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2014年1月24日金曜日

❏「錦木塚物語」動画紙芝居と「歌枕」について

錦木塚物語・・・完成アップしました

1,動画紙芝居アップ
「錦木物語」は「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕がわからないと
何にも面白くもない、ただの悲恋物語です。下に歌枕のことを記しています

https://www.youtube.com/watch?v=Bd5fnF8IIbU


2,歌枕とは何か

枕詞とは、土中の闇に眠る種子のようなもので、そこからやがて芽が生じるように歌がでてくるのです。眠るときに使う枕としての言葉が枕詞です。

・足引き・・・泉津平坂(よもつひらさか)を足をひいておりてきた・・・山(やま)

・脚引き・・・葦を引き抜き田となしヤマトの国を固めた・・・大和(やまと)

・枕詞・・・道が徹(とお)る前の状態を表す。

枕詞は単なる修飾的な言葉ではなく、その中に神々が古代に切り開かれた歴史が込められているのです。(ケフの狭布も同じ)



3,ホツマと平安の歌枕

ホツマツタエの歌枕と平安時代の歌枕の比較です
錦木塚物語に出てくる「歌枕」で比較します

ケフの狭布も錦木も何なのかははっきりしないまま
不思議な異国のものとして歌あそびしていたのですね・・・都の人々は!

4,歌枕「錦木」の歴史探訪

「錦木」と「ケフの狭布」の歌枕を通して
東北の歴史を調べています



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2009年8月26日水曜日

01414■ケフの狭布・・・広辞苑、ホツマ 





ケフ

  • 【狭布】ケフ -広辞苑より-
    古代、陸奥国から調進された、幅の狭い布。 和歌に「狭布の細布」の如くよまれ、その「狭布」は地名として受け取られている。

ホツマで解明・・重要な神器の腹帯=岩田帯のことでした)


ケフノホソヌノ

ケフの細布。
 
雄鶴の羽根(24筋)を縦糸に雌鶴の羽根(24筋)を横糸に織った細い布。 四十八備わりハタレマの障りを除く。 腹帯(日立帯・五腑帯)に使う。 トヨケカツラギ山世嗣社に祈った時に、イトリの羽が落ちてきたことに始まる。



【狭布の細布】ケフノホソヌノ -広辞苑より-

歌語として「今日」「胸合はず」「逢はず」などに懸けて用いられる。きょうのさぬの。きょうのせばぬの。

後拾遺恋「錦木は立てながらこそ朽ちにけれ―胸あはじとや」




ホツマ


羽根を 撚り正し 雄鶴をに 雌をに ケフの細布 織り以つて 四十八備わる 御腹帯』16紋

『天より授く ケフの帯 天に則りて 父の 比ぶる帯に 母の息 ヒタチとなるは イタクなり 天よりイタキ 地に編みて 連なり育つ 子の例し 父の恵みは 頂く天 母の慈し 載する埴』16紋


後にカトリにゆき 語りて共に ヒタカミに告ぐれば君も 喜びてケフの細布 織らしむる』16紋



ホツマで解明・・重要な神器の腹帯=岩田帯のことでした)




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ケフノオビ
ケフの帯。
ケフの細布で作った妊婦帯。 夫の背丈の長さに作る。 
タマキネ教えの帯孕みの帯ケフの帯ヰワタ帯ヒタチ帯サツサ腹帯

ホツマで解明・・重要な神器の腹帯=岩田帯のことでした)



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2009年8月25日火曜日

01413■ケフの狭布資料各種










1、「季刊 東北学」16号の柳原敏昭氏の「奥羽古代・中世交易史」より

749年の産金以来、砂金は陸奥国を代表する特産物であった。
令制が施行されたとき、それまで布であった陸奥国の調庸(律令制度下での租税制度)は、多賀城以北が金、以南が布とされた(寺崎1983)。
『延喜式』の交易雑物にも砂金三百五十両が見える。
そして、十世紀半ばまでには、百姓に調庸として課していた狭布を財源として、それを徭丁(ようてい)に支給して砂金を採掘させていたこと、鎮守府が国府から請け負って調達していたこと、年料化されていたことなどが明らかにされている(熊谷 1994)。




                         参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
「倭訓栞 前編九計」けふ  狭布をけふといふは音を略す、けふのほそぬのといふは文選読の如し、

御拾遺集に、 けふのほそぬのむねあはじとやと見えたり、けふのせばぬのともいふとぞ、

津軽のあた りには、田を種る服に製す、たくりぬのといふともいへり、弘仁元年(810)の官符に、 応陸奥国浮浪人准土人輸狭布事と見えたり、

会津風土記に、細布出伊北郷と見ゆ、今布 の名にいほうあり、是なり   「袖中抄 十八」けふのほそぬの  みちのくのけふのほそぬのほとせばみむねあひがたき恋もするかな 

 顕昭云、けふのほそぬのとは、みちのおくにいてくるせばきぬのなり、せばければ狭 布とかきて、やがて声にけふとよみて、訓にほそぬのとよむ也、その声訓をあはせてけ ふのほそぬのと云也、さればむねあはぬよしをよむなり、やがてけふのせばぬのともよ めり  いたふみやけふのせばぬのはつはつに あひ見てもなほあかぬけさかな  うのはなのさけるかきねはをとめごが たがためさらすけふのぬのぞも 

「類聚三代格八」太政官符  陸奥国浮浪人准土人輸狭布事  右当道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使
藤原朝臣緒嗣奏状称、陸奥守従五位上勲七等 佐伯宿禰清峯等申云、件浮浪人共欸云、土人調庸全輸狭布、
至浪人特進広布、織作之労 難易不同、斉民之貢彼此為異、望請一准土人同進狭布者、国司検察、所申有実
但黒川 以北奥郡浮浪人、元来不在差科之限者、臣商量、此国地広人稀、辺冦惟防、不務懐柔、 何備非常、
望令依件送者、右大臣宣称、奉勅依請   大同五年(810)二月廿三日   「延喜式 二十四主計」  
凡諸国輸調、(中略)狭布二丁成端、長三丈七尺、広一尺八寸、(中略)  陸奥国(註略) 調、広布廿
三端、自余輸狭布米穀、 庸、広布十端、自余輸狭布米  出羽国(中略) 調庸 輸狭布米穀、(中略)  越後国
(中略) 庸、白木韓櫃十合、自余輸狭布鮭   「吾妻鏡 九」文治五年(1189)九月十七日甲戌、寺塔已
下注文曰、衆徒注申之(中略  )  一毛越寺事(中略)  此本尊造立間、基衡(藤原)乞仕度於仏師運
慶、運慶注出上中下之三品、基衡令領状 中品、運功於仏師所謂(中略)希婦細布キフノホソヌノ二千端、(中略)
此外副山海珍物也  
 


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2009年6月8日月曜日

01412■鹿角と南部紫根染・茜染について




 第一次世界大戦により海外からの資源の輸入が困難になるとの見通しのもと、国内資源の見直し運動の一環として、南部紫根染復興のことが岩手県知事大津麟平氏の主唱により取り上げられ、南部紫根染研究所が開設されたもので、当時の岩手県勧業課長は筆者の祖父の従兄弟に当る藤田萬治郎氏で、その様な関係もあって京都で染色の研修中だった草紫堂初代・謙【当時27才】が主任として招聘され、研究に着手するのだが

、盛岡にはすでにその技法を伝える人が絶えて居り、明治維新まで藤田家が知行地として鹿角郡柴内村【現鹿角市柴内】を南部家から拝領していた、その様な縁故もあって、秋田県花輪地方【現鹿角市花輪】にかろうじて残って居た、21代前の祖先から紫根染・茜染を家業として営んで居られた、かなりご高齢の小田切猪太郎氏他1名の方に一年間盛岡に来てもらい、その技法を伝授された。


花輪で"鹿角紫根染・茜染"の伝統の技法を受け継いで居る栗山家は藩政時代から続く呉服屋さんだったと聞いているが、文一郎氏のお父上文次郎氏が紫根染をやろうと思い立ったキッカケは、職人さんが殆ど居なくなり、しかも残っていた方も老齢化し、このまゝでは奈良時代から伝えられて来た伝統の技が絶えてしまうことを心配し、大正7(1918)年自ら職人さんからその技を習い、自信を持って染められる様になる迄には10年の歳月を要した【平成4年か5年頃のNHK朝のテレビの文一郎氏のお話し】とのこと。

一方その始められた年が、石井博夫氏の「平安の香気」【昭和49(1974 )年8月北鹿新聞所載】では大正2(1913)年となっているが、文一郎氏のNHKテレビでのお話を聞いた時、『父の方が兄弟子なんだな』と思いながら聞いた記憶が今も鮮明に残っている。大正2年文次郎氏が独自のお考えだけで保存を決意されたと考えるよりも、盛岡での復興の動きを知って、職人さんが花輪に戻って来た直後の大正7年と考えた方がより現実的ではないかと思はれるが、どなたかNHKテレビをご記憶の方、又は真相をご存知の方が居られたら、ご一報戴けたら幸甚です。


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(まとめ)
・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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01411■鹿角茜染・紫根染







鹿角茜染、紫根染(かづのあかねぞめ、しこんぞめ

*そめ*


産 地:
秋田県鹿角市花輪
特 徴:
染料に茜や紫根を用いて、羽二重、紬、木綿の布地を無地染か絞染にしたもの。
大升、小升、立涌、花輪絞の四種類の紋様がある。
用 途:
着尺地、帯地、袱紗、小物類など。
変 遷:
この地方では奈良時代から、自生の茜や紫根を用いた染色が行われていたが、江戸時代に南部藩の保護下で産業として発展、製品は朝廷や将軍家への献上品として江戸へ送られるまでになった。
明治維新後、藩の保護の消失と化学染料の普及により衰退した。
現在では、原料の入手難、長期におよぶ生産期間などの困難をかかえながらも、伝統ある染技術の伝承に力をそそぐ栗山家の努力により、古代からの茜染、紫根染が守られている。
染色法:
染料には茜の根と紫草の根を用い、媒染剤には錦織木(ハイノキ科の灌木)の灰汁を用いる。
*下染 錦織木の灰汁に生地を浸し天日でかわかす作業を、五月から九月までの天気のよい日に百二十、三十回繰り返し、一年間枯らしておく。
*絞 本染をする前に、手絞または板締めで柄を絞る。
*本染 染液を入れた大きな桶に生地を浸し、イメージ通りの色が出るまで十数回繰り返す。天日乾燥をするため、天気のよい日に行われる。
*仕上げ 絞をほどいて色が落ちつくまでの二~四年、箪笥などに入れてねかせておく。
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(まとめ)

・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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01410■栗山家・古代鹿角紫根染・茜染




栗山家「古代かづの紫根染シコンゾメ・茜染アカネゾメ資料」
染物39点、道具37点

鹿角市指定有形民俗文化財
平成6年4月1日指定
所在地 鹿角市花輪
所有者 個人

紫根染・茜染は、鹿角の山野に自生する紫根・茜根の染め草を石臼で搗ツき、染料で抽 出する古代染織技法を伝えていた。



下染をしてニシコオリ(サワフタギ)の木灰汁で100 回以上染めてから1年間布地を枯らし


その後本染に入り、染液に10回位繰り返して染 める純粋な草木染である。布地は羽二重、木綿などが用いられ、代表的な模様には手絞 による大升オオマス、小升、立枠、花輪絞があり、濃い紫と茜の色調の中に白い絞りが染め 残された模様は優雅さを醸カモし出している。

所有者家に現存するこれらの染物は、文次郎、文一郎父子による貴重な作品であり、 用具は父子二代にわたって使用されたもので、鹿角における唯一のものである。


文次郎は昭和19年に技術保存資格者に認定され、28年には
その技法が全国唯一のもの として国から無形文化財(記録作成者)に認定された。父亡きあと文一郎がその技法を 受け継ぎ、技術保持者として53年に秋田県無形文化財に指定され、平成3年に没するま で古来の技法を守り伝えた。



サワフタギは北海道・本州・四国・九州、朝鮮・中国に分布する落葉低木。名前のように、典型的なものは細い山間渓流を上から覆うように生育していたり、湿原の周辺に生育して群落を形成している。このほか、明るい二次林中のやや湿った場所に林床に広く分布する。高さ5mほどになるというが、多くは1m程度。葉はつやがなく、縁には細鋸歯がある。花は4~5月頃に咲き、白色。秋には果実があざやかなルリ色となり、美しい。

よく似た種にタンナサワフタギがあり、サワフタギと混生していて区別に困る。タンナサワフタギは果実が黒熟し、葉の鋸歯がより荒い点で区別する。
サワフタギにはニシゴリという別名がある。錦織木の意味であるという。ハイノキ科の植物は灰を染色に用いる種が多く、ハイノキやクロバイなどのように、「灰」や染色に絡んだ名前が付いている。













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(まとめ)

・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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01409■田中ゆきひとさんの「鹿角茜染」




田中ゆきひとさんの「鹿角茜染め」






















田中さんが、白神産のニホンアカネで染めと鹿角地方(秋田県)に古くから伝わる絞り技法で染めた着尺。




ちなみに、鹿角地方は、江戸時代は南部藩領で、南部紫根染・南部茜染の本場。

ネットの画像で見た時も、その夕焼けのような鮮やかな赤に感動したが、実物はもっとすごい!という感じ。
眺めていると涎が垂れてしまいそうな見事な作品。

ニホンアカネは、セイヨウアカネに比べて発色性は良いが、1本の根に含まれる色素が少ないので、なかなかきれいな赤にならない(オレンジっぽい色になる)。
それが、田中さんの手にかかると、2度の染めで、きれいな朱赤に染まる。

しかし、古代には関東(常陸)の山野に、近世までは東北の山野に多く自生していたニホンアカネは、近代以降、激減してしまい、今ではたいへんな貴重品。
必要量の確保が、最大の問題とのこと。

2009年6月7日日曜日

01408■鹿角の紫根染と茜染(その一)  











ケフの狭布との関係資料
51 鹿角の紫根染と茜染(その一)                        参考(抜粋):鹿角市発行「鹿角市史」   〈伝承による起源〉  口碑によれば、鹿角の紫根染シコンゾメ・茜染アカネゾメの技法は遠〈伝承による起源〉
 口碑によれば、鹿角の紫根染シコンゾメ・茜染アカネゾメの技法は遠く奈良時代から伝わり、歴代の領主が遥々朝廷に献上してきたものとされている。そこまで遡ることの是非はさておき、わが鹿角地方は、古くから伝説や民話の多い平和郷として知られる。古代芸能の伝統を継承する国指定重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」を始め、白根・尾去沢鉱山発見に因んだ和銅年間の産金・産銅伝説や、歌枕の地として「けふの細布」「錦木」の故事に彩られた錦木塚などが、古代の息吹きを今なお伝えている。狭布ケフは京に通じると云う。
『三代実録』で上津野カヅノと記され、その後は京郡キョウノコオリとも呼ばれたように、鹿角は早くから中央との接触を持ち、文化の恩恵にも浴していたと言われてきたことと併せ考えて見ても、紫根染・茜染の起源伝承にはそれなりの信憑性があると思われる。
 
〈身近にあった豊富な原料〉
 元来、紫根染・茜染が鹿角の特産品として古くから育まれてきたのは、原料であるムラサキ草とアカネの根はもとより、唯一の媒染剤となる木灰の原木ニシコホリ(灰木ハイノキ科に属する落葉潅木で、サワフタギか)が、付近の山野に豊富に自生していたことに因るものであろう。このことについて『旧蹟遺聞』「錦木塚」の項には次のように記されている。
 
 錦木というは灰の木なり。物の色に合うゆえに其木を焼いてさせば言なり(略)けそう(懸想)文に用いて門にたつるなり(略)奥義抄に云う灰の木にてにしきぎの糸をも染むればにしきぎという(略)今、鹿角郡のあたりにて紫根染には必ずの此木の灰を用いそれににしごりあくともいう。しからばにしきぎ、にしこり木は同じ類の木にて袖中抄の説のごとく訓の通うままに、にしきぎともにしごりとも、にしこぎとも言いしなるべし(略)今は必ず紫根にのみ用うといへり。
 
 また延享元年(1744)領内物産を書き上げた記録には「根は所々に産するも、紫染は鹿角郡を上品とす」とある。更に安政六年(1859)の『御国産細見』には領内紫根の産地として次の通名が挙げられている。野田・沼宮内・福岡・三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部・花輪・毛馬内。何れも領内北部の地方に限られているが、染物については特に花輪、毛馬内の両鹿角に「紫木綿、茜染木綿、右二品仰付けられ」云々と記されている。
 
〈染料紫根の激減〉
 南部領内岩手・二戸・鹿角を結ぶ線から北域に夥しく産出した紫根は、藩の政策により特産物として取り扱われ、物留番所、紫根改所などで抜荷・密移出が厳しく取締られ、更に藩直営の請負制度によって集荷・専売が実施されるなど種々の対策がとられた。
 宝暦十年(1760)以来、巷間好評の南部紫根は江戸の求めによって毎年大量に移出され「紫根、城北の在より出て年々江戸へ趣オモムキ、世にいう江戸紫は南部紫也」(『勘定考弁記』)と言われる状況であった。しかし年と共に地元での不足を来たし、遂には八方手を廻して買い集めても仲々思うに任せず、目標通りの反数を染めかねて困惑している状況が記された文書が残っている。
 
〈地元経済を潤した紫茜〉
 近世末における鹿角の紫染、茜染盛況について後藤捷一『南部紫根ゆかりの色』につぎのような記載(要旨)がある。
 
 鹿角の染色加工は今や立派な国産事業に到達しているが、紫根のほかに茜染も行われて居り、木綿原料の繰綿クリワタ代金が他領払(主として秋田)となる以外は、紡糸・織布・染色はすべて地元で行われて郡民の収入となり融通し生活を潤ほしている。最近は紫木綿のみならず茜木綿も他に比類の無いものとして他藩領からの注文殺到し(略)。いま鹿角地方が製出している紫・茜木綿の一ケ年販売額はおよそ金二千両とあり、うち繰綿代金を差し引いた残額一六七〇乃至一六八〇両、これに単なる染色加工代金を合算すれば
少なくとも一ケ年金二千両内外が地元経済の潤ほいとなって流通している。尤も染木綿一反の販売価額は銭壱貫五百文から三貫文で平均銭弐貫文とあるが、将来壱万貫の製織加工実現すれば金三千両の年収があるべき筈(下略)
 
〈絞り模様柄〉
 当時の諸記録からは一般には無地染の方が多いようである。しかし絞り模様柄ガラもあり、ここに絞りの種類と値段についての例を掲げて見る。
 
   覚
一、三貫九百文 紫無地二反
一、四貫百文 同大絞り一反 同らせん一反
一、二貫四百五十文 同立絞り一反
 〆五反 右ハ久慈某殿へ御謝儀の為遣さる。
一、壱貫八百五十文 紫無地一反
     右は下田様より御頼合之物ニて仕送。
                    (花輪南部家『諸御用留帳』天保十五年)
 
 今に伝えられる絞りの柄の大升オオマス・小升コマス・立枠の三種は、何れも昔からこの染め物に一番似合う絞り柄と云われているが、右の絞り名と照合すると、その関連性に頷けるものがある。
 
〈紫根染・茜染の特性〉
 紫根染・茜染は、湿気を呼ばず、身に着けていれば病魔は退散し且つ難病の予防さえ出来るとされ、中でも痔・肺病・くさかさには卓効があるとして多用されていたと伝えられる。『雑書』安政五年(1776)に「薬種屋にて相用候紫根は年中入用の程大略差積り、支配人中へ申出ハ、吟味の上御払方仰付けられ候間、始末仕り相調申す可く」とあるのは、このことを物語っている。寛政十年(1798)秋七、八月に花輪領主中野康房が痔を治すために在府の盛岡から大湯に逗留湯治した際、親交ある御給人や家来筋の人々から
紫染を見舞に贈られたことが、川村元家文書の『花輪御本丸御逗留中御留帳』にある。
 
一、旦那様御痔疾に付、大湯へ御入湯御暇御願上げ(略)廿七日湯元へ御出ニ付(御見舞の品が続々差上げられた中に)八月七日一、紫木綿壱反 村山善六殿より差上る。一、紫かせ糸壱把 立山専右衛門差上る。一、紫木綿壱反 山屋伊兵衛差上る。一、紫かせ糸壱 工藤要右衛門手廻共より上る。一、紫かせ糸壱 安保左三次より差上る。一、紫かせ糸壱 肝煎甚六より差上る。
 
 元来紫という色は光線に対しては著しく敏感で、直射日光に長時間晒すと非常に褪色し易いが、鹿角の古代染法は特に手数をかけるため、同じ紫でも他のものに比べて遥かに色が堅牢とされる。また箱にしまっておくなど光線を遮断する措置を講ずることにより、長く置けば置くほど年々歳々その色が安定していくと云う特性がある。それ故着物の場合でも外に晒すことのない襦袢ジュバンなどに用いられ、また夜具布団に多用されたと云う。


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 歴 代の領主が遥々朝廷に献上してきたものとされている。
 そこまで遡ることの是非はさて おき、わが鹿角地方は、古くから伝説や民話の多い平和郷として知られる。古代芸能の 伝統を継承する国指定重要無形民俗文化財「大日堂舞楽」を始め、白根・尾去沢鉱山発見 に因んだ和銅年間の産金・産銅伝説や、歌枕の地として「けふの細布」「錦木」の故事に 彩られた錦木塚などが、古代の息吹きを今なお伝えている。狭布ケフは京に通じると云う。

 『三代実録』で上津野カヅノと記され、その後は京郡キョウノコオリとも呼ばれたように、鹿角は 早くから中央との接触を持ち、文化の恩恵にも浴していたと言われてきたことと併せ考 えて見ても、紫根染・茜染の起源伝承にはそれなりの信憑性があると思われる。   〈身近にあった豊富な原料〉  元来、紫根染・茜染が鹿角の特産品として古くから育まれてきたのは、原料であるムラ サキ草とアカネの根はもとより、唯一の媒染剤となる木灰の原木ニシコホリ(灰木ハイノキ 科に属する落葉潅木で、サワフタギか)が、付近の山野に豊富に自生していたことに因 るものであろう。

このことについて『旧蹟遺聞』「錦木塚」の項には次のように記され ている。    錦木というは灰の木なり。物の色に合うゆえに其木を焼いてさせば言なり(略)けそ う(懸想)文に用いて門にたつるなり(略)奥義抄に云う灰の木にてにしきぎの糸をも 染むればにしきぎという(略)今、鹿角郡のあたりにて紫根染には必ずの此木の灰を用 いそれににしごりあくともいう。しからばにしきぎ、にしこり木は同じ類の木にて袖中 抄の説のごとく訓の通うままに、にしきぎともにしごりとも、にしこぎとも言いしなる べし(略)今は必ず紫根にのみ用うといへり。  
以下 HP「鹿角の紫根染と茜染」で


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(まとめ)
・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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01407■ケフの狭布とは何か(デジタル辞典)




デジタル大辞典の解説

きょう〔ケフ〕【布】
 
古代奥州から調・庸の代物として貢納された幅の狭い白色麻布





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(まとめ)


・いくら間違いでも・・・でも「白色の麻布」・・・おもしろいかも!!


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2009年6月6日土曜日

01406■南部裂き織りの歴史





錦木のけふのせば布には、南部裂き織りが関係あるとの直感


南部裂き織の歴史から、












引用開始

寒冷な気候のため、綿を生産できなかった雪国では、古くから着るものといえば、麻布、藤布、科布を自分たちで織ったものでした。江戸時代、暖かい綿はとても貴重だったのです。手に入るのは大阪から、日本海を北前船で運ばれた木綿や古手木綿でした。それらの布は大切に使われ、ほんの端布も粗末にすることなく、重ねて刺し子にしたり、最後には裂い
て、経糸に麻を張り、緯(横糸)にこの裂いた布を織り込んで、夜着、仕事着、帯、前掛けなどにしたのです。


太平洋側の南部地方は、日本海側中心の北前船からの古手木綿はそれほど多く入りませんでしたが、明治26年鉄道の開通以降本格的に入ってくるようになり、経糸にも木綿糸を使い、炬燵がけや帯を織りました。経糸の木綿糸は、もめん屋で、麻布(ののと言われました)と物々交換して手に入れたといいます。木綿糸はカナと呼ばれ、糸といえば麻糸のことでした。帯は農閉期の女性の現金の収入源となっていました。

化学染料で染めた布も使われるようになり、カラフルな裂織が織られるなど、明治後半から、南部では裂織が盛んで、今でも工房を訪れた70代、80代の方々が『家にも機があった』『おばあさんが織っていた。』と昔語りをしてくれます。
昭和23年の大麻取締法の制定により、麻を育て、麻織物を織ることができなくなったために、機織が衰退していき、南部地方の炬燵がけが、日本の地機で織られた裂織の最後の実用品になったといいます。

南部地方には、終戦後になっても、家庭に身近に炬燵がけや帯や地機が残っており、一本の形見の帯に魅せられて、故菅野暎子先生が南部裂織保存会を起こしたように、現在の趣味と実益を兼ねた伝統工芸品としての南部裂織の復興の素地となったと思われます。

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2009年5月11日月曜日

01405■岩田帯とは(現代の)



岩田帯について


現代では、岩田帯(腹帯)の本当の由来を知らないものですから、このように書かれていました。
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  • (貼り付け)

  • 帯祝いの行事
    正式な岩田帯は紅白の絹二筋と白木綿を用いるそうです。この帯は妊婦の実家から贈る場合が多いようです。帯の長さについては六尺ほどですが、健やかな子の成長を祈って七尺五寸三分(七五三)とするところもあるようです。
    岩田帯この帯を既に子宝に恵まれた夫婦が「帯親」となって巻くのが正式ですが、そこまですることは現在は稀なようです(我が家ではそんなことまでした記憶はありません)。
    帯祝いの際の絹の帯はあくまで儀礼的なものなので、普段は木綿の帯を用います(最近はコルセット式のx腹帯などが普及)。
    写真は、「犬印」でおなじみに某社から購入して家内が使っていた腹帯の実物です。木綿製のものです。

  • なぜ「岩田帯」というのか?
    岩田帯は「斎肌帯(いはだおび)」がその名の由来と言われます。
    現在に近い形の行事は既に平安時代ごろにはあったと言われています。建礼門院が安徳天皇懐妊の折り(1177年)に行った着帯の儀の模様が記録に残っていますが、記録されたそれは現在とあまり違っていません。
    「斎」は物忌みの意味がある言葉。斎肌帯には、様々な禁忌がある妊婦に、それらの禁忌を忘れぬように行うという意味合いが含まれていると考えられます。

  • 岩田帯の効能と歴史
    岩田帯は母体と胎児を守る効果が有るとする説がありますが、これに関しては賛否両論があるようです(詳しい話はお医者さんに聞いて下さい)。
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(まとめ)
・残念なことですね、ぜひ皆さんに本当のことを知っていただきたいものです。

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01404■なぜ腹帯が必要なのか・ホツマ


ホツマで解く岩田帯


ホツマ16アヤには深い深いいわれがたくさんのっています。

鳥居礼「言霊ーホツマ」p336~
 
1、大蛇(おろち)の実態は妬み

原文16アヤ)

妬むその息
一万三千   群れて鱗の
大蛇なす   卵巣(たましま)の暇
窺いて     子宮(こつぼ)に入
りて
孕み子を   噛み砕く故
種ならず   片輪生むなり
貧しきは   及ばぬ民を
羨みて    怨みの仇に
種滅ぶ    人をねためば  
日に三度  炎食ひて
身も痩せる 妬む妬まる
皆咎ぞ

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この原文によれば、大蛇(おろち)の本質が妬みという思念にあることが理解できます。そして恐ろしいことには、その大蛇が卵巣の暇を見て子宮に入り、妊娠した子供を噛み殺すとあります。
これに対する教えが、最後の「妬む妬まる 皆咎ぞ」です。 
人を妬んではならないということは当然ながら、人から妬まれる所行もしてはならない、というたいへん難しい教えです。これは、悪い思念が人
に影響を与えるということを前提にしています。現在の科学による思念エネルギーの研究によっても、充分実証可能なことであると思います。



2、大蛇(おろち)の防御策として腹帯

大蛇の防御策として、サッサ腹帯(岩田帯、日立帯)があります。これは、香取、鹿島、息栖三神に関係する神力をこめた腹帯で、



左が鹿島神宮の御神宝の常陸帯

右は現代の常陸帯









のはらおびによって、大蛇の怨念から子孫を守るわけです。腹帯の風習は今でも根強く残っています。そして「ホツマ」にはこのサッサ腹帯に関連して、「慎み」ということが強く説かれています。


3、対処法(1)五ヶ月目のサッサ腹帯

原文 ホツマ14アヤ (ここだけは14アヤです)

五月五日(サッサ)の頃
一巡り     サッサ腹帯
岩田なす   中管通る
天の火と    両親の火と
陰を招き   睦の因みの
露溢れ
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受精した卵子が五ヶ月目の五日頃一つの循環を終え、その頃に腹帯を締める。ということが書かれています。受精した胎児にとっては、この五月五日(サッサ)のころが節目となるので、そこに汚穢(おえ)が寄せやすいのです。それを岩田の帯が防御するのです。 























4、対処法(2)「慎みの教え」

原文16アヤ

花と花     打てば散るんり
諸共に     常に慎み
な忘れそこれ

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(まとめ)

「花」は女性のこと、女と女がぶつかれば身を滅ぼし、子孫を滅ぼす、ということです。日本文化の特徴である「慎ましさ」は、このような必然性をもっていたのです。

(現代に当てはめると、大変ですねエエエ・・・・)



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01403■ケフの細布の構造


ホツマで解く腹帯


「ホツマツタエ」16紋 33ページに、腹帯の教えがあります。
      
   昔豊受神の・・・トヨケ
曰ふは    天より授く
毛羽の帯   天に則りて
父の丈    比ぶる帯に
母の息    日立となるは
抱くなり    天より抱き
埴に編みて 連なり育つ
子の例   父の恵は
頂く天    母の慈し
乗する埴  天照大神も
忘れじと   糸二十四筋
撚り合わせ 陰陽羽二重の
御衣となす この御衣召して
朝毎に    天地祀り
両親に    仕う御心
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1ー①長さは 父の丈に比べる
1-②母の息を込める

2-①天より抱き・・・・・・天からいただき
2-②埴(は)に編む・・・地上で編む

3-①父の恵みは頂く天
3-②母の慈し乗する埴

父母天地の心を織りなすのが腹帯であるという。

天照大神は父イザナギ、母イザナミの恵みを忘れまいと、二十四筋の糸を羽二重に織り、「アワの歌」と同じ四十八筋にして、毎朝天地を祀られたのでした。
















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2009年5月8日金曜日

01402■ケフの狭布は鶴の羽から



ケフの狭布は鶴の羽・・ホツマ
「ホツマツタエ」16紋の「はらみつつしむ帯の紋」の31ページに


②縦 24筋 横 24筋
   と記されています。

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  日高見に鶴
奉る     羽裂き見れば
二十四なり 故諸羽を
撚り直し   雄鶴を縦に
雌を横に  毛羽の細布
織りもって  四十八備わる
御腹帯   母子イサナミ
長はらみ 
 九十六月して
生み給う   
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鶴の羽から啓示を受け、雄雌の羽を二十四筋ずつ、計四十八筋の気を込めて帯を織ったのでした。
(ここが錦木塚伝説:政子姫の織り、鶴の恩返し)
四十八備わるとは、いろは四十八の言霊の力により心身が整う、という意味です。
腹帯は、子種を守る神力を得るために、四十八の言霊の神力をこめたのです。

















「四十八備わる」とは、四十八の言霊の力により身心が整うということです。
これとまったく同じことが、国生みのとき、イザナギ・イザナミの二神が「アワ歌」を、男神が上二十四音、女神がした二十四音、合計四十八音を歌われ民を教育されたときにおこなわれました。
腹帯は、子種を守る神力を得るために、「アワの歌」は、夫婦の力によって子である民の繁栄を図るために、それぞれ四十八の言霊の神力をこめたのです。


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