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2012年4月29日日曜日

◆青森で「縄文琴」発見とホツマの琴

青森で「縄文琴」が発見されたそうです!、ホツマに載っている琴と比べてみましょう!



1,青森で出土、世界最古の弦楽器か 
    3千年前、縄文の木製品
2012年4月28日 05時24分
青森県八戸市にある紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)の是川中居遺跡から出土した木製品が、現存する世界最古の弦楽器の可能性があることが、弘前学院大(青森県弘前市)の鈴木克彦講師(考古学)らの研究で28日までに分かった。
鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴の原型ではないか」と話している。
木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。
(共同)

ホツマの「八雲打琴やくもうちのこと」
鳥居礼「言霊ーホツマ」より

2,三弦、五弦、六弦の琴

三弦の琴
その琴の音は イザナギの葛(かだ)打つ 糸薄(いとすすき) これを三筋の琴の音ぞ 形は花と葛の葉を 葛垣と打つ

五弦の琴
五筋の琴は 五臓に響く 音を分けて 地のアワ歌を 教ゆれば 琴の音通る 糸薄打琴(いすきうち)

六弦の琴
六筋の琴は 酔い眠る 大蛇(オロチ)に六弦(むつ)の弓弦(ゆづ)かけて 八雲打琴(やくもうち)とぞ 名づくなり

和琴に関しての詳しい資料は非常に乏しいわけですから、このように詳細な記述を載せることは驚異的であると言わざるを得ません。


3,六弦の琴
六弦の琴、すなわち「八雲打琴」は、サルタヒコ命の妻になるウズメ命が、高天原で弓弦(ゆづる)を打ち鳴らして曲を奏でているのを天照大神がご覧になって、桑の木で六弦琴として作られたのがその起源であると書かれています。
そして、「八雲打琴」を天照大神から賜った姉のワカヒメは、オモイカネノ命と夫婦仲睦まじく六弦を弾かれたのでした。


発掘品と似ていませんか!

『ホツマ』の9紋「八雲打琴」は夫婦和合の琴ということができます。スサノオノミコトが姉のワカヒメに
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣わ
という歌を捧げたところ、姉姫は、スサノオの妻のクシイナダヒメに琴の奥義を授け、クシイナダヒメは「八雲立つ」の御神詠に合わせて「八雲琴」を奏でられたと書かれています。


4,八雲打琴でオロチ退治

八雲打琴には、酒によったオロチに六弦の弓弦(ゆづる)をかけて打ち取る神力があると書かれています。

古代においては弓は敵を攻撃する武器としてだけではなく、弓弦(ゆづる)を鳴らしその音と神力によって魔物を祓う神器とされていたわけです。
現在でも神社でこの蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の術がおこなわれています。

(江戸時代に中山琴主が創って伝えた琴)

*また青森から面白いものが出ましたね!オロチ退治の琴であることを確信しています!!


2012年1月27日金曜日

■高清水の地球画にみる歴史

高清水の丘をグーグルアース地球画解析を行いました。

1,高清水の丘(秋田市寺内)
 緑の部分が平安時代秋田城があった地区


2,地球画を作成
地球画とはグーグルアースから、開発の痕跡を除くと、その土地に関係した人の顔が出てくるというものです。
この手法を発見されたのが、クロマンタの地盤調査をした渡邊広勝氏です。
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解析結果
秋田城は何か恐ろしく怒った顔が存在し、髪の毛が怒髪として経ちあがってい
るのが見えます。
現代は開発で基本地形が壊されていますが、それでもこの様に高空から観察す
るとみごとにこの地に建造した古四王神社の存在が分かります。

3,空素沼の存在
縄文時代周囲は海か干潟でした。天空に現わされる地の神は怒りを持って鬼

壁山を見つめています。とうじ恐らく鬼壁山周辺は地震の巣として認められて
居たのでしょう。人々はこの丘陵を整形し神の顔としました。ここを信仰する
ことにより地震を押さえてもらうよう願ったのかもしれません。
そのご海水面降下とともに稲作が盛んになります。

鬼壁山も平穏になり東北地区支配の為に秋田城が作られます。
城内の池は眼の形に作られていると見られます。
そしてあご髭の長い仙人の姿が現れます。図は現代の建物を緑で埋めました。
秋田城の池は眼の形をしていたも
のとみられます。 今度よく見てみたいです。蝦夷の土着の神は地球画から導き出される、おおいなる神だったのです。


4,古四王神社の重要性


後の支配者(日本書紀)はこの神を蝦夷安定のために利用したのでしょう。
秋田県の中央との戦いが、岩手県等に比べ比較的早く終わっているのはこの神
社を当時の中央政府が利用したと思われます。
阿部比羅夫や坂上田村麻呂が蝦夷を統治するにあたり、この神社が利用された
と思われるのです。





2011年9月18日日曜日

■縄文文化と栗


栗の季節となりました。また栗と縄文文化は一体のものです!!



1、栗の木

こざくらの丘にも栗が盛りとなってきました。栽培の大きな実がつく方です。小さなヤマグリはこれからです。クリ名月の10月の頃でしょうか!




















2、栗の実

栗はおいしいものです。栽培の大きい栗でもそのまま加工せず、煮たものでもおいしいものもあります。小さなシバグリは大体がおいしいですね!!
縄文人はヤマグリをたべていました。ヤマグリでも結構大きめのものと、シバグリという小さなものもあります。ほとんど煮て食べますが、みんなおいしいものです。(子どもの頃の田舎の生活がそのまま縄文時代と同じと思います)




















3、栗の用材

栗材はどんなところに使っても腐らないから・・・と言われています。
巡堂工房として古材の再利用もしています。栗は古材としての味わいがでます!!



















4、ブナ文化帯

なるほど!そういえばこちらの雑木林には、低地にはブナはありませんが、コナラやクリ、ヤマザクラ等が生えています。
大きな林を伐採すれば、すぐに雑木が生えてきます・・・生命力が強く循環しています!!




■岡本太郎が変えた縄文観


東北縄文文化研究会も主催しています。縄文文化が脚光を浴びていますので、基本のシリーズをのせます。まずは岡本太郎と縄文について




1、岡本太郎と縄文

ご存じ岡本太郎ですが、これほどとは思っていませんね! 縄文観を切りひらいた方なのです!

【引用】

日本文化の源流が縄文文化ですが、つい50〜60年前までは、さほどそうは思われていませんでした。縄文土器を見て、ただの当時の生活が判る『物品』としか考えられていなかったわけです。
日本美術史にも縄文土器は入っていませんでした。
ところが、この流れを変えたのが『岡本太郎さん』です。
岡本太郎さんは、東京国立博物館にあった縄文火焔土器を見て、
「なんだこれわっ!」って叫んだそうです。
「こんなパワーはいままでない!これ以外は美術品ではないっ!」とまで、言わせたのが火焔土器です。
このことを美術雑誌に発表し、フランスの日本展で火焔土器を紹介し、縄文土器と土偶を浮世絵と並ぶ美術品として世界へ知らしめました。




2、縄文土器(火炎土器)


正面から光をあて(またはフラッシュをあてて)、『形が判るように』と云った事だけを目的にした写真が載っていました。
それを、「なんてことをするんだっ!」って怒った岡本太郎さんは、ライトを横や上、斜めから当て、陰影を強くした写真を撮影し、『写真集』を出したんです。
それ以来、縄文火焔土器は、『かっこいい』『美しい』『強い』のイメージが人々にハッキリ判ったわけです。


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3、これぞ縄文パワー

これ以降、社会の教科書には、陰影をハッキリしたアート的な写真が使われ始め、縄文土器や土偶が、ただの『遺物』から『美術品』へ一気に格上げされたわけです。
なんと『美術科』の教科書にも、土器や土偶が載り始めたんです。
日本国の教育カリキュラムを書き換えてしまったわけです。
この写真を、上の写真と比べてみて下さい。

あきらかにかっこよさが違うでしょ。
めっちゃくちゃパワーを感じるでしょ。
そう、これが縄文パワーなんです。

2


4、岡本太郎の功績

【引用】
①これまでは縄文文化というと、弥生時代以降の日本文化とは基本的につながりがなく、今日の  日本人にとって直接つながる文化ではないという見方が、日本の歴史を見直すうえで結構強かっ た。

②以前から研究者の間で縄文時代の見直しは少しづつ行われてはいました。

③直感的な面では、岡本太郎さんが『縄文こそ芸術だ』として、縄文土器を芸術の立場から取り上げ、民族の生命力として、高い評価を与えました。それまでは縄文時代に製作された縄文土器などは美術史の中できちんと位置づけされていなかった面があったのです」

「縄文時代に対する日本人のとらえ方は、戦後大きく変わりました」

岡本太郎とともに、「三内丸山遺跡」の発掘調査によって決定的な転換が生じたのです。



2011年2月10日木曜日

■壺の碑(いしぶみ)は「つぶて」

壺の碑・・・多賀城か日本中央碑かだけでは解決しません。八郎太郎伝説を調べていたら「石のつぶて」にたどりつきました。

1、荒俣宏の「歌枕」謎ときの旅による碑の変遷
荒俣宏さんの本から「壺の碑」の変遷をまとめました
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①「いしふみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。
②和歌の時代:石文は「想いを相手に伝える」手段
新古今集:いしふみは「石碑」。歌枕「壺の碑」慈円が      
④西行は恋文から「蝦夷地の奥」という歌枕に。
⑤京で日本の境にあり「日本中央と奇妙な遺蹟」
⑥水戸光圀が大日本史編纂で碑の発掘を決心
⑦多賀城で発見された碑を光圀が「碑と認定した」
⑧昭和24年、南部で「日本中央」碑が発見された。

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・「いしぶみ」の最初は「つぶて」だったのです!!

2、「つぶて」とは何か
上記①によれば「いしぶみ」は元来「ツブテ」、小石で通信した。











つぶてとは - 漢字表記は「」または「飛礫」。 投げつける小石。また、投げつける小さなもの。 「



3、全国各地に「つぶて石」が



山形県











石の大きさは3mはあるだろうか。結構大きい。
河床がむき出しになった、比較的岸に近いところ
にあって歩いてそばまでいける。
付近に遊歩道が整備されていて、河床の奇岩を見て
歩けるようになっていた。

以下 石碑に書かれていた由来です。

鎌倉時代初期の物語。勇壮無比の坂東武朝比奈三郎義秀
が、朝日岳の頂上から左手で投げた石が山々を軽々と
越えてこの川原に落ちた。
大きい手形はその時のものだという。
余りにも飛ばないので右手で投げたら白鷹山を越えて
山形市の礫石(つぶていし)まで飛んだという。

だそうです。

山形市の礫石がどこにあるか知りませんが
天童市のジャガラモガラに行く入り口近くの道路の
路肩に礫石と書いた看板と石があります。
大きさは1m無いくらい。

4、鹿角にも「石のつぶて」がありました
こざくらの丘動画文庫「八郎太郎伝説」の一コマです。
「八郎太郎が十和田湖を追われ、鹿角の男神・女神のところを堰き止めて湖を作ろうとしたとき、鹿角の四十二人の神々は集宮に集まって評議した。「石のつぶて」を使って八郎太郎にぶつけ瑠事の決めた・・・・」
「石のつぶて」をまたの名として「神のつぶて」とも言ったとあります。
筆者も昭和42年に鹿角に転勤となり、毎日この集宮地区を通っていました、図のような巨石がたくさんありました。田の耕地整理が行われて無くなりましたが。




















「いしぶみ」の最初の「つぶて」までたどりつきました。これからまた本当の「いしぶみ」とはなにかさらに探訪して楽しみます!!ご期待ください。

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2010年3月15日月曜日

04016■東北縄文の歴史を深く耕す




秋田さきがけ新報に石川好さんの「秋田の歴史を耕そう」が掲載されています。

1、秋田の歴史を耕そう









































■要旨は
①横手市の大鳥井山の山城発見が素晴らしいものとニュースとなった。
②文書に残らなかった歴史が東北にはあった。歴史についての見直しが必要でしょう。
③「遅れている」と無自覚な秋田県民はどう理解し、生かして行くか。
④秋田県内の歴史遺跡を耕してみれば、可能性としての秋田の未来が現れる。
秋田に自信と誇りを蘇らせよう!!

2、児桜町内子ども会「児桜貝塚跡調査」
なぜ児桜町内会は(子ども会中心ですが)縄文時代の児桜貝塚跡調査を行ったか。
それは行政の発掘調査は天平時代の秋田城址が目的です。中央政府がわれわれ蝦夷(エミシ)つまり縄文の昔からここに住んでいた人々を征服した頃の調査なのです。だからわれわれは、我々の住む児桜の丘に、縄文時代にすでに集落があり生活していたことを深く調べたくなったものです。



























3、刻字作品「耕してやまず」











私の巡堂工房作品に「耕不尽」(たがやしてやまず)があります。
その前の大館市の実業家Kさんには「深耕」を希望され彫って差し上げてあります。

石川さんと同じく、すべてのものを今より更に深く掘り下げて行けば、必ず原点に立ち返ることが出きて、今ある壁を突き抜けることができるのです。
そして、その継続です。耕してやまず!!

4、東北縄文文化研究会も同じ目的です
私のもう一つの顔は「東北縄文文化研究会」主宰です。特に鹿角市のストーンサークル、クロマンタが中心です。東北の縄文時代は律令国家が国をあげて歴史を封印したものです。たとえば「田村麻呂伝説」というのがあります。岩手県でアテルイと10年戦争をしてついに捉えた大将軍ですが、実は岩手県真でしか来ていないのに、山形県にも、秋田県にも、青森県にも来た事になっています。しかも来てない各地に神社が一杯建っています。

教え込まれている常識というのは本当にアテにならないのです。歴史を深く耕すことで、その常識の壁を突き抜けて良ければ明るい未来がひらける、と石川好さんは言っているのですね。

ますます、「東北縄文文化研究会」もやる気がでてきました。

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2009年11月4日水曜日

04015■蕨縄とは



ホツマでは、動物霊を利用するハタレ魔軍を「蕨縄」で縛ったとあります。


1、辞書には
「ワラビの根からデンプンを取った後の繊維で作った縄。色は黒く、体制水に富む。


2、民家に使っていた

(はりつけ)
民家の結

■ 部材の緊結
建築は大量の部材の集積で成り立っている。それらを緊結することによって建築は形を成すと言っても良い。緊結には部材同志を組み合わせる方法、釘などの力を借りて固定する方法、糊などにより接着する方法、そしてここで論考する縄の力を借りて結び合わせる方法がある。縄による固定方法は最もプリミティブであることは言うまでもない。縄文時代の建築物は縄で部材同志を縛っていたとされ、復元建築物もこの方法によっている。例えば青森県の山内丸山遺跡で出土した6本の栗の大木による建築物(建築物ではないという説もあるが)の復元でも潅木を使っている。この方法は近代まで伝承されていて例えば飛騨の合掌造り民家ではネソと呼ばれる万作の木を捻って繊維を解いた縄を使ってきた。ネソは水に浸して軟らかくしてから力づくで曲げてひも状にする。それで「合掌材」というあの急勾配の屋根を構成する太い丸太と茅を取り付ける為の水平材や斜めに掛けられた巨大な筋交いなど構造上主要な部分の交差部分を縛るのである。何回も巻かれたネソは乾燥すると収縮して強い緊結力を出す。後述する藁縄に比べてこの緊結力が大きいのであの巨大な民家に利用されてきたのである。




縄で縛る固定法はその他に蔓や藁縄がある。両者共に土壁の下地となる竹や木の小舞(縦横に組んだ網状のもの)を編む為である。葡萄蔓や蕨縄は筆者が関与した秋田県の土蔵の壁から発見されたもので現在は使われていない材料である。蕨縄は辞書によれば食用となる蕨の根茎から澱粉を取ったあとの繊維で綯い作った縄とある。いずれの縄も藁縄よりも強度があるらしい。 さてこれらの縄の原材料について考えてみると藁縄では米の収穫後の茎利用、棕櫚縄は庭木としての棕櫚の利用であることがわかる。すなわち一昔前の縛る道具はほとんど自家製なのである。民家調査の機会に農家の土間に入ると錆びた縄綯機(わらないき)が片隅に転がっていることがある。縄は農業生産の様々な場面で物を縛る道具として必需品だったので縄綯は農閑期の土間仕事だったのだ。

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2009年9月29日火曜日

04014■平田篤胤は神代文字の存在を力説



されている日本人のタブーの一つが、日本に固有の文字があったことです。

1、学者のタブー

今の学者は、文化というものはすべて外国から来た、というのが暗黙の了解になっていて、これと逆の考え方はタブーなのです。
『古語拾遺』を著した斎部(いんべ)広成がその中で、「上古の世、未だ文字有らざる時」といっていて、後世の学者はみなこれにならっている。


2、平田篤胤は日本の固有文字を肯定


平田篤胤は、『古史徴開題紀』の「神世文字の論」で神代文字の存在を論理的論述した。
そして、その実践研究篇として『神字日文伝』で日本各地に散在していた13種の神代文字を蒐集し、分類・整理したもの。13種の神代文字を一体如く論じ、神字を否定した賀茂真淵本居宣長らを批判し、古代文字の存在を力説す。
また、神代文字を真書、草書の両系統に分類、数多の神代文字に特に太占の兆の形を連想される阿比留文字(物部文字)を最も信用できる日文(ひふみ)とす。それ以外真偽不祥の文字を『神字日文伝附録』こと『遺字篇』に収録。
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■平田篤胤はわが秋田県出身の大人物です。「務本塾・巡堂講座」に平田篤胤の「古道大意」や「霊の真柱」などの現代語訳をアップしています。
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3、神代文字とは


4、なぜ日本の重要な伝承を捨てたのか

 ある者が政治的な実権を私曲化して奪おうとするためには、それまでの体制を支えてきた伝統的文化、特に国の重要な文献を改ざんしてしまうことがどうしても必要となってきます。
 西洋では、多民族が侵略するときは、必ずその国の美術品を破壊しますね。日本では美術品を破壊することはしなかったのですが、それに近い形で、漢字を入れたり、仏教を入れたり、文献を改ざんしたりしたんですね。

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2009年9月22日火曜日

04013■山海経には東北が




台湾の篤学・李学勲(1920~1998)は『山海経』の解読に生涯を捧げ、その「海外東経」「大荒東経」にある黒歯国は、「お歯黒の国」すなわち日本の山形県・秋田県の羽黒山系のことであると解いた。
したがって、その黒歯国に隣接するとされる扶桑・湯谷も東北地方に求められることになる。

李は扶桑をアイヌ語ヌササン(神社)の音写とみなし、和名は「真木」であるとして、その所在を秋田県立真木自然公園に求めた。李は、本来は国が管理すべき扶桑の史跡を県任せにしている日本行政のあり方を厳しく批判している。

岩手県一関市市議会議員の赤羽根広重氏は李の説を発展させ、扶桑とは本来は天地を結ぶ(と古代人に信じられた)三角形の山のことでピラミッドの原型、真木自然公園では真昼岳にあたる。
また、秋田県大湯町も湯谷の遺称地でここでの扶桑は黒又山、その祭祀遺跡が大湯環状列石(ストーンサークル)であるとした。

田中勝也氏は中国唐代の『梁書』の扶桑国・女国、『酉陽雑爼』の扶桑州・長鬚国、日本の『伊予三島縁起』の扶桑州はいずれも日本列島の東北部にある国家を指すと思われるとして、それを『日本書紀』にいう蝦夷にあてた。
ただし、田中氏は『李朝実録』にある夷千島王の使者(1482年に朝鮮李朝に入朝)の国書に現れる扶桑は日本のこととする。また、14~15世紀の地図においては、扶桑・女国を日本から離れたところ、具体的には東シベリア・沿海州・樺太・千島とおぼしき中国東北方に置く傾向があるとも指摘する。田中氏は扶桑が日本の雅号としても用いられたことや、情報の混乱から、中国における扶桑の所在の認識にも異動が生じているとするが、それでも、かつて日本の東北方が扶桑と呼ばれていたという痕跡は一貫して見出すことができるという。

なお、中国の常征氏も『梁書』の扶桑国はすなわち大漢国のことで本州島最北端もしくは北海道にあったとする。常氏は邪馬台国すなわち倭国の中心を九州の宮崎県西都市あたりに求め、魏志倭人伝における邪馬台国までの航路記事を延長することで、文身国を能登半島東北、大漢国=扶桑国を日本列島北端に求めることになったのである。
(参考文献)
李学勲『古代日本の風土記わたしの山海経』下巻、日野史談会、1991
赤羽根広重『日本太古事典(下巻)縄文の奇跡』月光庵、1998
田中勝也『エミシ研究』新泉社、1992
常征「扶桑国は日本であってアメリカ大陸のメキシコではない」『中日関係史学会会報』1989年2号

2009年9月8日火曜日

04012■ホツマツタエは信頼できるか



わたしのブログにはたくさんの「ホツマツタエ」からの引用があります。この「ホツマ」は果たして信頼が置ける資料なのでしょうか、確認します。


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ホツマツタエが本物かどうか、どの程度のものかは、「古事記」「日本書紀」と比較することです。


ホツマ研究の第一歩は、三書の一字一句を厳密に比較していくことにはじまる。
内容的には、
①おおよそ三書に共通して書かれている部分
②「ホツマツタエ」にはあるが、他の二書にはない部分
③二書にはあるが、「ホツマツタエ」にはない部分
に分けることができる。
また三書に共通している部分でも、「ホツマツタエ」が、
より古い記事を残していると思われるところが多くある。


2、比較での内容の正確さ
三書比較での内容の正確さは
一位:「ホツマツタエ
二位:「日本書紀
三位:「古事記
野」順であることが理解されるのである。

3、古事記は本居宣長が
現在は「古事記」が一般に重視されているが、じつは「古事記」が注目を浴びるようになったのは、江戸時代に国学者の本居宣長が「古事記伝」(1798)を著してからなのだ。奈良時代から江戸時代が終わるまでは、国史としての「日本書記」が、もっとも重要な書物だった。「古事記」は雑書だったのである。

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 そして、ホツマ、記、紀三書を比較していくと、「ホツマ」が原記紀のさらに大もとの文献であったことが充分考えられるのです。
なぜかといえば、内容を厳密に検討していくと、記紀などからいろいろな説話を選び出し、「ホツマ」を偽作することは、とうてい考えられないことが分かります。逆に、「ホツマ」の重要部分を捨てた形で、記紀がつくられていったことが十分考えられるわけです。
・・・しかし、なぜ日本の重要な伝承を捨ててしまったのでしょうか・・・・
 ある政治家が実験を私曲化して奪おうとするためには、それまでの体制を支えてきた伝統的文化、特に国の重要な文献を改ざんしてしまうことがどうしても必要となってきます。西洋では他民族が侵略するときは、必ずその国の美術品を破壊しますね。日本では美術品を破壊することはしなかったのですが、それに近い形で、漢字を入れたり、仏教を入れたり、文献を改ざんしたりしたんですね。

・・・そこで、記紀から読み取ることができない、日本文化の本質部分を明らかにするのが「ホツマ」研究であるのですね・・・

 そのとおりです。日本文化の骨組みを明らかにするという目的を持っています。最近「ホツマ」に関心が高まってきたのは、現在人々が日本の心とでもいうべきものが「ホツマ」の中にたくさん書かれているからなんです。

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(まとめ)

・ホツマツタエが信頼のおける文献だということが納得できます。


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2009年8月27日木曜日

04011■安田説縄文歴史まとめ




年縞による海面高さの図
歴 史 年 表

海面変動.jpg

2009年8月26日水曜日

04010■秋田杉の森は3500年前から










「秋田杉の森が形成されたのは3500年前から」
「1000年前には男鹿で大開墾が行われた」—。

男鹿市北浦の一ノ目潟のたい積物を調べる年縞(ねんこう)調査を行っている国際日本文化研究センター(京都)の安田喜憲教授(61)が14日、県庁で年縞分析の中間報告を行い、これまで解明されていなかった気候や森林環境の変動、新たな歴史観などを明らかにした。2006年11月に行った湖底のボーリング調査で、安田教授ら研究チームは37メートルのたい積物を採取。世界でも類を見ないほど美しいしま模様が1年ごとに刻まれており、安田教授は「過去3万年の歴史を年単位で記録した『地球のDNA』であることが判明した」と発表した。 


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秋田、大雪で古墳造れず? 男鹿・一ノ目潟の地層分析

国際日本文化研究センター(京都府)の安田喜憲教授の研究グループは14日、男鹿市の一ノ目潟で行った年縞(ねんこう)の発掘、分析調査の中間報告を発表した。
古墳時代(3世紀末―7世紀)の秋田県は冷涼多湿な気候で、現在の約1.5倍の降雪量があったとみられ、大雪のため古墳文化が根付かなかった可能性があると指摘した。

一ノ目潟の湖底で、2006年に深さ37メートルから採取した堆積(たいせき)物は、過去3万年分の年縞と分かった。安田教授らは堆積物に含まれるスギやマツなど、178種類の花粉量や有機物量を調べ、約1年かけ最上部の5メートル、過去4800年分を分析した。

古墳時代の花粉量から、当時の年平均気温が現在より3度前後低く、冬の降水量が400ミリ多いことが判明。安田教授は「秋田県に古墳が少ないのは、古墳が造れないほど大雪が降っていたからではないか」と解説した。

現在、県内各地に自生する秋田スギは、3500年前に花粉量が急増した。世界的に気候が寒冷化した時期で、県内が冷涼湿潤化したことに伴い、秋田スギが一気に拡大したとみられる。

平安時代末期の1000―1150年ごろ、秋田スギやブナの花粉量は激減した。わずか20年程度でスギは8割減少し、ブナは9割減ったとみられ、当時、大規模な森林伐採が行われた可能性が高まった。

安田教授は「前九年の役、後三年の役と時期が重なるが、当時の地方豪族は野山を積極的に開墾し、勢いがあったと推測できる。豊かさゆえ、豪族の争いも絶えなかったのでは」と指摘した。

一ノ目潟は河川の流入が少ないため、全国でも例のない良質、鮮明な年縞が発掘されている。

[年縞]湖沼の堆積物が形成した白と黒のしま模様の地層。春から夏にかけ、湖沼底にたまる植物性プランクトンが白い層を作り、秋から冬にかけて粘土鉱物などが黒い層を作る。1年ごとにしま模様を描くため、年単位で気候変動など自然環境の変遷が分かる。
2008年03月14日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/03/20080315t45027.htm


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