2009年1月19日月曜日

013091■枕詞とは




枕詞とは、ある決まった言葉を導きだすために、その前に置かれる言葉のことを指すレトリックです。
ふつうは5音の言葉で、一定の語句の上に固定的について、それに続く言葉を修飾するものです。つまり、和歌などの中において、ある特定の語句をひき出すために置かれる修飾語のことです。

和歌のおける修辞法の1つ、といえます。

例えば、

  • 「ひさかたの」という「枕詞」からは、「光」や「天」などの言葉が
  • 「あをによし」という「枕詞」の次には、「奈良」という言葉が


2009年1月10日土曜日

01309■錦木塚伝説と謡曲「錦木」の関係


なぜ錦木塚伝説は、「謡曲・錦木」をもとに、成ったといえるのだろうか

鹿角市資料館(安村二郎氏












謡曲「錦木」が、錦木塚伝説に深い影響を与えていることは、次の諸点からみて明らかである。

●「いたずらに過ぎる心は多けれど。身になす事は涙川。流れて早き月日かな」

これから導き出されて、若者の涙を洗う涙川となった。


●「さる程に逢うべき男の錦木をば取り入れ。逢うまじきをば取り入れねば。或いは百夜三年(ももよみとせ)までも立てしに千束(ちつか)とも詠めり。又この山蔭に錦塚とて候。これこそ三年まで錦木立てたりし人の古墳なれば、取り置く錦木の数とともに塚に築(つ)きこめて。これを錦塚と申し候」。

錦塚の発想はそれまでの和歌集や歌論集になく、この謡曲をもって嚆矢としている。


●「嵐木枯村時雨(あらしこがらしむらしぐれ)」露分けかねて足引きの。山の常陰(とこかげ)も物さび松桂(しょうけい)に鳴く梟蘭(ふくろう)菊の花に隠るるなる」。

このうち松桂に鳴く梟蘭菊の花云々の語句は、後世の「鹿角由来集」などに「京の細道とて野あり松桂に鳴くふくろれんきく乃はなにかかるなる狐住塚乃草松桂谷とハき乃国坂乃谷なり」という表現でうつしかえられている。


●本曲の間狂言に登場する狂言方の語りに「又細布と申すは。昔この所に鷲熊鷹というもの。幼き者をとり候間。人々歎きかなしみ候処に。ある人の申すは。鳥の羽根にて布を織り。着するならばとるまじくと申す間。さらばとてこれを織りて着せ候へば。はたととりやみ候間」との一条がある。

類型Aの後段の、五の宮嶽大鷲が飛んできて七つ前の里の子をとる云々の原型である。


●「不思議やなさも古塚と見えつるが。内はかかやく燈火の。影明らかなる人家の内に。機物を立て錦木を積みて。昔を現すよそほひたり。これは夢かや現(うつつ)かや」
「機物の音 秋の虫の音 聞けば夜声も きり はたり ちゃうちゃう」「きり はたリ ちゃうちゃう」

塚からあらわれた男と女が、夢うつつの旅僧に、昔の姿を見せる。伝説では慈覚大師がこの姿を見、あるいは物見坂からみるとこの姿が見えるとなる。


以上からみても、かなりの部分が謡曲「錦木」と錦木塚伝説は重複する。これは錦木塚伝説成立の基底に、室町文学の謡曲「錦木」がつよく影をおとしていたとみるべきである。

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(まとめ)
・安村二郎氏のお考えは最も尊敬できます。
・錦木伝説が世阿弥の謡曲によっていること。
・ついにでてきました、旅の僧「慈覚大師」がでてきました。坂上田村麻呂伝説とともにでてきます。

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01308■錦木とは何か(3)金田一京助説


(3)金田一京助説

では、一尺ばかりの木とはどんな木であったか。アイヌの生活の中に、イナウすなわち劇花がある。この劇花は神を■ぎ降ろす時、神へ呼びかけて祈る時に、まずこれを作って立てる。

この■ぐこと、呼びかけることをアイヌ語でニシュクという。

一尺ばかりの■つまりニシュクする■はこちらに振り向かせるためのものであるから、ひょっとするとニシキ木はニシク木ではあるまいかと考えられる。



























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(まとめ)
・金田一先生は東北の蝦夷イコールアイヌと捉えていたのでしょうか。(アイヌの由来の地名は確かにありますが)
・一尺の木にこだわっているのでしょうか。

・(1)(2)(3)の先人の学者先生方の学説は素直に納得できませんね。田村麻呂伝説、世阿弥と同じ流れをくむのではないかと邪推されます。

・錦木とは本当に木のことでしょうか。錦木伝説で木にされたものではないのでしょうか。


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2009年1月9日金曜日

01307■錦木とは何か(2)柳田国男説


(2)柳田国男説

にしき木というのは薪のことだとする一説が、私は当たっているかと思う。

燃料採集は女の労作の、最も苦しいものに今もかぞえられる。思う女の手を荒らすまいとして、薪は暗いうちに1束のよい木を、そっとかどの外に置いて行くというようなことは、心を運ぶ男ならば、今でもまだどこかでしているかも知れない。娘にも又その親にも、そういう親切が身にしみてうれしかったのである。或は心ざしの深さを試みるために、三日五日は取り入れずに置くことがあるとしても、それが立ちながら朽ちてしまうまで、互いに耐え忍ぶというようなことは、文学でなければないことであったろう。


だから歌枕は歌人の手にかかって、頗る誇張せられているものと私などは見ているのである。
ことに一尺ばかりの木ということなどは、都あたりの門構えから割り出した考え方であった。
カドは田舎ではただ屋外の空地を意味する。そんなちっぽけな玩具のようなものが、目についたはずは無いのであって、これも大よそ男の身のたけと、同じ長さに切ったという方が事実に近かったと思う。

恋歌が追々に才能と知識の誇りとなって、誠の類からからは遠ざかった如く、錦木のいい伝えもいつとなく、ただの風流の語り草となってしまったが、いくらえびすの国でも一生の身のきまりを、そういう遊びによって決してはいなかったろう。

今でも妹背のかたらいと恋の戯れとを、聞けない土地ほどはっきりと区別している。この二つのものの境目を不明にしたのは、寧ろ文芸の世界であったのである。
『婚姻の話』・『錦木と山遊び』より


出典:鹿角市資料館














拡大図

「娘の家の門戸に錦木を立てる男「東国名勝志」より











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(まとめ)
・錦木を薪とする説には絶対に同意できない。それは錦木は薪となるような木ではなく花木といった方がよいからである。













・後段の説は全くその通りと思います。


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01306■錦木とは何か(1)菅江真澄説




(1)菅江真澄説

楓の木、まきの木(まゆみの木)、酸の木、かばざくら、苦木(にがき)、この五本の枝を三尺あまりにして束ね、仲人木といった。
(「筆のまにまに」には、これを古川村の黒沢兵之丞に聞いたとしている。)



















拡大図です。








この説が一般的で、錦木公園にはこの五本が植樹されています。

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(まとめ)

・山に行けば何も珍しくもないこの木々がなぜ? 歌枕にまでなったのか。
・仲人が使うこの木が、この鹿角の鄙の地で商いになりうるか、ノーですね。
・菅江真澄程の人が・・・。地元の人に聞いたことを書いただけでしょうね。

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2009年1月1日木曜日

■念ずれば花ひらく

2009・元旦




信念を
ねり固め
ねりあげ
動かぬ信念

信念の
強さが決める


クロマンタ文明の
ナゾときを目指して。










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