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2014年6月5日木曜日

❏菅江真澄「水の面影」現代語訳全文(写真版)

2014・2月に完成し、500部を印刷しましたがすぐ無くなりました!
私のグーグルドキュメントにPDF版を載せましたが・・・印刷屋さんのブロックが
かかっていたようで、見ることが出来ないようですので

改めて載せます、写真版ですから少し不便かもしれませんがご利用ください。

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以上です。

2012年12月28日金曜日

◆唐松神社 物部



秋田へはいり、『物部文書』が伝わる唐松神社があることに気付いた。『物部文書』の付いて知ってはいたが、未だ物部氏の末流が代々宮司職を継承する神社を訪ねたことはない。早速、同行者らの快諾を得て参拝に向かった次第。
 神社の参道の両側には、樹齢二、三百年と思われる杉の大木が並立する。普通、一般的には何段か石段を上り社殿に辿り着くのだが、此処は何故か参道を徐々に下り、低地の社殿に到る。江戸初期建造とされる社殿はさほど大きくはないが、安産と子授けの神と親しまれているせいか、幼児連れの家族が多い。
 参道より下がった低地に神を祀るという例は、奈良の広瀬神社などにも見られる。この低地に祀られる神は、一部には蔑まれる神という見方があるようだ。当時の事情を、少し振り返ってみたい。
 
まず、物部氏だが、遠祖は饒速日命である。『日本書紀』神武天皇の記述のなかで、“嘗(むかし)、天神の子有(みこま)しまして、天磐船に乗りて天より降止(いでま)せり。號(みな)を櫛玉饒速日命と曰(まを)す”とある。この饒速日命は大和の豪族・長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)(亦名は鳥見屋媛)を娶り、初めは東遷の神武天皇の侵攻に対して共に立ち向うが、己れが天神であることを知り、逆に長髓彦を裏切り、これを殺してしまう。そして神武天皇に帰順する。

 この饒速日命が降臨されたとする処は、何ヵ所かある。『先代舊事本紀』では天神の御祖から天璽の瑞寶十種を授けられ、河内國・河上(いかるが)の哮峯(たけ)に天降る。秋田の『物部文書』では、秋田県と山形県境の鳥見山(鳥海山)に降ったとしている。
 この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、といった処にも饒速日の降臨伝承があるが、もともとは大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、それぞれ集団毎の始祖神話が、その土地に集約した形で創り上げられたようだ。
 この饒速日命から八代後が膽咋連(いくいのむらじ)である。『日本書紀』では、仲哀天皇が崩御し、政情不安になることを恐れた神功皇后は竹内宿禰と諮り、一時期その死を隠そうとする。その際、相談する四名の重臣のなかに膽咋連が登場している。
秋田・唐松神社、天日宮
 唐松神社の秋田物部家の家系図では、この膽咋連を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名はなぜか表に出た形で記載されず、守屋の子、つまり尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。




 仏教が公然と伝来したのは欽明朝(五三九~五七一)だが、日本の神を奉斎する排仏派の尾輿と守屋は、帰化系氏族と結んで新たに台頭して来た崇仏派・蘇我氏と、神仏の宗教戦争を引き起こす。

 用明天皇崩御の年(五八七)、両氏族は皇位継承をめぐって対立する。穴穂部皇子を擁立する物部守谷は、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れてしまう。百済王家出自の蘇我氏の勝利は、百済からの多くの帰化人と、当時の経済テクノクラートを押さえた結果と思われる。

 蘇我氏の天下で仏教は隆盛の一途を辿るが、蘇我氏に追われた物部の一族は各地へ離散し、山間や海辺の僻地で隠れ住むようになる。『物部文書』に依ると、守屋の子で三歳になったばかりの那加世は祖父・尾輿の家臣に匿われ、奥州を転々としたという。
 聖徳太子の崩後、蘇我氏は旧にも増して横暴となる。遂には太子の一族をも滅ぼし、天皇の廃立さえも企てるようになり、周囲の反感も強まる。ここに中大兄皇子、中臣鎌子等が蘇我氏打倒を目指し、蘇我入鹿の暗殺を決行する。翌日、入鹿の父、馬子の子・蝦夷は自殺し、物部氏が滅亡してから約五十八年後、隆盛を誇った蘇我氏もあっけなく潰え去った。

 この六世紀から七世紀にかけ、大化改新を経て古代国家確立に向けての時代は、激動の時代でもあった。蘇我氏が天下を取っていた半世紀の間に物部本流の影は消え、祭祀についても、奉斎する神に変動があったようだ。
 秋田物部家は那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。物部氏は饒速日に繋がるが、古代の歴史のなかで様々な表情を見せる。物部守屋にまつわる伝承や、物部氏を祀る神社も数多い。
 先の広瀬神社は、若宇迦能売命のほか櫛玉命、穂雷命を祀るが、この櫛玉命は饒速日命のことである。饒速日は長髓彦と共に大和朝廷に刃向い、後でそれまで共に国を治めて来た長髓彦を裏切って殺している。また、物部氏と蘇我氏の闘争で敗れた物部氏は、朝敵として追われている。
 守屋の子孫達が神社を建立するにしても、朝敵となった自分たちの祖神を祀ることを、朝廷に対しての気遣わなくてはならない。また、祖神の行動を認めないという証明として、低地に祀ったのではないか…。これから先、物部の神の復権はあるのか…。
 もとは秋田物部家の邸内社という天日宮は、周囲に花が綺麗に活けこまれ、何十万個かの天然石で築造されている。変わった神社建築の空間のなかで、ふと時の経つのを忘れてしまった。
(奈良 泰秀  H16年6月)

◆秋田物部の不思議

http://blog.mushanavi.com/talisman/?S=14640さんから




唐松神社に見られる異様さは、この神社が、物部氏と深い繋がりあることと関係していると推測されているらしい…。物部氏は、古代日本で蘇我氏と権力を争った名家であったが、仏教の導入を巡って崇仏派の蘇我氏と対立。6世紀後半、聖徳太子と組んだ蘇我馬子によって、日本の神を奉斎する排仏派の物部氏は敗れ、その血筋も歴史の表舞台から消え去るという運命を辿った。 
 
 唐松神社の祭神は、物部氏の遠祖とされる饒速日命(ニギハヤノミコト)であり、また、この神社の宮司は代々、物部姓を名乗って来たそうだ!いわば、歴史の傍流へと追いやられた敗者の側に立つ神社こそ唐松神社なのではないでしょうか? 
 
 では、なぜ畿内にあった物部氏が、当時、辺境であった東北へとやって来たのでしょうか?この辺りの事情を説明してくれるのが、長らく外部者には見る事を禁じられてきた秘中の秘とも言える文献「物部文書」である。「物部文書」は、唐松神社の代々の宮司が一子相伝で継承してきた文献で、「古事記」や「日本書紀」と同様、神々が織りなす神話の世界から、日本という国の成り立ちを説明している。この書は、昭和58年(1983)になって、ようやく一部が公開されたが、大部分は依然として未公開のままになっているというのが現状だ…。 
 この「物部文書」によれば、蘇我氏との対立で敗れた物部守屋の一子、当時まだ3歳であった那加世が、その臣下に匿われ、秋田に落ち、東奥の地で生き延びたという…。この時、那加世が持参した古代史料の写しこそ、「物部文書」であると言われている。また、同書では、物部氏発祥の地は、そもそも東北であったとも指摘している。饒速日命が降臨した場所は、出羽国の鳥海山であり、天より持って来た10種の神宝を奉じた場所こそが、現在の唐松神社であった!とされている。那加世は、遠祖である饒速日命ゆかりの地を目指し、数世代を経て、唐松神社のあるこの地で落ち着くのである。唐松神社宮司家は、那加世で子孫であるという。 
 
 物部家の子孫が神社を建立する際には、中央の朝廷に対し気を遣わなくてはならなかったでしょうね…。それゆえに自らの遠祖を低地に祀ったと考えるのは、私のイメージだけでしょうか?  

◆唐松神社もおもしろい

http://kamnavi.jp/mn/higasi/karamatu.htmさんから


 唐松神社、唐松山天日宮
秋田県仙北郡協和町境 mapion




唐松神社





祭神
唐松神社 軻具突命、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
日天宮 饒速日命、玉鉾神、愛子神


由緒 神社発行の唐松山御縁起大略によれば、太古、鳥海山に降臨しこの地に居を構えた饒速日命が天祖三神を日殿山に祀り、十種の神宝を安置し日宮と称したのが創祀としている。 その後、饒速日命は畿内に降臨し、後裔の物部氏は神宮皇后の安産祈願と香具土神、宮毘姫命の御霊代を併せて大和国に社殿を建立したと記されている。
 その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋の一子那加世が東奥の地に分け入り数代の後、元宮である現在地唐松山頂にお祀りしたとされる。

 唐松神社に秋田物部文書が伝わっており、秋田県協和町の進藤孝一氏の著作になる秋田「物部文書」伝承(無明社)に紹介されている。唐松とは韓服で神功皇后の御腹帯の意との事である。

 進藤孝一氏は「緑なす森林の国」:(古史古伝の謎:新人物往来社)に上記書籍の内容をコンパクトにまとめられているので、これを参考に以下に紹介する。

 鳥海山
 東北第二の山、美しい姿は出羽富士と呼ばれる。古くからの山岳信仰の山で大物忌み神社が祭られている。
 秋田物部氏の記録である「物部文書」には祖神である饒速日命が天の鳥船に乗り鳥海山を目指して天降りしたとある。

 天降り
 饒速日命は祖神の大命により天の鳥船に乗り、千樹五百樹の繁茂する日本の国を発見し、ここは伊賀志美国なりと鳥海山の潮の処を目指して天降り、国名を「繁木之本」と号した。 天降りは海上経由の移動であるが、鳥海山の麓三崎の半島に上陸したのであろう。 


 物部氏の出自
 天降り伝承を持ち、緑なす森林を崇拝する氏族、朝鮮半島以北の緑の少ない地域の出であろう。 北方系の蒙古族が朝鮮半島を経由して天降り・神宝などの伝承を取り込み、日本列島に渡来した説もある。 
 秋田物部氏の王国
 鳥海山から雄物川中流あたりを支配した。船で雄物川を遡り支流の逆合川を遡上して日殿山に「日の宮」を置いたと物部文書には記載されている。 神祭りの土地である。農耕文化とは疎遠であった暗示する。 

 秋田物部氏の神々
 玉鉾神は地祇神で古代の武器である玉鉾から変じて、邪悪を祓う祭具となった。
 愛子神はみやびひめであり、玉鉾の対神としての女神であろうか。
 それとも愛宕神で香具土神であろうか。 

お姿 秋田は森の多い国である。唐松神社付近も余り開けておらず、森林の豊かな地域である。その中でも多数の杉の大木がそびえ立っているのが唐松神社参道である。 樹齢300年と言う。宮司宅庭内に唐松山天日宮が鎮座する。唐松神社の社殿は参道を徐々に下っていき、低地に鎮座する。古来より立て替えが繰り返されてきたのであるが、古のかたちを守ってきたとのことである。 低地に神を祀っている神社としては大和の広瀬神社が有名である。広瀬神社の現在の主祭神は若宇加能売命であるが、本来は饒速日命もしくは長随彦とも言われる。参道を下る地に祀られているのは蔑まれている神を意味するとも言われる。 長随彦は大和朝廷への敵対者である。饒速日命は共に国中を治めてきた長随彦を裏切った神である。また神社縁起の様に守屋の子孫が建立した神社であれば守屋公を祀るはずであるが、公もまた朝廷側に滅ぼされた敗残者である。祖神であるから祀らねばならず、さりとて朝廷側の目を気にし、また祖神の生前の行動を認めていない証として、低地に祀ったのであろうか。  


天日宮



唐松神社

2012年12月25日火曜日

◆秋田城の外郭(城壁)は」なぜつくられたか


秋田城外郭南門が発見されました、ナゼ外郭が・・・

1,秋田城外郭
秋田城は733年から約200年間設置されていました。
秋田城は東西南北550mの城壁に囲まれていました。
奈良時代は710年からですから733年はすぐですね・・・

2,外郭門
【wiki】

8世紀当時の中央政府は、東北地方蝦夷軍事的制圧を積極的に進めており、日本海側では、708年和銅元年)に出羽郡をたて、712年(和銅5年)出羽国へ昇格させた。この前後、出羽経営の軍事・行政拠点として出羽柵(でわのき)という城柵が現在の庄内地方山形県)に置かれた。その後、中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。
なぜこんなに立派なものが・・・洟垂らしの蝦夷の地へ・・・


3,城壁とは
【wiki】
城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。




城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。


4,なぜ日本に、秋田に


長谷川如是閑「日本評論」
「西洋の都市が城壁をもって囲まれ、日本都市が城壁を持たないのも、日本では都市と都市外の地方との文明に境界がないことを象徴している」
「日本文明は、初期においては支那文明、大陸文明の継承に似ていたであろうが、奈良から平安初期にかけて、大陸のそれからまったく独立するに至った」
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教えてgooより
 城壁都市というのは、都市そのものが国であり経済単位です。また城壁都市での戦争とは、同盟国(同民族)の覇権争いであったり、異民族の侵入対する戦いであったりしました。

日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。


つまり日本は平安期に、天皇を中心とした国家体制が確立し、その後政権を誰が担当するかで戦争をしても、(島国ですから)異民族の侵入は原則的になかったということです。
更に平安時代には国家統一のために天皇家をはじめ、貴族や武家も各地に散って政治を行っていましたので、日本列島隅々まで同じ民族としての気分が醸造され、戦争を行ってもそれは覇権争いであって「侵略」ではなかったのです。
このようなことなら、城壁を作り城=国ということをする必要はありませんし、国換えで領地と領民をそのままに、「お上」だけが変わってもだれも文句を言わないことにつながったのです。
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 今回は資料集のようなものですが、この資料はじゅうようなものとなります!