2011年1月24日月曜日

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(3/5)

尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報に掲載された文です。


八十三(5/10)
要  約
1,歌枕が鹿角へ里帰り

11世紀半ばの歌枕の時代から、二百六十年余の江戸時代寛文年号、ようやくのこと、本来鹿角をまことの故里とする歌枕「錦木」「毛布の細布」が里帰り。

2,「鹿角由来記」

数多くの秀歌と室町文化の粋たる謡曲・狂言の筋に彩られる形で里帰り、「鹿角由来記」。

・そのご次々と発展的変化を遂げ、やがて全国的な注目を浴び、南部領の代名詞的存在となった。

3,疑問(1)

鹿角が歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥の地であることを、古代から江戸時代に入るまでの長い長い間、ほとんどの人々が気づかなかったのはなぜなのか。

・鹿角は余りにも京都から離れた北の僻地なこと。その上鎌倉御家人として入部した鹿角の4人一族は、弱小国の領主、京都との交流など及びもつかなかった。

・またその頃より鹿角は京都に似るとして、京郡(きょうごおり)と呼ばれた。南部藩のなかでも鹿角郡のみ「狭布郡(きょうのこおり)」と表記し、古い歌枕に強いこだわりをみせるのでした。

















































八十四(6/10)
要  約

・室町幕府初期、世阿弥が謡曲「錦木」で、平安時代からの歌枕「錦木」と「毛布の細布」こそ陸奥
狭布の里の習とて、綿々と人々の胸を打つ。

・その後、能・狂言・謡曲は京都を中心に全盛期を迎える。ただこの時代には北奥の鹿角に住む人々には知る由もなかった。

・戦国末期、南部が鹿角全域を領域に加える。

・江戸時代、南部藩の居城を盛岡に定めた城主は、家臣に下付する知行状の鹿角分ほとんどに「京郡きょうのこおり何々村」と認め、鹿角郡こそ古き歌枕の地錦木塚所在の場所として特別のこだわりをみせた。

・このように本来歌枕の地である「狭布の里」「錦木塚」が鹿角郡に特定されることとなった。

・さらには、もっと強固な保証を政治的に与えられた。
寛永10年を初回とし、「錦木塚」が幕府巡見使の立ち寄り場所となった。幕府巡見使は将軍が変わるたびに旗本三人一組で諸国に派遣されたもの。

・巡見使はお茶屋でしばらく休憩ののち、塚の辺りを歩行。出立の際は細布料として一巻につき金百両が下げ渡された。















































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