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2014年2月2日日曜日

❏真澄「水の面影現代語訳」解説(2)現地踏査

菅江真澄の「水の面影」現代語訳に当たって、内田武志さんの解説(2)



「水の面影」解説 菅江真澄全集著者 内田武志

1 文化九(1812)年の著 

「古老たちから尋ねながら、現地踏査した」
  


文化八(一八一一)年の夏から久保田(秋田市)に居住するようになった真澄は、佐竹藩校明徳館の助教那珂通博の推輓を受けて、藩内六郡の地誌を編むことになった。

《みずのおもかげ》には、「寺うち、矢ばせなどの村々のふることを、としたかき処人にたつねて書きたるふみなり」とある。しかし現在知られている《みずのおもかげ》は上巻だけでそれには年次がない。某年の二、三月ごろ、今の秋田市寺内から八橋方面の旧跡を探遊した記録とみられるが、文化九年(一八一二)年七月の日記《つきのおろちね》の冒頭には、次のように言っているから、同じ年の探訪であることがわかる。「この春より、このあたりを尋ねわたりて、『水の面影』という冊子に寺内山のふるあとをたどりて書いてあつめ・・・」

そこの名所十八箇所の由来は当時すでに知るひとも稀になっていたから、真澄は里の故老たちに尋ねながら、実地踏査をした。その記録を《みずのおもかげ》と表題したのである。





 
3月2日の報告会参加の方に「水の面影現代語訳」無料で差し上げます

あっというまに在庫切れになりました。PDF版を接続します。閲覧なり印刷なりどうぞ! グーグルドライブですから
「菅江真澄 水の面影」をクリックしてください

https://drive.google.com/?hl=ja&urp=http://www.google.com/google-d-s/intl/ja/tour3.htm&pli=1&authuser=0#my-drive




内田武志さんとは

❏真澄「水の面影現代語訳」解説(1)原本発見

菅江真澄「水の面影」現代語訳完成に伴って、解説をシリーズで行います

1,原本発見

「水の面影」解説     菅江真澄全集著者 内田武志

 原本は昭和初年に能代の安農家で発見

真澄の他の著書の中に《みずのおもかげ》の書名が数多散見するので、その存在は明治期の研究者にも早くから知られていたが、原本の所有者は容易に判明しなかったようである。

わたくしが、能代市の安濃家から、真筆本《水の面影 上》一冊を借覧したのが昭和二一年の五月である。それを、表紙の写真を撮り、全文を写し終わってまもなく返却したが、その後の能代大火(昭和二四年二月二十日)で消失してしまったそうである。いま、表紙の図版として、このとき撮影した写真を用いた。また本文には、自分の写本を底本とした。

《水の面影 上》の一冊が、どのような理由で能代の安農家の所有となっていたかについて、わたくしの推察を述べてみよう。消失前の安農家には、真澄の原本として、このほかに、《あさひかわ》および、図絵草稿をまとめた《無題雑葉集》も所有していた。《無題雑葉集》の裏表紙には「千穂屋蔵」と記入されていて、鳥屋長秋の蔵書であったことが知られた。真澄の没後、三回忌を期して長秋らが墓を建てたが、そのとき建碑に寄付をよせ、協力してくれた各人に、責任者長秋から真澄の著書を返礼に贈っている事実がある。

安農家は能代で薬舗川口屋を経営し、また代々庄屋をつとめていた家柄だが、真澄と知己のあった人は安農治兵衛恒長である。恒長は大年と号し、国学、歌道に熱心な人であったから、真澄の墓碑建立にあたって、応分の寄付をしたものと思われる。それで天保三(一八三二)年の春、長秋から真澄の著書三冊を贈与されたと考えられる。

恒長の子、恒生は、皇道医学の研究と平田門下の国学者として著名であるが、神職となって、明治十五年創建された大阪阿倍野神社の宮司になり、その後、全国各地の神社に奉職した。安農家に所蔵される真澄の著書三冊が、明治期から昭和初年になるまで未発見だった理由は、安農恒生氏が明治初年から能代に不在だったことにあるように推察されている。




 2,「水の面影」現代語訳贈呈!



3月2日(日)午後1:30~
秋田市北部市民サービスセンターで開催する
報告会にご参加いただければ
現代語訳を無料で贈呈致します
A4 40P



3,内田武志とは




2013年5月2日木曜日

■菅江真澄著「水の面影」現代語訳に着手

秋田市寺内の歴史を探求するためには菅江真澄のお力が重要です。

1,菅江真澄

「水の面影」現代語訳

前半、後半に分けてアップします。

中野みのるさんの訳を活用しましたが、かなりの部分を訂正しております。


ただいま再度、グループで校正中です

完成したら載せます

2012年12月25日火曜日

◆秋田城の外郭(城壁)は」なぜつくられたか


秋田城外郭南門が発見されました、ナゼ外郭が・・・

1,秋田城外郭
秋田城は733年から約200年間設置されていました。
秋田城は東西南北550mの城壁に囲まれていました。
奈良時代は710年からですから733年はすぐですね・・・

2,外郭門
【wiki】

8世紀当時の中央政府は、東北地方蝦夷軍事的制圧を積極的に進めており、日本海側では、708年和銅元年)に出羽郡をたて、712年(和銅5年)出羽国へ昇格させた。この前後、出羽経営の軍事・行政拠点として出羽柵(でわのき)という城柵が現在の庄内地方山形県)に置かれた。その後、中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年天平5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。
なぜこんなに立派なものが・・・洟垂らしの蝦夷の地へ・・・


3,城壁とは
【wiki】
城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。




城の文献上の初見は、664年天智天皇が築いた水城(みずき)で、この時代には文献に見えないものも含め多数の城が九州北部から瀬戸内海沿岸に作られた。また、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城出羽柵秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれた。
これらの城は、中国風の城壁都市の概念から来るものであり、国府として用いられたが、城壁建築技術が低かったため、柵などを築くことで代用している。これらの城は律令制が崩れると共に廃れ始め、武士の時代に築かれ始めたものが戦闘拠点としての狭義の城である。


4,なぜ日本に、秋田に


長谷川如是閑「日本評論」
「西洋の都市が城壁をもって囲まれ、日本都市が城壁を持たないのも、日本では都市と都市外の地方との文明に境界がないことを象徴している」
「日本文明は、初期においては支那文明、大陸文明の継承に似ていたであろうが、奈良から平安初期にかけて、大陸のそれからまったく独立するに至った」
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教えてgooより
 城壁都市というのは、都市そのものが国であり経済単位です。また城壁都市での戦争とは、同盟国(同民族)の覇権争いであったり、異民族の侵入対する戦いであったりしました。

日本の戦いは、応仁の乱以降全て「日本国」の覇権を争う戦争ですので、上記の点に照らし合わせば、平安以降日本は、日本列島全体(北海道を除く)がすでに城壁都市と同じ単位になっていたといえます。


つまり日本は平安期に、天皇を中心とした国家体制が確立し、その後政権を誰が担当するかで戦争をしても、(島国ですから)異民族の侵入は原則的になかったということです。
更に平安時代には国家統一のために天皇家をはじめ、貴族や武家も各地に散って政治を行っていましたので、日本列島隅々まで同じ民族としての気分が醸造され、戦争を行ってもそれは覇権争いであって「侵略」ではなかったのです。
このようなことなら、城壁を作り城=国ということをする必要はありませんし、国換えで領地と領民をそのままに、「お上」だけが変わってもだれも文句を言わないことにつながったのです。
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 今回は資料集のようなものですが、この資料はじゅうようなものとなります!

2012年12月13日木曜日

◆秋田城と渤海使節団(図解)

秋田城と渤海使節団についてパワーポイントで作成しています。


















2012年1月27日金曜日

■高清水の地球画にみる歴史

高清水の丘をグーグルアース地球画解析を行いました。

1,高清水の丘(秋田市寺内)
 緑の部分が平安時代秋田城があった地区


2,地球画を作成
地球画とはグーグルアースから、開発の痕跡を除くと、その土地に関係した人の顔が出てくるというものです。
この手法を発見されたのが、クロマンタの地盤調査をした渡邊広勝氏です。
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解析結果
秋田城は何か恐ろしく怒った顔が存在し、髪の毛が怒髪として経ちあがってい
るのが見えます。
現代は開発で基本地形が壊されていますが、それでもこの様に高空から観察す
るとみごとにこの地に建造した古四王神社の存在が分かります。

3,空素沼の存在
縄文時代周囲は海か干潟でした。天空に現わされる地の神は怒りを持って鬼

壁山を見つめています。とうじ恐らく鬼壁山周辺は地震の巣として認められて
居たのでしょう。人々はこの丘陵を整形し神の顔としました。ここを信仰する
ことにより地震を押さえてもらうよう願ったのかもしれません。
そのご海水面降下とともに稲作が盛んになります。

鬼壁山も平穏になり東北地区支配の為に秋田城が作られます。
城内の池は眼の形に作られていると見られます。
そしてあご髭の長い仙人の姿が現れます。図は現代の建物を緑で埋めました。
秋田城の池は眼の形をしていたも
のとみられます。 今度よく見てみたいです。蝦夷の土着の神は地球画から導き出される、おおいなる神だったのです。


4,古四王神社の重要性


後の支配者(日本書紀)はこの神を蝦夷安定のために利用したのでしょう。
秋田県の中央との戦いが、岩手県等に比べ比較的早く終わっているのはこの神
社を当時の中央政府が利用したと思われます。
阿部比羅夫や坂上田村麻呂が蝦夷を統治するにあたり、この神社が利用された
と思われるのです。





2011年5月15日日曜日

■古四王神社の祭典は不思議

5月8日は胡四王神社の祭典です。またおもしろい「のりつけ棒」が見られました!


1、古四王神社祭典

子供たちも参加(学校を休んでも参加できる)し、神輿も出ています。六角形に鳳凰がついた立派なものです。作画は由緒ある神社です。





















2、不思議な「のりつけ棒」

中央の棒が「糊つけ棒」。直径8㎝くらいの杉の棒です。白い部分が米から作った糊。この糊のつく具合で豊作を占うというのです。時代が経っていますからそうなのでしょう!! 本当は下記のようなことだと推定しています。

























3、「のりつけ棒」は「糊つけ矛(ぼこ)」

「寺内町史」には「のりつけ棒」は「糊付矛(のりつけぼこ)」とあります(p95)
矛と言えば「イザナギイザナミの国生み神話ですね」・・・古事記なんですよ!






















平田篤胤「霊の真柱」より

古の伝えとは「古事記」のことです。
古の伝えに曰く、そこで、天ッ神の諸々の神々のお言葉で、イザナギノミコト・イザナミ ノミコトのお二柱の神に向かって、「この漂える国を、造り固めなされ」と仰せられ、アマノヌボコをお授けになり、ことを委ねられたのです。
  そこで、お二柱は天の浮き橋にお立ちになり、そのヌボコを下に向けて指し下ろして、流れ漂っている青海原を、コヲロコヲロと掻き回し掻き鳴らして引き上げなされました。その 時に、ヌボコの先からしたたり落ちた塩が、重なり積もりに積もって島になりました、これがオ ノゴロ島です。
   その二柱は、その島に天降りなされて、天ッ神より賜ったアマノヌホコ突き立て、国の御 柱として見立て、また八尋殿(やひろとの)を見立てなさったのです。故にそのヌホコは後で小山となりました。
   第五図












 
これより次々の図には、天に成坐す 神、地に成坐す神たち、その図に用があるときのみ挙げて、絵は省く。
  三大考には天と地と、この時なお連 なりたる状態に書けるは間違いな 理由は下に記す。
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●この天ッ神の諸々の神々のお言葉で、お二柱の神に、「この国土を固めなされ」と仰せられた時は、天と地とは既に切り離れた頃のことで
す。それはどうして分かるのかといえば、天ッ神のここでのお言葉によって知ることができるのです。それは、天ッ神の諸々の神が、高く天上から見下せば、この国土の漂える様子がよく見えているお言葉だからです。「この」と指さされたことによって明らかなのです。もし、この時もなお、天と地が切り離れていなかったら、その根とある国土が漂っているとすれば、天も共に漂っているべきなのに、どうしてこの国土を指して「この漂える国」と仰せられるのでしょうか。
   さて、天と地が切り離れてから、二柱の神は「天の浮き橋」でご出立して、「浮き橋」にお立ちになって、青海原を掻き回されました。

(「浮き橋」のことは、『三大考』の説とは大きく異なることは、第十図の下に詳しく述べます)

 ●青海原とは、やがて天ッ神が「この漂える国」とお指しになったもののことであって、それはこの国土の生まれたばかりの頃の呼び名の理由でもあります。また青海原という言葉の意味も、古史の伝えに言われ
るとおりです。
 ●二柱の神に、諸々の天ッ神がお授けになったヌホコとは、「玉鉾(たまほこ)と言うように、玉でもって飾ってある矛である」と師が言われたとおりです
(ただし、古はこのような物にも玉を飾るのは通常のことであって、ただ何とない飾りと思われますが、未だに詳しくは分かりません)
さて、その玉を飾ることには、不思議な理由があります。それは五柱の天ッ神、特にムスビノカミのムスビの御霊を、二柱の神にお授けになり、国生みを成功させようと、その御璽(みしるし)のお祝い物に飾られたものです。                        

(これは、私が確かに考え得た説です。それは第八図の下に挙げてある、イザナギノミコトが天照大御神に、御頸珠(みくびたま)をお授けなるところで詳しく申しますので合わせてお考え下さい)
 ただしこれは、玉を飾るだけでよいものを、その御矛(みほこ)をお授けになることは、その矛で浮き雲となって固まっていない青海原を、掻きならして衝き立て、中心(なかご)の固め柱としなさいとのお計らいなのです。だからこそ、二柱の神が、掻きさぐられ、自然(おのずから)に固まり出来上がったのです。そのオノゴロ島に衝き立て、国中(くになか)の御柱となされたのです。そうですから、この大地の中心は、このお授かりになった御矛(みほこ)の先なのです。
(このようにして、その柄の方は、小山となったのです)
   彼の、天となるべき物は萌え上がって去り、泉となるべき物は垂れ下り、大地となるべき物の、なおフアフアとして、固まらないのを、この御矛(みほこ)を衝き立てなされることによって、締まり固まったのです。天ッ神からお授かりになった物も多い中に、矛をお授かりになったことは、大変に不思議な、深い理由がないはずはありません。
(古には戦の出発の時に、矛を授かることもこの謂われによるものです)
                               
 そうですから、この地球が広大である中で、我が御国は国土の大本であります。またオノゴロ島は、この大地を固めた、御柱たる所になります。                 
(一つの伝えに、「オノゴロ島を国中の御柱となす」とあるのも、これで分かります。漢(から)の書にも「天柱坤軸などというのも、この古伝が訛り伝わったものと思われます)


(これは私のブログ「務本塾 巡堂講座」からです)
「矛」とはたいへんな代物ですね・・・古四王神社とどう関わりがあるかはわかりませんが!・・・だから古四王神社はただものではないといいたいのです。田村麻呂将軍などとは全くもって関係ないし、大彦命(大毘古命)という四道将軍が祭神ということにも大きな疑問を抱いています・・・すべては大和朝廷のストーリーである「田村麻呂信仰」の一環だと思っています。


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