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2014年7月24日木曜日

■歴史の改竄(かいざん)は縄文時代から

常識としての歴史は正しいのでしょうか・・・みんな「ウソ」のようです!!
(とりあえず縄文時代)

1、縄文時代は本当に文化が低かったか

「考古学はまやかし」より
http://ameblo.jp/calseed/entry-11894455636.htmlから

歴史常識的には低いとされている日本の縄文時代や弥生時代の文化度は、実は高かったのではないか、と考え直すようになります。
古代人は横穴式住居や竪穴式住居に住んでいて、縄文時代は狩猟民族、弥生時代は農耕民族と変化して徐々に文化度が高くなって行った、とされている歴史の定説に、どうしても疑問が生じました。
古代は科学技術が現代のように発達していなかったのは間違いないのですが、あの壮健な出雲大社は、太古はより巨大な建物として存在していたことが明らかになっています。重機を使わずして、あれだけの建築物を正確に造る技術とは、我々想像している縄文時代や弥生時代の文化度とは全く異なるのです。

2、貝塚は縄文集落で文化が低い証拠?

モースが、1877年に大森で貝塚を発見して以降、各地で同様な貝殻の堆積物が見つかり、縄文時代の集落の跡とされてきました。
これは事実なのでしょうか?
確かに、貝塚が見つかった場所の周辺には古墳があったり、住居跡があったりと、古代に集落があったことは間違いないと思います。

しかし、貝殻の堆積層が見つかったから、縄文時代は狩猟民族で、文化度が低かったと結論付けていいのでしょうか?


3、「考古学」で洗脳

古代(神代終了後の上代)の人達は、かつての神々を崇めるため神社を創建して祀ってきたのです。江戸時代までは、日本神話は普通に歴史の一環として教えられていたはずです。

ところが、そのことを隠したい阿修羅(増上慢偽明治天皇)は、明治維新を機に、すべての常識をひっくり返すために、歴史も変えていったのです。

その洗脳のツールとされたのが考古学という概念です。

4、縄文時代

阿修羅の目的は、神代を縄文時代に改竄することです。そして、上代を弥生時代に。

そのために、化石として残り易い貝殻の堆積層を貝塚と定義し、文化度の低い縄文時代という歴史概念を創りだしたのです。モース以降、考古学という欺瞞の学問によって、皆さんは洗脳されてしまったのです。哀れな事です。

2012年12月15日土曜日

◆大彦命とは

堀貞夫さんのHPから

大彦命(おほひこ=大毘古命)
1,屈指の貴種

 安倍氏族の始祖は大彦命、古事記では大毘古命とされるが、8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、11代「垂仁天皇」の祖父という王朝内でも屈指の貴種だとされる。

『古事記』孝元天皇
大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクル=孝元天皇穂積の臣等の祖先、内色許男(ウツシコオ) 命の妹の内色許売(ウツシコメ) 命を娶り、最初に大毘古(オホビコ) 命。次に少名日子建猪心(スクナヒコタケイゴコロ) 命。次に若倭根子日子大毘々(ワカヤマトネコヒコオホビビ=開化天皇) 命を生んだ。また、内色許男命の娘の伊迦賀色許売(イカガシコメ) 命を娶り、生んだ子は比古布都押之信(ヒコフツオシノマコト) 命。また、河内の青玉(アオタマ)の娘、名前は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ) を娶り、生んだ子は建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ) 命。天皇の子は合わせて五柱。若倭根子日子大毘々の命が天下を治めた。
大毘古命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケ)は阿倍の臣等の祖。次の比古伊那許士別命(ヒコイナコシワケ)は膳の臣の祖である。
また、木の国の造の祖先、宇豆比古(ウヅヒコ)の妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶り、生んだ子は建内宿禰(タケウチノスクネ) 。宿禰の子は合わせて九人(男七人、女二人)。

『日本書紀』孝元天皇
欝色謎命 (ウチシコメノミコト)を立てて皇后とした。皇后は二柱の男子と一柱の女子を産んだ。一人目の男子を大彦 (オオヒコ) 命という。二人目の男子を稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒビノスメラノミコト)という。三人目は女子で倭迹迹媛 (ヤマトトトヒメ) 命
(異伝としてさらにもう一子、少彦男心 (スクナヒコオココロ) 命がいたと記載されている)
また妃の伊香色謎命が彦太忍信(ヒコフトオシマコト)命を産んだ。また同じく妃の河内青玉繋の女の埴安媛 (ハニヤスヒメ)が埴安彦(ハニヤスヒコ)命を産んだ。長子である大彦(オホヒコ)命は、阿部臣、膳(カシワデ)臣、阿閉(アヘ)臣、狭狭城山(ササキノヤマ=近江の安土一帯)君、筑紫 (ツクシ) 国造、越(コシ) 国造、伊賀臣ら、全部で七つの氏族の始祖である


2,稲荷山鉄剣
また、欠史八代については、『記紀』の編纂時に適当に創作したものだとする説が有力だったが、この説を覆すかもしれない出土品が発見された。それが『稲荷山鉄剣』と呼ばれる祭祀用の鉄剣だが、そこにも大彦命が大きく関与している。
『朝日新聞(2006.01.18)』
埼玉県埋蔵文化財調査事業団は17日、東松山市にある反町遺跡から、国宝『稲荷山鉄剣』と同時期に製作されたとみられる古墳時代中期の「鉄剣」=写真=を出土したと発表した。
 発見されたのは、同遺跡の前方後円墳からで、長さは75㎝。
さびついた状態のまま分析したところ、やはり同型の稲荷山古墳(行田市)から出土した国宝『金錯銘(キンサクメイ)鉄剣』と形も大きさもほぼ同じだ。

上記は直近のニュースだが、昭和43年(1968年)埼玉県行田市の稲荷山古墳から上記と同様に古代の錆びた鉄剣『稲荷山鉄剣』が出土した。その10年後、奈良の元興寺文化財研究所が保存処理をしていたところ、鉄剣に金象嵌(キンゾウガン)されていた下記の115文字が浮かび上がってきた。
た由来を記す。

上記の文字列のなかに、上祖の名は意冨比(オオヒコ)、獲加多支鹵(ワカタケル)大王の文字があり、意冨比垝は大彦命、獲加多支鹵大王は幼建「ワカタケル」の名を持つ雄略天皇だとすれば、欠史八代の孝元天皇の皇子「大毘古」は実在の人物、欠史八代に記述された天皇も実在していた可能性がでてきた。
  このニュースが日本中に飛び交い、考古学者や史学者に衝撃を与えた。




3,大彦命家系図  
古代安倍氏の系図』参考例
   上記の系図では、大彦命の娘「御間城姫命(祟神天皇の妃)」が欠落している。


4,大彦命の時代

 邪馬台国
鉄剣に付着した錆を分析した結果、その地金は中国の江南地方産の鉱石で、しかも炒鋼法という中国の製鉄技術で製錬された利刀であることが判ったという。
 雄略天皇の死去は470年代と推定され、乎獲居臣(オワケノオミ)は意冨比(オオヒコ)から数えて八世なので、世代交代を20年間隔と仮定すれば160年差となり、大彦命は西310年前後、4世紀前半頃の人物だと思われる

『日本書紀』崇神紀
天皇は、大彦命、武渟川別(タケヌナカワワケ)、彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコ=吉備津彦)、丹波道主命(タニワノミチヌシ)の4人を召して、「大彦命は北陸、武渟川別は東海、彦五十狭芹彦命は山陽、丹波道主命は丹波を、それぞれ平定せよ」と命じた。

このように記しているが、大彦命が4世紀前半の人物だとすれば、邪馬台国との関係はどうなっているのだろう。





                                      

◆古志・越とは



堀貞夫HPさん及びWIKIから引用

1,古志
『出雲國風土記』神門郡古志郷
 伊弉那彌(イザナミ)命の時、日淵川を利用して池を築造したまう。その時、古志の國人らが到来し、堤を施工した。そのとき彼らが寝起きした場所なり。それ故、古志と言う。
 2004年10月25日、中越地震の発生により、新潟県「山古志村」が孤立したニュースが全国に報じられたが、山古志の古志は飛鳥時代の国名で、高志、越とも記される。大化の改新以降、漢字表記が「越国」に統一され、その後、越国は越前・越中・越後に三分される。
 通説では、古志を北陸地方の国名で、朝鮮半島からの渡来氏族が定住したが由来だとする。たしかに日本海沿岸地方には古志の地名(長岡市古志郡、松江市古志原町、出雲市下古志町、富山市古志の松原、山形県古志田東遺跡)が多い。

2,古志と楛矢(こし)
 古志も高志も「こし」と読むが、漢語では古志は「guzhi」、高志は「gaozhi」である。
日本人には「ゴゥジ」に聞こえるが、濁音の少ない古語では「コゥシ」「コシ」と変化したと思える。筆者は粛慎の貢献品である命中精度の高い楛矢(こし)からきたと推察する。
 楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読んでいる(新撰漢和辞典『三省堂』)。また、一矢(いっし)を報いるという言葉があるように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 楛矢(コシ)を持って日本列島に渡来してきた粛慎系部族を「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。越(yue)は漢語の意訳をあてたもので、後世の当て字だと考える。
 
3,越の国とは 
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した、上古の勢力圏である。
 律令時代~現在の地域名としては、越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)と同義で、越後越中能登加賀越前の5国を意味する(「越」字がない能登・加賀も含めるのが普通である)。



4,粛慎が楛矢を持って来貢
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。
   楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。
  ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。


◆丹生と空海



1,丹生都比売神社

『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前がある。朱砂を精錬すると、水銀となる。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。
丹生都比売大神とは、この地に本拠を置く全国の朱砂を採掘する古代部族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社、丹生都比売を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、その総本社である。


2,空海と丹生都比売神社
この丹生都比売と、空海(弘法大師)には密接な関係がある。
唐から帰国した空海が、密教の根本道場を建てる場所を探すため、高野山の山中深く分け入ったところ、白と黒の紀州犬を連れた狩人姿の狩場明神の導きで、天野の地で丹生明神に出会い、高野にたどり着いたといいう伝承がある。
高野山は真言宗の総本山で、その中核は根本大塔を中心とする壇上伽藍である。この壇上伽藍の西端に御社(ミヤシロ)と呼ばれる「丹生明神と高野明神」を祀る神社と十二王子百二十伴神も同じく祀られている。
空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。ただし、空海は御社のことについては一切記録を残していない。地主神を祀ることに不思議はないが、寺院の中核となる壇上伽藍の一角に主要な堂宇に比肩する規模の神社を建てるのは不可解である。

3,空海がなぜ唐に渡れたのか
『日本書紀』景行天皇51年条
日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷らは昼夜を問わずうるさく騒ぎ(サエギ)立て、礼儀も悪かったので、倭媛(ヤマトヒメ)命は、蝦夷らを神宮に近づけないように命じ、朝廷に奏上した。そこで三輪山の辺りに置かれることになったが、幾日も立たないうちに三輪山の木を伐ったり、大声を上げて村人を脅かしたりした。これを聞いた天皇は、その蝦夷たちを遠方に置くことにした。これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(サエキベ)の先祖となった。

空海は宝亀五年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の佐伯氏に生まれている。つまり上記の蝦夷の末裔で、土蜘蛛の系統である。そして、丹生明神は丹砂を採取する土蜘蛛の一族が祀る神。両者に同族意識があっても不思議はない。
30歳まで空海は高野山周辺で山岳修行をしており、その一帯が水銀の産地であることは承知していたはず。丹砂の利権を有する彼らに資金援助をさせたのではないかと思われる。そもそも空海が唐に渡ったのは私費留学であり、莫大な渡航費用を弱小豪族の佐伯氏が負担できたとは思えない。すでに、その段階からスポンサーになっていた可能性もある。

4,空海は蝦夷を熟知していた

悪路王はツングース族
 ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族、サハリン・アイヌ族などツングース語系諸族が現住している。
  日本史に登場するツングース族は、粛慎・靺鞨(マツカツ)・女真(ジョシン)・高句麗・百済・扶余・渤海国などである。
  弘仁六年(815)正月、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海(弘法大師)が彼に贈った歌があるが、そこには当時の人々の蝦夷に関する印象が明記されている。

『遍照発揮性霊集』(野陸州に送る歌)
時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。

  この歌から、当時の蝦夷の生活は狩猟民族そのものだと思える。空海は唐に留学していた経験があり、蝦夷と粛慎(当時は靺鞨)が同じツングース族であると知っていたのではないかと推察する。
  さらにいえば、空海は天台宗が嫌いだから、天台座主の円仁も嫌い、円仁が庇護する蝦夷も嫌いである。文面にも蝦夷を嫌悪する感覚が現れている。







2011年11月15日火曜日

■やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった!

われわれの先祖と思っている蝦夷が、そうではなく大韃靼人であったという話



【引用】(太田龍『縄文日本文明1万5千年史序論』より)出典は白柳秀湖説

1、阿倍比羅夫将軍と「蝦夷」
従来の日本の歴史は、幸徳・斉明両朝の革新政府を悩ました東北のいわゆる蝦夷なるものを、アイヌとばかり思惟してきた為に、阿部比羅夫将軍の粛慎征伐が天から降り、地から湧いて出たことのように皆目見当がつかなかったのだ。

阿倍比羅夫将軍








2、なぜ蝦夷が騎馬戦術に長けているのか
アテルイが率いるいわゆる蝦夷が、縄文原住民の生き残りだとすると、なぜ、その蝦夷が騎馬戦闘に熟達しているのか、全く説明できない。

これに対して、ドイツ生まれケンフェル(ケンペル)の「日本志」では
・日本の二つの害難
 ①桓武天皇の時の大韃靼人の侵入・・・これが東北へ
 ②後宇多天皇の時における同じく大韃靼人(蒙古人)の襲来・・・これは九州‥教科書に載る


「日本の地は自然と堅固にして、今に至るまで、外寇の恐るべきもの、極めて少なし。稀には犯し、襲うこともありといえども、未だ寡って、敵に利ありしことなし。およそ勇猛無敵の国民は未だ寡って他人の命令聴くことなし。


一千年前なる桓武の御宇に当たって、大韃靼のその地広大なるより、大軍を挙げて、しきりに日本の浦に打ち寄せたり。攻撃火急にして、敵軍は早くも陸地を取りて、基地としける程に、日本人もこれを退落することははなはだ難なりけり。その故は、毎々に挑戦して、しばしば敗戦して、その勢大に衰滅せしかども、韃靼より日を追って、新軍を送り備って、勢いを助ける程に、ついに、一五〇年の久しきに堪えて、猶も日本の地に居て動かざりけり。

しかるに、七九九年(延暦18年)国の守護神(田村麻呂)の威力冥助と、日本軍兵の鋭き多勢力と一斉に起張して、ついに彼らを抜き滅ぼしけり。」

つまり
孝徳天皇、斉明天皇の御代から桓武天皇の御代まで約150年、大韃靼人は大軍を日本(奥羽東北地方)に送り、打ち破られてもまた新手の軍勢を増派してくる。彼らは日本(奥羽)に確固たる武力による支配権を打ち立ててしまう。


3、やはり田村麻呂将軍は東北の「神」であった

「しかるに当の日本では、ちょうどこの時代のことを記録した国史『日本後紀』の一部が湮滅して伝わらぬ為、田村麻呂将軍の英邁を以ってして、わずかに打ち勝つことが出来た大韃靼人の奥羽地方における動静及び官軍との戦況を、詳しく知ることが出来ない。だから当の日本の歴史には、坂上田村麻呂の東征ということが、一面著しく魯鈍で、お人好しでありながら、多面その固有の血統と文化に対する矜持のいたずらに高いために、千年一日の如く進歩なく、発展なき発展なきちっ粛たる生活を送ってきたアイヌの気まぐれな反逆かなどのように、軽く取り扱われている。」






















4,東北の隠された歴史


①日本の原住民第一号が縄文人である。

②東北・日高見に占拠した民族は従来漫然と断定されてきたアイヌ人ではなかった。満州東部の日本かい沿岸から沿海州にかけて蕃衍していたウラル・アルタイ種の各派が、日本海を渡って、わが北陸道の沿岸から両羽地方に漂着し、そこからアイヌ人を主とする先住民を追い払い、脊梁山脈を越えて三陸・日高見に進出した。

③田村麻呂将軍による奥羽平定のあと、奥羽地方の蝦夷(韃靼人)は日本民族に同化された、そしてそれは、日本民族にとって最後の異民族同化であった。









2010年11月8日月曜日

03305■華僑が日本をつくった(副島隆彦)(全文)


  天 皇 と 華 僑
聖 徳 太 子 は 蘇 我 入 鹿 (そがのいるか) で あ る 」

副島隆彦 著

(編集部によるイントロダクション)
日本は原住民である倭人(わじん)と交易を求めてやって来た華僑(中国人)が年月をかけて混血してゆくことによって出来た王国である。西暦776年に「近江令」(おうみりょう)の中に初めて出現した「日本」という言葉をもって日本建国の年と考えるべきである。従来の日本歴史学を統合する「属国・日本史論」の古代史編をここに始める。
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(はじまり)
私は日本史についても調べて書きたいと思っていた。
私がこれまで考えてきた日本通史の概要のうち、ここに掲載する古代に関する部分は、一九九七年五月に五月書房(ごがつしょぼう)から刊行された『属国・日本論』のために書き下したものである。ところが、「著者を守る」という理由で、出版社側の判断により、この古代史の部分は、採用原稿から削除されため、発表の場を失っていた。今回、オルタブックス編集部の依頼により、単行本用に書いた原稿に若干の加筆をし、ここに初めて発表するものである。 1997年9月   副島隆彦

拙著、『属国・日本論』の第三部「属国日本の近代史」で私は、古代から中世、近現代に至るまでの日本の歴史を、日本はじつはずっと文明の周辺属国(トリビュータリー・ステイト)であったのだ、という観点から祖述しようとした。しかし出版社側の判断によって実際には近現代史の部分しか掲載されなかった。祖述(expound イクスパウンド)するとは、特定の先人の学説を受け継ぎ、それを土台にして更にその上に自説を展開して、同じ諸事実に対して別の角度から光を当てて自説として、そのことによって学問(サイエンス)(=科学)を推し進めることをいう。

私の日本史学についての知識は、きわめて限られている。私は日本史学者ではないので、専門的な歴史資料 ( 一次資料としての古文書や国家外交文書 ) の 古代漢文のまま読み込みや正確な文献読解 ( text critic テキスト・クリティーク )などはできない。そのような学問的な訓練は受けていないし、また、フィールド・ワークとしての歴史学を志したこともない。自分の人生時間をその領域に投入しようと思ったこともない。
それでも 私は、「属国」日本論という大きな観点からの日本通史 ( 古代から現代まで通して叙述した歴史 )を 概略、俯瞰的な 全体像として呈示せねばならないと思ってきた。それは日本人の誰かがやるべきだったのに誰もやっていないと長年強く感じてきた。


私の考えは、日本が紀元前後からの丁度、二千年間は中国歴代王朝の藩国・冊封国であったとするものだ。そして、150年前のペリーの黒船来航直後は、アメリカの属国になりかけたが、アメリカ国内での南北戦争(ザ・シビル・ウォー)の勃発で、アメリカの日本支配が一時停止した。その間に、西欧列強(ヨーロピアン・パワーズ)の中の最大の大国であったイギリス(当時は、大英帝国 The British Empire である) の属国を続けた。その後、1945年8月の第二次世界大戦での敗戦の後は、アメリカ合衆国の属国なって現在に至る。これらの大柄な日本歴史の基本性質を、歴史上の諸事実(ヒストリカル・ファクト)に照らして、大胆に叙述していくことが私の日本思想家としての構えである。
むろん、私の日本史論を素人の仕事だと無視するのはいっこうにかまわないし、私の説 ( 歴史事実への別な光の当て方 ) の細かな誤りを指摘して反駁して下さることも自由である。私は明らかな事実であることでそれが周囲の事実との関係でほぼ確実に明らかであるとされることに対してはすべて認める、という態度を取る。私は要らぬ隠し立てをする態度は一切取らない。ただ勉強時間不足の為に自分が知り得なかったことで新たに知ったことでそれが事実であることの自然な推論が立つことは、すべて認める、という姿勢である。
私の説は、「属国としての日本通史」という従来とはまったく別の観点に立ち、かつ、「世界史の一部としての日本史」という太く大きい一本の柱に貫かれているのであって、この「属国」日本という視角は、十分に学問(=科学)的な条件を備えたものであると考えている。もし私への反論があるなら、同じく、世界史の一部としての大柄な日本論であってほしい。


日本をつくったのは華僑である
歴史学とは、近代学問における定義上の重要事実であるが、文字、すなわち刻文その他の文献があって初めて成り立つものである。文献考証とその意味づけからしか歴史学は出発しない。文字の使用以前の段階にある新石器時代 ( ネオ・リスィック)の土器や遺構は、考古学(アルケオロジー)の対象であって、古代史学の対象ではない。
歴史学は、文字の有無によって先史( prehisitoric プレヒストリック ) と 古代 ( ancient エインシャント )に分けられるのである。これが世界基準での学問区分である。青森県の三内丸山(さんないまるやま) 遺跡 佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の発見があって、いわゆる 縄文文化の見直しが盛んだが、あれらの遺跡からは文字や文献は発見されていないのであるから、そうした遺跡に対して「高度な文明」などという不正確な言葉を使ってはいけない。
残念ながら、日本には「文明」( civilizaiton シビライゼイション ) の発祥はない。文明と呼べるのは、東アジアでは「黄河文明」だけである。「日本文化」 Japanese culture ジャパニーズ・カルチャア はある。異様に研ぎ澄まされた神経質とも言える日本の固有の文化はある。 これは紀元五、六世紀以降になって、東アジア古代文明=黄河文明の東端としての、日本諸島に、黄河・揚子江文明の影響の下に出現したものとしてしか語りえないはずである。

先史・古代の日本に、中国を超えるような文化は存在しない。中国にはすでに六千年前に文字・文献が出現しているが、日本に文字が出現するのはやっと紀元四、五世紀のことである。
ところで、日本に文字をもち込んだのははたして何者なのか。これまでの歴史の教科書では、「大陸や半島の戦乱を逃れて渡来してきた人々によって漢字がもたらされた」などという記述がなされてきた。「渡来人」とは韓半島人(朝鮮人や朝鮮という言葉は、私は使わない。理由は後述する)、あるいは北方遊牧民族( 「騎馬民族」などとおかしな言葉を使い「騎馬民族=天孫降臨族による日本征服王朝説」を言う江上波夫というヘンな学者もいた ) のことだとされるが、これもおかしい。
当時の韓半島には、日本と同じでまだ国家の形成はない。だから朝鮮人や韓国人の渡来という考えはおかしい。 渡来人 ( 帰化人 )とすべきは、紀元一世紀前後(漢の帝国の時代 ) ごろから日本にやって来るようになった古代中国人たちのことである。
彼ら渡来人=中国人のことを正確に言えば、それは、「華僑」( overseas Chinese オーバーシーズ・チャイニーズ ) の人々のことである。


だから 「属国」としての日本の歴史は、丁度、今から2000年前の、紀元前後の頃に栄えた漢帝国の時代に始まる。この時期に、中国から商人たちが日本を訪れるようになり、現地人である倭人と交易を始めている。この中国人の商人たちはおそらく、日本に鉄鉱石や銅鉱石あるいは ひすい、めのう などの貴石の原料を交易船を仕立てて頻繁に買い求めに来たのだろう。毛皮商人でもあったかもしれない。人間が海外にまで渡ってゆく動機は、戦乱に追われて移動してゆく、というこれまでのイメージで考えるのではなくて、やはり商業活動=利益行動としての貿易を中心に考えなければならないはずだ。ユダヤ人という商業民族が新天地に、他の誰よりも早く入って行くのだが、それもほとんどは、原住民との毛皮交易ではなかっただろうか。

海外にまで進出した中国商人たちは十九世紀以降、東アジア各国 ( あるいは世界各地 )で 「 華僑 」 と呼ばれることになる人々の祖型である。そして彼ら 華僑 が、七世紀に日本という国家を建国させる原動力になっていく。
これから私が書く考えの多くを、岡田英弘(おかだひでひろ)東京外語大学名誉教授の学問に負っている。 岡田教授は モンゴル学( アルタイ学 Altaic studies アルタイック・スタディーズ ) の日本における 権威である。ユーラシア(ユーロ・アジア)大陸全体をまたがる世界規模の人類史を研究し、その一部としての東アジア研究として、モンゴル史を中心に東アジア文明全体を対象に研究しているきわめてスケールの大きな学者である。
アルタイ学という学問に従うならば、フィンランドもハンガリー(マジャール人)も、トルコも、チベットも、アルタイ語族に属する民族である。今の中国東北部(満州、南シ)ベリアに発祥したとされる、ウラル・アルタイ語族系のツングース、満州族、モンゴル族、あるいは、トルコ族(トッケン族、ウイグル族など多数)を含む大きな概念が、アルタイ学である。
岡田教授の 『倭国』 ( 中公新書、一九七七年刊 ) と 『世界史の誕生』(ちくまライブラリー 、一九九二年) そして『日本史の誕生』 ( 弓立社、一九九四年刊 ) の三冊に、私は非常に大きな影響を受けた。とりわけ 『日本史の誕生』 は衝撃的な本であった。私はこの本によって、日本という国の成立から現在に至るこの国の運命について、ほとんどの全体理解ができたと思っている。この本の出現によって、日本の古代・中世史の学問はすべて塗り替えられたと言っていいと思う。
『日本史の誕生』における岡田教授の主張をひと言で言うならば、「日本をつくったのは華僑である」ということである。このことを証明していくためのすべての学問的な作業は、『日本史の誕生』で完結している。本書をぜひ一読されたい。日本の歴史学をすべて覆す、きわめて重要な本である。


卑弥呼に 「親魏倭王」 ( しんぎわおう ) の称号が与えられた理由


岡田教授の大きな業績のひとつは、邪馬台国論争に、おそらくほぼ決着をつけたことである。最近でも次々に出土する刀剣や鏡の刻文から邪馬台国(やまたいこく、あるいは、やばだいこく ) 畿内説が強まっているように喧伝されている。しかしそれらはやがて崩れるだろう。岡田教授は、「魏志倭人伝 」 が描く邪馬台国の地理的な矛盾を、当時の中国大陸における政治権力闘争の実際から、鮮やかに解明してみせた。
以下に、岡田学説が描く三世紀のアジア世界を要約して、そののち 邪馬台国 に話をつなげよう。
西暦一八四年の「黄巾の乱」で漢帝国の秩序が崩壊すると、中国は魏・呉・蜀の三国が鼎立する三国時代を迎える。この三国時代に続く、晋(しん)の武帝の命を受けて、蜀の亡命知識人である陳寿(ちんじゅ)によって正史として書かれたのが『三国志』(二九七年に成立)である。この『三国志』は、はるか後世の明(みん)の13世紀に成立した講談本である『三国志演義』(羅漢中=らかんちゅう=作、中国四大奇書のひとつ) とはちがう。『三国志演義』は、正統の歴史書である『三国志』の内容を原型にした読物であり、『三国志』の方は、中国のきちんとした中国の王朝の交替を描いた正史「二十四史」の中の一冊である。


この『三国志』は、その性格上、当時の韓半島を制圧した晋(しん)の建国の祖である司馬イ(しばい)の業績をフレームアップし、この司馬イ(しばい)のライバルで、西域に覇をとなえた武将・曹真(そうしん)の業績を割り引くという政治的な役割を負わされていた。これが、『三国志』全六十五巻のなかに「烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷(とうい)伝」があるのに、それよりもはるかに重要なはずの「西域伝」がない理由である。
そしてこの「三国志の中の烏丸・鮮卑・東夷伝」の中のわずかな一部であるのが、我が日本国(当時はまだ、「倭」の国である)が登場して描かれている「魏志倭人伝」である。「魏志倭人伝」のことは今の日本人にはよく知られている。何故なら中学、高校の歴史の教科書の中にも出てくるからである。
当然この「魏志倭人伝」にも、その記述のなかに、さまざまな政治的思惑が混入していると考えなければならない。この重要な事実を、これまで日本史学者たちは誰ひとりとして指摘できなかった。岡田英弘が世界史全体の規模から見た東アジア史を構築して、更にその一部分としての日本史を誕生させることによってこの事が可能になった。
魏の明帝の時代の二二九年に、曹真(そうしん)は西域の小帝国であった大月氏(だいげっし)から使者を迎えるという大きな成果を挙げた。

( 副島隆彦注記。 正史『三国志』と『三国志演義』との史実と事実描写の食い違い等について、あまり研究している人がいないようだ。私は、今回それをやろうと思ったが、それでは、聖徳太子=蘇我入鹿 論 に入れなくなるので、後日、正確に調べて載せる。
ただし、以下のことだけは、注記しておこうと思った。『三国志演義』の中で大変な悪役として描かれている曹操(そうそう)が、後の魏の高祖となった人物だ。その子、曹不が魏の建国者だからだ。吉川英治の『三国志』でも大変な悪役として描かれている人物である。三国時代をつくる、劉備元徳と曹操と孫権の三人とも、どうも西暦184年の黄巾の乱の時に出現した農民反乱者の中から頭角を現した人物のようである。221年に劉備が、蜀(今の四川省)で皇帝を名乗っている。諸葛亮(孔明)がその宰相になっている。それに対して孫権は呉王であるが、222年に「黄武」を名乗り、のち、228年に、南京(建業)で皇帝を名乗った。

『三国志演義』は、劉備を主人公にして、正義の人として、全編、悪役・曹操と戦う物語だが、三国時代とは、この後に続く、五胡十六国 と呼ばれる時代も入れて、3世紀から6世紀にかけて中国が不統一のまま乱れていた時代だ。実情としては、どうも北魏(帝国)を名乗った鮮卑族が、華北一体もほとんどは支配していた、ようである。始めから、「中原の覇者」も居なければ、「漢民族」などというものも存在しないようである。
この視点も岡田学説である。 副島隆彦は、もう一度、これら全てを調べて、平易に書かなければならない。2002年8月31日記 )

岡田英弘によると、次のようになる。
紀元2世紀の当時の中国で、大月氏と呼ばれていたクシャン国は、二世紀の半ばになって、仏教の保護者として有名なカニシュカ王の時代に、東西トルキスタンからアフガニスタン、パキスタン、北インドの平原にまで至る大帝国を建設し、ガンダーラ美術を花開かせた。このカニシュカ王の孫にあたるヴァースデーヴァが、曹真の働きによって魏に使者を遣わせた大月氏王の波調(はちょう)である。このような由緒ある帝国から友好使節を迎えたということで、魏の明帝は最大級のもてなしをし、波調に対し「親魏大月氏王」の称号を贈った。
ところが、こうなると、魏の明帝は、重臣である曹真のライバルである司馬イにも同じような業績を与えなくては権力のバランスが保てなくなる。こうして二三九年に、司馬イの管轄する韓半島のさらに南の東夷から女王・卑弥呼の使節団が来ると、司馬●(イ)の名誉職への棚上げを画策した曹真の息子・曹爽(そうそう)は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、司馬●(イ)の面子を立てるという政治的配慮をしたのである。


邪馬台国は、下関周辺にあった


岡田英弘によると、以上が当時の東アジア世界である。よく知られているように、「魏志倭人伝」に書かれている通りに「陸行・・・日、水行・・・日」と、邪馬台国への道程をそのまま忠実に当時の速度でたどれば、邪馬台国の位置は今のフィリピンとハワイの中間あたりになってしまう。しかしこれは、『三国志』を書いた陳寿が邪馬台国の正確な位置を知らなかったのでも、暗号で記したのでもない。陳寿の記述する邪馬台国への道程は、魏からクシャン国への道のりとほほ同じである、と岡田教授は、資料から解明している。同様に、戸数「五万余戸」とされる邪馬台国の規模も、クシャン国の夏の都ベグラムにほぼ匹敵する。
つまり、司馬●(イ)の業績を顕彰するという目的を負わされた陳寿は、東方に大月氏国に匹敵する仮想の帝国を創造しなければならなかったのである。したがって「魏志倭人伝」の描く邪馬台国は、魏帝国からの距離と同様に、その規模もまた大幅に割り引いて考えなければならない。邪馬台国は、われわれの想像とは異なって、実際にはわずか数百戸の集落でしかなかった可能性が高いからである。紀元3世紀の当時のわが国の集落の様子を想定してみるとそのようにならざるを得ない。
このように、中国の政治史のリアリズムから「魏志倭人伝」を読み解く岡田教授の試みによって、これまで謎とされてきたことのほとんどが解明された。では、肝心の邪馬台国(やばだいこく)はどこにあったのか。
岡田教授が『日本史の誕生』で大胆に提案した説によれば、当時の倭国の国々の配列が「魏誌倭人伝」の記述どおりであったとすれば、邪馬台国の場所は、いまの下関市あたりである。下関は江戸時代には赤間関(あかまかん)とも馬関(ばかん)とも言った。「下関戦争」のことを「馬関(ばかん)戦争」とも呼ぶ呼称の中に残っている。
下関は、日本地図を概観するとわかるとおり、本州の中では、韓半島や上海に一番近いところにある。下関は、長崎から回ってきた船が瀬戸内海を通って難波(大阪)の港に入るのにどうしても欠かすことのできない重要な位置にある。九州の中心が太宰府(福岡)だったのに対して、下関は大陸に向かって開いた本州の窓口である。そして天然の良好である。この事実は極めて重要である。
「魏志倭人伝」に記された倭国二十九ヵ国のうち、対馬国、一支国から先の四ヵ国が北九州沿岸にあることは、ほぼ異論がない。邪馬台国は八ヵ国目で、二十九ヵ国目が「女王の境界の尽きるところ」とされる奴国、その南に狗好国が位置する。岡田教授は「魏志倭人伝」の記述を、交易船が北九州沿岸に沿って航海を続け、関門海峡から瀬戸内海に入り、さらに東に進んで難波(大阪)に至る道程と考えた。邪馬台国の勢力範囲の東端である奴国は難波に位置し、対立する狗好国は紀伊国にあたる。だとすれば、邪馬台国の位置は、九州と難波を結ぶ交通の要衝である下関近辺となる。卓見である。


むろん、現在の下関周辺を掘り返してみても、邪馬台国の遺跡などは発見されないだろう。先に述べたように、邪馬台国は私たちが考えるような大規模なものではなく、華僑の居留地を中心にした集落(海辺の環濠集落。インディアン砦)のようなものだったろうから、人々の期待に応えてくれるような遺跡など残ってはいないのである。


華僑の居留地の周りにできた集落が国になっていった


戦後の日本古代史学を呪縛し続け、私たち一般読者層までも巻き込んだ、あの「騎馬民族征服王朝説」の江上波夫・東京大学名誉教授の学説は、五年ほど前に一拠に瓦解・消滅した。「騎馬民族=天孫降臨族説」は、佐原真・歴史民俗博物館教授(以前は奈良の橿原(かしわら)考古学研究所・研究員)によって、『 騎馬民族は来なかった 』(NHKブックス、一九九〇年)その他の著作のなかで、完膚なきまでに打ち破られた。「騎馬民族」などという学問上の名称はそもそも存在せず、それは遊牧民族( nomad ノウマド )のことであるが、日本にも来ていた遊牧系民族は、馬や牛を去勢( castration キャストレーション)する技術伝統がないことなどを論拠として、騎馬民族征服王朝説を葬り去ったのである。
この「騎馬民族=天孫降臨族説 」と並んで、「 天皇家朝鮮渡来説 」も広く巷間に流布して来た。だが、この説にも多くの難点がある。
われわれ日本人は、「帰化人」「渡来人」という言葉にこれまで多く惑わされてきた。五、六世紀の古代史関係の本では、帰化人、渡来人という言葉を、そのまま「朝鮮半島から来た人々」すなわち、朝鮮人のことだと考えているのが大半である。だが、じつはそうではない。
まず、そもそも「朝鮮」という言葉は、紀元前二世紀の朝鮮国と十五世紀に李氏朝鮮国が建国したときに用いられた言葉である。英語ではKorea(コーリア)であるから、これが九三六年にコーリアを統一した高麗国(十世紀~十四世紀)の呼称であることはあきらかだ。したがって近い将来、コーリアン・ペニンシュラが統一されるときには、これを統一して、韓民族の地として「韓半島」と呼ぶべきで、朝鮮半島という言葉は消滅させるべきであろう。
「天皇家朝鮮渡来説」によれば、韓半島から日本に渡ってきた韓民族が、西日本地域を征服し、天皇家を興こしたとされる。だが岡田説によれば、「空白の四世紀」(晋末の混乱のために中国に文献資料が残されていないのでこう呼ばれる。べつに日本列島で大事件が起こったわけではない)に文字(文明)を携えて倭国に渡ってきたのは、既に紀元前後から韓半島南部に居住していた華僑たちであり、あるいはそれらとの混血した種族であるから、それ以前もそれ以後も、韓民族が大挙して日本に渡来したわけではない。

ここで古代の華僑とはどういう人々であったかについて、岡田説に従って簡単に説明する。
華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港に居留するようになり、やがて現地人の女と結婚して子供をつくる。ところがこの混血の二世たちは、中国人としての強烈な誇りを失わず、自分のことを中国人だと思い続ける。たとえ何代続いても自分たちを中国人だと規定し、現地人に同化しない。文化習俗もそのまま中国式である。ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く

岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。この国というのは文字どおり口の形をしており、周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、自分たちはその中に居住した。現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。

邪馬台国の女王・卑弥呼が「三十余国を従え」というのは、私たちが思い込んでいるような西欧的な武力による支配服属のことではなく、中国船と交易をする際の倭人側の代表として大きな権限をもっていた代表者のことであって、周りの小国は、この邪馬台国に友好商社代表として交易の仲介をしてもらうことで恩恵をこうむっていた、という意味である。

私たちは東アジアの古代史を考える際に、西欧のイメージで武力制圧ばかりを想像してはいけない。人間が生きていくうえでは、商業(交易)=経済こそが重要だ。政治的な統治支配の形態よりもまず、どのようにその王国は経済活動を営んでいたか、を見なければならない。だから、当時の中華帝国から見れば、倭王を含めた周辺属国の国王たちは「三井物産タイ支店長」 のような立場の人々であったのだ、と岡田教授は言う。

このように邪馬台国は、華僑が大きな経済的・文化的影響をもっていた社会であった。卑弥呼が「鬼道に仕え、よく衆を惑わし」たというのは、べつに神秘的な妖術や魔法で国を支配したという意味ではなくて、三国時代の魏で流行し「五斗米道」(ごとべいどう)という宗教を奉じていた、ということである。この五斗米道は、道教と仏教が混ざって土俗化した宗教だったようだ。のちの中世の陰陽道(陰陽五行説、易学)もこれに類似していることから、この五斗米道がその後、日本の神道になっていったと考えたほうが理屈に合う。日本人の民間信仰の多くも、この五斗米道起源であろう。
平安から室町まで公式に栄えたのは仏教だが、一歩裏に回ると、陰陽道(おんみょうどう。風水 ふうすい )のほうが民衆だけでなく武家や貴族たちにさえ信じられていたようだ。これは江戸時代まで続き、たとえば東京浅草の浅草寺(せんそうじ)というのは、徳川家が京都から招来した公式には天台宗の密教寺院だが、表面のつくりは民衆がお参りする陰陽寺に変質している。


東アジア全体に浸透する華僑ネットワークとの類推


中国の歴代の皇帝は、税金の取り立てと金貸し業を直営で営む企業家としての側面をもっている。けっしてすべてを武力で支配し服属させたわけではなくて、帝国そのものはあくまで交易と金融業で栄えたのである。当たり前である。現在の日本だって、秀れた技術による自動車や電子機器を世界中に輸出して、銀行と商社を中心に繁栄していることを考えてみればよい。日本(倭)が、西暦五七年に、後漢の光武帝からあの有名な金印をもらって「漢倭好国王」(かんのわのなこくおう)という称号を授けられたことからも、すでにこのとき中国の属国のひとつであったことは公式にもあきらかだ。


この簡単な事実さえも、日本ではなかなか正面から認めようとしない。だが、その際に、中国に直接服属したのは中国からやってきた華僑たちであって、現地人たる倭人たちは、その華僑がつくった国の周りに群れ集って住んでいただけの原住民ということであったろう。漢皇帝の金印は、当時トルキスタンにあった大月氏国に至る周辺諸国からも、同様のものが発見されている。

ここで余談だが、現在のフィリピンでも、為政者になった貴族階級であるアキノ元大統領の出身のコハンコ家のように華僑系貴族が沢山いる。スペイン統治時代以来の純系のスペイン人を気取る場合もあるが無理である。台湾の李登輝元総統も華僑の中の客家(はっか)という、建設、港湾作業、運輸、郵便業に従事する種族に人である。シンガポールの実力者(上級相)のリー・クワン・ユー氏も華僑であり、その中の客家である。マレーシアのマハティール首相も、純系のマレー人(インドネシア人もマレー人、マラヤ人)ではなくて、華僑との混血だと思われる。

岡田教授は、一九六三年のマレーシア(マラヤ連邦)のイギリスからの独立による建国との類推で、六六七年の日本国の建国を論じている。マレーシアの経済を握っているのは、いまも華僑(人口の3%とされる)である。彼らは人口としての多数派であるマレー人(マレー人が50%、インド人が20%であるとされる ) となるべく紛争を起こさないようにマレー社会に同化したふりをして、マレー人政治家や軍人たちを上に押し戴く形をとりながら、自分たちの経済支配権を安泰にしている。マハティール首相は、「ブミプトラ」(ブミとは、自分たち、という意味で、マレー人のことであり、マレー人を優先して取り扱う政策ということである)を推進しているがうまく行かないようだ。
このことは、インドネシアやタイ、そしておそらくベトナムでも同様である。これらの国々では、一皮めくれば華僑のネットワークが社会を支配している。そして何十年かに一度、現地人の華僑に対する反感が爆発して、大虐殺事件が起こって政変になる。このような人種暴動という形になるのである。ベトナム戦争終結後の1975年に、大量に流れ出したボート・ピープルというのはほとんどが中国(華僑)系ベトナム人たちである。旧ベトナム政府の高官たちは既に、その前にアメリカのカリフォルニア州のオレンジ郡に集団で亡命している。あれはしたがって、ベトナム人による華僑排撃だったと考えることができる。一九六九年にマレーシアで起きたマレー人と華僑との流血の衝突事件や、一九六〇年のインドネシアで起きたスハルト政権による華僑五十万人殺害事件( 「9.30事件」と呼ばれるジャカルタ暴動 ) も同様の性質である。

この反華僑暴動は、近年では、1997年9月にもインドネシアで起きている。アジア通貨危機をアメリカに仕組まれて、それで一気に金融危機に陥った東アジア諸国の国内では、それは民族対立、人種間抗争という形で仕組まれて噴出する。この暴動も直接には、アメリカの情報機関であるCIAが扇動したものであり、これによってスハルト政権は崩壊した。この時のインドネシアでの民衆暴動は、意図的に華僑系の銀行を襲撃して閉鎖に追い込むという形を取った。

このような反華僑暴動が、日本の六四五年の「大化の改新」にも通じる真実だと私は判断する。岡田学説を、7世紀の建国時の日本に類推すると以下のようになる。すなわち倭人の王たる天智(てんぢ)が、華僑の王たる蘇我入鹿=聖徳太子を襲撃したのが「大化の改新」である。
すなわち、「大化の改新」なるものが本当にあったとすれば、それは、現地人である倭人による、排外主義の感情に満ちた人種暴動のようなものであったろう。
それに対して、その次世代の華僑の王・天武(てんむ)が、倭人・天智派に逆襲をかけたのが六六二年の「壬申の乱」であろう (詳細は後述)。

ベネディクト・アンダーソン Venedict Anderson という、アメリカ人の東アジア学者(戦略学者)がいる。彼はインドネシアで生まれ育ったアメリカ人で、現在は WPI ( World Policy Institute = “ 世界政策研究所 ” ) というシンクタンクの主任研究員である。彼は、『想像の共同体』(’ Imagined Community ‘ イマジンド・コミュニティ)という大変優れた著作のなかで、現在のタイ王室が、じつはほとんど中国系であることを暴いてしまった。タイ政府は怒って、アンダーソンの入国を禁止している。タイにとって、自国の王室がじつは中国系であるという事実を書かれることは、最もイヤなことである。


ちなみに、アメリカのインドネシア研究学者(専門家)のことを、「インドネシア・ワーラー」という。インドネシア・エクスパート Indnesia expertsとも、インドネシア・ハンド Indonesia hands ともいうのと同じである。これと全く同じように、アメリカの日本研究学者のことを、ジャパン・エクスパートとかジャパン・ハンド「日本あやつり専門家」と呼ぶ。一昔前は、ジャパノロジスト Japanologists と言った。エドウィン・ライシャワー博士らのことである。このように世界覇権国(帝国)というのは、 属国群のそれぞれに、数百人の専門の研究学者を育ててはりつけさせるのである。幼い頃にその国で育ったとか、奥さんがその国の人である、という基本性格を持っている。

タイやべトナムが中国系の王朝を立ててきた、という事実を、のちにその国の正統の国家歴史は、必死で隠そうとする。 同じことは、イスラム諸国のスルタン(土侯)たちやロシアの皇帝(ロマノフ朝も)、それからインドのチムールやムガールの王家にもいえる。ムガール Mogul 王朝とは モンゴル人の王朝(1526年建国)ということである。彼らは、自分たちの祖先がかつて、「自分はモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの末商(子孫)だ」と名乗っていたことをバラされるのがいちばんイヤなのである。建国の神話に属する歴史上の事実を、あとになっておおい隠すことに躍起になったのである。
(副島隆彦です。ここで、中断して、前編とします。今から、池袋でやる講演会に行かなければいけませんので。 後編は、2、3日中には、手を加えて載せます。Rss-K君、
どうもありがとう。)
副島隆彦拝

2010年11月7日日曜日

03304■平城京から平安京は温暖化

平安京は温暖化から生まれた  <寺社 歴史

平安京は温暖化から生まれた

安田喜憲によると,平安京は温暖化が原因で生まれました。
  1. 748年、桓武天皇は、平城京から長岡京へ七四八年に一度、都を移しました。
    長岡京は低地で、淀川から大阪湾に出る交通の要所でした。
  2. 740年ごろから50年間で平均気温が3度上昇しました。
    これを大仏温暖期とよびます。
    温暖化で台風などが相次ぎ、風水害の被害は、
    温暖化前の10倍にも達しました。
  3. 758年、平安京へ遷都しました。
    洪水被害を受けにくい場所を求めてのことでした。
「日本経済新聞」 2009年1月8日

2010年1月30日土曜日

03303■歴史学とは文字が必要

副島隆彦氏は「歴史学とは何か」から


1、歴史学は文字があってこそ

歴史学とは、近代学問における定義中の重要な事実であるが、文字、すなわち刻文その他の文献があって初めて成り立つものである。
文献考証とその意味づけからしか歴史学は出発しない。


2、考古学は古代史額の対象でない

文字の使用以前の段階にある新石器時代の土器や遺構は考古学の対象であって、古代史学の対象ではない。
歴史学は、文字の有無によって先史と古代に分けられるのである。
これが世界基準での学問区分である。
青森県の三内丸山遺跡の発見以来、わが国では縄文文化の見直しが盛んだが、文字や文献は発見されていないのであるから、そうした遺跡に対して「高度な文明」などという不正確な言葉を使ってはいけない。

3、日本に文明の発祥はない

残念ながら、日本には「文明(シビライゼーション)」の発祥はない。文明と呼べるのは、東アジアでは「黄河文明」だけである。「日本文化」はあるが、これは紀元五,六世紀以降になって、東アジア古代文明=黄河文明の東端として、その影響下に出現したとしか語りえないはずである。


4、日本の歴史は華僑がつくった

属国」としての日本の歴史は、紀元前1世紀の漢帝国の時代に始まる。この時期に中国から商人たちが日本を訪れるようになり、現地人である倭人と交易を始めている。
彼ら「華僑」が、7世紀には日本という国家を建国させる原動力になっていく。
645年 大化の改新
662年 仁申の乱
667年 天智天皇
その後 天武天皇
720年 「日本書紀」完成


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(まとめ)
・これからいきますと、「日本書紀」の720年までは日本は、土着人のただの鼻たらしということになります。

・このショックで、しばらくブログが書き込めませんでした。

・しかし、エハンデラヴイの情報で、「死海文書」が1945年ころ発見されて注目されていることから、
「ホツマ」と同じではないか、と改めて意欲が湧いています。
また書きます。
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(死海文書とは:はりつけ)

聖書には原本がなく、最古で10世紀前後の写本が伝えられていた。ところが第二次世界大戦直後の1947年、 約2000年前の写本、「死海文書」が発見された。
ベドウィンと呼ばれるアラブ系の遊牧民が暮らし、エルサレムの東方に位置するクムランという地で、1人の少年が 迷子になった山羊を探すために、死海近くの崖を登っていた。 崖の途中にある洞穴(幅 180 cm 奥行き 720 cm)から偶然に発見した数千の資料は、「エステル記」を除く旧約聖書の写本であり、 その当時の聖書と内容を照らし合わせても、重大な違いはなく、聖書は忠実に語り継がれていたことがわかった。 しかしながらこの遊牧民が発見したと言う話は、真実かどうかは不明である。というのも、発見当時の事情を このベドウィンに確認した時には、発見から2年もの月日が経っていたというのと、 密輸で生計を立てていたと思われるベドウィンは、警戒心から真実を語っているかどうか?という点などがあった。 とにもかくにも、羊皮紙(獣皮紙)に葦のペンで書かれたこのヘブライ語の文章、巻物は奇蹟的ともいえる 発見であった。


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2010年1月7日木曜日

03302■副島隆彦[華僑が日本をつくった(部分)]

なんと! 日本という国は776年に華僑によってつくられた。その前に文化としての日本はなかった!!

・この説は
①、岡田英弘東京外語大学名誉教授の「日本史の誕生を元として

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)


②副島隆彦氏が「天皇の伝説」のなかに「天皇と華僑 聖徳太子は蘇我入鹿である」として掲載したものです。

天皇の伝説 (オルタブックス (001))

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全文は下記リンクにあります。このページにはその一部としてアタマ出ししたものです。
あまりにも衝撃的な説ですので、私もまだ消化しきれていません。


聖 徳 太 子 は 蘇 我 入 鹿 (そがのいるか) で あ る 」
副島隆彦 著

(編集部によるイントロダクション)
日本は原住民である倭人(わじん)と交易を求めてやって来た華僑(中国人)が年月をかけて混血してゆくことによって出来た王国である。西暦776年に「近江令」(おうみりょう)の中に初めて出現した「日本」という言葉をもって日本建国の年と考えるべきである。従来の日本歴史学を統合する「属国・日本史論」の古代史編をここに始める。

(はじまり)
私は日本史についても調べて書きたいと思っていた。
私がこれまで考えてきた日本通史の概要のうち、ここに掲載する古代に関する部分は、一九九七年五月に五月書房(ごがつしょぼう)から刊行された『属国・日本論』のために書き下したものである。ところが、「著者を守る」という理由で、出版社側の判断により、この古代史の部分は、採用原稿から削除されため、発表の場を失っていた。今回、オルタブックス編集部の依頼により、単行本用に書いた原稿に若干の加筆をし、ここに初めて発表するものである。 1997年9月   副島隆彦

拙著、『属国・日本論』の第三部「属国日本の近代史」で私は、古代から中世、近現代に至るまでの日本の歴史を、日本はじつはずっと文明の周辺属国(トリビュータリー・ステイト)であったのだ、という観点から祖述しようとした。しかし出版社側の判断によって実際には近現代史の部分しか掲載されなかった。祖述(expound イクスパウンド)するとは、特定の先人の学説を受け継ぎ、それを土台にして更にその上に自説を展開して、同じ諸事実に対して別の角度から光を当てて自説として、そのことによって学問(サイエンス)(=科学)を推し進めることをいう。
私の日本史学についての知識は、きわめて限られている。私は日本史学者ではないので、専門的な歴史資料 ( 一次資料としての古文書や国家外交文書 ) の 古代漢文のまま読み込みや正確な文献読解 ( text critic テキスト・クリティーク )などはできない。そのような学問的な訓練は受けていないし、また、フィールド・ワークとしての歴史学を志したこともない。自分の人生時間をその領域に投入しようと思ったこともない。
それでも 私は、「属国」日本論という大きな観点からの日本通史 ( 古代から現代まで通して叙述した歴史 )を 概略、俯瞰的な 全体像として呈示せねばならないと思ってきた。それは日本人の誰かがやるべきだったのに誰もやっていないと長年強く感じてきた。
私の考えは、日本が紀元前後からの丁度、二千年間は中国歴代王朝の藩国・冊封国であったとするものだ。そして、150年前のペリーの黒船来航直後は、アメリカの属国になりかけたが、アメリカ国内での南北戦争(ザ・シビル・ウォー)の勃発で、アメリカの日本支配が一時停止した。その間に、西欧列強(ヨーロピアン・パワーズ)の中の最大の大国であったイギリス(当時は、大英帝国 The British Empire である) の属国を続けた。その後、1945年8月の第二次世界大戦での敗戦の後は、アメリカ合衆国の属国なって現在に至る。これらの大柄な日本歴史の基本性質を、歴史上の諸事実(ヒストリカル・ファクト)に照らして、大胆に叙述していくことが私の日本思想家としての構えである。
むろん、私の日本史論を素人の仕事だと無視するのはいっこうにかまわないし、私の説 ( 歴史事実への別な光の当て方 ) の細かな誤りを指摘して反駁して下さることも自由である。私は明らかな事実であることでそれが周囲の事実との関係でほぼ確実に明らかであるとされることに対してはすべて認める、という態度を取る。私は要らぬ隠し立てをする態度は一切取らない。ただ勉強時間不足の為に自分が知り得なかったことで新たに知ったことでそれが事実であることの自然な推論が立つことは、すべて認める、という姿勢である。
私の説は、「属国としての日本通史」という従来とはまったく別の観点に立ち、かつ、「世界史の一部としての日本史」という太く大きい一本の柱に貫かれているのであって、この「属国」日本という視角は、十分に学問(=科学)的な条件を備えたものであると考えている。もし私への反論があるなら、同じく、世界史の一部としての大柄な日本論であってほしい。

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以下はこちらからどうぞ、全文掲載しております。



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全文を読んだうえで、まとめております。上記論を全文お読みの上、まとめをご覧ください。

(まとめ)

・余りにも衝撃的な説に出会いカルチャーショックを受けています。私の中でどう受け取り、組み立てたらいいか迷っていますので、とりあえず資料として掲載しています。
これを読んで今考えていることは
・東北縄文文化研究会としては、縄文時代に古代日本文化がなかったというのには異論がありますが
・776年から正式な日本というのは、華僑が日本をつくったという説に立てば
1、これで「空海」の謎がほとんど解けたことです。なお私は四国お遍路「四国八十八ケ所・空海の言葉刻字奉納」を三年間かけて完了しています。全部の奉納は香川県の施設にしております。
  ①空海が生まれ地は瀬戸内沿いの香川県です(華僑の拠点地区)。したがっていろいろな経緯がありますがついに遣唐使の一員に加わったこと。
  ②上陸後、書の国・中国人をうならした「書の腕前」はなぜか。
  ③なぜ中国本土に行っても、中国人に十分に通じる言葉がペラペラ話せたのか
  ④大量の資金を持参できたのはなぜか(水銀持参との説があります=貴重な朱となるため、貴重で高価)
  ⑤誇り高い中国人の中でいながら、密教を恵果阿闍梨から受け継げたのはなぜか。
こんなところが、
ほんとうに空海が華僑の流れをくむものだとしたら、私はなるほどと納得できます。


2、坂上田村麻呂はもちろん華僑系であり
  すべての資料に渡来人とありますから、渡来人というより華僑の一員で納得できます。
③慈覚大師、行基、

  この偉人たちは、西の空海・東の慈覚大師ですから、華僑かどうかは別として、国家公務員又は
律令国家の伝道師なのでしょうか。
④芭蕉、菅江真澄 などの姿がすべて理解できます。

  江戸時代ですから、華僑とは関係なく、「芭蕉スパイ説」のような捉え方が正しいと思っています。
普通の人なら、お金も持っているはずはないし、第一関所をすんなり通れるのでしょうか。
(別途に書いております芭蕉はただの隠密ではなかった


まだまだ言葉足らずら、不勉強さがあると思いますが、衝撃の説に出会った段階での意見です。
(2010・3・9追記)
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