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2011年11月15日火曜日

■なぜ南部は馬産地か


一戸二戸・・・みな馬の産地、なぜ南部は馬の産地なのか?



1、日本の馬はどこから来たか
【引用】
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-08.html


史以前の日本には「原種」と言えるような馬はいなかったと言われていますその根拠は、3世紀に中国で書かれた『魏志倭人伝』によります。すなわち
「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」


という一節です。これは魏(いわば当時の中国政府)から派遣された文官による日本視察レポートで、「牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギといった中国ではポピュラーな動物が、日本には棲息していない」という報告をしています。では和種馬はどこから来たのでしょう?

いくつかの説がありますが、ここでは江上波夫氏の学説を紹介します。氏は戦後『騎馬民族による日本統一』説を唱えました。それを土台に、4世紀の初めに朝鮮半島を経由して日本に上陸したツングース民族がもたらした馬が始祖であろうと言われています。いわゆるモンゴル馬です

っとも『魏志倭人伝』そのものが邪馬台国論争のタネになっているように、その記述にはあやふやな点が多々あります。また、そこに記述された倭(日本)は、近畿以南の地域を指しています。ですから東北や北海道には、西日本とは違う系統の馬がいたということも考えられます。
いずれにせよ、和種馬はどれも体型や体高が似ていて、モンゴル馬ともきわめて近い外形をしています。伝播と時代の違いはあったにしても、元をただせば同じアジア産であることは間違いないでしょう。

は南部馬の祖先はどこまで辿ることができるのでしょう。
枕歌に有名な「末の松山」は現在の岩手県二戸市にあって、そこでは先住民の遺跡が見つかっています。その中には、魚の骨や貝殻に混じって馬蹄の化石や、食料にしたと思われる馬の骨も出土しています。
わが国で馬が家畜として扱われるようになったのは5~6世紀と考えられます。二戸の古墳は、東北地方の山野には南部馬の祖先ともいうべき馬が、狩りの獲物として古代から存在していたことを物語っています。

具の出土品は8世紀から見られます。その時代に作られたと考えられる鹿島沢古墳群(主理研八戸市)で、金銅製の杏葉(馬の装身具)や馬具の一部と思われる金具などが見つかっています。埋葬されたのは、おそらく土地の有力者だったことでしょう。副葬品の馬具がこの地方で実際に使用されていたものかどうかは不明です。馬の飼育や利用方法についても判っていません。






2、南部馬

牧馬地方の春の歌

 現在も岩手県は北海道に次いで全国二位の馬産地ですが、この地域は伝統的に中世の頃から、良質の「南部馬」の産地として知られていました。
 このあたりで馬を飼う農家の人々が、まるで家族のようにその馬を大事にする姿勢は、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり家」という家の造りにも表れています。また、信仰や芸能としての「チャグチャグ馬コ」や「南部駒踊り」などの存在も、この地方の人々の生活において、いかに馬というものの存在が大きいかということの証だろうと思います。
 このような旧南部藩領地の北上山地の高原こそ、まさに日本における「牧馬地方」と呼ぶにふさわしい地域と言えるでしょう。
 そして岩手に生まれ育った賢治が無類の「馬好き」になったのも、このような背景からして自然なことと思われます。
 1924年4月19日、農学校の仕事を終えた賢治は、盛岡から外山高原を目ざして、夜を徹して歩きました。この間の状況は、『春と修羅 第二集』の中の一群の作品に記録されています(「外山詩群」参照)。
 そして4月20日の朝に外山に着いた賢治は、近隣の村から農家の人々に引かれて次々と集まってくる、何百頭という馬を目にしました。実はこの日、外山にある「岩手県種畜場」で、「種馬検査」が実施されることになっており、賢治が苦労してここまでやってきた目的も、まさにこれを見るためだったのです。




3、こんな縄文まで遡るのもあります

http://ameblo.jp/jyoumon-no-uma/entry-10290469955.html
謎のパンツルック土偶 
青森県「合掌土偶」のパンツ姿のナゾ

国宝指定を受けた風張1遺跡「合掌土偶」が注目を集めています、 でも“安産を祈る姿”とだけ説明されていて、このまま定着しそうな気配で心配です。

でも、ちょっと待ってください。このパンツ姿は明らかに乗馬衣装でしょう・・しかも女性です。

亀ヶ岡遺跡の遮光土偶「シャコちゃん」も、函館市著保内野遺跡の「中空土偶」もパンツ姿の乗馬スタイルです。

東北の各地の遺跡からパンツ姿の土偶が数々出土していますが、すべて女性ということも、なんとなくイロっぽく、誰かに、助けを求めているようにみえませんか??

このパンツ姿の素敵な女性たちを、歴史学上見逃すわけにはいきません。当時の生活、習慣などを検証してみる価値はあります。

現代人も乗馬人口の8割は女性ということですので、縄文の女性も乗馬の趣味があったとしてもおかしくないですが、縄文の女性たちが、なぜ、ここまで乗馬に凝ったのでしょうか。暮らしが豊かであったように見えます。
 
 

古代のパンツルックは騎馬民族 

 パンツルックは歴史学的、考古学的にみても、騎馬民族ということが定説です。ウクライナ、アラブ、スキタイ、モンゴルなど大陸の古代騎馬民族の騎兵はパンツ、歩兵はスカートです。

「合掌土偶」の衣装は皮の服    衣装に注目しましょう 布に刺繍したデザインという見方が一般的です。はたして、そうでしょうか?これは明らかに皮を加工した衣装です。このような皮衣装でなければ、年間をっ通じて厳しい北国での生活はムリです。特に、バックスキン(毛皮を裏返し使用)です。デザインを意識した高度なテクニックが活かされています。ここまでの技術を得るまでに、どの位の年月を経たか、とても興味がわきます。

 肩と膝、腕のパットは何を意味しているのでしょう、現在の乗馬の安全防具と見間違うほどよくできています。全体のデザイン、カッテングは皮加工しか考えられません。

しかも、実用服ならもう少しアッサリとしたデザインでもよさそうですが、細やかなところまで手がはいっているのは工芸分野で高度な技術が高まっていたのです。趣味であればあるほど、当時の豊かさが感じられます。

大陸騎馬民族の実用的なパンツルックより、むしろ蝦夷のパンツルックデザインの方が遥かに芸術的です。それよりも、騎馬文化においても蝦夷の騎馬文化の方が大陸より早かったかもしれません。

風張1遺跡から同時に発掘された、漆で仕上げられた弓矢の遺跡は、縄文の騎馬人がいたことの証明を、さらに強力に裏づけてくれます。この新しい説が本物になれば蝦夷の縄文文化でメシが食えるウマ学者、考古学者が出てくるかもしれません。(漆文化の起源でも)

さて、東北各地からこんな勇壮なパンツ姿の女性土偶がぞくぞくと出土していますので、このまま見逃すことはできません。馬がいたからこそこのような素晴しい文化が生まれたのです。何としても、ここは「縄文の馬」の存在を考古学的な見地から立証してあげなければなりません。

そこで、“北のまほろば”が世界遺産登録にむけて、さらに前進するためにも、蝦夷の「縄文の馬」文化を裏付ける作業開始の宣言をしなければならなかったワケです。ご理解いただけますか。




2009年9月6日日曜日

02007■遮光器土偶

遮光器土偶の夢を見ました。クロマンタにも関連がありそうなので、基本を押さえておきます。


(貼り付け)

是川遺跡に近い亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)縄文晩期(1,000~400年前)のものである。この遺跡を初め東北地方で出土する遮光器土偶は教科書にも載っており、知らない人はない超有名なものである。

Photo しかし、これは何であるのかについては結論が出ていない。まず、殆どが女性像であることから、母性を意識し、豊穣な動植物の繁殖を願ったものとも言われる。又、出土品で完全なものは殆どなく、腕や足が欠けているが、病気や怪我の身代わり人形だったの説もある。
 特に遮光器土偶はその奇抜なフォルムから
宇宙人を模したものといわれる様に、地球上には存在しないもので、何を根拠にしたのか不思議である。

 又驚異なのは、非常に薄いものを硬く焼き上げているその技術である。一緒に出土した土器類も小さな文様や精密な細工、薄くて硬いことから、当初鉄製品と間違われたという。現在のハイテクセラミックにさえ比される

 殆ど実用といえない祭祀用小型土器ばかり出土していることから、亀ヶ岡が神々を祭る神聖な場所であったろうと推定されている。そして、実生活と無関係の物にこれほど高度な技術を注ぎ込むほど余裕のある豊かな社会が築かれていたことは間違いない。



2、岡田康博さんの「縄文悠々学」からです

その名前の由来ですが、そもそも遮光器とはイヌイットなどの極北で狩猟をする人達が、冬の間、雪に太陽の光が反射して眼を痛めないように、スリット(幅の狭い溝)が入っためがねを使用しますが、このめがねのことを指します。明治時代にイギリスへ留学した当時の東京帝国大学教授坪井正五郎が大英博物館に展示されていた遮光器を見て、日本の土偶の眼はこの遮光器を付けているとの指摘から、眼の大きい土偶は遮光器土偶と呼ばれるようになりました。現在では、遮光器を付けていると考える研究者は少ないようです。通常、縄文時代晩期に造られた、眼の大きい土偶は遮光器土偶と呼ばれています。土偶は土で造られた人形のことです。

日本の縄文文化の特徴のひとつに土偶があります。大陸にも土で造られた人形はありますが、あまり多くはありません。土偶は乳房や妊娠した状態を示していると考えられるお腹の大きなものがあり、また、明らかに男性と思われるものが見つかっていないことなどから女性を表していると考えられます。何のために造られたのか、その目的にはいろいろな説があります。安産や子孫の繁栄を祈念する際に使われたまつりの道具説、あるいは病気やけがをした同じ部位を壊すことによって痛みや苦痛を取り去るための身代わり説、そして地母神説、などの魅力的な説がありますが、決定的なものはないようです。




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2009年8月17日月曜日

02006■津軽の北斗七星

弘前に行って猿賀神社に寄ってきました。昨年の岩木山神社もそうでしたが、津軽の北斗七星を考えてきました。

1、猿賀神社

田道将軍のことでは、秋田鹿角市の猿賀神社との関係が知りたくて訪れました。驚きました、立派な神社なのです。北斗七星神社の一つなのですね。




2、津軽の北斗信仰
「荒俣博 歌枕謎解きの旅」より
 熊野奥照神社の社殿によれば、津軽地方は王城の鬼門にあたることにより、古くから鬼神の蜂起が発生して庶民をおびやかすことがあったという。そこで津軽の阿姿羅というところに千坊の寺を建てて鬼神を平定し、国土擁護秘法を修した。ところが鬼神の横行は一向にやまなかった。そこで桓武天皇の時代に、田村麻呂が名を受けて官民五万八千とともにぴ集を攻めた。このとき、田村麻呂は閉廷した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。
 田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。
 明治九年頃に岸俊武の「新撰陸奥国誌」に熊野奥照神社古文書から引用された図が掲載された。それは岩木山を中心とする十二里四方の範囲に点在する七つの神社の配置図であった。しかもその配置が北斗七星の形をなしていた。


2、怨霊で悩まされた桓武天皇

平安京と桓武天皇から

桓武天皇
道鏡追放後、再び藤原氏の天下がやってくる。白壁王(後の光仁天皇)を擁立し、その皇子の山部親王が桓武天皇である。桓武は長岡京に遷都を行うが、早良親王の怨霊騒ぎもあり、十年で遷都を決意する。

坂上田村麻呂と津軽の北斗七星
桓武天皇のビョ-キは平安京周辺だけでは修まらなかった。坂之上田村麻呂を東北に派遣したのである。そして津軽に”地上の星”が出現する。50キロに及ぶ北斗七星の形に並ぶ神社群である。
太字
乳井神社、鹿島神社、
岩木山神社、熊野奥照神社、猿賀神社、浪岡八幡宮、大星神社の七社。

天台密教最強の防御術・北斗供を津軽まで行って実行しなくてはならない理由はなんなのか?いったい桓武天皇はなんと戦っていたのか?。
各神社の地下には宝剣が埋まっているという。


3、グーグルアースで配置図

BigDipper_of_Tsugaru.jpg

①鹿島神社・・・鹿島といえば常陸の鹿島神宮、北方鎮護のシンボル
②岩木山神社・・・オオクニヌシが出雲から左遷された所(降臨)。田村麻呂伝説の拠点。また天台・・熊野の神秘世界がそのまま再現された土地。
③熊野奥照神社・・・北斗七星の言い伝えが残る神社
④乳井神社・・・田村麻呂が胸あてのご神体を奉納した
⑤猿賀神社・・・田村麻呂が田道将軍の神霊に祈誓し、霊感を得て蝦夷征伐。
⑥浪岡八幡宮・・・八幡を押し立てて東征にでた始まりは田村麻呂
⑦大星神社・・・大星とは北斗七星の意味。田村麻呂「コサ吹かば・・・」

4、北斗信仰はいつからか
 いずれにしても、岩木山神社の北斗供は、坂上田村麻呂による武家としての北斗信仰(清水寺など)、ならびに東北の平定に力を貸した天台宗の呪術とを、背景としていること、まちがいないと思われる。
 ここでもし、岩木山七社がすくなくとも西行の時代(13世紀)までに成立していたとすれば、北斗信仰の栄えていた当時のことだから、岩木山が歌枕入りしていたに違いない。
 田村麻呂伝説は「古今集」や西行の時代には存在しなかったか、あるいはまだ普及していなかったためだろう。
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(まとめ)
・オオナムチの岩木山神社は昨年に見ました。ただただ驚くばかりの偉容でした。
・今回「猿賀神社」をみてきました。今までは、田道将軍を祀った神社は、大湯ストーンサークルの隣の「猿賀神社」との関係で見たかったのですが・・・恐れ入りました!!
・北斗信仰も「田村麻呂伝説」の一貫なのですね。坂上田村麻呂は山形、秋田、青森、三陸沿岸までは行っていないのです。
・田道将軍のことも、人物から時代関係まで疑問がますます増えます。(別途に)

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2009年8月12日水曜日

02005■遮光器土偶は最新宇宙論で解明

東北各県で出土していますが、遮光器土偶はやはり津軽(亀ヶ岡)が本場。
遮光器土偶は宇宙人だ、アラハバキだ・・・がせいぜいの段階ですが。

1、遮光器土偶

確かに宇宙人のようにもみえますね。

遮光器土偶のすごさは、これがセラミック構造となっていることだそうです。プ
ロでも同じものをつくるに6年もかかったと、前に見たことはあります。










2、電気的宇宙論(ウオレス・ソーンヒル)
・重力が宇宙を作り上げていたのではなかった。宇宙はそれ自体が巨大な伝導体であり、電気の
力が宇宙全体を結び合わせている。

・こうした全体的な宇宙観を媒介するのがプラズマである。プラズマは伝導性が高く、荷電粒子が自由に動き回っている。プラズマ宇宙論

・電気的宇宙は、これまで全く関係ないと思われていた古代の謎にも解明の光を当てる。





3、岩壁絵画は宇宙のプラズマ現象の記録


古代のアーテイストたちは、たいへんな苦労を重ねて天の巨大な放電現象を記録してきた。

世界各地で見られる岩壁絵画のパターンは実際の空に見えていた「宇宙でのプラズマ現象を記録したもの」である。

プラズマ放電の、最も一般的で魅力的なパターンは、中心軸のまわりに複数の円盤またはドーナッツ状の輪が積み重なった形をしている。

左図の一番下が「アイマスク」の形。









4、岩壁絵画の「アイマスク」


アメリカ西部のコロンビア川流域で広く信仰された目の女神「見守る者」

古代のアーテイストたちが実際に空を見えていたものを記録したものである。





「アイマスク」の形は地母神の原型と密接に関係している。この地母神はしばしば「目の女神」と呼ばれ、フクロウの姿で表わされることもある。
これはギリシャの女神アテナがフクロウの姿で表わされたもの。







イースター島の「アイマスク」の岩壁絵画









シュメールの女神イナンナの「目の偶像」







P61に
「状態のカオス的変化の始まり」を示している。
「。ゆえにこれより前の段階の記録が数万点あるのに対して、この段階を絵として記録したものがほとんど存在しないことは、驚くにあたらない」


5、遮光器土偶は「アイマスク」


そうすれば遮光器土偶だって間違いなく「アイマスク」ですよね。

「これは最もエネルギーの高い段階であり、人間は強烈な放射線から体を保護する必要があった」

遮光器土偶を100%説明していますね。

(フクロウもそうなのですね!!)




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2008年12月17日水曜日

02004■出雲のオオナムチをカシマダチ

【問題意識】
・出雲の初代大物主・オオナムチがなぜ津軽に追われたのか。


【資料】
ホツマ縄文日本の宝 池田満著 展望社(P81~)
多賀のオシホミミ(アマテラスの継子)の宮で橘が枯れ始めた。
橘は政りごとの善し悪しの鏡です。・・・
検察官が出雲に着いてみると、はたしてそこは独立国家のような様相を呈していました。出雲の国の国司(クニカミ)はスサノオの継子オオナムチでして、その宮(出雲大社)にはりめぐらした垣をタマカキと呼ばせ、また、人々にウチミヤと呼びならわせているのです。朝廷と同じ呼び名を用いることは朝廷を軽んじている証拠です。そしてさらに、宮はイサワの宮(アマテラスが住む)や多賀若宮(オシホミミが住む)よりも大きく立派だと、オオナムチは自慢しています。これでは、朝廷にとっていわば鼎の軽重を問われていることと同じです。
多賀に戻った検察官はオシホミミに報告します。
「出雲のオオナムチは人々を指導することに秀で、その国は大変豊かに人々も暮らしています。しかし、
『満つれば欠くる』とことわざにあるように、オオナムチは国土経営の成功のはてに、垣根を玉垣と呼ばせ、宮をウチミヤと人々に呼ばせています。これはオオナムチに朝廷を敬う心のない証拠です」

オオナムチはアマテルカミの右の臣(カの臣)であり、右(カ)の締まりを解くことからカシマダチと名づけ出発した。

平定軍が出雲の宮に着いた。
喧嘩腰で迫られたオオナムチは狼狽してしまいました。オオナムチとしては、そんなに悪いことをしでかした罪の意識がありませんでした。悪いことをした思いもないままに、朝廷から平定軍がやってきたのです。
継子のクシヒコに対応策をたずねました。
「平定軍を使わされてしまった今となっては、我々一族はこの出雲から去っていきましょう。出雲の国がいくら栄えているとしても、それはそれまでのことです。多くの国を束ね治めている朝廷は全国民の幸せを考えなくてはならない立場にあります。それなのに朝廷を軽んじるような仕儀は間違っています。朝廷に逆らう者は全国民を的に回したことになってしまいます。だから朝廷はとてつもなく貴いのです」

クシヒコの考えを聞いたオオナムチは、出雲を去る決心をします。しかし残念ながら、オオナムチは自分の犯した間違いについては未だよく分かっていませんでした。ただ朝廷に逆らってはならないといったクシヒコの言葉に従っただけだったのです。

こうして出雲を去ったオオナムチは、謹慎生活をおくることになります。やがて、誠実な態度が評価されて、オオナムチは謹慎を解かれ、当時未開発の津軽の開拓が許されます。津軽の岩木山神社はオオナムチの開拓を記念して建てられたのであったろうかと思えます。神社として珍しく黒ぬりの建物は、あるいはオオナムチの心を映したのでしょうか。
(以上が池田満氏の著から)




ホツマツタエ現代語訳 天の巻 10アヤから


















この時、オオナムチは配下の百八十神を引き連れて天(宮中)に昇り改めて帰順の意を表して忠誠を誓いました。その柔順な忠誠心の蔭には涙をこらえてもなお、忍びえぬ思いが去来していました。
 タカミムスビが今度の不祥事に至った原因を度々問い正した時も、オオナムチは誠意を尽くして素直に答え、それはいちいち理にかなって同情に値するものであったので情状酌量により、アマテル神の詔のりによりこの件は国替えと決まりました。この時正式にツガル、アソベのアカル宮(現・岩手山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜り、後に供の百八十神と力を合わせてツガルの国を再開発して良田を広げ再び豊かな国造りを成しとげました。

 オオナムチは賜ったツガルの国にアカル・アソベのウモト宮(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、その境内地の建築規模はチ(千・せん)ヒロ(一尋は1.515m又は1.818m)にも及び、宮殿の甍(いらか)は高々とそびえ、木の香も真新しい多くの棟々は掛橋(かけはし)で一体に列なり、それはあたかも緑なすアソベの岳を背景に出現した空中楼閣を思わせる佇まいでした。
 オオナムチに従ってツガルに下った百八十神の新築なった家並を遠望する時、それは丁度アカル宮を中心にオオナムチを守るようにお互い助け合い強い絆で縫い合わせた壮大な服従の白楯(しらたて)
を彷彿させました。国を移された御魂の意からウツシクニタマ(顕国玉神)と称えられたオオナムチは後にツカルウモトノ神(東日隅大元神)となり神上がりました。




(以上が池田満氏の著から)
【まとめ】
・出雲の国譲りの経緯がよくわかります。
・津軽の開拓を行った
・岩木山神社の黒塗りの建物の理由
・アソベがでてきました。
・壮大な宮殿をたてたこと。
・オオナムチに従って百八十の神(臣下)がいたこと。


2008年12月16日火曜日

04003■オオクニヌシ

【問題意識】                       

・大国主神、オオクニヌシ・・・同じ人物で多くの名前を持つ波瀾万丈のお方とは!!

【資料】ホツマツタエ解読ガイド

1、大国主神

現在では大国主といえばソサノヲの子のオホナムチのことをいう場合が多く、神社の祭神に大国主神とある場合、これは大概オホナムチを指している。
しかし、実は大国主とはオホナムチの子の
クシヒコ(コトシロヌシ)の別名である。 また大黒様というのも大国主を音読みしただけのもので、これもクシヒコ(コトシロヌシ)である。
しかしながら、大国主
(大黒様)のイメージ(種袋を担いで手には槌を持つ)、これはオホナムチのものなのである。
また『古事記』『書記』に須佐之男命の五世・六世の孫として大国主がでてくるが、これは
クシミタカマを言っている。

したがって神社の祭神に大国主神とある場合、
1.オホナムチ 2.クシヒコ 3.クシミカタマ
この3人のいずれかである。

2、オオモノヌシ・オホモノヌシ・ウモノヌシ

大物主。 =右の臣=剣の臣=八重垣の臣。 
司法・行政・軍事長官。 
モノノベを八百人(ヤモリ)司る主(10国=800算=25,600,000屋)。 これは十物の機の経糸の数(八百)と同じ。 コトシロヌシ副モノヌシ(ムラジ)とが補佐する。 この職は八重垣臣(初代はソサノヲの長男によって世襲される。 また同時に二人はいない。 クシキネはソサノヲの長男ではないが、ソサノヲが下民からもとの身分に戻され、八重垣臣になってから初めて生まれた子である。 ツミハコモリの次男で、その子のクシミカタマはオオモノヌシにはなれないため、オオモノヌシの断絶を怖れたオホナムチは、クシミカタマを嗣子のないフキネの養子にしてオオモノヌシを継がせた。

初代:クシキネ(オホナムチ) 
二代:
クシヒコ(ヲコヌシ) 
三代:
ミホヒコ(コモリ)
   (四代):
カンタチ  ←コモリが永かったのでオオモノヌシにはなっていないようだ。
四代:
フキネ 
五代:
ワニヒコ(クシミカタマ)

六代:アタツクシネ。  


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【まとめ】

・大国主命はたくさんの名前があるのですね。

・大物主これは役職なのですね

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04002■岩木山神社

【問題意識】

・ホツマ天の巻2アヤ

大国主の本当の名前はオオナムチといいます。生まれながらにして優しい性格の持ち主で、人々の信望が厚く、国土経営にも優れた手腕を発揮した。

このように一見順風満帆の国づくりにも、満ちれば欠けるたとえのように・・・・ついにオオナムチは、いわれない諸悪の根源として宮中から攻撃され、国を追われて最北の地、津軽に追放されてしまいました。(これが「出雲の国譲り」)

【資料】

宝亀十一年(780)、岩木山山頂に社殿を造営。









坂上田村麻呂が延暦十九年(800)に山頂社殿を再建し、
十腰内に、下居宮(おりいのみや=麓宮)を建立して、山頂を奥宮とした。
この下居宮が、現在の厳鬼山神社

寛治五年(1091)、神託によって、十腰内から、
百の沢を越えて、岩木山東南麓に遷し、百沢寺と称したのが本社の起こり。

『日本の神々』(白水社)に、当社に関する伝説が載っている。

昔、大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し
180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。
その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。
ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。
その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。
大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという。

村上天皇の御代、丹後由良港の海賊が、その神珠を盗み逃亡した。
郡司の長男・花若麿が、美女に扮して由良港へ行き、これを奪還。
以後、岩木の神が忌み嫌うので、丹後の者が領内に入ると風雨となるという。

さらに、山椒大夫で有名な安寿と厨子王の話。
母と安寿姫、弟の厨子王が、筑紫に配流された父をたずねて旅の途中、
姉弟はだまされて、丹後由良港の山椒大夫に売られてしまうが、
姉弟は、当地津軽へ逃れてきた。
そこで、安寿姫は岩木山の神となったという。
後年、厨子王は都に上り、丹後・越後・佐渡の領主となり、
山椒大夫を罰して仇を討ち、佐渡で盲目となった母と再会する。

ということで、丹後に対する独特の思いが、当地にはあったようだ。
藩政時代にも、突然荒天になると、港役人は、
丹後船や丹後人を詮議し、領外に追放したという。

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【まとめ】

・出雲を追放されたオオナムチ(初代大国主)は津軽に追放された(ホツマ)。

・岩木山神社にオオナムチがこの地に降臨(流れてきたこと)した。

・ホツマのオオナムチが出雲から津軽に追放されたことが明らかである。

・北斗信仰から当初は天台宗(慈覚大師)が建てたもの(荒俣宏説)

・坂上田村麻呂が再興したとなっているが、田村麻呂は来ていないので、田村麻呂伝説のと片付けることですむのだろうか。

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2008年12月15日月曜日

04001■アラハバキ一族と田道将軍

【問題意識】
・アラハバキとは何か
・津軽蝦夷とアラハバキの関係
・蝦夷征討の歴史

【資料】

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)によれば、(秋田の豪族安倍・安東(秋田)湊氏物語:長岐喜代次)

1、この頃、日向一族が東征を目指して五畿七道をおさめていた豪族安日彦、長髄彦を追討したため、邪馬台一族は破れて北方の“東日流(つがる)”に逃れた。再挙を図るために、原住民として既に定着していたツボケ(津保化)、アソベ(阿曾部)の民と混血し、アラハバキ(荒吐)一族と称する統一民族が誕生するに至った。そしてこの混血賊は、荒吐五王制を以て統一することになった。

2、荒吐五王とは、奥州五国の治領主としてその本拠を北上川平泉に置き、東西南北にそれぞれ王を配した。荒吐五王を“ウーワン”と称し、日の神(ヤン)を主神としたという。

3、安日・長髄を祖先とした“東日流”には、征夷の管軍は踏み入ることができなく、かの坂上田村麻呂も入れなかった。また、上毛野田道(かみのげのたじ)将軍は“東日流”には入ったものの荒吐一族のため打ち取られたことは周知のとおりである。

4、ただ、安倍比羅夫ばかりは、戦いによらず和をもって接したので、反逆を中止した。そこで荒吐一族の首長に官位を授け、」さらに“安倍”の性を与えた。また五王の一系たる総領を“安東”と称し、一族の総主とした』とある。

【まとめ】
1、津軽のアラハバキ一族(神ではない)はナガスネヒコを祖先とし、強く、管軍が踏み入れることができなかった。
2、田道将軍が打ち取られ、坂上田村麻呂も津軽には入れなかった。阿倍の比羅夫だけは和をもって信頼を得て入った。
3、田道将軍(たみち)を(たじ)と読んでいる。
4、東日外三郡誌は「偽書」扱いとされているが、謎に包まれている東北古代について調べる資料の一つとはなると思います。