2014年7月6日日曜日

■逆説・田道将軍の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します


上毛野田道は大敗するが大蛇が仇を撃つ伝説を創作する

 第十六代目の仁徳天皇紀では、公認史においても、上毛野田道(かみつけぬのたじ)将軍は、朝貢しない新羅を攻撃し、潰走させるほどの名将であったが、「蝦夷」には敗北して戦死している。たしかに「蝦夷」は「勇猛で」「一をもって千にあたる」ような手ごわい存在であった。『日本書紀』仁徳紀は田道の敗北は認めざるをえないが、以下のように彼の墓から大蛇が出てきて、報復する物語りに仕立てあげられている。現人神(あらひとがみ)の皇軍が、連戦連敗では格好がつかないのである。
 「(仁徳)五十五年、蝦夷が叛いた。田道を遣わして、討伐させた。そのとき、蝦夷に敗れて、伊峙水門(いしのみと)で死んだ。そのとき、従者がいて、田道が手にまいていた玉を取り収め、その妻に届けた。そこで田道の妻はその玉を抱いて縊死(いし)してしまった。時の人は、これを聞いて泣き悲しんだ。その後、また蝦夷が襲ってきて、人民を略奪した。そのとき田道の墓を掘ると、大蛇がいて、目をいからして墓から出てきて咬(か)んだ。蝦夷は、ことごとく蛇の毒をうけて、多くの者が死んでしまった。ただ、一人か二人が、免れることができただけであった。そこで、時の人は、『田道は死んでしまったけれども、ついに (あた)に報いた。どうして死んだ人に知覚がないといえようか』と言った」
 「日之本東日流古事録 一」では上毛野田道将軍の征夷について、次のように展開されている。具体的な地名や派遣軍の数字も出てくるので『日之本文書』のほうが史実に近いだろう。
 「我が丑寅の国は、金銀銅鉄みな保有している。これが倭国に聞こえが高かったので、丑寅日本国を討って略取するべく征夷を起こしたのは、上毛野田道である。彼は三万の軍人を率いて船で塩釜に上陸し、伊津水門に攻めてきたが、日本将軍安倍安国がこれに応戦し、一日を経ずして討伐した。伊津水門とは、現在の伊豆沼あたりのことである。この時から倭人が秘密に入りそうな要所に関を設けたり、柵を造ったり、飼馬を軍に用いることも、山靼人の戦法で、騎馬軍が大いに活躍した」
 『日之本文書』にあるように、征夷軍は船で塩釜にまで至り、上陸して栗原郡の伊豆沼あたりまで侵攻するが、一日ももたずに討伐軍のほうが「討伐」されてしまう。エミシは散発的なゲリラ戦しか展開できない未開人ではなかった。むしろ荒覇吐国として高度な戦略戦術を有した強力な国家が存在し、彼らは山靼人の騎馬軍戦法を採用していたので、倭国の征夷軍をもってしても、歯が立たない存在であった。ただし、「日之本東日流古事録 一」の文章に出てくる「日本将軍安倍安国」は、もう少し後代の王なので、この部分の記述は誤りであろうと思われる。
 伊峙水門については、上総国夷隅(いすみ)郡か、陸奥国石巻(いしのまき)に比定される場合もある。『東日流外三郡誌』では泉の伊津水門とか、東日流の中山伊津水門(いしのみと)とか書かれているが、宮城県の塩釜から上陸して、伊治の伊津水門で討たれたとするのが妥当ではないか。
 このほかに「蝦夷征伐」に上毛野形名(かみつけぬかたな)、上毛野朝臣小足(かみつけぬのあそんおたり)など上毛野氏がしばしばし登場している。彼らは陸奥国司、陸奥守などとして、北関東(群馬県)を拠点に、大和朝廷による陸奥と越経営の先陣部隊の役割を果たしたのであろう。彼らもまた坂東エミシの末裔であったのか。
                 

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