえば、その改組である空海は、陰陽道や中国固有の錬金術である「練丹術」に通じていたことでも知られる。高野山のある紀伊半島や四国の山奥に練丹術に必要な「丹=水銀」を探して歩いた空海、いっぽう、地下資源を掘り当てたことを連想させる「だんぶり長者」、この符合が意味するものは、いったい何だろう。

















 この神社には陰陽道と関係の深い両部神道ならではの「形代」の儀式が伝わっている。人の形に切り抜いた紙に自分の生年月日と氏名を書き、息を三回吹きかける。そして本殿の手前にある茅の輪を潜って形代を奉納するというものだ。この形を見て、陰陽師安倍晴明が式神を使うのに、同じような形代を用いていることを連想する人も多いだろう。

 ここでは、茅の輪潜りの作法が少し変わっている。茅を編んで輪にした茅の輪を潜って魔除けとするのは、年越しの祓いや夏越祓で良く見られるが、ほとんどは、一度この輪の中を潜るだけだ。ところが、ここでは、左足から潜り左回りに戻り、今度は右足から潜り右回り、さらにもう一度左足から潜って形代を納める形をとる。古代から続くシャーマニズムや陰陽道では、自分に取りつこうとする「魔」を巻くために、北斗七星の形に歩む「兎歩」や算用数字の八を横にした「無限」を表す形に歩む作法がある。兎歩は天体でもっとも力の強い北斗七星と北極星の力を体現する。「無限」の形を描く歩き方は、途切れのないメビウスの輪のようなその形の中に、「魔」を永遠に閉じ込めようとするものだ。

 だが、この大日霊貴神社にまつわる興味深い事実はまだ尽きない。じつは、この神社は、今回の取材のキーポイントである大湯ストーンサークルから、正確に南に位置しているのだ。
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(まとめ)
・鋭いお方ですね。
・「大日示現社」は初めてです・・・これは意味が深そうです。
 (たとえば「ホツマ」では、アマテル神が16歳になられたとき、トヨウケ神が東北にお連れしたこと)
・都から見れば僻地のこの地に大日示現社(大日霊貴神社)があること。
・そして、当時随一の僧侶を派遣したこと。
・大日霊貴神社の名を冠する神社は日本でここだけです(私が調べたのでは)
・だから鹿角市は不思議なところなのです。 

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2009年9月29日火曜日

01618■五の宮嶽草刈り場「オシキ」

鹿角市に7年間住んでいました。ここを通るたびに不思議なものがあると思っていました。南北のライン上のものかとも調べましたが、今分かりました。




大きな地図で見る


地図では北林山頂の少し下です。折敷山とも言うようです。

「オシキ」
 大里部落の裏山の中腹に、官地(国有林)として部落で管理している草地が四反歩あ り、
これを部落の人達はオシキと呼んでいる。  
 このオシキは昔、五ノ宮嶽に登ったと伝えられる五ノ宮皇子と関連するものであると 伝えられる。
第二十六代継体天皇の第五皇子菟皇子(御母上はだんぶり長者の一人娘秀 子姫、後吉祥姫)が遠く都を
追われ、大里から五ノ宮嶽に登ろうとした際、途中で馬が 倒れてしまい、一人で登ったと云う伝説があり、その馬の倒れた所を「オバフトコ」と 云い、今は湿地になり
小さな窪みになっている。  
 このオバフトコなる湿地にて、放牧した馬が草を食べたり、水を飲んだり、またこの 地に入っただけ
で悪魔が祟ったようにその馬が死んだと云われる。  このオバフトコで死んだ馬のために、オバフトコから約三百米離れ、馬の入れない可 成りの急斜地を、大里部落では毎年八月七日
の早朝に草刈りし、草はそのまま刈り捨て おき、馬に手向けると云う行事が行われている。 
 
 また、このオシキには部落民誰でも草刈りに入れるものではなく、昔から決められた 家柄の人達だけで
ある。その他の人達は、オシキまでの道路端などの草刈りや清掃をし たと云う。  特殊なこととして、
この草地オシキに草刈りで入る場合、「ホー」「ホー」と全員が 叫びながら一斉に入ると云う風習がある。
これはホーホーと叫ぶことによって、馬の鳴 き声が聞こえないようにしているためであり、聞こえる人に
は、その年災難があるかも 知れないと云う伝えがある。   
 
 また、向かいに位置するの久保田や尾去沢の農家の人達は、この草地の草刈りの跡を 見て、その年の豊作を占い、赤又は茶色に乾燥した時は豊作、
黒く乾燥した時は不作と 占い眺めていたと云う。  
 また、このオシキに行く途中御坂オサカの所に楢の木が二本生えており、村人がこれより 奥山に入る場合、
山での仕事の安全を祈願したり無事を祈り、木枝で岐マッカを作り、この 楢の木に懸けて山に入ったと云い、
この所を鍵懸け場と云う。無事帰った時はこの鍵を 取って帰宅したと云う。今から二十年位前の山火事で
楢の木は焼けて倒れてしまった。
[オシキの現地付近] [地図上の位置(オシキの現地付近の山「北林」)→]
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(鹿角WIKIより)
折敷山の、四角(よすま)刈りとも云う。
  • オシキ刈り
八幡平大里で旧暦7月7日(新暦8月7日)、オシキ刈りが行われる。 四角刈り(よすまがり)とも云い、この日は夜の明けない前に折敷山(おしきやま)へ登り、 草刈をして、その後に山麓の馬頭さん駒形神社)集まる。 大里の人たちは草刈に参加することを普請(ふしん)すると云い、この作業の後は村に帰って一日仕事を休み、楽しむことにしている。
この由来ほ、だんぶり長者伝説の中で吉祥姫の子の五ノ宮皇子が、 五ノ宮獄に登る途中にこの地で乗馬が死んだので駒形神社に祀った。 それで盆の七日目に草を刈って馬の飼料として奉納し、霊を慰めるのだとされている。 この日刈った草の乾いた色の具合によって、その年の豊凶を占うところがある。八幡平の夏井や尾去沢の尾去、 北秋田郡の扇田・大館などの一部の地域で、これらの地区では刈り取られた草の色が赤茶に乾くとその年は豊作に、 黒ずんだ色に乾いた年は凶作になると言い伝えている。
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04014■平田篤胤は神代文字の存在を力説



されている日本人のタブーの一つが、日本に固有の文字があったことです。

1、学者のタブー

今の学者は、文化というものはすべて外国から来た、というのが暗黙の了解になっていて、これと逆の考え方はタブーなのです。
『古語拾遺』を著した斎部(いんべ)広成がその中で、「上古の世、未だ文字有らざる時」といっていて、後世の学者はみなこれにならっている。


2、平田篤胤は日本の固有文字を肯定


平田篤胤は、『古史徴開題紀』の「神世文字の論」で神代文字の存在を論理的論述した。
そして、その実践研究篇として『神字日文伝』で日本各地に散在していた13種の神代文字を蒐集し、分類・整理したもの。13種の神代文字を一体如く論じ、神字を否定した賀茂真淵本居宣長らを批判し、古代文字の存在を力説す。
また、神代文字を真書、草書の両系統に分類、数多の神代文字に特に太占の兆の形を連想される阿比留文字(物部文字)を最も信用できる日文(ひふみ)とす。それ以外真偽不祥の文字を『神字日文伝附録』こと『遺字篇』に収録。
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■平田篤胤はわが秋田県出身の大人物です。「務本塾・巡堂講座」に平田篤胤の「古道大意」や「霊の真柱」などの現代語訳をアップしています。
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3、神代文字とは


4、なぜ日本の重要な伝承を捨てたのか

 ある者が政治的な実権を私曲化して奪おうとするためには、それまでの体制を支えてきた伝統的文化、特に国の重要な文献を改ざんしてしまうことがどうしても必要となってきます。
 西洋では、多民族が侵略するときは、必ずその国の美術品を破壊しますね。日本では美術品を破壊することはしなかったのですが、それに近い形で、漢字を入れたり、仏教を入れたり、文献を改ざんしたりしたんですね。

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2009年9月27日日曜日

04061■ホツマの系図






ホツマ物語」の巻末の「ホツマ系図」です。















こちらが本家です













































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2009年9月22日火曜日

04013■山海経には東北が




台湾の篤学・李学勲(1920~1998)は『山海経』の解読に生涯を捧げ、その「海外東経」「大荒東経」にある黒歯国は、「お歯黒の国」すなわち日本の山形県・秋田県の羽黒山系のことであると解いた。
したがって、その黒歯国に隣接するとされる扶桑・湯谷も東北地方に求められることになる。

李は扶桑をアイヌ語ヌササン(神社)の音写とみなし、和名は「真木」であるとして、その所在を秋田県立真木自然公園に求めた。李は、本来は国が管理すべき扶桑の史跡を県任せにしている日本行政のあり方を厳しく批判している。

岩手県一関市市議会議員の赤羽根広重氏は李の説を発展させ、扶桑とは本来は天地を結ぶ(と古代人に信じられた)三角形の山のことでピラミッドの原型、真木自然公園では真昼岳にあたる。
また、秋田県大湯町も湯谷の遺称地でここでの扶桑は黒又山、その祭祀遺跡が大湯環状列石(ストーンサークル)であるとした。

田中勝也氏は中国唐代の『梁書』の扶桑国・女国、『酉陽雑爼』の扶桑州・長鬚国、日本の『伊予三島縁起』の扶桑州はいずれも日本列島の東北部にある国家を指すと思われるとして、それを『日本書紀』にいう蝦夷にあてた。
ただし、田中氏は『李朝実録』にある夷千島王の使者(1482年に朝鮮李朝に入朝)の国書に現れる扶桑は日本のこととする。また、14~15世紀の地図においては、扶桑・女国を日本から離れたところ、具体的には東シベリア・沿海州・樺太・千島とおぼしき中国東北方に置く傾向があるとも指摘する。田中氏は扶桑が日本の雅号としても用いられたことや、情報の混乱から、中国における扶桑の所在の認識にも異動が生じているとするが、それでも、かつて日本の東北方が扶桑と呼ばれていたという痕跡は一貫して見出すことができるという。

なお、中国の常征氏も『梁書』の扶桑国はすなわち大漢国のことで本州島最北端もしくは北海道にあったとする。常氏は邪馬台国すなわち倭国の中心を九州の宮崎県西都市あたりに求め、魏志倭人伝における邪馬台国までの航路記事を延長することで、文身国を能登半島東北、大漢国=扶桑国を日本列島北端に求めることになったのである。
(参考文献)
李学勲『古代日本の風土記わたしの山海経』下巻、日野史談会、1991
赤羽根広重『日本太古事典(下巻)縄文の奇跡』月光庵、1998
田中勝也『エミシ研究』新泉社、1992
常征「扶桑国は日本であってアメリカ大陸のメキシコではない」『中日関係史学会会報』1989年2号

04060■ホツマと古事記の決定的な違い

「ホツマ」と「古事記」「日本書紀」は三書比較がなされておりまして、基本的な違いはないとのことですが、
神々の系図では決定的な違い(順番が違うだけですが!)がみられます。


1、古事記による系図

神々の系図(概略)・・・・(古事記を中心にまとめたものです)

タカミムスビノカミ  カミムスビノカミ

 (高御産巣日神) (神産巣日神)

 

アメノトコタチノカミ ウマシアシカガヒコノカミ

(1)    

クニノトコタチノカミ(国之常立神)

(2) ↓

トヨクニヌシノカミ

(3) ↓

ウエジニノカミ スヒジニノカミ

(4) ↓

ツヌグイノカミ イグヒノカミ

(5) ↓

オオトノジノカミ オオトノベノカミ

(6) ↓

オモダルノカミ アヤカシコネノカミ

(7) ↓

 イザナギノカミ ・・・

 イザナミノカミ

     ↓               ↓

アマテラスオオカミ ツキヨミ スサノオノカミ

 (天照大御神)

     ↓ 



2、ホツマによる系図

 古代日本と東北の神々の系図

出雲

アマテル在世

日本の神

日高見の神

オオナムチの動向

神の名

宮殿の場所

アメミオヤ

 

アメノミナカヌシ

クニトコタチ

トホカミエヒタメ

トのサッチ

ハハゴクニ

トヨクンヌ

日高見

タカミムスビ(1)

キノトコタチ

ウヒジニ・スヒジニ

タカミムスビ(2)

ツヌグイ・イクヒニ

タカミムスビ(3

オオトノチ・オオトマエ

タカミムスビ(4)

オモダル・カシコネ

子供なし

タカミムスビ(5)

トヨウケ

イザナギ・イザナミ

滋賀

ソサノオ

アマテル在世

アマテル死亡

アマテル

富士山

伊雑宮

カンミムスビ(6)

 ヤソキネ

オオナムチ(津軽へ)

タカミムスビ(7)

ヨロマロ

オオナムチ

出雲から津軽へ処替え

クシヒコ

オシホミミ

日高見

多賀宮

コモリ

ニニキネ

ウガヤフキ

シマズ



3、ホツマと古事記の違い

①タカミムスビが古事記ではクニトコタチより前、アメノミナカヌシの次にでてきますが、ホツマではクニトコタチの孫となっています。

②タカミムスビが古事記ではすぐに消えてしまいますが、ホツマでは古代東北・日高見の神としてとうじょうします。

③タカミムスビは初代キノトコタチから7代mで登場します。特に五代トヨウケはイザナミノ父として、偉大な神として活躍されております。

③古事記に出てくるカミムスビがホツマには出てきません。そのかわりがトホカミエヒタメでしょうか。


4、古事記(記紀)もカモフラージュの原点か

・東北は田村麻呂のよる蝦夷征伐、天台宗の布教、田村麻呂伝説、歌枕(歌遊び)によって、東北の歴史は完全に消え去った。

・その原点が「古事記」であり、「日本書記」であったと考えれば、すべてのストーリーはなりたちますねエー・・・。

・でもこれは世界の常とう手段、現代だって戦後のマッカーサーのストーリーどおり、乱れに乱れてしまったではありませんか。


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