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2012年12月13日木曜日

◆石巻の田道将軍碑

宮城県の田道将軍碑

 享和元年(1801)に禅昌寺境内から発掘された古碑で、蝦夷征伐の折、伊寺水門で戦死した将軍上毛野田道に関するものですが、江戸時代後期、塩竃神社の神官だった藤塚式部による作とも言われており、現在は禅昌寺に保管されています。『日本書紀』仁徳天皇55年(367)の条に『後に賊兵が田道将軍の墓をあばいたところ、大蛇が現われ賊兵を噛み殺した』と記されています。なお、永巖寺境内にレプリカの碑がありますのでこちらを見学するのもよいでしょう






2011年11月14日月曜日

■田道将軍と蝦夷

阿倍比羅夫より早い年代に田道将軍が鹿角で蝦夷と戦



1、田道将軍が鹿角に
仁徳天皇(約千六百年前:331年)鹿角に住んでいた人達は、蝦夷と云われていて、天皇の命令を聞かない人 達が住んでいたのです。
それで、仁徳天皇は都でも一番戦の上手な、田道将軍と云う偉い大将を「蝦夷征伐に行って来い」と言って都から攻めて来らせたものでした。  
田道将軍は、米代川を遡って古真木の処の石野と云う処に上陸して、鹿 角に攻めて来ました
・ その時、鹿角に居た蝦夷達は、丸館の近くの森に集まって、田道将軍の兵隊を 迎えた



2、田道将軍が鹿角で死亡
田道将軍は石野から段々軍森に近付いて来たが、それで蝦夷の兵隊達は将軍の兵隊達 に負けられないと思って、寺坂カの下の方の鹿角沢の処で待ち構えていて、 両方の兵隊の戦が始まりました。
初めは、戦の上手な田道将軍の方が勝っていましたが、けれども、段々田道将軍の方 は人数が少なかったために、蝦夷の兵隊達に負けそうになりました。そのうちに、田道 将軍は蝦夷の射った毒矢に当たって死んでしまいました。



























田道将軍の碑

3、秋田 鹿角市 猿賀神社
将軍は死ぬとき、 「俺は死んでも亡骸は必ず大蛇になって、毒を吐ハいて蝦夷のことを亡ぼしてやる 」と言って死んで行きました。
それから、田道将軍の亡骸を埋めた処に墓石を置いて神社を建てて、その神社を猿賀さまと呼ぶようになったのです




る          悪戯な若者が猿賀さまの墓石を掘って見たら、本当に大蛇が出て、大蛇 に噛まれ          た若者は死んだと云います。















4、津軽の猿賀神社
青森県南津軽郡尾上町猿賀の猿賀神社の社伝によれば
その2百年後に洪水があった時、白馬に跨った田道が流木を舟にして当地に流れ着いたとのこと
さらに2百余年後に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時に、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により大同2年(807)奥州猿賀深砂(しんしゃ)(神蛇)大権現として勧請した。














石巻にも



2009年12月1日火曜日

01017■鹿角民話・佐多六とシロ









鹿角の民話の「佐多六とシロ」が気になりまして調べました。先日秋田さきがけ新報に掲載された草木小学校の学校新聞に「佐多六が撃った“イノシシ”」とありましたのが気になったのです。

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【佐多六とシロ】(美の国あきたネットより)
昔、草木(くさぎ:現在の鹿角市十和田草木)に佐多六(さたろく)と言う「マタギ」(猟師)がいて、彼は、日本中どこの土地でも猟ができる巻物(免状)を持っていた。これは、佐多六の先祖が源頼朝公の富士の巻狩りで手柄をたてたことから、南部の殿様からもらった巻物であり、全国での狩猟が子孫代々まで許される天下御免のマタギの免状であった。
佐多六は、“シロ”という名の、とても賢くて主人思いの秋田犬を猟犬として飼っていた。
ある年の2月、冬の日としては珍しく晴れた日のことであった。佐多六はシロを連れて猟に出かけた。四角岳(現在、秋田県と岩手県の県境の山)のふもとまで行ったときに、岩の上に大きなカモシカを発見した。佐多六がカモシカを狙って鉄砲の引き金を引くと、カモシカはその瞬間棒立ちになったが、雪のうえに点々と血を流しながら、すぐに逃げて行った。佐多六とシロは血の後をどこまでも追いかけていき、気がつくと、いつの間にか鹿角と青森県三戸の境の来満峠まで来てしまっていた。
佐多六は、カモシカの血の跡が峠の洞穴で消えていたため、鉄砲を洞穴に向けて一発撃った。そのとき、三戸の方から来た5人の猟師達が「そのカモシカは俺たちが先に撃ったのだ。俺たちのものだ。」と強く迫ってきて、「お前はどこの者だ。そこの境小屋が見えないのか。お前もマタギなら勝手に他の領内で猟はできないことは知っているだろう。」と佐多六を捕まえようと詰め寄ってきた。佐多六は、しまったと思い鉄砲を振り回して逃げようとし、シロも主人を助けようと5人に向かって吠えたが、相手は5人であったためかなうはずはなかった。
佐多六はとうとう捕まえられて、無理やり三戸城に引っ張られていった。シロは、その後をこっそりとついて行った。牢屋に入れられた佐多六は、あの天下御免の巻物を忘れて来たことを後悔し、他の領内で狩猟をした罪のため明日にも打ち首になるかもしれないと思い、ため息をついたり涙をこぼしたり悔しくて仕方がなかった。
牢屋のそばに忍び込んだ主人思いのシロは、やつれた主人を見ると、「ワン」と一声吠え、暗い雪の道を草木へ向かって一目散に走りだした。
そのころ、佐多六の妻は、佐多六が3日も帰って来ないため心配して神様に祈っていたところであった。 シロは、山や谷を走りに走り、草木にやっと到着すると、まるで火がついたように吠えた。村人は、雪だらけになって帰ってきて吠えるシロを見て、何があったのかをなだめて聞こうとしたが、吠えるばかりのシロの状況からは何があったのかは理解できなかった。シロは、村人に理解してもらえないためどうしたらいいかわからず、食う物も食わずにすごすごと主人のもとへと帰っていった。
シロは再び遠い山道を越え、佐多六の所へ戻った。佐多六は帰って来たシロを見たものの、待っていた巻物が届けられずがっかりした。しかし、力をふりしぼって、「シロ、ほら、あの巻物わかっているだろう。竹筒に入れている巻物だ。仏さんの引き出しに入れている巻物を持って来ておくれ。それがあればおらは助かるんだ。シロたのむ。」と言った。
牢屋の中で、涙をためて言う佐多六のことばを黙って聞いていたシロは、やっと主人の気持ちを理解したのか「ワン」と大きく一声吠え、また草木へ向かって雪の中を走って行った。
草木へ着いたシロは、前よりももっと吠えた。ありったけの力をふりしぼって、仏壇に向かって吠えた。佐多六の妻は、ハッと思い急いで引き出しを開けて見ると、佐多六が猟に出るときにいつも持ち歩いているはずの巻物がそこにはあった。妻は顔色がサッと変わり「これだ、この免状だ。」と言い、ふるえる手で巻物の竹筒をシロの首にしっかりと結ぶと、「シロ、頼む。届けてくれ。」とシロの背中をなでてシロを見送った。
シロは疲れも忘れ、牢屋にいる主人の佐多六のために、雪の来満街道を、再び三戸に向かって夜通し走り続けた。来満峠を越えたときには、三戸の空が白々と明けてきた。
その頃、佐多六はシロが巻物を持って帰ってくるのを一生懸命待っていた。しかし、とうとう時間に間に合わず、夜明の鐘が鳴るとき、佐多六の命はこの世から消えてしまった。シロが命懸けで牢屋に着いたときは、主人はこの世の人ではなくなっていたのだった。処刑場に横たわっていた佐多六を見て、シロはとても悲しみ、しばらく死んだ主人のそばについていた。
それから何日かして、シロは三戸城が見える大きい森の頂上に駆け登り、三戸城に向かって恨みの遠吠えを幾日も幾夜も続けた。この森は今でも「犬吠森(いぬぼえもり)」と言われている。 その後間もなく、三戸には地震や火事など、災難が続き、町の人々は佐多六のたたりだと恐れた。
やっとのことで草木に着いたシロは、途中食べる物もなく寒さと疲れのため、とてもやつれた姿であった。
佐多六の犯した罪のために、お上のとがめを受けた一家は村に住むことができなくなり、村から出ることになった。佐多六の妻とシロは、南部領の草木から秋田領の葛原(現在の大館市句葛原)というところに移り住み、村人に親切にされて暮らした。そして、葛原で暮らしたシロはいつからか、「老犬さま、老犬さま」と呼ばれるようになった。
あるとき、村人が馬に乗り、村はずれのあたりを通ったとき馬が驚き、どうしても歩けなくなってしまった。不思議なことだと思い、その周辺を探してみると、シロが死んでいた。あわれに思った村の人々はシロの亡きがらを村はずれの南部領の見える丘に埋めてやった。
その場所は、現在でも“老犬神社”として、村の人々に祭られている。
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(まとめ)
・ここではカモシカとなっています。
・草木地区の案内板には「青猪」と書いてあります・・・小学生はこれからでしょうね。青猪は「青じし」と読むそうです。青じしとはカモシカのことです。
・もう一つの民話には「羚羊(れいよう)」と書いてありました。れいようとはWIKIではカモシカなどの総称とあります。
・これで納得しましたが、「イノシシ」であれば大変な問題が孕んでおりますから調べました。


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2009年11月6日金曜日

01016■クロマンタ周辺の地質



鹿角市の地質を調べます。秋田県総合地質図幅「花輪」より
クロマンタやストーンサークルの岩質が分かります。

1、表層地質図「花輪」部分








AーA´ライン

クロマンタ              諸助山 


2、地表地質の説明

1-4 軽石、火山灰を主とし礫、砂を含む(未固結堆積物)
本地域には地質層序的下位(地形的には高所を占める)からの鳥越段丘、関上段丘、中間段丘、毛馬内段丘の4段級が認められる。

■鳥越段丘(KE)は、十和田火山由来の軽石質火山灰層の堆積面であり、小坂町鳥越付近に発達する他、花輪盆地全体にわたって散在するが、河川から離れた盆地縁辺部の丘陵地に多く分布する。
他の段丘より高度は高い。

■関上段丘(SE)は、軽石質火山灰層を切り、その上にのる火山砕屑物の河成二次堆積物の上面の堆積物である。鹿角市毛馬内の関上を標準地として、小坂川、大湯川沿いに発達する。鳥越段丘と明瞭な高度差はない。各種岩石の亜各礫、軽石、砂の混じった層理が発達する。

■中間段丘(M)とは、関上段丘と毛馬内段丘の間に位置するもので、大湯南の風張部落付近の関上段丘の西側に小規模に認められる。

■毛馬内段丘(KE)とは、鹿角市毛馬内に標識的に発達する最低位の段丘。


1-5 軽石及び火山灰(TWⅡp) 十和田火山第Ⅱ期 降下軽石堆積物

地域北東部の山地には、十和田火山の第二期の活動により中湖から噴出した降下軽石堆積物が小範囲に分布する。軽石と火山灰の互層からなる。



1-6 軽石及び火山灰からなり岩片を含む(TWⅠp)  十和田火山第Ⅰ期 軽石流堆積物

地域中央部から西にかける比較的ゆるい傾斜を示す山地には、十和田火山の第一期の活動による軽石流堆積物が分布する。塊状、白色で発泡した軽石と火山灰、新第三系に由来した各種の角礫、天然木炭を含んでいる。


3-2 石英安山岩(Td)   火山性岩石
 
地域中央部において大湯温泉付近の黒森山、黒又山、軍森の山体を構成する石英安山岩円頂丘が分布する。本岩は、暗黒色~灰紫色を呈し、新鮮な斜長石斑晶に富み気泡が見られ、柱状節理が発達する。



クロマンタは貫入岩で石英安山岩
現在は石英安山岩といわず、花崗閃緑岩という。

この踏み石は別のように見えますが、専門家の判断は「安山岩」とのことです。
(調べていただきました)










4-1 石英閃緑岩(qd)  貫入岩

地域北東部、阿久谷川中流の諸助山を中心として北東方向に2.5km程の規模を持って、緑灰色を程し、緻密で斜長石・輝石の大型斑晶に富む石英閃緑岩が分布する。本岩は特徴的に2cm程のだ円形の塩基性捕獲岩を含み、柱状節理が発達する。大湯南の関上段丘上に発見された縄文時代の遺跡の大湯環状列石は、本岩が侵食され河原の礫を用いたと考えられている(加納、1984)























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2009年8月8日土曜日

01015■タジマモリはヒタカミに来た




田道間守(タジマモリ)はカグノ木を求めてどこに行ったのでしょうか
そうです、東北(ヒタカミ)に来たのでした。
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この大陸の力の覇権思想が、我が国に及んだ時にどうするか。
まずは、クニの心、意志を一つに纏めておかなくてはなりません。
ひとつ、案じられるのは
「ヒタカミ」でした。
ヒタカミは建国の「クニトコタチ」以来の「タカミムスビ」の本貫地であり、
9代アマカミ「オシホミミ」も、朝廷を置かれた所です。
また、イサナギ・イサナミさまから、タカミムスビの系統に
アマカミのみ位が受け継がれたこともあって、
9代のオシホミミさま以後、ミツギも納めなくても良いという、
別格の扱いとなり、
自治を認められていました。
しかし、その時以来もう800年近くの時が流れています。
タカミムスビもその後14代を数えました。
はたして古来の伝統を守りながら、半ば独立国のように、一地方を静かに治められている方に、
昨今の国の置かれた困難な情勢を、理解して頂けるでしょうか。
そして独立国のような形を取りやめ、昔のように、
スヘラギを中心に一つとなれるでしょうか。
今後必要とされる全国統一のため、道筋をつける役目。
これは、
身にしみて大陸の覇権思想を知り、その後の情勢も知る第一人者でなくてはなりません。
また、今のところは秘密裏にことを運ばなくては、混乱もおこるでしょう。
この難しい役目は、イクメのキミが心から信頼なさる、
帰化された新羅の皇子の直系、タジマモリに託されました。
ミコトノリ カグオモトメニ
タジマモリ トコヨニユケヨ
ワガオモフ クニトコタチノ
ミヨノハナ          (ホツマツタヱ 37−48)
表向きは、
国の初代アマカミ・クニトコタチが植えられたという
建国の象徴でもある貴い
カグノキを、
未だ建国以来保っているという
トコヨ(この場合は、ヒタカミ)に行って探し、
もらい受けてくるようにというものです。
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(まとめ)
・なぜタジマモリを取り上げるのかといえば、このホツマ資料によるのです。
・これはすごい資料です(資料といえるのならばですが!)
・タジマモリは東北に来たのです。
・そして、田道将軍とのかかわりもあるのではないかと考えています。
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2009年6月17日水曜日

01014■津軽外三郡誌と田道将軍





津軽外三郡誌と田道将軍


(引用)
開化天皇は北九州の筑紫を除く日本全土を統一することに成功しました。しかし彼はその後、荒覇吐神の信仰を捨て、出雲族や日向族の神を崇めたために、畿内の荒覇吐族と奥州の荒覇吐族との間で争いが起こり、日本は二つに割れてしまいます。


アラハバキ族が仲間割れを起こしているうちに、騎馬民族を率いて海を渡って攻めてきたミマキイリヒコによって開化天皇は敗れ、ミマキイリヒコは天皇(崇神天皇)に即位しました。そして、律令制等を整えることで国力を強化し、奥州の諸勢力を服属させていきました。


もっとも、アラハバキ族は勇敢な兵士揃いだったので朝廷の遠征軍に敗れることはありませんでした。仁徳天皇の命により田道将軍、また、斉明天皇の命で阿倍比羅夫が津軽を攻めましたがいずれも大敗を喫します。


その後アラハバキ族は安倍氏という豪族集団に変化していきました。安倍氏は奥六郡を支配しますが前九年の役で、源頼義に攻められ滅びてしまいます。


この時安倍貞任の遺児高星丸(たかあきまる)が津軽の藤崎に逃れ安東氏を名乗ります。安東氏は十三湊を拠点にして海外との交易を活発に行い、やがて、中国大陸に安東という城塞都市を築くまでになりました。


しかし、室町時代に大津波が十三湊を襲い、町は一夜にして消滅してしまいます。この津波の影響で十三湊は水深が浅くなり、大船が港に付くことができなくなりました。もはや、十三湊は貿易港として使うことができません。そこへ、東隣の強豪、南部氏が津軽に攻めてきました。無駄な戦を嫌った安東氏は、津軽を捨て、秋田や北海道へ移っていきました。


秋田を拠点にした安東氏は、その後に続く戦乱の時代を乗りきり、江戸幕府の下で福島県三春に国替えになりながらも、秋田氏として近世大名の命脈を保ったのです。

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(まとめ)
・田道将軍と阿倍比羅夫が津軽を攻めたことがかかれています。
・田道将軍は津軽まで行ったのか、鹿角では鹿角を攻めたが鹿角で死亡したとなっています。
・阿倍比羅夫は荒俣宏説では、武力で攻めてはいないとなっていますがどうなのでしょうか。
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01013■田道将軍は創られた?




第二部  蝦夷の創造

以上のことから、私は、律令制度と天皇専制権を確立した政府が、東北を侵攻(住民の奴隷狩り・土地の奪い取り)するに当たり、それを正当化し、理不尽さを覆い隠すために、まず、住民に「蝦夷」なる蔑称を付与した。それを基に侵攻を合理化し、開始した・・・。

が、今の今になってこうした非人道的な行動に出たとするのは、事があまりにもあらたか過ぎるので、「何時の世のこととも知れない天皇(景行)とその皇子の時代に、それは既に始められていたのだ。我々は、それを引き継いだにすぎない」として合理化した・・・。「お前たちは、昔から蝦夷であった、文句あるかと」と恐喝した。 ・・・つまり、奈良時代に入って「蝦夷」は作られたのであり、それ以前「蝦夷」は存在しなかった・・・と考えるのです。

勿論、景行天皇・日本武尊以後にも、「蝦夷征伐」の記録が無いわけではありません。例えば、

     
イ.「仁徳紀」五十五年条。「五十五年に、蝦夷、叛けり。田道を遣わして撃たしむ。」云々。

    
ロ。「舒明紀」九年(637)条。「是歳、蝦夷叛きて朝でず。即ち大仁(正五位相当)

かみつけののきみかたな  め
上毛野君形名 を拝して、将軍として討たしむ。」云々。





ところが、田道の名字は「上毛野」で、形名と同じ。「上毛野」は地名を名字(後述)としたもので、上毛野は今の群馬県域で、そこの豪族。

架空の景行天皇や日本武尊の頃から、群馬県域をふくむ東国に住む人間は、東北と同じく「蝦夷」と呼ぶことにされておったのです。

※ 関東地方北半部は、その昔、「毛
(ケ)のクニ」と呼ばれていました。それが、大和政権に服属するようになると、あまりにも範囲が広すぎるので、上毛野・下毛野に分割されたのです。

吉備
(キビ)のクニが備前・備中・備後に、越(コシ)のクニが越前・越中・越後に、筑紫(チクシ)のクニが筑前・筑後に、豊(トヨ)のクニが豊前・豊後に分割されたのも、同じ理由によります。それには、同族意識を断ち切る狙いもありました。

すると、田道も形名も蝦夷ということになります。これでは、蝦夷が蝦夷を討つことになり、仲間同士の喧嘩にしか過ぎなくなります。

  かみつけの      しもつけの             かみつけ しもつけ
※ 上毛野(群馬)・下毛野(栃木)は、後に「上野」「下野」と表記が変わります(その理由は前述)。更に後には読みがカミツケ・シモツケに変化。

表記変更前の「毛」に注意しましょう。「毛人
(もうじん)」は、蝦夷創造以前の東国人につけられた蔑称です。「毛」には、「異(け)」の意味も含まれます。
そうすると、田道も形名も名前の上からも蝦夷であったことになるのです。




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(まとめ)
・結論が、田道は上毛と蝦夷創造以前からの東国人で、蝦夷であった。
・蝦夷が蝦夷を討つことになる。
・ましてや、ピンポインで鹿角討伐に行くはずがないと思われます。

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01012■四道将軍とは



四道将軍           
参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」ほか  
 
〈四道将軍〉
 『日本書紀』には崇神スジン天皇の時に、いわゆる四道シドウ将軍を派遣した記述がある。
 これは崇神天皇が神を祭ったと云う話(この話から後に「崇神」と云う、中国風の漢字 二字の諡号シゴウ(おくり名)が付けられた)を承けて、なお各地には天皇の教えに従わ ない者が居るので、四方に将軍を派遣することになった。

大彦命オオヒコノミコトを北陸に、武 渟川別タケヌナカワワケを東海に、吉備津彦キビツヒコを西海に、丹波道主命タニハノチヌシノミコトを丹波に派 遣したとされる。 

   
『古事記』では、大毘古命オオヒコノミコトを高志道コシノミチに、その子の建沼河別命タケヌナカワワケノ ミコトを東方十二道に遣わして、「まつろわぬ人ら」を和平せしめ、日子坐王ヒコイマスノオオキミを 丹波タニハ国に遣わし、玖賀耳之御笠クガミミノミカサを殺させたとある。

そして次いで『古事記 』には、   
 故カれ大毘古命は、先の命ミコトの随マニマに、高志国コソノクニに罷マカり行イマしき。爾ココに東  ヒムガシの方カタより遣マけつる建沼河別、其の父大毘古と共に、相津アヒヅに往き遇ひたまひき。故れ其地ソコを相津アヒヅ(今の福島県会津と云う)と謂ふ。是ココを以て各オノモオノモ  遣けつる国の政マツリゴト和平コトムけて、覆奏カヘリゴトマヲしたまひき。爾カれ天下アメノシタ太平  タヒラぎ、人民オホミタカラ富み栄えき。是に初めて、男弓端之調ヲトコノユハヅノミツギ、女手末之調  ヲミナノタナイエノミツギを貢タテマツらしめたまひき。

故れ其の御世を称へまつりて、所知初国之  ハツクニシラシシ御真木天皇ミマキノスメラミコトと謂マヲす。又、是の御世に、依網池ヨサミノイケを作り、又  軽カルの酒折池サカヲリノイケを作らしき。この天皇、御歳ミトシ壱佰陸拾捌歳モモチマリムソヂヤツ。〔戊  寅年ツチノエトラノトシの十二月シハスに崩カムアガりましき。〕御陵ミハカは山辺道勾之岡上ヤマノベノミチノ  マガリノヲカノウヘにあり。   と記述されている。  

 
〈古四王コシオウ神社〉 参考:堀書店発行「神道辞典」  旧国幣神社。鎮座地秋田市寺内字児桜。祭神武甕槌命・大毘古命。例祭五月八日・九月 八日。  大彦命が北陸巡撫の際、北門の鎮護として武甕槌命を奉祀、次で大彦命を合祀、中世 秋田城鎮守古四王大権現と称す。 

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(まとめ)
・日本書記では大彦命(オオヒコノミコト)は北陸へ
・古事記では大毘古命(オオヒコノミコト)は高志国(越後のこと)
・四道(シドウ)将軍とは個人名でなく、四つの街道のことだようです。
従って、田道(タミチ)将軍は関係ないようですね。
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2008年12月19日金曜日

01022■タジマモリの真相










ホツマによるタジマモリ

http://julian.way-nifty.com/woshite/2006/05/post_f945.html

遺しフミの最重要な文は後半にあります。
「キミ やつかれが モトヒコに
むすぶシズクのミナモトを
おぼして ホヅマ しろしめせ」
ワカミヤ(ヲシロワケのキミ)さま、
私めが、モトヒコと結んだ水の一滴のようなご縁の、
そのミナモトとなりましたのは(父ギミ、イクメのキミのご密命にありました)
それを、良くお考えあそばし(お使いになって)
ホヅマ・・・すなわち、アメナルミチに表される治世を、
(ヒタカミにも)お広めになられますように。

この一文があればこそ、タジマモリさんのお心も良く分かるのです。
この事情を知った上で、あの唱歌を読むならば、
私達は、歌に表してはいない、隠れた歴史のまことを想い、
あらためて心打たれるような気がいたします。
まるで「乃木将軍みたいなお方」と私は書いたのですが、
お役も時代もはるかに違えども、
オオキミのお心を身に受けて、生涯を賭けられたことには変わりなく、
また、その「二君にまみえず」という、深い忠義のお心がそっくりです。
言わせて頂くならば、二君にお仕えできないほど、
全身全霊をすべて捧げつくされ、任務を全うされたのだと思いました。
そして、タジマモリさんは、
キミの御陵の前で、殉死されたのです。
イクメのキミ、垂仁天皇さまの御陵の壕中には、タジマモリさんの小さな墳墓があります。
いまも、キミを守っておられるのでしょうね。
クニの守りを強めたお方、タジマモリさま。
「タジ」とは(イタシ)致しか、足しということでしょうか。
「マモリ」はもちろん守ると言う意味なのですから。
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垂仁記を読む)から貼り付け
■タジマモリを遣わした垂仁天皇とは
(注)活目入彦五十狭茅・・・イクメイリヒコ・イソサチと読む。


垂仁天皇。通説ではイサチと「ソ」を落として読むが、これは古事記の用例イクメイリヒコ・イサチに合わせた読みで、「仲哀紀」「筑前風土記逸文」に見える「五十」は「イソ」と読むようにという要求に反する。古事記がなぜ「伊佐知(いさち)」として「五十狭茅」の「ソ」を落としたかについては、祟神紀でも説明したように古事記の持つ強い「日本王統列島内自生史観」の為せる業である。

そのことを否定するかのように、垂仁紀では本文にも分注にも「朝鮮半島からやって来た王族級の人物・ツヌガアラシトやアメノヒホコ」などが登場する。古事記では応神記に、神功皇后の出自を言うためにアメノヒホコが引っ張り出されるが、これは例外中の例外である。


さてイクメ天皇は私見では「イクメに入ったイソ(五十)の狭い茅葺きの王宮生まれの天皇」で、祟神天皇が半島から九州島は五十(糸島)地方に亡命移住して来た後にそこで生まれ育ち、やがて「大倭」のプリンスとして成長ののち、ヤマタイ女王国の「伊支馬(いきま=イクメ)」という植民地の総督のような駐在武官を経験したことを表す名を負ったと見る。その時代は260年の頃だと考える

■タジマモリとは
田道間守・・・タジマモリ。

3年条の分注によれば、祖は半島人アメノヒホコで、ヒホコ―モロスケ―ヒナラキ―キヨヒコ―タジマモリという系譜。その一方で古事記では「応神記」に、ヒホコ―モロスク―タジマヒネ―ヒナラキ―タジマモリ・タジマヒタカ・キヨヒコ(3兄弟)とする。違いは古事記の方に先々代のタジマヒネとタジマモリの兄弟が二人載っている事だが、おおむね同一といってよい。

それより大きな違いは、古事記ではさらに後嗣を載せていることで、キヨヒコの娘ユラドミとキヨヒコの兄ヒタカとの間に「葛城之高額ヒメ」が生まれるが、これが神功皇后の母親であると記す(古事記では父親を欠くが、書紀では父を開化天皇の曾孫「気長宿禰王」としている)。

それはさておき、半島辰韓人ヒホコの後裔が但馬に居住し、その5世孫タジマモリは垂仁天皇の命令で「トキジクノカクノコノミ(いつも光り輝いている木の実)」を求めて常世国にまで行き、無事に探し当てて十年後に帰ってみると天皇はすでに他界しており、悲しんだタジマモリは墓前に自死した――という説話の主人公として描かれ、その忠節を賞されている。


トキジクノカクノコノミを「橘」であろうとする見方が多いが、橘なら魏志倭人伝に倭国にあると記されているので間違いである。では何なのかと問われると心もとないが、常世国という現実の国ではない所にあるとされているのであるから、具体的な何かの名を挙げるのもおかしなものだろう。不老不死の魂に関する何かであるとだけは言えるが・・・。

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(まとめ)
・垂仁天皇もタジマモリもやはり渡来系ですね。
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2008年12月15日月曜日

01011■鹿角蝦夷と田道将軍



【問題意識】
・最も強かった蝦夷は津軽蝦夷であった。鹿角も津軽蝦夷だったのか。
・田道将軍はなぜ破れたのか


【資料】

/www7.plala.or.jp/t-aterui/akita/a-nisikigituka2.html

1、陸奥風土記逸文に「岩城の国造岩城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので、日本武尊が征討軍としてやってきた。そこで蝦夷は津軽の蝦夷に援護を要請したので、日本武尊は非常に苦戦した」とある。

2、日本書記に、斉明5年(659年)日本から唐に蝦夷二人を献上した。そのときの質疑に「・・・一番遠くにあって一番強いのが津軽の蝦夷=都加留(ツガル)で上津野(カヅノ)も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えればすぐ、出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷の圧政に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

3、元慶の乱において、鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)という、わざわざ岩手県を迂回して、最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ。鹿角を説得できれば他の11の反乱村も説得可能だったのだ。

4、上津野蝦夷の強さの伝承は日本書紀にある上毛野田道(カミケヌノタミチ)将軍の記述である。
『仁徳紀55年蝦夷叛けり、田道を遣わして撃たしむ、即ち蝦夷のために敗られて伊峙水門に死(みう)せぬ。時に従者有りて田道の手纏(たまき)を取り得てその妻にあたう。即ち手纏を抱きてわななき死ぬ。時に人聞きてかなしむ・・・』とある。
毛野氏は東国坂東の豪族で、上毛野氏はその宗族である。朝廷の命を受けて、主に蝦夷征伐と東北経営を任された。その将軍が今からおよそ1、600年前、ここ上津野村まで東征して来たが、伊峙水門(いじのみなと・米代川流域男神・女神の下流に石野村がある)で討ち死にしたのだ。実際鹿角の申(さる)が野という所に、田道将軍を祀る猿賀神社があり、その前に『田道将軍戦没の地』の石碑まで立っているいるからです。

5、日本海沿岸の蝦夷征討・阿部比羅夫から遡ること300年も前の話です。でも伊峙水門については、宮城県石巻説や、茨城県夷針郡説などがあり定説はない。

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【まとめ】
・津軽蝦夷(鹿角も津軽蝦夷とみなし)は強かった、田道将軍はわなないて亡くなった。

・強さの秘密は大和朝廷のい圧政に耐えが滝を耐えたため。

・田道将軍は東国坂東の豪族の親戚。蝦夷征伐と東北経営を任された。

・田道将軍の討ち死にした場所は、鹿角、石巻、茨城県説がある。

・阿倍の比羅夫から300年も前。

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2008年12月11日木曜日

01010■石川啄木と鹿角




【問題意識】
石川啄木の「鹿角の国を憶うの歌」は、よほど鹿角の地に縁があるか、または長く住まないと詠めないほどのレベルです。
鹿角物語で調べました、やはり啄木は鹿角との縁が薄くなかったのです。

【資料】

「鹿角物語」収集データリストより





 △鹿角との関わり

①石川啄木の母カツは工藤条作の娘である。条作の母は、毛馬内常照寺の娘である。 つまり啄木は、母方の祖先の血(すなわち[鹿角のこと」)を、意識の底に持ち 続けていた。

………

②明治三十四年、啄木が数え年十六歳のとき、鹿角を訪れたと云う。
すなわち、金田一京助著『石川啄木年譜』によると、同年七月、金田一京助氏に 彼は、鹿角の伝説に就き、「錦木」「狭布の細布」の由来、錦木塚の所在などを 詳しく問うたとされる。

同年八月鹿角へ遊び、小豆沢の大日堂へ詣で、錦木塚を弔い、今に細布の遺製を 伝える農家古川氏(黒沢家のことか)を訪れたと云う。

………

③更に啄木と鹿角とのあまりにも不思議な縁を感じさせる事柄として、啄木の姉サダの 存在である。
サダ(田村姓)は、啄木と節子が婚約するのにあたって、母を説得し尽力したのは、 明治三十七年一月のことであった。
翌二月、夫に従って小坂鉱山に赴いた。
そして翌年、肺結核のため三十一歳で短い生涯を遂げた。

これは、啄木が初めて出会った肉親の死であった。
「錦木塚」の伝説のある所と、小坂鉱山とは、同じ鹿角郡であり、啄木の心は、 鹿角に向くのであった。



2008年12月10日水曜日

01009■世界遺産候補に


大湯ストーンサークルが世界遺産候補に、大日堂舞楽が無形文化遺産候補になりましたので秋田ユネスコ協会で勉強会がありました。まだまだ果てしない時間が必要と感じました。 
  
2008・9・27新たな世界文化遺産候補(暫定リスト掲載)に、秋田県の大湯環状列石(国史跡、鹿角市)と伊勢堂岱遺跡(国史跡、北秋田市)を含む北海道、青森、岩手の計15の縄文文化遺跡で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」が選ばれた。

 またこれより早く2008・7・31報道で、鹿角市の「大日堂舞楽」がユネスコの無形文化遺産の候補に決まっている。れらこのことから勉強会を開催したものである。一般にも呼びかけていましたので、会員以外にも大勢が参加しました。

 菅原会長のあいさつでありましたとおり、我々ユネスコ協会の会員でも、大湯環状列石、伊勢堂岱遺跡、大日堂舞楽といわれても、どうも内容がよくわからない。どんなものかどんな価値があるのか。現地まで行ったことがある人はかなりおりましたが、秋田市に住んでいる人にとって鹿角市は遠いのです。

 教育庁文化課の武藤班長さん他二人の講師を招き、ご説明をいただきました。概要は、

1、ユネスコの世界遺産には大きくは「自然遺産」と「文化遺産」があり、文化遺産には「有形遺産」「無形遺産」があること。白神山地が自然遺産登録。今回の縄文遺跡群が有形遺産、大日堂舞楽が無形遺産となる。

2、世界遺産に登録までの流れは今回の「暫定リスト掲載」から「登録推薦」、審査を受け「登録」の流れとなる。今回の「縄文遺跡群」については、縄文文化の基盤となった落葉広葉樹林帯が広がる東日本に範囲を拡大するなどの検討課題が示されている。

3、今回のように県民に周知し、県民あげて盛り上げなければならないので、年度内には北秋田市、鹿角市の」ストーンサークル館、大仙市などで開催する。

4、大日堂の無形文化遺産は世界遺産と異なり書類審査のみであり、かなり可能性が高いと認識している。

5、ビデオで紹介
  ①大日堂舞楽 NHKビデオ編集でよく理解できました。
  ②縄文遺跡群 北海道・北東北の15か所の風景写真で紹介。(県内分も同じレベルで)

6、補足説明
  世界文化遺産になるためには、「縄文文化とはこういうものであって、世界の中で特殊な普遍的文化である、従って世界で守っていかなければならい」というストーリーが必要である。しかし縄文文化については日本の中でもまだ定まっていない。これから発見して熟成し、再構成していかなければならない。地下に眠っている心をどう発掘するかである、とのことでした。

7、質疑応答
 ①勉強し伊勢堂岱遺跡に行ったが、案内人は私の質問に満足に答えがなかった。
 ②北海道・北東北と範囲が広すぎる、集約が可能か。


 私もこの質問に尽きると思います。縄文時代を文化と捉えること、北海道・北東北の縄文文化をひとくくりすること、さらに広葉樹林体としてくくればまとまりがつくのか。個別には、大湯環状列石は早くから国指定の遺産となり、墓地説からやっと祭詞場、天体観測説が有力となってきた、しかしさらに深めていくためには、この問題は正統の学者は立ち入りたくない分野である。
説明を聞きながら、内容的にはこう思いました。また鹿角は、場所的に秋田市から遠い、心象的にも遠い存在ですので、いかにして盛り上げていくかが課題だと認識しました。