2012年12月28日金曜日

◆唐松神社 物部



秋田へはいり、『物部文書』が伝わる唐松神社があることに気付いた。『物部文書』の付いて知ってはいたが、未だ物部氏の末流が代々宮司職を継承する神社を訪ねたことはない。早速、同行者らの快諾を得て参拝に向かった次第。
 神社の参道の両側には、樹齢二、三百年と思われる杉の大木が並立する。普通、一般的には何段か石段を上り社殿に辿り着くのだが、此処は何故か参道を徐々に下り、低地の社殿に到る。江戸初期建造とされる社殿はさほど大きくはないが、安産と子授けの神と親しまれているせいか、幼児連れの家族が多い。
 参道より下がった低地に神を祀るという例は、奈良の広瀬神社などにも見られる。この低地に祀られる神は、一部には蔑まれる神という見方があるようだ。当時の事情を、少し振り返ってみたい。
 
まず、物部氏だが、遠祖は饒速日命である。『日本書紀』神武天皇の記述のなかで、“嘗(むかし)、天神の子有(みこま)しまして、天磐船に乗りて天より降止(いでま)せり。號(みな)を櫛玉饒速日命と曰(まを)す”とある。この饒速日命は大和の豪族・長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)(亦名は鳥見屋媛)を娶り、初めは東遷の神武天皇の侵攻に対して共に立ち向うが、己れが天神であることを知り、逆に長髓彦を裏切り、これを殺してしまう。そして神武天皇に帰順する。

 この饒速日命が降臨されたとする処は、何ヵ所かある。『先代舊事本紀』では天神の御祖から天璽の瑞寶十種を授けられ、河内國・河上(いかるが)の哮峯(たけ)に天降る。秋田の『物部文書』では、秋田県と山形県境の鳥見山(鳥海山)に降ったとしている。
 この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、といった処にも饒速日の降臨伝承があるが、もともとは大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、それぞれ集団毎の始祖神話が、その土地に集約した形で創り上げられたようだ。
 この饒速日命から八代後が膽咋連(いくいのむらじ)である。『日本書紀』では、仲哀天皇が崩御し、政情不安になることを恐れた神功皇后は竹内宿禰と諮り、一時期その死を隠そうとする。その際、相談する四名の重臣のなかに膽咋連が登場している。
秋田・唐松神社、天日宮
 唐松神社の秋田物部家の家系図では、この膽咋連を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名はなぜか表に出た形で記載されず、守屋の子、つまり尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。




 仏教が公然と伝来したのは欽明朝(五三九~五七一)だが、日本の神を奉斎する排仏派の尾輿と守屋は、帰化系氏族と結んで新たに台頭して来た崇仏派・蘇我氏と、神仏の宗教戦争を引き起こす。

 用明天皇崩御の年(五八七)、両氏族は皇位継承をめぐって対立する。穴穂部皇子を擁立する物部守谷は、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れてしまう。百済王家出自の蘇我氏の勝利は、百済からの多くの帰化人と、当時の経済テクノクラートを押さえた結果と思われる。

 蘇我氏の天下で仏教は隆盛の一途を辿るが、蘇我氏に追われた物部の一族は各地へ離散し、山間や海辺の僻地で隠れ住むようになる。『物部文書』に依ると、守屋の子で三歳になったばかりの那加世は祖父・尾輿の家臣に匿われ、奥州を転々としたという。
 聖徳太子の崩後、蘇我氏は旧にも増して横暴となる。遂には太子の一族をも滅ぼし、天皇の廃立さえも企てるようになり、周囲の反感も強まる。ここに中大兄皇子、中臣鎌子等が蘇我氏打倒を目指し、蘇我入鹿の暗殺を決行する。翌日、入鹿の父、馬子の子・蝦夷は自殺し、物部氏が滅亡してから約五十八年後、隆盛を誇った蘇我氏もあっけなく潰え去った。

 この六世紀から七世紀にかけ、大化改新を経て古代国家確立に向けての時代は、激動の時代でもあった。蘇我氏が天下を取っていた半世紀の間に物部本流の影は消え、祭祀についても、奉斎する神に変動があったようだ。
 秋田物部家は那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。物部氏は饒速日に繋がるが、古代の歴史のなかで様々な表情を見せる。物部守屋にまつわる伝承や、物部氏を祀る神社も数多い。
 先の広瀬神社は、若宇迦能売命のほか櫛玉命、穂雷命を祀るが、この櫛玉命は饒速日命のことである。饒速日は長髓彦と共に大和朝廷に刃向い、後でそれまで共に国を治めて来た長髓彦を裏切って殺している。また、物部氏と蘇我氏の闘争で敗れた物部氏は、朝敵として追われている。
 守屋の子孫達が神社を建立するにしても、朝敵となった自分たちの祖神を祀ることを、朝廷に対しての気遣わなくてはならない。また、祖神の行動を認めないという証明として、低地に祀ったのではないか…。これから先、物部の神の復権はあるのか…。
 もとは秋田物部家の邸内社という天日宮は、周囲に花が綺麗に活けこまれ、何十万個かの天然石で築造されている。変わった神社建築の空間のなかで、ふと時の経つのを忘れてしまった。
(奈良 泰秀  H16年6月)

◆秋田物部の不思議

http://blog.mushanavi.com/talisman/?S=14640さんから




唐松神社に見られる異様さは、この神社が、物部氏と深い繋がりあることと関係していると推測されているらしい…。物部氏は、古代日本で蘇我氏と権力を争った名家であったが、仏教の導入を巡って崇仏派の蘇我氏と対立。6世紀後半、聖徳太子と組んだ蘇我馬子によって、日本の神を奉斎する排仏派の物部氏は敗れ、その血筋も歴史の表舞台から消え去るという運命を辿った。 
 
 唐松神社の祭神は、物部氏の遠祖とされる饒速日命(ニギハヤノミコト)であり、また、この神社の宮司は代々、物部姓を名乗って来たそうだ!いわば、歴史の傍流へと追いやられた敗者の側に立つ神社こそ唐松神社なのではないでしょうか? 
 
 では、なぜ畿内にあった物部氏が、当時、辺境であった東北へとやって来たのでしょうか?この辺りの事情を説明してくれるのが、長らく外部者には見る事を禁じられてきた秘中の秘とも言える文献「物部文書」である。「物部文書」は、唐松神社の代々の宮司が一子相伝で継承してきた文献で、「古事記」や「日本書紀」と同様、神々が織りなす神話の世界から、日本という国の成り立ちを説明している。この書は、昭和58年(1983)になって、ようやく一部が公開されたが、大部分は依然として未公開のままになっているというのが現状だ…。 
 この「物部文書」によれば、蘇我氏との対立で敗れた物部守屋の一子、当時まだ3歳であった那加世が、その臣下に匿われ、秋田に落ち、東奥の地で生き延びたという…。この時、那加世が持参した古代史料の写しこそ、「物部文書」であると言われている。また、同書では、物部氏発祥の地は、そもそも東北であったとも指摘している。饒速日命が降臨した場所は、出羽国の鳥海山であり、天より持って来た10種の神宝を奉じた場所こそが、現在の唐松神社であった!とされている。那加世は、遠祖である饒速日命ゆかりの地を目指し、数世代を経て、唐松神社のあるこの地で落ち着くのである。唐松神社宮司家は、那加世で子孫であるという。 
 
 物部家の子孫が神社を建立する際には、中央の朝廷に対し気を遣わなくてはならなかったでしょうね…。それゆえに自らの遠祖を低地に祀ったと考えるのは、私のイメージだけでしょうか?  

◆唐松神社もおもしろい

http://kamnavi.jp/mn/higasi/karamatu.htmさんから


 唐松神社、唐松山天日宮
秋田県仙北郡協和町境 mapion




唐松神社





祭神
唐松神社 軻具突命、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
日天宮 饒速日命、玉鉾神、愛子神


由緒 神社発行の唐松山御縁起大略によれば、太古、鳥海山に降臨しこの地に居を構えた饒速日命が天祖三神を日殿山に祀り、十種の神宝を安置し日宮と称したのが創祀としている。 その後、饒速日命は畿内に降臨し、後裔の物部氏は神宮皇后の安産祈願と香具土神、宮毘姫命の御霊代を併せて大和国に社殿を建立したと記されている。
 その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋の一子那加世が東奥の地に分け入り数代の後、元宮である現在地唐松山頂にお祀りしたとされる。

 唐松神社に秋田物部文書が伝わっており、秋田県協和町の進藤孝一氏の著作になる秋田「物部文書」伝承(無明社)に紹介されている。唐松とは韓服で神功皇后の御腹帯の意との事である。

 進藤孝一氏は「緑なす森林の国」:(古史古伝の謎:新人物往来社)に上記書籍の内容をコンパクトにまとめられているので、これを参考に以下に紹介する。

 鳥海山
 東北第二の山、美しい姿は出羽富士と呼ばれる。古くからの山岳信仰の山で大物忌み神社が祭られている。
 秋田物部氏の記録である「物部文書」には祖神である饒速日命が天の鳥船に乗り鳥海山を目指して天降りしたとある。

 天降り
 饒速日命は祖神の大命により天の鳥船に乗り、千樹五百樹の繁茂する日本の国を発見し、ここは伊賀志美国なりと鳥海山の潮の処を目指して天降り、国名を「繁木之本」と号した。 天降りは海上経由の移動であるが、鳥海山の麓三崎の半島に上陸したのであろう。 


 物部氏の出自
 天降り伝承を持ち、緑なす森林を崇拝する氏族、朝鮮半島以北の緑の少ない地域の出であろう。 北方系の蒙古族が朝鮮半島を経由して天降り・神宝などの伝承を取り込み、日本列島に渡来した説もある。 
 秋田物部氏の王国
 鳥海山から雄物川中流あたりを支配した。船で雄物川を遡り支流の逆合川を遡上して日殿山に「日の宮」を置いたと物部文書には記載されている。 神祭りの土地である。農耕文化とは疎遠であった暗示する。 

 秋田物部氏の神々
 玉鉾神は地祇神で古代の武器である玉鉾から変じて、邪悪を祓う祭具となった。
 愛子神はみやびひめであり、玉鉾の対神としての女神であろうか。
 それとも愛宕神で香具土神であろうか。 

お姿 秋田は森の多い国である。唐松神社付近も余り開けておらず、森林の豊かな地域である。その中でも多数の杉の大木がそびえ立っているのが唐松神社参道である。 樹齢300年と言う。宮司宅庭内に唐松山天日宮が鎮座する。唐松神社の社殿は参道を徐々に下っていき、低地に鎮座する。古来より立て替えが繰り返されてきたのであるが、古のかたちを守ってきたとのことである。 低地に神を祀っている神社としては大和の広瀬神社が有名である。広瀬神社の現在の主祭神は若宇加能売命であるが、本来は饒速日命もしくは長随彦とも言われる。参道を下る地に祀られているのは蔑まれている神を意味するとも言われる。 長随彦は大和朝廷への敵対者である。饒速日命は共に国中を治めてきた長随彦を裏切った神である。また神社縁起の様に守屋の子孫が建立した神社であれば守屋公を祀るはずであるが、公もまた朝廷側に滅ぼされた敗残者である。祖神であるから祀らねばならず、さりとて朝廷側の目を気にし、また祖神の生前の行動を認めていない証として、低地に祀ったのであろうか。  


天日宮



唐松神社

2012年12月25日火曜日

◆秋田城の外郭(城壁)は」なぜつくられたか


秋田城外郭南門が発見されました、ナゼ外郭が・・・

1,秋田城外郭
秋田城は733年から約200年間設置されていました。
秋田城は東西南北550mの城壁に囲まれていました。
奈良時代は710年からですから733年はすぐですね・・・

2,外郭門
【wiki】

8世紀当時の中央政府は、東北地方蝦夷軍事的制圧を積極的に進めており、日本海側では、708年和銅元年)に出羽郡をたて、712年(和銅5年)出羽国へ昇格させた。この前後、出羽経営の軍事・行政拠点として出羽柵(でわのき)という城柵が現在の庄内地方山形県)に置かれた。その後、中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。
なぜこんなに立派なものが・・・洟垂らしの蝦夷の地へ・・・


3,城壁とは
【wiki】
城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。




城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。


4,なぜ日本に、秋田に


長谷川如是閑「日本評論」
「西洋の都市が城壁をもって囲まれ、日本都市が城壁を持たないのも、日本では都市と都市外の地方との文明に境界がないことを象徴している」
「日本文明は、初期においては支那文明、大陸文明の継承に似ていたであろうが、奈良から平安初期にかけて、大陸のそれからまったく独立するに至った」
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教えてgooより
 城壁都市というのは、都市そのものが国であり経済単位です。また城壁都市での戦争とは、同盟国(同民族)の覇権争いであったり、異民族の侵入対する戦いであったりしました。

日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。


つまり日本は平安期に、天皇を中心とした国家体制が確立し、その後政権を誰が担当するかで戦争をしても、(島国ですから)異民族の侵入は原則的になかったということです。
更に平安時代には国家統一のために天皇家をはじめ、貴族や武家も各地に散って政治を行っていましたので、日本列島隅々まで同じ民族としての気分が醸造され、戦争を行ってもそれは覇権争いであって「侵略」ではなかったのです。
このようなことなら、城壁を作り城=国ということをする必要はありませんし、国換えで領地と領民をそのままに、「お上」だけが変わってもだれも文句を言わないことにつながったのです。
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 今回は資料集のようなものですが、この資料はじゅうようなものとなります!

2012年12月16日日曜日

◆ツングース族・粛慎 資料2



世の中には、すごいお方がいるものです!

http://www.geocities.jp/intelljp/manju/shukushin/japan.htm


■渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄

 日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。
 一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。
古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。
越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。

7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。

越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の 戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえすれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる

「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。
■中国東北から日本に遷移した粛慎

 越国に移住したツングース族の中心分子は、粛慎に当たる。彼らは、元は中央アジアの遊牧民族であり、後に勢力は、中国東北から黒龍江流域及び沿海州に至るまで延伸し、再び北海道又は日本東北地方の日本海岸に遷移した。

粛慎の名称は、隋・唐時、先秦時期に東北地方に居住した民族を呼称する総称である。日本の史料も、この呼称を踏襲した。

「日本書紀」は、阿倍比羅夫が水軍を率いて北上し、「討蝦夷」、「征粛慎」を3次進行したと記載している。征討時、 第三次渡島において、粛慎の船と遭遇した。粛慎の船は、羽毛を木の先端に挿して、旗印としていた。比羅夫は、粛慎と交易を試み、海岸に絹織物、兵器、鉄器等 を堆積した。結果、粛慎方面から2人の老人が来て、絹の衣服と麻布を持ち去った。
660年、比羅夫は又、軍船200艘を率いて粛慎を討伐し、熊2匹、熊皮70張を持ち帰った。

この外、東北地方から上京献馬した記録も多い。これらの馬は、白色葦毛、白蹄のユーラシア大陸産の名馬だった。馬匹を除く外、慎粛は、「独犴」と呼ばれる北方野犬、箭筒、砂金等の名産を産した。山形県に遷移した慎粛人は、採鉱、採金技術に精通したことから、逐次内陸に深入りし、一度は茨城県の鹿島まで到達した。今の山形県内及び鹿島附近に至っては、ツングース族 の伝説が流布している。


■高句麗から新潟県佐渡に逃亡した靺鞨人

 8世紀に進入し、粛慎の子孫、靺鞨族が台頭し始めた。靺鞨人は、元々黒龍江流域に在住し、温暖な地を求めて、朝鮮半島の高句麗に進入した。北海道、又は日本東北地方に移住した者は粛慎と称され、高句麗に移住した者は靺鞨と称された。彼らは、ツングース族である。

しかし、663年、唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を撃破した。この後、新羅は、朝鮮半島を統一した。高句麗に在住した靺鞨人の多くは、中国東北に逃亡し、渤海国を建国した。

渤海国は、727年、日本と通商条約を締結し、使者を日本に派遣し、日本と約二百年の正式外交関係を維持した。この二百年間、数多くの靺鞨人 が日本に現れた

わずか746年の1年だけで、1,100人以上が山形県に上陸し、日本人に帰化した。山形県、新潟県一帯は、ツングース族の同胞 であったため、彼らに対して、一定の親近感を非常に覚えたと言う。

「続日本紀」記載によれば、越後(新潟県)には、「狄」族又は「虾狄」族が登場する。狄族は、越後で活躍しただけではなく、東北地方にも深く入った。この狄族は、結局、いかなる民族なのか?709年、虾狄が大和朝廷に反乱したため、大和朝廷は、山形県に征狄所を設け、武器 と船を配置した。反乱が絶えないことから、大和朝廷は、一方で持節鎮狄将軍を派遣して討伐し、一方では、靺鞨の根据地に使者を派遣し、中国の東北にも交渉に行った。狄族、概ね、高句麗が新羅により滅亡させられた時、越後に流れ着いた靺鞨族の支族である。彼らは、不断に勢力を伸張し、半世紀後、亡命国家を建国し、中央政権への服従を拒絶した。


■渤海国、日本東北への版図拡大を思う。

 「日本書紀」記載によれば、高句麗最初の使者は、北方日本海岸に到達した。その後の高句麗使者も、全て北日本海岸に上陸した。渤海使者の上陸地も、全て北日本海岸だった。

アイヌ族は、結局、粛慎、靺鞨といかなる関係にあるのか?更 に一歩質問を進めれば、アイヌ族は、結局、大陸のツングース族と何の関係にあるのか?この問題は、今に至るまで回答不能である。

ただ体質人類学の観点から見れば、アイヌ族は典型的な長頭形で、ツングース族は典型的な短頭形であるため、アイヌ族は、ツングース族起源ではあり得ない。

我々が確定できるのは、ツングース族が大陸から渡海して日本の北海道及び東北地方に至り、大和政権とは異なる「越州」大文化圈を形成したことである。


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【坂上田村麻呂が出て来ません・・・やはり日本海側には来なかった??】
余り深入りできないHPですが、途中までは良く理解できます。


◆粛慎・ツングース族の資料



これが、東北の歴史、古代秋田、古四王神社no秘密を解く鍵となりそうです
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『中国史に登場するツングース族』
 ツングース族とは、ツングース語系言語を使う民族を指すロシア語だが、その語源は古代漢語の東胡(とうこ)と説がある。 三国の古代史に登場するツングース語系諸族には、粛慎・穢・獩貊・東胡・扶余・沃沮・高句麗・百済・悒婁・勿吉・靺鞨・女真族などがいる。
 ちなみにオロチ族を、出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)の大蛇(オロチ)のことだとする説もあるが確証はないが、古代から海を越えて日本列島に渡ってきたことは間違いない。

『日本書紀』斎明天皇
 4年11月、この歳、越国(こしのくに)の守(かみ)、阿倍引田臣(あへのひきたのお  み)比羅夫(ひらぶ)、粛慎(みしはせ)を討ち、生きた羆(ヒグマ)二つ、羆皮を  七十枚、献(たてまつ)る。
 5年3月、阿倍引田臣比羅夫、粛慎と戦って帰還。虜(とりこ)四十九人、献じる。
 6年3月、阿倍臣を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率いて、粛慎を討伐させた。
 6年5月、阿倍引田臣、夷(えみし)五十余を献じる。また、石上池(いそのかみのい  け)の辺りに、須弥山(しゅみさん)を作る。高さ廟塔のごとし。ここで粛慎四十七  人に食事を馳走したまう。

 これは七世紀中頃の事件だが、粛慎(みしはせ)とはツングース語系諸族の古族である。
 文中にも夷と粛慎を明確に区別していることから蝦夷(えみし)を指している訳ではない。だが、この時代に粛慎はいない。その後裔である挹婁(ゆうろう)も勿吉(もっきつ)も歴史から消えており、靺鞨(まつかつ)の時代である。
筆者は、靺鞨のなかで日本海沿岸を領域とした虞楼(ぐろう)部か、サハリンの窟説(くつせつ)部の一族が渡海してきたと考える。

『三国志魏書』挹婁伝
 其國便乘船寇盜,鄰國患之。
 その国、気の向くままに船に乗って強盗を働く。隣国は、これを患(わずらい)とする。

『三国志魏書』東沃沮伝
 挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恆在山巖深穴中為守備,冬月冰凍,船道不通,乃下居村落
 挹婁は嬉々として船に乗って金品強奪をする。(隣接する)北沃沮はこれを畏れ、夏季には厳しい山中の深い洞窟で守りを備え、冬季に水面が氷結し、通航ができなくなると山から降りてきて村落で居住する。

 いわば挹婁は東アジアで最古の海賊。その後裔の靺鞨なら日本海を渡るのは簡単なこと。
 高句麗が唐と新羅の連合軍に滅ぼされる直前にあり、高句麗に服属していた靺鞨の部族には風雲急を告げる時期にあったことから、靺鞨七部と呼ばれる靺鞨内の有力部族でもない虞楼部や窟説部が新天地を求めて、北海道に渡って定住したのだろう。この真偽はともかく、北海道がツングース族の活動範囲内にあったことは事実である。

『オホーツク文化概説』市立函館博物館
 およそ6世紀から13世紀頃にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁撈、採集活動を生業とする民族集団が居住していました。彼等の形成した北方の文化形態こそ、謎を秘めた「オホーツク文化」です。一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(1012世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)と融合し、吸収されていったと考えられています。

 上記からも日本書紀に登場する「粛慎」が靺鞨であることは間違いないだろう。だが、なぜ粛慎と呼ばれたのかについては疑問が残る。粛慎は最古のツングース族であり、最初に北海道や日本海沿岸に現れたのが粛慎だったので、代々ツングース族は粛慎と呼ばれたのかもしれない。あくまで筆者の推測である。
 次に、日中韓、三国の古代史に関わるツングース族の年代記の概略をみてみよう。

「旧石器時代末期」
 黒竜江右岸の呼瑦県で約一万年前の地層から大量の出土品が出たが、その類型や加工技術が華北地区の旧石器と相似しており、すでに中華諸族との交流があったと推定される。

「新石器時代」
 龍山文化(紀元前30世紀-前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、吉林、永吉、宁安、春、通化、桓仁などで出土。黑灰陶も出土するが黑灰陶も龍山文化の主要な特徴とされる。

「夏時代」(紀元前21世紀-同16世紀)
 まだ中原も原始社会の後期にあり、ツングース族の族名は登場しない。

「商(殷)時代」(紀元前16世紀-11世紀)
 ロシア沿海地方から松花江流域に粛慎(しゅくしん)が登場する

「西周時代」(紀元前1050年-同771年) 該当なし。

春秋時代」(紀元前771年-同403年)
 河北省の北方に東胡(とうこ)が登場する

「戦国時代」(紀元前403年-同221年)
 北方に匈奴(きょうど)、東北に穢(わい)、高夷(こうい)、發(はつ)が現れる。

「秦時代」(紀元前221年-同206年)
 穢、發が消えて扶余(ふよ)、高夷が消えて高句麗(こうくり)が現れる。
 朝鮮半島の北に沃沮(よくそ)、その南に朝鮮が登場する。

「前漢時代」(紀元前202年-西暦8年)
 東胡が消えて鮮卑(せんぴ)、鳥桓(うがん)が登場。
 朝鮮が消えて朝鮮四郡と獩貉(わいかく)、半島南部に三韓が登場する。

「新時代」(西暦8年-25年) 該当なし。

「後漢時代」(25年-220年)
 粛慎が消えて挹婁(ゆうろう)が登場する。
 鳥桓が消えて鮮卑になる。獩貉が獩貊(わいはく)に改名する。

「三国時代」(220年-265年)
「西晋時代」(265年-316年)
 黒竜江中流域に寇漫汗(こうまんがん)が登場する。

「東晋十六国時代」(316年-420年)
 三韓が新羅、百済、加羅に代わる。河北省の北に契丹(きったん)が登場する。
 沃沮、獩貊が消えて高句麗になる。

「南北朝時代」(420年-589年)
  扶余が消えて高句麗になる。挹婁が消えて勿吉(もっきつ)が登場する。

「隋唐時代」(589年-907年)
 百済、高句麗が消え新羅が残る。後に、新羅が朝鮮半島を統一する。
 勿吉が消えて靺鞨(まつかつ)が登場。高句麗が靺鞨(黒水部以外)と連合して渤海国
 (ぼっかい)を建て、旧領の大半を回復。

「五代十国時代」(907年-979年)
 渤海国は契丹族の遼国に滅ぼされ、渤海人は女真(じょしん)族と改称して臣従した。

北宋時代」(960年-1127年)
 女真族が力を蓄え、完顔阿骨打(かんがんあくだ)が金を建国した。

「金・南宋時代」(1115年-1271年)
 モンゴルは南宋と同盟を結んで金を攻め、金の末帝は自決し、金は滅亡した。

「元時代」(1271年-1368年)

「明時代」(1368年-1644年)
 女真族は分解されたが、建州の女真族にヌルハチが登場、再び女真族を統一した。

「清時代」(1644年-1912年)
  女真族が明を滅ぼして清を創建。文殊菩薩を信奉するので満州(もんじゅ)族と改   称。
  1912年の辛亥革命で清朝は滅亡するが、1945年まで満州国として生き延びた。

「現在」
 満族(満州族)は、中国では漢族に次いで人口の多い民族として繁栄している。

2012年12月15日土曜日

◆大彦命とは

堀貞夫さんのHPから

大彦命(おほひこ=大毘古命)
1,屈指の貴種

 安倍氏族の始祖は大彦命、古事記では大毘古命とされるが、8代「孝元天皇」の長男で、9代「開化天皇」の実兄、10代「崇神天皇」の叔父であり義父でもあり、11代「垂仁天皇」の祖父という王朝内でも屈指の貴種だとされる。

『古事記』孝元天皇
大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクル=孝元天皇穂積の臣等の祖先、内色許男(ウツシコオ) 命の妹の内色許売(ウツシコメ) 命を娶り、最初に大毘古(オホビコ) 命。次に少名日子建猪心(スクナヒコタケイゴコロ) 命。次に若倭根子日子大毘々(ワカヤマトネコヒコオホビビ=開化天皇) 命を生んだ。また、内色許男命の娘の伊迦賀色許売(イカガシコメ) 命を娶り、生んだ子は比古布都押之信(ヒコフツオシノマコト) 命。また、河内の青玉(アオタマ)の娘、名前は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ) を娶り、生んだ子は建波邇夜須毘古(タケハニヤスビコ) 命。天皇の子は合わせて五柱。若倭根子日子大毘々の命が天下を治めた。
大毘古命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケ)は阿倍の臣等の祖。次の比古伊那許士別命(ヒコイナコシワケ)は膳の臣の祖である。
また、木の国の造の祖先、宇豆比古(ウヅヒコ)の妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶り、生んだ子は建内宿禰(タケウチノスクネ) 。宿禰の子は合わせて九人(男七人、女二人)。

『日本書紀』孝元天皇
欝色謎命 (ウチシコメノミコト)を立てて皇后とした。皇后は二柱の男子と一柱の女子を産んだ。一人目の男子を大彦 (オオヒコ) 命という。二人目の男子を稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒビノスメラノミコト)という。三人目は女子で倭迹迹媛 (ヤマトトトヒメ) 命
(異伝としてさらにもう一子、少彦男心 (スクナヒコオココロ) 命がいたと記載されている)
また妃の伊香色謎命が彦太忍信(ヒコフトオシマコト)命を産んだ。また同じく妃の河内青玉繋の女の埴安媛 (ハニヤスヒメ)が埴安彦(ハニヤスヒコ)命を産んだ。長子である大彦(オホヒコ)命は、阿部臣、膳(カシワデ)臣、阿閉(アヘ)臣、狭狭城山(ササキノヤマ=近江の安土一帯)君、筑紫 (ツクシ) 国造、越(コシ) 国造、伊賀臣ら、全部で七つの氏族の始祖である


2,稲荷山鉄剣
また、欠史八代については、『記紀』の編纂時に適当に創作したものだとする説が有力だったが、この説を覆すかもしれない出土品が発見された。それが『稲荷山鉄剣』と呼ばれる祭祀用の鉄剣だが、そこにも大彦命が大きく関与している。
『朝日新聞(2006.01.18)』
埼玉県埋蔵文化財調査事業団は17日、東松山市にある反町遺跡から、国宝『稲荷山鉄剣』と同時期に製作されたとみられる古墳時代中期の「鉄剣」=写真=を出土したと発表した。
 発見されたのは、同遺跡の前方後円墳からで、長さは75㎝。
さびついた状態のまま分析したところ、やはり同型の稲荷山古墳(行田市)から出土した国宝『金錯銘(キンサクメイ)鉄剣』と形も大きさもほぼ同じだ。

上記は直近のニュースだが、昭和43年(1968年)埼玉県行田市の稲荷山古墳から上記と同様に古代の錆びた鉄剣『稲荷山鉄剣』が出土した。その10年後、奈良の元興寺文化財研究所が保存処理をしていたところ、鉄剣に金象嵌(キンゾウガン)されていた下記の115文字が浮かび上がってきた。
た由来を記す。

上記の文字列のなかに、上祖の名は意冨比(オオヒコ)、獲加多支鹵(ワカタケル)大王の文字があり、意冨比垝は大彦命、獲加多支鹵大王は幼建「ワカタケル」の名を持つ雄略天皇だとすれば、欠史八代の孝元天皇の皇子「大毘古」は実在の人物、欠史八代に記述された天皇も実在していた可能性がでてきた。
  このニュースが日本中に飛び交い、考古学者や史学者に衝撃を与えた。




3,大彦命家系図  
古代安倍氏の系図』参考例
   上記の系図では、大彦命の娘「御間城姫命(祟神天皇の妃)」が欠落している。


4,大彦命の時代

 邪馬台国
鉄剣に付着した錆を分析した結果、その地金は中国の江南地方産の鉱石で、しかも炒鋼法という中国の製鉄技術で製錬された利刀であることが判ったという。
 雄略天皇の死去は470年代と推定され、乎獲居臣(オワケノオミ)は意冨比(オオヒコ)から数えて八世なので、世代交代を20年間隔と仮定すれば160年差となり、大彦命は西310年前後、4世紀前半頃の人物だと思われる

『日本書紀』崇神紀
天皇は、大彦命、武渟川別(タケヌナカワワケ)、彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコ=吉備津彦)、丹波道主命(タニワノミチヌシ)の4人を召して、「大彦命は北陸、武渟川別は東海、彦五十狭芹彦命は山陽、丹波道主命は丹波を、それぞれ平定せよ」と命じた。

このように記しているが、大彦命が4世紀前半の人物だとすれば、邪馬台国との関係はどうなっているのだろう。





                                      

◆古志・越とは



堀貞夫HPさん及びWIKIから引用

1,古志
『出雲國風土記』神門郡古志郷
 伊弉那彌(イザナミ)命の時、日淵川を利用して池を築造したまう。その時、古志の國人らが到来し、堤を施工した。そのとき彼らが寝起きした場所なり。それ故、古志と言う。
 2004年10月25日、中越地震の発生により、新潟県「山古志村」が孤立したニュースが全国に報じられたが、山古志の古志は飛鳥時代の国名で、高志、越とも記される。大化の改新以降、漢字表記が「越国」に統一され、その後、越国は越前・越中・越後に三分される。
 通説では、古志を北陸地方の国名で、朝鮮半島からの渡来氏族が定住したが由来だとする。たしかに日本海沿岸地方には古志の地名(長岡市古志郡、松江市古志原町、出雲市下古志町、富山市古志の松原、山形県古志田東遺跡)が多い。

2,古志と楛矢(こし)
 古志も高志も「こし」と読むが、漢語では古志は「guzhi」、高志は「gaozhi」である。
日本人には「ゴゥジ」に聞こえるが、濁音の少ない古語では「コゥシ」「コシ」と変化したと思える。筆者は粛慎の貢献品である命中精度の高い楛矢(こし)からきたと推察する。
 楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読んでいる(新撰漢和辞典『三省堂』)。また、一矢(いっし)を報いるという言葉があるように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 楛矢(コシ)を持って日本列島に渡来してきた粛慎系部族を「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。越(yue)は漢語の意訳をあてたもので、後世の当て字だと考える。
 
3,越の国とは 
越国(こしのくに)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した、上古の勢力圏である。
 律令時代~現在の地域名としては、越州(えっしゅう)・三越(さんえつ)と同義で、越後越中能登加賀越前の5国を意味する(「越」字がない能登・加賀も含めるのが普通である)。



4,粛慎が楛矢を持って来貢
『晋書』粛慎伝
周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。
   楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
 この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。
  ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。


◆丹生と空海



1,丹生都比売神社

『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前がある。朱砂を精錬すると、水銀となる。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。
丹生都比売大神とは、この地に本拠を置く全国の朱砂を採掘する古代部族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社、丹生都比売を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、その総本社である。


2,空海と丹生都比売神社
この丹生都比売と、空海(弘法大師)には密接な関係がある。
唐から帰国した空海が、密教の根本道場を建てる場所を探すため、高野山の山中深く分け入ったところ、白と黒の紀州犬を連れた狩人姿の狩場明神の導きで、天野の地で丹生明神に出会い、高野にたどり着いたといいう伝承がある。
高野山は真言宗の総本山で、その中核は根本大塔を中心とする壇上伽藍である。この壇上伽藍の西端に御社(ミヤシロ)と呼ばれる「丹生明神と高野明神」を祀る神社と十二王子百二十伴神も同じく祀られている。
空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。ただし、空海は御社のことについては一切記録を残していない。地主神を祀ることに不思議はないが、寺院の中核となる壇上伽藍の一角に主要な堂宇に比肩する規模の神社を建てるのは不可解である。

3,空海がなぜ唐に渡れたのか
『日本書紀』景行天皇51年条
日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷らは昼夜を問わずうるさく騒ぎ(サエギ)立て、礼儀も悪かったので、倭媛(ヤマトヒメ)命は、蝦夷らを神宮に近づけないように命じ、朝廷に奏上した。そこで三輪山の辺りに置かれることになったが、幾日も立たないうちに三輪山の木を伐ったり、大声を上げて村人を脅かしたりした。これを聞いた天皇は、その蝦夷たちを遠方に置くことにした。これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(サエキベ)の先祖となった。

空海は宝亀五年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の佐伯氏に生まれている。つまり上記の蝦夷の末裔で、土蜘蛛の系統である。そして、丹生明神は丹砂を採取する土蜘蛛の一族が祀る神。両者に同族意識があっても不思議はない。
30歳まで空海は高野山周辺で山岳修行をしており、その一帯が水銀の産地であることは承知していたはず。丹砂の利権を有する彼らに資金援助をさせたのではないかと思われる。そもそも空海が唐に渡ったのは私費留学であり、莫大な渡航費用を弱小豪族の佐伯氏が負担できたとは思えない。すでに、その段階からスポンサーになっていた可能性もある。

4,空海は蝦夷を熟知していた

悪路王はツングース族
 ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族、サハリン・アイヌ族などツングース語系諸族が現住している。
  日本史に登場するツングース族は、粛慎・靺鞨(マツカツ)・女真(ジョシン)・高句麗・百済・扶余・渤海国などである。
  弘仁六年(815)正月、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海(弘法大師)が彼に贈った歌があるが、そこには当時の人々の蝦夷に関する印象が明記されている。

『遍照発揮性霊集』(野陸州に送る歌)
時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。

  この歌から、当時の蝦夷の生活は狩猟民族そのものだと思える。空海は唐に留学していた経験があり、蝦夷と粛慎(当時は靺鞨)が同じツングース族であると知っていたのではないかと推察する。
  さらにいえば、空海は天台宗が嫌いだから、天台座主の円仁も嫌い、円仁が庇護する蝦夷も嫌いである。文面にも蝦夷を嫌悪する感覚が現れている。