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2014年1月24日金曜日

❏「錦木塚物語」動画紙芝居と「歌枕」について

錦木塚物語・・・完成アップしました

1,動画紙芝居アップ
「錦木物語」は「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕がわからないと
何にも面白くもない、ただの悲恋物語です。下に歌枕のことを記しています

https://www.youtube.com/watch?v=Bd5fnF8IIbU


2,歌枕とは何か

枕詞とは、土中の闇に眠る種子のようなもので、そこからやがて芽が生じるように歌がでてくるのです。眠るときに使う枕としての言葉が枕詞です。

・足引き・・・泉津平坂(よもつひらさか)を足をひいておりてきた・・・山(やま)

・脚引き・・・葦を引き抜き田となしヤマトの国を固めた・・・大和(やまと)

・枕詞・・・道が徹(とお)る前の状態を表す。

枕詞は単なる修飾的な言葉ではなく、その中に神々が古代に切り開かれた歴史が込められているのです。(ケフの狭布も同じ)



3,ホツマと平安の歌枕

ホツマツタエの歌枕と平安時代の歌枕の比較です
錦木塚物語に出てくる「歌枕」で比較します

ケフの狭布も錦木も何なのかははっきりしないまま
不思議な異国のものとして歌あそびしていたのですね・・・都の人々は!

4,歌枕「錦木」の歴史探訪

「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕を通して
東北の歴史を調べています



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2011年1月26日水曜日

■民話と伝説の違い

錦木塚物語は民話から伝説へ変化したとあります。

ウィキより

昔話・伝説・世間話の違い [編集]

口承文芸は無文字時代から存在し、一般に、昔話伝説世間話などの民話、新語作成、新文句(新句法)、諺、謎、唱え言、童言葉、民謡、語り物などに分類される。
このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「」「」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。「桃太郎」は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。
伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。しかし一部の土地では「炭焼き長者」や「子育て幽霊」などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。
世間話は体験談や実話として語られる民話である。
昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。 [要出典]
種類語られる人物・時・場所語られ方語り・話のかたち
昔話不特定事実かどうかわからない(おそらく事実ではない)あり
伝説特定少しは事実かもしれない(少しは信じてほしい)なし
世間話特定事実である(信じてほしい)なし

2011年1月24日月曜日

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(5/5)

尊敬する安村二郎氏の鹿角市広報掲載文です。

八十七(9/10)
要  約

・「錦木山観音寺縁起」
長文でしかも難解な縁起の原文の全文掲載。

要約を次号に










































八十八(10/10)
要  約
・「錦木山観音寺縁起」の要約
①縁起の起源は、はるか神代にまでさかのぼり、記紀伝承の十三代成務天皇御代奥州に戦雲動き、大いに乱れる。
②成務帝は景行天皇第四子である。景行天皇は熊襲を親征後、皇子日本武尊を派して東国エミシを平定。
③成務天皇は、北奥州五郡の郡司にオオナムチノミコト(出雲の大国主命)の子孫、狭名太夫(さなのきみ)を派遣、地理境界を明示す。
④かくて、天皇は大国主命子孫の狭名太夫(さなのきみ)の善政を愛でられ、豊岡郡を狭郡(けふのこおり)と改められる。
⑤狭名太夫(さなのきみ)八代目政子姫は、鳥の毛を混じえ細布を織る技を工夫し、人々の難儀を救う。
⑥草木村の長の子は、政子姫のもとへ通い、門に錦木を立て続けるが、姫の父大海は中に入れるを許さず、千日に及ばんとす。
⑦村長の子ついに病となって、涙川に身を沈めたという。
⑧姫も悲しみにひしがれ、五日の後に命を絶った。時は推古天皇七年(597)のこと。
⑨父の大海悲しみに深く、姫と村長の子を同穴とし、千束の錦木も共に埋め、人々は錦木塚と呼んだ。
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■鹿角の古代を彩る歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥年代は、すでに歴史に明らかなこと。
能因法師の時からであることは、明々白々なのである。そうであるのに、

⑩ほぼ六八〇年後の江戸後半の延享二年、鹿角初公開の形で羽州新庄の修験家阿保権之助提供の「錦木山観音寺縁起」においては、年代を古代初頭六世紀にまで遡らせ、場面を仏教伝来直後の政争にとり、崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏の対立から蘇我馬子のため物部守屋敗死(587)の後とした。

⑪敏達天王の第五宮は守屋の娘・岩手姫を生んだ皇子、皇子の位を除かれ奥州へ配流となり、奥州の鹿角豊岡に宮造りして住んだ。

⑫その五二年後皇極天皇元年(642)五宮七〇才勅免となり上京、毛布細布三百反、砂金百両を献上す。

⑬藤原鎌足が毛布細布の由来を叡聞に達し、帝御感涙の上、狭名は勲功の臣政子女に至り、家断絶とは痛哭に堪えず。

⑭一寺を草創し、亡魂を慰霊せよとありがたき勅命をこうむり、同四年五宮ににより、錦木山観音寺創建。

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■このように架空の物語に大きく変容した。


■ここで錦木伝説は、だんぶり長者伝説と完全に習合(相異なる教義と折衷・調和すること)することになった。

疑問(3)
■どうして信縁起まで作り上げ、だんぶり長者伝説との習合をはからねばならなかったのでしょうか。

・小豆沢の大日堂は天台宗別当・・・すべて羽黒山末社の現実化をはかるためではないか?

・しかしこの縁起は、地元鹿角の人々の広く知るところまではいかなかった。

・菅江真澄でさえ、天明5年(1785)鹿角大里で縁起を書き写しながら、それを話題としたのは三十六年後の文政四年でした。

以上





















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■安村二郎:錦木塚伝説の変容(4/5)

尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報掲載文です。

八十五(7/10)
要  約
・初回の幕府巡見使(江戸初期)に、地元古川村錦木の古人・黒沢覚平が語ったものは変わっていないと判断、幕末(天保9年)の「御巡見御用控」による。

・「錦木塚の伝記」 長い長い物語が記されている。

・ただし、この物語には、古いなじみの政子姫など全く現れなかったことに、大きな疑問。












































八十六(7/10)
要   約

・前回紹介の「錦木塚の伝記」は、最終回の九回目となる幕府巡見使(天保九年)に代々説明役の黒沢覚平の案内内容だった。

・概要
前半
①古川村赤森近く芦田原(現錦木付近)の市にて、鳥や兎の毛を織り交ぜた細布を売る美しい娘と、草木村から錦木を売りに出る若者と、いつしか愛し合う仲となる。
②若者は娘の親の許しを得るため、三年近くも錦木を娘の門に立てたが、親は一向に取り上げてくれない。若者も娘も悲しい想いが募り、ついに男は涙川に身を投げ、娘もその跡を追い空しくなる。
③親たちは嘆きのあまり、男女を一緒に葬り、三年立て置いた錦木をもつかに埋めたので、人々は錦木塚と呼んだ。
④その後も、男の通った道筋の狐崎より狐騒ぎ、松桂が谷のフクロウのさえずりもかしましく、帰り道涙を洗った涙川、その通い路をけふの細道というなど。
⑤塚のほとりに現れる美しい女の機織り姿は、かえって遠く離れた物見坂からだけ見える。

・昔の室町時代初期の世阿弥が書いた謡曲「錦木」の筋を通日に語り継いで、説明の前半部分を終えている。

後半
・前半との脈絡を絶つが如く
①天長年中(824~834)淳和天皇勅命にて錦木を改め「錦木山観音寺」とした。

②三大日を建立。万谷田中の中台寺、小豆沢の喜徳寺、長牛の仁量寺

③古えの歌書・謡本に伝わる通り、前代まで塚の中から機織る音が聞こえるのを、大湯の領主不思議に思い、中に有るは何かと掘ってみたところ、その後」一切機の音は無くなった。で終わる。

・疑問(2)
この後半の説明内容は、果たしていつの時代に、何を根拠とし、突如といってよいほど、近世中期に及んで追加されたのだろうか。

・私の結論は
延享二年(1745)黒沢覚平自らが公開した、「奥州狭郡錦木山観音寺縁起」の外には考えられない。

・短期間のうちに鹿角はもちろん、全国的に流行をみたのは、毛馬内桜庭家中の文人集団の献身的案内活動にあった。

・その内容は次回




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■安村二郎:錦木塚伝説の変容(3/5)

尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報に掲載された文です。


八十三(5/10)
要  約
1,歌枕が鹿角へ里帰り

11世紀半ばの歌枕の時代から、二百六十年余の江戸時代寛文年号、ようやくのこと、本来鹿角をまことの故里とする歌枕「錦木」「毛布の細布」が里帰り。

2,「鹿角由来記」

数多くの秀歌と室町文化の粋たる謡曲・狂言の筋に彩られる形で里帰り、「鹿角由来記」。

・そのご次々と発展的変化を遂げ、やがて全国的な注目を浴び、南部領の代名詞的存在となった。

3,疑問(1)

鹿角が歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥の地であることを、古代から江戸時代に入るまでの長い長い間、ほとんどの人々が気づかなかったのはなぜなのか。

・鹿角は余りにも京都から離れた北の僻地なこと。その上鎌倉御家人として入部した鹿角の4人一族は、弱小国の領主、京都との交流など及びもつかなかった。

・またその頃より鹿角は京都に似るとして、京郡(きょうごおり)と呼ばれた。南部藩のなかでも鹿角郡のみ「狭布郡(きょうのこおり)」と表記し、古い歌枕に強いこだわりをみせるのでした。

















































八十四(6/10)
要  約

・室町幕府初期、世阿弥が謡曲「錦木」で、平安時代からの歌枕「錦木」と「毛布の細布」こそ陸奥
狭布の里の習とて、綿々と人々の胸を打つ。

・その後、能・狂言・謡曲は京都を中心に全盛期を迎える。ただこの時代には北奥の鹿角に住む人々には知る由もなかった。

・戦国末期、南部が鹿角全域を領域に加える。

・江戸時代、南部藩の居城を盛岡に定めた城主は、家臣に下付する知行状の鹿角分ほとんどに「京郡きょうのこおり何々村」と認め、鹿角郡こそ古き歌枕の地錦木塚所在の場所として特別のこだわりをみせた。

・このように本来歌枕の地である「狭布の里」「錦木塚」が鹿角郡に特定されることとなった。

・さらには、もっと強固な保証を政治的に与えられた。
寛永10年を初回とし、「錦木塚」が幕府巡見使の立ち寄り場所となった。幕府巡見使は将軍が変わるたびに旗本三人一組で諸国に派遣されたもの。

・巡見使はお茶屋でしばらく休憩ののち、塚の辺りを歩行。出立の際は細布料として一巻につき金百両が下げ渡された。















































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■安村二郎:錦木塚伝説の変容(2/5)

尊敬する安村二郎氏の鹿角市広報掲載文です。


八十(3/10)


要  約
1,平安時代の末、前九年合戦終末期

に端を発した歌枕「錦木」「けふの細布」は、北みちのく風俗の機微を見事に表現する歌ことばとして、その後鎌倉時代・南北朝時代に及ぶ三百数十年間、多くの和歌集・歌学書に連綿と歌いこまれてきました。

・しかし、意外なことに、その長い間、一体歌枕の地とは何処をさすものかなど、具体的な特定はほとんど無かった。
・例えば藤原行家「みちのくのけふの郡に織る布の狭きは人の心なりけり」


2,室町時代初期、世阿弥により、

謡曲「錦木」が作られた。出典は「袖中抄に記された=錦木伝説に細布伝説を織りまぜたもの」としている。

・こ謡曲「錦木」の中の用語が、そのまま近世の錦木伝説に移されているものに、狭布の里、狭布の細布、涙川、錦塚、松桂に鳴く梟、蘭菊の花、狐住むなる塚などがある。
・また間狂言の、鳥の羽根にて布を織り、幼な子をさらう鷲・熊鷹への呪法とするという場面はその通り伝説に取り入れられて、江戸期の錦木伝説が多く謡曲「錦木」に基づいて語られている。

3,なぜ世阿弥が

室町時代に至ってまで謡曲「錦木」が京都の世阿弥の手に成ったのか。

・その背景を想像するに
歌枕発祥の地京都と南部氏の関係は、南部氏が津軽を支配したころ、南部氏は全国第一の馬の大名となり「公方お召の御馬」進上を果たすことで、諸国守護と同格のとなり京都御扶持衆として、たえず上洛、能楽師との交流もあったと想像される。













































八十一(4/10)





























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■安村二郎:錦木塚伝説の変容(1/5)

安村二郎さんのシリーズ「錦木塚伝説の変容」を掲載します。(鹿角市の広報掲載)
読み直してみれば、また安村さんの素晴らしさを感じます。荒俣宏さんもこれを参考にしたのではないでしょうか。

七十八(1/10)

1,要約

・鹿角は全国に聞こえた伝説の里。とくに十和田湖と八郎太郎、錦木塚、だんぶり長者の三大伝説は、ともにスケールの大きさ、史実との関連性、修験信仰との習合などにおいて、いずれも東北地方の代表的なものとの評価を得ている。

・とくに錦木伝説の特色をあげるとすれば、発端となったのは人物でなく、鹿角を含む古代みちのくの珍しい風俗・習慣ともいうべき「錦木」「けふの細布」という、歌枕そのものが主人公でした。

2,「錦木」の解釈いろいろ

①薪だとする説:毎日の薪集めは娘の持前、思う娘の手を荒らすまいとして、そっと門の外に置く  薪一束のこと(柳田国男説)
②錦木をアイヌのイナウとみ、イナウは神を招き降ろす時に立てる木幣のこと(金田一京助説)
③いずれにしても、錦木とは色どり飾った木を求婚の印に女の門に立てたもの、女に承諾の心あ  れば家の中に取り入れ、その心なければいつまでも門の外に晒すという、文字を知らぬエミシ社  会の風俗であった。

3,「けふの里」の解釈
北地の防寒具、平安後期のほとんどの歌学書には、けふの細布とは機はりせまき布、鳥や兎の  毛を織り込んだ布。小袖のように下に着るもので、胸まではかからないもの。

4,平安貴族の好個の「歌枕」となった。
①「錦木」・・・みちのくの鄙びた風俗である錦木仲人木としてたてる求婚法
②「けふの細布」・・・細布の幅が狭くて胸が合わないという悲恋のイメージ

・この歌枕が最初にあらわれたのは、能因法師「錦木はたてながらこそ朽ちにけれけふの細布むね あわじとや」、
・能因法師は前九年の役終息期・・・源氏武者が京に話を広めたと想像する。




クリックで拡大してご覧ください













































七十九(2/10)

要 約
1,錦木伝説の発生は

前九年合戦に重なる。源氏軍団の将兵が戦線参加のため米代川を行軍・駐屯の折に、初めてエミシ村の珍しい習俗と物語に接触し、帰京の度ごとに京都の人々に披露。

2,やがて貴族たちの関心をとらえ、

「錦木」「けふの里」が歌枕として競って和歌に詠み込まれた。

・このように歌枕的情感を込めて温かくエミシ社会を理解するということ自体、かって九世紀初頭エゾ平定の際、坂上田村麻呂将軍の助命嘆願も空しく、エゾを鬼畜に等しい存在とみる公卿たちの反対により、アテルイやモレが非情にも処刑された時代に較べ、まさにエミシ認識の革命的変化であった。

3,十一世紀半ば過ぎの前九年合戦

からわずか四十年足らず後、見事実現した王朝国家のエミシ政策転換に、実はわが鹿角歌枕こそ原動力の一つに数えられてよいようにさえ思う。

4,その後、鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」に

平泉二代基衡が仏師雲慶への礼物とした奥州選り抜きの特産物、円金、鷲の羽、アザラシの皮、安達絹のつぎに「けふの細布二千反」がひときわ目立ち、其の存在を明らかにしている。

5,「錦木」が再び世に現れるのは、

室町時代の初期、世阿弥の謡曲「錦木」によってでした。
しかし内容は陸奥狭布の里の地名の外、無名の男と女と旅僧三人の綿々たる語りに終始するものでした。



























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2009年9月15日火曜日

013191■ホツマから平安:歌枕の変遷



ホツマのころの枕詞にあって、平安時代からの歌枕につながっているものがあります。






ホツマから平安:歌枕の変遷ホツマ時代枕詞
枕詞の
有無
平安時代の歌枕
和歌の
有無
備 考
勿来(なこそ)
誰もが名前を知る人よ
そこの地名となった
有り
無し
勿来の関
 この関から来るな
有り
関が加わり、重点が関に置かれている
壺(つぼ)
天と地をつなぐ祭祀拠点が壺
有り
無し
本来の意味が忘れられている
壺の碑(石文、石碑)
田村麻呂が弓で書いた碑
有り
壺の意味が不明にいしぶみが石文、
田村麻呂の石碑に
(カモフラージュ)
ケフの狭布
有り
ケフの狭布
有り
何のためなのか
腹帯ということは知らない
錦木塚
無し
錦木塚
 錦木伝説として
有り
錦木伝説完成後
錦木
無し
錦木
 諸説ある錦木として
有り
不思議な異国の木
 錦織として登場
有り
無し
錦織が錦木に変化した。ケフの狭布とセットか?
外が浜
 地名として登場
有り
外が浜
 想像もつかない遠い異国の地
有り
西行の歌にある




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(まとめ)
・ホツマの頃(紀元ころ)から大和朝廷が東北に進出してきた平安時代、謡曲の時代と時間が減るに従って、歌枕が変化(カムフラージュ)してきたことがわかります。
・特に、「壺の碑」「ケフの狭布」「錦木塚」はその典型のようです。

・まだ研究途中です、これからも訂正があるでしょう。

・グーグルのブログでここまで表ができることを発見したことがうれしい。


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2009年9月13日日曜日

01319■錦木を詠んだ和歌



歌枕「錦木」を詠んだ歌をのせます。

    (貼り付け)




後拾遺
錦木はたてなからこそ朽にけれ けふの細布むねあはしとや
能因法師

錦木は立なからこそ朽にけれ けふの細布胸合じとや

詞花集
おもひかねけふたてそむる錦木の ちつかもまたてあふよしもかな
大倉卿匡房

いたつらにちつか朽にし錦木を 猶こりすまに思ひたつかな
藤原永實

千載集
錦木の千束にかきりなかりせは 猶こりすまにたてまし物を
賀茂重保

堀河院百首
いはねとも思ひそめてき錦木の はひさす色に出やしなまし
藤原仲實

錦木の千束の数は立てしを なと逢事のいまたたくなる
藤原顕仲

六百番歌合
錦木にかきそへてこそ言の葉も 思ひそめつる色もみゆらん
藤原顕昭

錦木の千束の数もけふミちて けふの細布胸や逢ふへき
俊成卿

千五百番歌合
たてそめてあふ日をまちし錦木の あまりつれなき人心かな
小侍従

新後撰
人しれぬ心にたてつるにしききの 朽ぬる色や袖にみゆらん
前大納言隆房

うき名をや猶たてそへん錦木の 千束にあまる人のつらさに
花山院内大臣

袖中抄
思ひかねけふ立初る錦木の 千束にたらで逢よしも哉
大江匡房









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(まとめ)

・歌枕はすべて「錦木」ですね。
・「錦木塚」はありませんね。

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01318■錦木とニシキギ










錦木とは大変不思議な木として説明されてきましたが、ここでは「ニシキギ」との関係を調べます。


(貼り付け)


学名:Euonymus alatus

別名:ヤハズニシキギ(矢筈錦木)
花期:春

紅葉がきれいです。実は二つづつつきます。また,枝にはコルク質の翼が付くので,これをみるだけでニシキギであることがわかります。










このコルク質の翼が最も特徴です。













































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(まとめ)

われわれ秋田の人々はこの「ニシキギ」を「錦木」だと思い込んでおります。
・錦木塚のある錦木公園(平成8年頃完成)の垣根には、このニシキギが用いられています。
・5種類の木(ニガ木、大山桜、・・・・など)が「錦木」だとは誰も信じていません。
・まして1mほどの木が「錦木」などとは、とんでもありません。

・「錦木」が「ニシキギ」ではないとすれば、「錦木」とは本当に「木」なのでしょうか。
 「木」以外のことを考えてもいいのではないでしょうか。

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