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2010年1月3日日曜日

01617■権現舞で明けましておめでとうございます





新年あけましておめでとうございます。東北縄文文化研究会を今年もよろしくお願い申し上げます。

ユネスコの無形文化遺産登録となった、大日堂舞楽の「権現舞」を制作し、今年から玄関のお守りになりました。

1、刻字作品:大日堂舞楽の「権現舞」


















2、共同通信ニュースより


秋田県鹿角市で大日堂舞楽 黄金の面をつけ荘厳な舞

 黄金の面をつけた踊り手が剣を手に荘厳に舞う大日堂舞楽が2日、秋田県鹿角市の大日霊貴(おおひるめむち)神社で奉納された。国連教育科学文化機関(ユネスコ)が昨年、無形文化遺産に登録した。
 堂の中央に置かれた約3メートル四方の舞台の上で、黄金のほか黒色の面などを身につけた能衆と呼ばれる踊り手が、笛や太鼓の音色に合わせ、白い息を吐きながら7種類の舞を順番に踊った。




3、権現舞・・読売新聞より


勇壮に舞う獅子頭を見つめる阿部匠さん

舞の意義伝えたい




 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録後初の「大日堂舞楽」が2日、鹿角市八幡平の大日(おおひ)霊貴(るめむち)神社(大日堂)で行われた。後継者不足に直面した小豆沢集落では昨年末、獅子頭をかぶって「権現舞」を奉納する能衆の世襲を廃止。伝統的な屋号以外の者から継承者として、信仰心の厚い大工の阿部匠さん(27)を選んだ。驚異的なスピードで所作を習得し、当日は勇壮な舞で観衆を魅了。「40、50年と舞を受け継ぐ」。匠さんの鋭い目が輝きを増した。
     *
 「カチッ、カチッ」。降りしきる雪の中、笛と太鼓の軽妙なはやしに合わせ、獅子頭の上下の歯が激しくぶつかり、乾いた音が響く。大勢の観衆の前で、匠さんは前後左右に躍動。神と一体化した舞を披露した。
 舞の継承を依頼されてから半月間、毎晩、鏡に映った自分の姿を見ながら猛特訓を重ねてきた。先月20日からは肉類も一切口にせず体を清めた。すべてを終えた匠さんは晴れやかな笑顔で一言、「楽しかった」とつぶやいた。

2009年12月8日火曜日

01619■養老の滝伝説

ダンブリ長者の伝説は岐阜県の「養老の滝伝説」を調べる必要があるようです。
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養老山といえば、養老の滝、孝子伝説が有名です。霊亀3年(717年)、奈良朝元正女帝は、この地を訪れ霊泉で体を洗われると、ご病気が全快しました。帝はこれをお喜びになり、年号を養老と改めました。この話はあまりにも有名です。

「よーろー」の名はもともと養老の滝のまわりにあり、奈良期に養老の当て字がなされたようです。「よーろー」とはゆるやかな坂を示す地名で、全国14県、30ヶ所以上にあります。養老の滝は、江戸時代の美濃の3大名所のひとつでした。そして養老郡養老町の名は明治22年(1889年)の養老村の誕生に由来します。その養老が、次のような孝子伝説とつながりました。

美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、老父を家に残して山へ「まき」を拾いに行き、それを売って米や父親のための酒を買うのが日課でした。老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでした。
 ある日、丞内が山の中で転んで眠ってしまったところ、夢の中で酒の匂いがしました。目がさめると、香り高い酒が湧き出る泉がありました。丞内は喜んで、老父にその酒を与えました。すると老父の目が見えるようになるではありませんか。酒の泉は、不自由な体を直すということで有名になりました。それが帝の耳に達し、親孝行の丞内は、美濃の守に任ぜられました。


【参考】岐阜県小中学校長会(1970):美濃と飛騨のむかし話、岐阜県校長会館
服部真六・増田春風(2000):岐阜県おもしろ地名考、岐阜県地名文化研究会
岐阜地理学会(1978):岐阜県地理地名事典、地人書房
岐阜歴史地理学研究会(1981):各駅停車全国歴史散歩岐阜県、河出書房新社

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もともっと詳しい「養老伝説」はこちら


         「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」
  男の名前は後代になって「孝子」とされるようになります。養老伝説の初見は、続日本紀・養老元年十一月十七日条の「養老改元の詔」とされていますが、ここでは、孝子の話がない形で記録されています。また、ここではお酒が湧いているわけではなく、醴泉-美泉であり、若返る効果、薬効のある水が湧いていたという記録となっています。

癸丑、天皇、軒に臨みて、詔して曰はく、
「朕今年九月以て、美濃国不破行宮に至る。留連すること数日なり。
因て当耆郡多度山の美泉を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し。
亦、痛き処を洗ひしに、除き癒えずということ無し。朕が躬に在りては、
甚だその験有りき。また、就きて飲み治る者、或は白髪黒に反り、
或は頽髪更に生ひ、或は闇き目明らかなるが如し、自餘の痼疾、咸く皆平癒せり。
昔聞かく、
「後漢の光武の時に、醴泉出でたり。これを飲みし者は、痼疾皆癒えたり」
ときく。符瑞書に曰く、
「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり」
といふ。
寔に惟みるに、美泉は即大瑞に合へり。朕、庸虚なりと雖も、
何ぞ天のたまひものに違はむ。
天下に大赦して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし」とのたまふ。

霊亀三年(養老元年)九月二十日、美濃国に行幸していた元正天皇は当耆郡(たきぐん)におでかけになり多度山の美泉を御覧になった。 同年十一月十七日天皇は詔して次のようにおっしゃった。
私は今年の九月美濃国不破の行宮に至り、数日間逗留した。
そこで当耆郡多度山の美泉を見に行き、その水で手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようであった。また痛いところを洗ったら、その痛みが取れて治ってしまった。私の体でさえこれほどの効き目があった。
また聞くところによると、この泉の水を飲んだり浴びたりする者の、あるものは禿げた頭に髪が生じ、またあるものは見えない目が見えるようになった。その他の長く治らない病気もすべて治ったという。
昔、後漢の光武帝の時に醴泉が湧き出して、これを飲んだ者は長く治らなかった病気がすべて治ったと聞いている。符瑞書にも「醴泉は美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なり。」とある。考えてみれば、美泉は大瑞にかなっている。私は平凡で才能がないが、どうして大瑞という天の賜物に背けようか。天下に大赦して、霊亀三年を養老元年とせよ、と。

この醴泉-美泉の最初の記録は、日本書紀・持統天皇七年十一月、八年三月の条にあり、そこでは、近江国益須郡で多くの病人を治した水が沸いたとしています。
同様の記録は風土記中に多く見られ、
出雲国風土記・楯縫郡佐香郡、
播磨国風土記・賀古郡酒屋村、
同揖保郡酒井野、
同揖保郡萩原里酒田、
同加毛郡下鴨里酒屋谷、
豊後国風土記・速見郡酒水条、
肥前国風土記・基肄郡酒殿泉条、
等が記録されています。

養老伝説が"酒"が湧くとなったのは、これらの美泉が、酒の醸造に使われ、実際、続日本紀・養老元年十一月十七日条の記事の後に、この水で酒を醸した、という記録が続日本紀・養老元年十二月条の記事として記録されています。

では、実際に酒が湧いた、と言う記録はないのか?と言うとあるんです。

これは「養老伝説」とは別に「酒泉伝説」とされ、播磨国風土記・印南郡含藝(かむき)の里、酒山の起源説話となっています。

又、酒山あり。大帶日子の天皇の御世、酒の泉湧き出でき。 故、酒山といふ。百姓飲めば、即ち酔ひて相戦ひ相亂(みだ)る。 故、埋め塞がしめき。後、庚午の年、人ありて掘り出だしき。 今に猶酒の気あり。

大帶日子(景行)天皇の御世に酒の泉が湧き出て、酒山と呼ばれた。人々がその酒を飲み、酔って相乱したため、埋め塞がせた。庚午の年(天智天皇九年=670年)にある人が掘り出した。今に至っても酒の気がある。

実際に"酒"が湧いた、という記録はこれだけですが、他の美泉も後代になると酒が湧いたという事になっていきます。

「養老伝説」ものち、孝子の要素が加わり、「養老の滝伝説」となります。
文献上の初出は、1252年成立の「十訓抄 中巻 巻六 第十八話。」に、また十訓抄から補入されたと思われる同様の話が「古今著聞集」に記録されています。

生命の水・若返りの水より、お酒が湧いた方がめでたいのかもしれません。

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こちらはダンブリ長者の「お酒」の部分です


二人は、雪解けの春を待って、川をさかのぼり、日暮れてたどり着いた平間田(ひらまだ)というところに住みつきました。ここでも田畑を作って、一生懸命働き、やがて三年目の夏になりましたが、暮らしはちっとも楽になりません。

  その日も、怠けず朝から汗みどろで野良作業。昼ごはんのあと、二人は疲れていつのまにか眠ってしまいましたが、不思議な夢を見ます。目ん玉がものすごくでっかく、尾っぽの長い大きなダンブリ(トンボ)が飛んで来て、長い尾っぽを振りながら二人の口に甘い香りの酒を注いでくれたのです。

目をさました二人は、口の中に酒の香りが残っているのを知り、また同じ夢を見たと驚きあいますが、そのとき尾っぽの長いダンブリがスイスイと夕焼け空を飛んできました。夢に出てきたのと同じダンブリです。二人が追いかけて行くと、ダンブリは大きな松が生えた岩かげに入って行きました。そこには、いい香りのする水が湧き出している泉があり、すくって飲んでみると、なんとその水は上等な酒だったのです。

  この酒は、味がいいだけでなく、病気も直るというので大評判になり、二人はこれを売って、たちまち大金持ちの長者になりました。二人にはまだ子どもがいなかったので、家の中に大きな大日如来さまをまつり、子どもが授かるようお願いし、やがてその願いが叶えられたのか、可愛い女の子が生まれます。女の子は大変きれいな娘に育ったので、その評判が都の帝(みかど)の耳にまで届き、召し出されて吉祥姫(きっしょうひめ)という名前をもらい、大層出世しました。
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(まとめ)

・滝ではないのですね。「香り高い水が湧き出ている泉」は共通です。
・時代も霊亀3年(713年)似た頃です。

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2009年10月2日金曜日

01616■大日堂舞楽はなぜ1月2日に行われる



大日堂舞楽は1月2日に行われます。この頃に行われる御祭はなかなかありません。なぜなのでしょうか。




だんぶり長者が若いころ、あまりの貧乏に溜息をついていた。夢枕に老翁が現れ、「我は大日神
である、川上に行って広井所に住むがよい」
夏の暑い日、畑で働いていた男がうとうとしていると、だんぶり(トンボのこと)が
飛んできて唇にしっぽをつけ、二回も三回もくり返した。目をさました若者はうまい酒
 を飲んだ夢を見たと言い、だんぶりの飛んでいった方へ行ってみると香りの良い泉がこ
んこんと湧いていた。飲んでみると本当にうまい酒で、飲んだ人は病気が直り、長生き
できた。夫婦は国一番の長者となって大きな屋敷を建て、集まってきた人たちが食べる
米を朝晩とぐと汁が川下まで白く流れ、その川は米白川(=米代川)と呼ばれるようになったという。
そのうち長者夫婦は亡くなり、宝の泉もただの水となって大勢いた人々もばらばらになってしまった。
吉祥姫はそれを悲しんで天皇に願い、長者が尊んでいた大日神の社を古里に建てる許しを得た
。そこで継体天皇十七年の年に小豆沢に大日堂が建立された。
大日堂の祭堂ザイドが正月二日に行われるのは、長者が夢のお告げを受けた日にちなむと
 されている。
2、大日霊貴から推測
 大日霊貴(オオヒルメムチ)=大日さまとは「天照大神(アマテル神)」のことですね。
 アマテル神は富士山で元旦の初日とともにお生まれになりました。
 日本人は正月の元旦をことのほか尊びお祝いをしますが、それは単なる年の始めというだけでなく、
 アマテル神のお誕生日なのだからなのでしょう。
 だから国民全員が神社に参拝するのではないでしょうか。
大日堂舞楽のみなさんも1月2日だけではないのですね
 大日堂舞楽が奉納されるのは養老礼際の一月二日だが、能衆たちにとってはその数週間前から準備が始まる。笛、太鼓、舞の稽古とともに大事なのが心身を清める行である。▽家の周りにしめ縄をはって悪魔が入るのを防ぐ▽他人と火を分け合わなく自炊する▽妻子と床を別にして朝夕に神を拝む▽不幸や出産があった家に行かない▽毎朝沐浴して身を清めるなどが義務づけられている。
谷内は「かづの四十二館」のひとつである谷内館があった由緒ある地名。十六世紀半ばすぎの永禄年間には谷内観音堂が焼けたという記録も残っている。その後天正二年に再建されたのが現在の「天照皇御祖神社」だとされる。「神明社」とも呼ばれるこの神社には、五大尊舞の面を保存する収納庫も供えられている。

 谷内地区の舞楽の準備は毎年十二月十六日に始まる。この日、神社に舞手と笛太鼓の受けも持ちや役員が集まり正月の舞楽奉納について協議する。本番にそなえてまずは顔合わせといったところだ。これを「お籠もり」と称する。この日から能衆の家の出入り口にはしめ縄がはられ「行」にはいる。

 そして、年の瀬が迫った二十四日夜、能衆たちが再び神明社に集合した。「御神体」を迎える儀式のためだ。舞楽に使う面などを「御神体」という。能衆の代表三人が、参道の鳥居のわきにある収蔵庫の前で笛を吹き、中の御神体を取り出す。御神体を神明社に移して礼拝する。

 ほぼ一年ぶりの御神体との対面である。六人の舞手は「神様」になる日が近付いていることを実感する。
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(まとめ)
・夢のお告げを祝って千三百年もお祝いが続くのでしょうか。こんなに精進潔斎してまでも!!
・不思議なことに、大日堂=大日霊貴=アマテル神のことを、もっと深く考えればどうでしょう。
・「我は大日神なるぞ!」と言った翁で、お酒が出たからのお祝いだけでは、どうですか!寂しくはないでしょうか。
 こんなにも精進潔斎して。だんぶり長者の末裔が今もいて、しかも繁盛していたら少しは考えが違いますが。
・不思議にもアマテル神(天照大神)の誕生祝いと考えたら納得できそうですが。
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2009年10月1日木曜日

01615■継体天皇の后妃一覧・・・吉祥姫は?



継体天皇の妃を調べました。

1、吉祥姫は継体天皇の妃となった
(鹿角WIKI)

さて二人はどんな望みもかなえられる身の上になったが、四十すぎても子供ができな かった。

そこで大日神に祈願すると女の子が一人生まれ、かしこくかわいらしく育ち、 秀子とも桂子カツラコともよばれた。夫婦が長者の号を拝領するため桂子を連れて都へのぼ った時、娘は天子の目に止まって宮中へつかえることになり、吉祥姫キッショウヒメと名を変え て後には后となった。 
 
そのうち長者夫婦は亡くなり、宝の泉もただの水となって大勢いた人々もばらばらに なってしまった。吉祥姫はそれを悲しんで天皇に願い、長者が尊んでいた大日神の社を 古里に建てる許しを得た。そこで継体天皇十七年の年に小豆沢に大日堂が建立された。 大日堂の祭堂ザイドが正月二日に行われるのは、長者が夢のお告げを受けた日にちなむと されている。


2、継体天皇の妃一覧


皇后:手白香皇女【たしらか】
<手白香命・手白香郎女(古事記)>
父:仁賢天皇
母:春日大娘皇女(雄略天皇の女)
[夫との血縁関係]:再々従兄弟(8親等)・・・母春日大娘の父、雄略帝の母、忍坂大中姫の兄、大郎子の曾孫

    継体元年..皇后となる(3月5日) 宣化四年..皇太后となる(12月5日)

  • 所生の皇子女
    天国排開広庭尊(欽明天皇
  • ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
妃:尾張 目子媛【めこひめ】
<色部、目子郎女(古事記)>
父:尾張連 草香
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    勾大兄(安閑天皇), 檜隈高田(宣化天皇
*古事記では、尾張連等の祖先、凡連の妹とある。
なお、書紀は既に没していても天皇の即位後に妃に立てられる書き方をするので、妃になった時に生存していたかどうかは分かりません。
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妃:三尾君 稚子媛【わかこひめ】
<若比売(古事記)>
(兄)三尾角折君
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    大郎皇子,出雲皇女
*古事記では、尾張君等の祖先とある。
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妃:広媛【ひろひめ】
<黒比売(古事記)>
父:坂田大跨王
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    神前皇女,茨田皇女,馬来田皇女
*古事記では神前郎女・茨田郎女・白坂活日子郎女・小野郎女を生むとあり、古事記に記載のない茨田関媛の子女と混同が見られます。
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妃:麻績娘子【おみのいらつこ】
<麻組郎女(古事記)>
父:息長真手王
(姉妹)敏達天皇后 広姫

    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    荳角皇女(伊勢斎宮)
  • ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
妃:茨田 関媛【せきひめ】
父:茨田連 小望
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    茨田大娘皇女,白坂活日姫皇女, 小野稚郎皇女
*書紀の注に、或いは茨田連小望の妹とある。古事記に記載なし。
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妃:三尾君 倭媛【やまとひめ】
<倭比売(古事記)>
父:三尾君 堅"木威"
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    大娘子皇女,椀子皇子,耳皇子,赤姫皇女
*古事記では、三尾君加多夫の妹とある。
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妃:和珥 はえひめ【はえひめ】
<阿倍之波延比売>
父:和珥臣 河内
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    稚綾姫皇女,円娘皇女,厚皇子
*古事記では、阿倍之波延比売。
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妃:広媛【ひろひめ】
父:根王
    継体元年..継体天皇の妃に冊立される

  • 所生の皇子女
    兎皇子,中皇子
*所生の皇子女とともに古事記に記載なし。




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 (まとめ)
・残念ながら継体天皇妃の一覧には「吉祥姫」は載っていませんでした。




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01614■五の宮の父・継体天皇とは



大日堂は吉祥姫の父である継体天皇が出てきます。継体天皇とはどんなお方でしょうか。


(貼り付け)

1、継体天皇をめぐる謎は、まとめれば以下のように集約される。  
1).出自。すなわちこのHPの主題である、継体天皇はどこからきたのか? 
(2).20年の間どうして大和へ入らなかった、あるいは入れなかったのか?
(3).継体天皇はほんとに新王朝の創始者か?即ち、現皇室の祖先なのか。

2、(1).から見ていくことにしよう。
現在継体天皇の出自については大きく3つの意見がある。 
 
①.「古事記」を信用し、近江の国の豪族だったという説。
②.「書紀」の記述通り越前から招聘されて皇位に付いたとする説。
 それから、これは学会では賛同者は少ないが、
③.新羅から渡来した王族の末裔であるという説。  

3番目の説については出典がはっきりしない。何時の頃からこういう説が出現したのだろう。幾つかの「読み物」 風歴史本を読むとこの説が紹介されているが、何の本にそう書いてあるのか説明がない。おそらく後世になって、 皇族の出自も朝鮮半島であると強調したい歴史家によって唱えられた説だろうと思われる。

勿論、時代を遡って縄文末期、あるいは弥生前期までたどればその可能性は大いにあるが、それは日本人全てにあてはまる。 また、それまでの天皇家とは全く関係ない豪族が、地方豪族の力を結集し力ずくで王権を奪い、さもそれまでの 天皇家の系譜であるかのように「記紀」を捏造した、という説も現れたが、これまた出典がない。あいまいな 「記紀」の記述から想像はできるが、やはり記録されている内容を分析し大筋ではそれに沿うのが学問としては 王道だろうと思う。

 さてそうなると、近江か、越前かという事になる。だが、現在の史学会ではこの問いに対する結論は出ていない。 歴史学や考古学以外の学者もこの問題に取り組んだりしているが、前述した「蘇我氏」との関係を捉えて「越前」 としたり、「近江」の安曇川周辺の豪族だった息長(おきなが)氏との関係で「近江」を唱えたりと入り乱れて いる。私の意見としては、堺女子短期大学教授だった塚口義信氏が唱えていた考え方に近い。

3、(2).(3).の問いに対する答えも含めて以下に要約する。  
第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に生まれ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)

また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であり、おそらく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思われる。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国への遷都、馬飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測できる。)
息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神功皇后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われるものが多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて5代後の舒明(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。

さて、琵琶湖・淀川水系に力を持っていた豪族に支えられ継体は天皇となるが、当然奈良にいたそれまでの王族につながるもの達は面白くない。王族とは言え直系でもない「遠い王族」(応神の5世。あるいは5世の子)がいきなり天皇に即位するのである。「それなら俺だってなれる」と考えた者達がいたとしても不思議ではない。むしろ古代にあってはその方が自然である。
おそらく、王権を巡っての争いが20年間続いたのではないか。危機に瀕するたび、あるいは戦いにおける防衛上の理由で、継体は樟葉、筒城、弟国と遷都を繰り返したと考えられる。大和盆地の勢力はそれほどに強かったのであろう。しかしやがてその大和勢力も、越前・近江・淀川水系連合軍である継体軍門に降り、継体は即位から20年後に、大和の磐余の玉穂宮へ入るのである。

継体が仁賢天皇(24代。武烈天皇の父)の娘、手白香(たしらか)皇女(武烈の姉)を妃に迎えるのも、自らは王族の血統から遠いためあえて皇統の血を濃くしようとしたとも考えられるし、あるいは、大和勢は仁賢・武烈の血を引く者こそ正当な王位継承者であるという態度を崩さなかった為、手白香皇女の生んだ欽明天皇(第4皇子)がやっと即位できるような年齢になった頃、やっと大和入りを許されたとも解釈できる。

継体天皇は、我が国で始めて生前に譲位した天皇としても知られているが、第一皇子の安閑(あんかん)天皇に譲位した当日に崩御したとされているのはどうも作為臭い。安閑天皇の次は第2皇子の宣化(せんか)天皇が即位するが、この2人の天皇は即位していないという説もある。継体の次はいきなり第29代欽明天皇だというのだ。継体を擁立した大伴氏と、欽明天皇を推す蘇我氏の対立がからんで、継体以後の王位継承も混沌としていて霧の中である。

安閑、宣化天皇は在位期間が4年である。継体天皇も大和入りしてからは4年で崩御するが、大和入りの直後北九州で有名な「磐井の反乱」がおきる。この事件の詳細についてはまた別の機会に譲りたいが、この反乱も継体の大和入りに対する反抗と見れなくもない。いずれにしても、継体の即位・大和入りを巡っての期間は我が国の王権を巡る大混乱の時期だったのは確かである。


4、継体天皇の妃


書紀に9人、古事記に7人の后
   政略結婚で勢力拡大
継体は日本書紀では9人、古事記では7人の后(きさき)を迎えたと記されています。門脇禎二氏が「とりも直さず地域勢力との政略結婚を物語っている」というように、姻族関係を結ぶことでその背後にある勢力を利用したと考えられます。
日本書紀と古事記で后の記載の順番が違います。書紀は妻の格付けの順、古事記は結婚順という見方があります。その出身地については越前から近江、美濃、尾張と水陸交通の要衝の地域が多いのが特徴です。

中でも安閑、宣化の両天皇の母となる尾張氏の目子媛(めのこひめ)が重要視されています。名古屋市に六世紀初頭に東日本最大の前方後円墳といわれる断夫山古墳があります。これを築いたのが尾張氏で、越前を出た後、尾張を東国経営の拠点にしたと考えられれます。ここをヤマトと東国を結ぶ交通の拠点としたはずです。

また、日本書紀の三番目と七番目に出てくる三尾角折(みおのつのおり)君と三尾君については本拠が福井、滋賀両説があります。滋賀県には三尾君の始祖をまつった水尾(みお)神社や三尾里などミオと発音する地域があります。安曇川町から高島町にかけての地域が出身地で、金銅製の冠や装身具などの副葬品が出土した鴨稲荷山古墳に深く関連していると滋賀説は主張します。

一方、福井説は金津町に御簾尾(みすのお)のという地がありここはもとは三尾と呼ばれていたものが変化したもの。『延喜式』に出てくる三尾駅があったところだと主張します。ここに越前の前方後円墳の約四分の一が集中している横山古墳群があり、これは三尾氏の墳墓だとします、

さらに福井市の京福電鉄中角駅に近い福井市角折町や三尾野町と結びつける研究者もいます。
最終的に継体を継ぐ欽明天皇を産む手白髪命については「ヤマトの天皇の娘、ヤマトに入るときの最終的な姻族関係」と考えられています。
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2009年9月30日水曜日

01613■大日霊貴はアマテル神で男神




大日霊貴はアマテル神で男神
 アマテラス神(天照大神)は幼名を「ワカヒト」「ウヒルキ」と、また別名「大日霊貴(オオヒルメムチ)」とも呼ばれます。



1、アマテル神の誕生
イザナキとイザナミの間に、めでたく元旦の初日とともにご誕生したのが男神アマテル神でした。
泣く御子の  声聞き取とれば

「あな嬉し」 これより諸が
名を請ひて  叔母より問へば
「ウヒルキ」と 自ら答う
御子の声   聞き切るときは
幼名の    ウは大なありと
ヒは日の輪  ルは日の内霊
キは杵ぞ   故ウヒルキの
尊なり    は女男の
男の君ぞ   
 聡明なシラヤマヒメはアマテル神の泣き声をお聞きになると、赤ん坊のアマテル神がご自分
で「生まれてきてとても嬉しい」とおっしゃていることがわかったのです。それを一同に告げ
ると、みなアマテル神のお名前をご自身にたずねてくれと頼みます。シラヤマヒメがお名前を
たずねると、ふたたびアマテル神は「ウヒルキ」とご自分でご自分の名前をおっしゃったとい
うのです。
・・・・おもしろいですね、だけど何か、作り話と思えない感動的なものがあります。

2、ウヒルキ
 「ホツマツタエ」がすごいのは、その「ウヒルキ」に対する言霊的解釈が付いていることです。
「ウ」は大いなること
「ヒ」は太陽のこと
「ル」は日の中の霊的なエネルギー
「キ」は男神を示す杵の略である
■アマテル神は太陽そのものではなく、太陽の霊気をもって生れ、太陽の巨大なエネルギーをお持ちの神なのです。そして地上にお暮しになった、国民の心を照らす人体の神ということになります。

3、大日霊貴(オオヒルメムチ)について
 大日貴は本来は大日貴と霊が靈となるのが本当です。
 ・「日本書記」にはいくつもの写本がある。「大日靈貴」という漢字で問題なのは「」か「」かの違いがあるのです。「孁」が女神論の根拠の一つです。
日本書記写本32種中「大日孁貴」が24種、「大日霊貴」が8種ある。
・「日本古典文学体系」には、「孁」という字は、「巫女」の意味で創作したのだろうといっています。何かしら作為的なものがあったと考えられます。
 ・もし、「ウヒルキ」というアマテル神の素晴らしい名前が先にあって、後の時代にその呼び名に漢字をあてたとしたら、「ウヒルキ」が「大日靈貴(うひるき)」となったと考えらえます。

4、アマテル神男神論
 アマテル神女神論は
  「ウヒルキ」(男神)→→大日霊貴→→大日孁貴→→オオヒルメノムチ(女神)
「ウヒルキ」という男神名があり、後の時代「大日靈貴」という漢字を当て、さらに後代、伝
承があいまいになったときに、誰かが女神を強調しようとして「大日孁貴」に改めてしまっ
た。そして「オオヒルメムチ」と読ませたとしたら。とても自然な推論だと思うのですが。
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(まとめ)
・男神のアマテル神が女神に変わった経緯が推論ですが、よくわかりますね。
・大日堂と大日霊貴神社の両方の名前があるのはこのことと関係はないのでしょうか。

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01612■秘められた大日霊貴神社



鹿角市の歴史は楽しいですね。今日は大日堂舞楽世界文化遺産に決まる日です。

秘められた大日霊貴神社

レイラインハンテング」さんからです
さすがに鋭い突っ込みですね、参考にさせていただきます。


 









八幡平を秋田県側に抜け、大湯へ向かって北上していくと、途中に大日霊貴(おおひるめむち)神社がある。地元では「大日さん」と親しまれているこの神社は、だんぶり長者の善行を後世に伝えようと、今から1500年前、継体天皇の時代に創建されたと伝えられている。

 昔々、小豆沢というところに住んでいた貧しい夫婦が、畑仕事を一休みして昼寝をしていると、一匹のトンボ(だんぶり)が飛んできて、唇の上にとまった。その尻尾には甘い酒がついていて、その美味しさに思わず目を覚ました二人は、飛び立っただんぶりを追いかけた。すると、そのだんぶりが飛んでいった方向に泉があった。その泉の水を飲んでみると、先ほど一滴だけ味わったこの世のものとは思えない酒だった。だんぶりに導かれて酒の泉をみつけた二人は、その酒を汲んで商いをして、おおいに潤った。それが、「だんぶり長者」の話だ。

 それは、大地がもたらしてくれる資源を見つけ、富を成したことをそのままストレートに伝えたもので、この周辺に何か貴重な地下資源が埋蔵されていることを暗示している話のようにも思える。

















この神社は、はじめ、「大日示現社」と名づけられたが、大日つまり天照大神がこの地に示現したという意味だ。

その後、いったん荒廃を見るが、200年後の元正天皇の時代に再建される。このとき、天皇はわざわざ都から東大寺大仏建立に貢献した僧、行基を下向させた。そのとき随行した工匠・音楽師等が、里人に舞楽を伝授し、それが大日堂舞楽として現代まで伝わっている。

 都から見ればまさに僻遠の地に、当時随一の僧侶を派遣して建立させたということは、それだけ、この神社が重要であったことを物語っている

仏と神を同一の概念とみなす本地垂迹説を取り、真言宗と関係の深い両部神道。行基によって建立法要が営まれた大日霊貴神社は、その両部神道生粋の神社だ。



 真言宗といえば、その改組である空海は、陰陽道や中国固有の錬金術である「練丹術」に通じていたことでも知られる。高野山のある紀伊半島や四国の山奥に練丹術に必要な「丹=水銀」を探して歩いた空海、いっぽう、地下資源を掘り当てたことを連想させる「だんぶり長者」、この符合が意味するものは、いったい何だろう。

















 この神社には陰陽道と関係の深い両部神道ならではの「形代」の儀式が伝わっている。人の形に切り抜いた紙に自分の生年月日と氏名を書き、息を三回吹きかける。そして本殿の手前にある茅の輪を潜って形代を奉納するというものだ。この形を見て、陰陽師安倍晴明が式神を使うのに、同じような形代を用いていることを連想する人も多いだろう。

 ここでは、茅の輪潜りの作法が少し変わっている。茅を編んで輪にした茅の輪を潜って魔除けとするのは、年越しの祓いや夏越祓で良く見られるが、ほとんどは、一度この輪の中を潜るだけだ。ところが、ここでは、左足から潜り左回りに戻り、今度は右足から潜り右回り、さらにもう一度左足から潜って形代を納める形をとる。古代から続くシャーマニズムや陰陽道では、自分に取りつこうとする「魔」を巻くために、北斗七星の形に歩む「兎歩」や算用数字の八を横にした「無限」を表す形に歩む作法がある。兎歩は天体でもっとも力の強い北斗七星と北極星の力を体現する。「無限」の形を描く歩き方は、途切れのないメビウスの輪のようなその形の中に、「魔」を永遠に閉じ込めようとするものだ。

 だが、この大日霊貴神社にまつわる興味深い事実はまだ尽きない。じつは、この神社は、今回の取材のキーポイントである大湯ストーンサークルから、正確に南に位置しているのだ。
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(まとめ)
・鋭いお方ですね。
・「大日示現社」は初めてです・・・これは意味が深そうです。
 (たとえば「ホツマ」では、アマテル神が16歳になられたとき、トヨウケ神が東北にお連れしたこと)
・都から見れば僻地のこの地に大日示現社(大日霊貴神社)があること。
・そして、当時随一の僧侶を派遣したこと。
・大日霊貴神社の名を冠する神社は日本でここだけです(私が調べたのでは)
・だから鹿角市は不思議なところなのです。 

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2009年9月29日火曜日

01618■五の宮嶽草刈り場「オシキ」

鹿角市に7年間住んでいました。ここを通るたびに不思議なものがあると思っていました。南北のライン上のものかとも調べましたが、今分かりました。




大きな地図で見る


地図では北林山頂の少し下です。折敷山とも言うようです。

「オシキ」
 大里部落の裏山の中腹に、官地(国有林)として部落で管理している草地が四反歩あ り、
これを部落の人達はオシキと呼んでいる。  
 このオシキは昔、五ノ宮嶽に登ったと伝えられる五ノ宮皇子と関連するものであると 伝えられる。
第二十六代継体天皇の第五皇子菟皇子(御母上はだんぶり長者の一人娘秀 子姫、後吉祥姫)が遠く都を
追われ、大里から五ノ宮嶽に登ろうとした際、途中で馬が 倒れてしまい、一人で登ったと云う伝説があり、その馬の倒れた所を「オバフトコ」と 云い、今は湿地になり
小さな窪みになっている。  
 このオバフトコなる湿地にて、放牧した馬が草を食べたり、水を飲んだり、またこの 地に入っただけ
で悪魔が祟ったようにその馬が死んだと云われる。  このオバフトコで死んだ馬のために、オバフトコから約三百米離れ、馬の入れない可 成りの急斜地を、大里部落では毎年八月七日
の早朝に草刈りし、草はそのまま刈り捨て おき、馬に手向けると云う行事が行われている。 
 
 また、このオシキには部落民誰でも草刈りに入れるものではなく、昔から決められた 家柄の人達だけで
ある。その他の人達は、オシキまでの道路端などの草刈りや清掃をし たと云う。  特殊なこととして、
この草地オシキに草刈りで入る場合、「ホー」「ホー」と全員が 叫びながら一斉に入ると云う風習がある。
これはホーホーと叫ぶことによって、馬の鳴 き声が聞こえないようにしているためであり、聞こえる人に
は、その年災難があるかも 知れないと云う伝えがある。   
 
 また、向かいに位置するの久保田や尾去沢の農家の人達は、この草地の草刈りの跡を 見て、その年の豊作を占い、赤又は茶色に乾燥した時は豊作、
黒く乾燥した時は不作と 占い眺めていたと云う。  
 また、このオシキに行く途中御坂オサカの所に楢の木が二本生えており、村人がこれより 奥山に入る場合、
山での仕事の安全を祈願したり無事を祈り、木枝で岐マッカを作り、この 楢の木に懸けて山に入ったと云い、
この所を鍵懸け場と云う。無事帰った時はこの鍵を 取って帰宅したと云う。今から二十年位前の山火事で
楢の木は焼けて倒れてしまった。
[オシキの現地付近] [地図上の位置(オシキの現地付近の山「北林」)→]
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(鹿角WIKIより)
折敷山の、四角(よすま)刈りとも云う。
  • オシキ刈り
八幡平大里で旧暦7月7日(新暦8月7日)、オシキ刈りが行われる。 四角刈り(よすまがり)とも云い、この日は夜の明けない前に折敷山(おしきやま)へ登り、 草刈をして、その後に山麓の馬頭さん駒形神社)集まる。 大里の人たちは草刈に参加することを普請(ふしん)すると云い、この作業の後は村に帰って一日仕事を休み、楽しむことにしている。
この由来ほ、だんぶり長者伝説の中で吉祥姫の子の五ノ宮皇子が、 五ノ宮獄に登る途中にこの地で乗馬が死んだので駒形神社に祀った。 それで盆の七日目に草を刈って馬の飼料として奉納し、霊を慰めるのだとされている。 この日刈った草の乾いた色の具合によって、その年の豊凶を占うところがある。八幡平の夏井や尾去沢の尾去、 北秋田郡の扇田・大館などの一部の地域で、これらの地区では刈り取られた草の色が赤茶に乾くとその年は豊作に、 黒ずんだ色に乾いた年は凶作になると言い伝えている。
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