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2014年7月6日日曜日

■逆説・坂上田村麻呂の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

京都・清水寺の田村神社

 『「日之本文書」とエミシ・アテルイの戦い』より
  
  坂上田村麻呂
 軍神にまで神格化された坂上田村麻呂

 倭国公認史である『日本後紀』では、坂上田村麻呂について、次のように祭り上げられている。
 「正四位上(坂上)犬養の孫、従三位(坂上)苅田麻呂(かりたまろ)の子である。その先の阿智使主(あちのおみ)は、後漢の霊帝の曾孫である。田村麻呂は赤面黄鬚(おうしゅ 黄色のひげ)、勇力は人を超え、将帥の器である。桓武帝はこれを壮として延暦二十三(八〇四)年、征夷大将軍に召す」
 田村麻呂は、倭国では国家的歴史的英雄であり、征夷大将軍の代名詞となり、軍神として神社にも祀られ、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身とまで言われる。延暦十六(七九七)年には「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼陸奥守鎮守将軍」という長ったらしい肩書が付くようになる。伝記によれば「怒って眼(まなこ)を巡らせば、猛獣もたちまち倒れ、笑って眉を緩めれば、子供もすぐになつく」などと文字どおり伝説的に描かれている。彼の先祖をさらに逆上っていけば、スキタイ・サカ族の渡来人にまで至るだろう。「赤面黄鬚」はそこからくるだろう。スキタイ・サカ族とは、中央アジアに発生した騎馬民族であるが、イスラエル系などの血脈や文化が浸透している。
 しかし、『日之本文書』の田村麻呂への評価はこれとは正反対である。「奥州隠誌大要」[奥州殲隠史抄]は、田村麻呂について、次のように述べている。
 「坂上田村麻呂と父親の刈田麻呂の父子は、漢の霊帝の後裔といって自画自賛をたくましくして、大和朝廷を威圧するのはしたたかである。また、倭朝に和睦策を受け入れさせ、奥州に和平の官人を入れたのも、狙うのは産金貢馬のみの利益を得るがための手段である」
 坂上田村麻呂が「征夷大将軍」を名乗ってから、日本の最高権力者は、一時期の中断はあったものの、征夷事業が中止された後も、江戸時代まで約一千年間もこの称号を誇らしげに使った。単に軍事の最高権力者であるだけでなく、政治の最高権力者でもあり、征夷大将軍府は天皇府との二重権力の一方を担っていた。いかに「蝦夷征伐」が大和朝廷にとって、重要な事業であったかがわかるだろう。しかし、『日之本文書』も主張しているように、征夷大将軍の肩書を背負っていても、征夷に勝利した将軍は一人もいないのが実態なのだ。

 桓武王朝は百済王族の亡命政権でもあった

 いわゆる「蝦夷征伐」を敢行した桓武天皇とは何者か。彼の父親、光仁天皇(白壁王)は百済亡命貴族、百済王文鏡であり、母親の高野新笠(たかのにいがさ)も百済王の武寧王(ぶねいおう)の血を引いている。桓武天皇は純粋な百済人であり、純粋な渡来人である。桓武は父親である光仁天皇が死んだときに「天皇哀号」、つまり「天皇がアイゴーといって悲しんだ」と『続日本紀』にも記されてある。彼は百済の言葉、母国語で泣いたのである。
 桓武王朝は、百済王族と藤原氏(スキタイ・サカ族が主流)によって要職を占められ、そのバックの後見人として秦氏が控えていた。百済王族は、白村江(はくそんこう)の戦いに敗北し、日本に亡命したが、新羅系王朝で冷遇され、百済系の桓武王朝になってようやく厚遇されるようになった。百済亡命貴族の主な者を挙げてみよう。武鏡が敬福の子供であり、俊哲が孫であり、教俊がひ孫といった具合に、桓武王朝の主要なポストが、一族郎党によって固められていた(括弧内は主な役職)。
 百済王敬福(陸奥守、常陸守、宮内卿、外衛大将)
 百済王文鏡(内舎人、出羽守、光仁天皇)
 百済王武鏡(主計頭、出羽守、周防守)
 百済王俊哲(陸奥鎮守将軍、下野守)
 百済王教徳(上総守、宮内大輔、刑部卿)
 百済王英孫(陸奥鎮守権副将軍、出羽守)
 これをみれば、百済の王族が、陸奥や出羽の「蝦夷征伐」「陸奥経営」の最前線に立ったことになる。そして文鏡のごときは光仁天皇に成り上がっているのである。それぞれ従五位上とか従五位下とかの位が与えられている。

 桓武征夷の目的は百済王族のための土地と金属の略奪と軍馬の無力化

 大和朝廷はなぜ、「蝦夷征伐」を敢行したのか。その理由はひとつではない。大きなものは、以下の五つである。
 第一の理由は、五百年以上にもわたって、日本列島の支配権をめぐって死闘を繰り広げてきた日高見国(荒覇吐国)を打倒し、倭国の安定した支配権を獲得することである。日高見国は、列島の先住民、耶馬台族、荒覇吐一族、物部一族、新羅系亡命者などからなる強力な連合国家であり、渡来系の豪族連合国家としての倭国にとっては、九州王朝と並び最大のライバルであった。
 第二の理由は「渡来人」という名の「亡命貴族」「亡命王族」のために土地、奴隷を獲得することである。白村江の戦いに破れた百済王族、貴族は、念願の光仁、桓武の百済王朝ができると、彼らは国家の全面的バッグアップを受けて新天地をめざした。日高見国の北上川流域は「水陸万頃」、水田稲作に適した広大な土地が広がっていた。
 第三の理由は、武器や農具や工具としての鉄の生産地を抑えることである。鉱山資源、製鉄技術、鉱山労働力の確保を狙ったのである。日高見国は日本でも有数の鉄の生産地であった。荒覇吐一族は大和朝廷経由ではなく、古くから独自の、北方経由の、南海シルクロード経由の製鉄技術を習熟していた。
 第四の理由は、権力や富の象徴としての金の産地を押さえることである。八世紀に入って、大和朝廷は陸奥の黄金に注目しはじめた。北上川流域の栗原、和賀などの砂金である。朝廷は貢金を調庸の中に組み込み、献納させた。産金、冶金の業にも渡来人が進出した。
 第五の理由は、戦闘用、農耕用の馬の無力化である。ここでは軍馬の重要性について詳述しておこう。馬も鉄同様、エミシの武器になった。エミシは馬上から、片手で使用できる蕨手刀を巧みに操り、朝廷軍と互角以上に戦った。陸奥国は「馬飼の国」ともいわれ、広く馬の放牧がなされていた。その馬はユーラシア大陸の騎馬民族国家である靺鞨(まっかつ)国などから取り寄せたものが多かっただろう。
 『東日流外三郡誌 第四巻』[靺鞨国往来]では「靺鞨国の酋長が東日流に馬を積んで交易した。東日流の海辺の広野は、馬また馬に増殖した」と述べられている。前述のように阿弖流為、母礼は山靼地方の靺鞨族の出身の可能性がある。
 大和朝廷による「蝦夷征伐」が本格化すれば、馬は朝廷側、エミシ側双方とも軍馬としての重要性も出てくる。馬が抵抗する「麁蝦夷(あらえみし)」に渡れば、朝廷側にとって脅威となる。
 『続日本後記』は「弓馬の戦闘となると、これは蝦夷にとっては生まれつきの戦法であって、攻める内民たちは十人をもってしても、蝦夷の一人に勝つことができない」と認めている。
 『日本後紀』では「軍事用として馬は一番重要である。にもかかわらず安易に取引されて、価格が高騰し、混乱が続いている。強壮の馬は取引を禁止し、警護に備えよ」という禁令が布告されている。

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田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける

 「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。「江刺の翁(おきな)、物部但馬(たじま)という人物から聞き書きしたものである」という寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
 「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
 大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
 日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか。よって率いてきた者が宿泊する柵の造営を許可願いたい、と多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝(おがち)柵、胆沢(いさわ)柵、徳丹(とくたん)柵、払田柵、秋田城跡に市場を築くことを請うた。
 ときに阿弖流為はひとり合点(がてん)がいかず、日本将軍の安倍安堯(やすあき)に申したところ、市場ならばとして、濠がなく、柵がないように築くという条件を約束して許可を得た。しかるに阿弖流為が一見要塞としか見えない市場造りに不審をいだいて、これぞ倭朝の議に偽りがないかと田村麻呂に何度か問うたが、田村麻呂は曰く、我も倭の大王に言わしめれば蝦夷なり、何事あって丑寅日本を憎むだろうか、とその都度答えた」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
 『總輯 東日流六郡誌 全』[田村麻呂奥州経略]においても、田村麻呂が蝦夷征略の一切を任せられ、武器を持たない民団を派遣し、日之本将軍安倍安東から日高見国での駐在を許され、各地に神社仏閣、城柵を建設した。これに阿弖流為、母礼が「戦いなき心の侵略」「日高見はみな倭のようになってしまう」と疑念をもち、それを安倍将軍に告訴したが、聞き入れられなかったとしている。
 延暦年間には安倍安国、安東、国治(東)、安堯らの日之本将軍の名が『日之本文書』に出てくるが、安倍一族の年譜と照らし合わせると時代的なズレが見られ、その存在自体が希薄に感じられる。田村麻呂と直接対峙していないためか、日之本将軍による彼に対する警戒心が乏しかったように感じられる。大和朝廷による攻勢によって、荒覇吐国家と日之本将軍の統率力が弱まったようにも感じられる。日之本将軍の田村麻呂に対する警戒心が足りなかったことが、大きな悲劇を生み出すことになったのである。

■逆説・アテルイの真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

テルイの首像

 『「日之本文書」とアテルイ・エミシの戦い』より 

 アテルイ

 アテルイとは荒覇吐五王の一人で、祖先は山靼人

 桓武天皇の延暦年間に、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)エミシを中心に、五万人以上の朝廷軍を向こうに回して、互角以上に戦い、大勝利をあげた戦いは、日本列島でも最大の先住民抵抗戦争であった。この戦争を指導したのが、。胆沢エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、阿弖流為(アテルイ)であり、磐井エミシの族長であり、荒覇吐五王の一人、母礼(モレ)であった.
彼らは日高見国の種族連合、荒覇吐五王連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。
 『北斗抄 十三ノ四』には、阿弖流為が日高見国の中で、どのような地位を占めていたかが記されている。この文章を読めば、王国の構造が見えてくる。
 「荒覇吐五王の一人に四の阿弖流為がいた。日本将軍安倍国東の四天王である。延暦二(七八三)年、安倍国東が領土を武蔵に拡め、その住居を移した。よって胆沢の住居を四丑の阿弖流為に住まわせて、その統治を任せた。
 陸奥の領土を任せたのは阿弖流為のほか、磐井の母礼、飽田の鬼振、閉伊の悟理貴、庄内の勘太、黒川の頼貴、磐城の松蟲等である。これを束ねたのが阿弖流為である。坂東に常駐する日本将軍安倍国東のもと荒覇吐王の指揮によって統治した」 
 阿弖流為とは、現在の岩手県水沢市にある跡呂井(あとろい)を本拠地とする荒覇吐五王の一人、東王である。四丑は「しうし」と読み、現在の四丑橋の地名と関係あるだろうか。あるいは巣伏地名と関係あるだろうか。モレは、現在の前沢町(水沢市の南隣)を本拠地とする五王の一人である。当時の荒覇吐五王は、この二人のほか、高丸王、阿黒丸王、阿氏利為王からなっていた(『東日流外三郡誌 第四巻』[東日流精霊灯之由来])。
 『北斗抄 十三』では、阿弖流為と母礼の祖は山靼人であり、満達からきたとされる。「阿弖流為及び母礼の祖は山靼人である。彼の先祖の出身地は興安嶺満達であり、騎馬首領である。日本将軍安倍安国によって帰化が許され、一族百四十人、老若男女、出羽に渡り、陸奥人となった。それ以来、安倍氏の臣として、騎馬軍師を勤めている」と。興安嶺というのは、中国黒竜江省の山岳地帯で、ロシアに接し、モンゴルにも近い、騎馬民族が跋扈(ばっこ)する地方であった。おそらく軍馬の取引から友好関係がはじまったのであろう。ここにも外来者を快く受け入れて厚遇する安倍一族の度量が現れている。
 阿弖流為、母礼の胆沢連合軍は、千数百人の戦士からなっていたが、これを支えたのはエミシの種族連合勢力、日高見国そのものであったに違いない。和賀、稗貫、斯波、閉伊のエミシ種族連合、東西南北の日高見国も胆沢部族連合を支えたと考えられる。さらに中央の権力争いに敗れた物部氏、大和朝廷に敗れた磐井氏などの亡命勢力が、何らかの支援をしていた可能性もある。日高見国全体では数万人の兵士がいた。

 『北斗抄』[阿弖流為軍鑑]は偽作ではない
  
 「北斗抄 十三ノ九」には、阿弖流為と田村麻呂の責めぎあいについての文章が続いている。その中に「阿弖流為軍鑑」というものが掲載されている。この名簿が創作だとして、偽書派の攻撃を受けている。はたしてそうなのか。
   阿弖流為軍鑑
 櫻河磐具驛(さくらがわいわとものうまや) 磐井土基
 羽田大萬柵巣丑(すうし) 大公多岐志利(たきしり)
 田茂亜吐呂井(たもあとろい) 阿弖流為(荒覇吐五王の一人)      
男女川七清水 伊治公津加奴(いじのきみつかぬ)
北鵜貴(きたうのき)大林苑台 金車流奴
 江刺厳堂柵丑寅 母禮高丸(荒覇吐五王の一人)
 膽澤(いさわ)川羽黒台四丑 大貴利高丸
 日高見川澤尻 森加美彦
 衣川江刺子柵 安倍継重                          
 米澤内牛子 清原吐部
 江尻子和賀丘 津奴多美
 伊津沼太媛迫 及川多民奴
 伊具津保化山(いぐつぼけやま) 玄武東日流丸
 飽多(あきた)高清水 尾野津部奴
  生保内(おぼない)石津 小鴉津化丸
 荷薩體(にさたい)安日山鍋越 大津奴彦
 閉伊崎(とどがさき)十二神 荒覇吐丸

[阿弖流為軍鑑]は阿弖流為のもとに結集した軍事的リーダーの名簿である

 阿弖流為は、荒覇吐国の東王国の王であり、荒覇吐国の軍事総司令官の位置にあった。彼は現在の岩手県の中南部、胆沢を統治していた。この「阿弖流為軍鑑」の十七人の名前を見れば、胆沢、磐井を代表する軍事リーダー(将軍)が多いが、北王国(東日流、荷薩體)、西王国(飽田、出羽)、東王国(閉伊)、南王国(宮城、伊具)の将軍たちも含まれている。つまり、日高見国の五つの王国の将軍が名を連ねているのである。このため一つのリーダーが受け持つ地域は、比較的広域になる。名前に冠している地名は、彼らが受け持つ地域の代表的な二つか三つの地名を表している。阿弖流為の軍隊が、どれだけの人員がいたか。それはまさにこの軍鑑の最後に「右の者は阿弖流為配下の将軍たちである。挙兵すれば、そのたびに皆勇猛に戦う。その数は二万三千人である」と述べられている。彼ら一人一人が千人近くを束ねるリーダーだったと考えられる。この名簿に出てくる名前は、阿弖流為配下の胆沢とその周辺の兵士のそれではなく、荒覇吐王国から結集した軍事的リーダー(将軍)の真実の名簿である。
 将軍は東日流、荷薩體、閉伊、飽多、宮城、伊具、米澤など、東西南北の王国から結集したものであり、前述のように地名は比較的広い地域の二つから三つの地名を連ねて書かれてある。これでリーダーの出身地がわかる。
 それらの地名のほとんどは、延暦年間当時のものが、そのまま使われたと考えられ、一部は再書の段階で明治以降のものに、再書者である末吉や長作によって書き換えられた可能性も否定できないが、万一そうだとしても、それによって偽書ということはできない。
 偽書派は文書の筆跡が和田喜八郎のものだと述べているが、彼の筆跡と明治写本の力強い筆跡はまったくの別物である。それは明治写本を書写した和田長作の筆跡であろう。ダイナミックであり、達筆である。偽書派は「末吉は文盲であり、長作は字を書けなかった」などとデタラメを述べているが、とんでもない思い違いである。彼らもまた、庶民の中の英傑である。

 [阿弖流為軍鑑]の地名は『日之本文書』の真実性を証明する

 最初に「櫻河磐具驛(さくらかわいわとものうまや)」と出ているが、「櫻河」はおそらく現在の水沢地区の四丑村、茄子川村、安土呂井村からなる佐倉河(さくらかわ)村の旧名ではないかと考えている。ここに胆沢城が造られたほどの要衝であった。驛(うまや)というのは、少なくても延暦年間に先立つ天平宝宇年間(八世紀中頃)には、すでに奥州各地に設けられていた驛(当時の幹線道路の要所に設けられた、人や馬の休憩地であろう)のことである。[阿弖流為軍鑑]に二つの地名を合わせた「櫻河磐具驛」という地名がでてきても何の不思議はない。
 「伊具津保化山」という地名が出てくるわけがないと彼らは主張しているが、伊具は宮城県南部の伊具郡の地名であり、津保化というのは東日流に限られた言葉と考えられているが、奥州のかなり広い地域で津保化という言葉、地名が使われていたので、いずれも古代からあった地名、言葉である。実際にこの地名は、現在も伊具郡にツボケ山として残っている。『總輯 東日流六郡誌 全』には「津保化族が居住する地は、東海(奥州の太平洋沿岸)にも伸びていって、亘(わたり)郡のツボケ山まで至った」と述べられている。また『東日流外三郡誌大要』[安倍安東秋田氏遺跡八十八景図]の五十七番には「ツボケ山亘荒覇吐神社」の図が掲げられている。亘とは亘理、和多里とも表記した。
 その他「巣丑(すうし)」は四丑(しうし)ないしは巣伏(すぶし)、「亜吐呂井(あとろい)」は跡呂井(あとろい)、「伊津沼」は伊豆沼(宮城県栗原郡)、「安日山」は安比山(岩手県八幡平市)、「北鵜貴」は北鵜ノ木(水沢市黒石町)、「崎」はヶ崎(宮古市重茂(おもえ)半島)、「日高見川」は北上川、「江尻子」は江釣子、「飽多」は秋田に変化したと考えられ、疑義を差し挟む余地はないだろう。
 江刺、衣川、米澤、和賀、生保内(おぼない)、田茂(山)、膽澤(いさわ)、荷薩體(にさたい)、高清水(秋田県秋田市 秋田城のあったところ)などは、一部簡略体となって現在でもそのまま使われている。

 [阿弖流為軍鑑]の人名「磐井」は九州王朝の勇者から来ている

 [軍鑑]の人名も本物であろう。そこに「磐井土基」という名前が出ており、「磐井」という名前が、偽書派は、九世紀のはじめに立県されたとされるので疑義があるとしているが「磐井」の地名がなぜ使われるようになったか、まったくわかっていない。「磐井」の由来について納得できるかたちで説明している偽書派は一人もいない。
 岩手県の南部に西磐井郡、東磐井郡という地名が残っているが、これは六世紀の継体天皇に反抗した「磐井の乱」で有名な九州の王族であった磐井氏が敗北し、日高見国の磐井地方に亡命したという記事が『日之本文書』に載っているように、磐井という地名は当地に亡命してきた九州の磐井氏から名付けられたことは間違いないだろう。
 「丑寅風土記 第全六ノ四」[丑寅日本国奇談]には「安倍一族をして筑紫、磐井一族と親交があり、磐井一族が敗れたときは、その郎党一族を奥州に招きいれたのは陸州磐井郷なり」と述べている。「磐井土基」という人物も当地へ亡命してきた磐井一族の流れと考えられる。
 荒覇吐一族のものは、姓のないものが多く、丸や奴や彦がつくものが多く、現代人が勝手に付けたものではない。安倍姓も当時から使われていたのであろうが、清原姓については当時から使われていたかは、まだ判断がつかない。阿弖流為の大墓は「たも」と読み、田茂からきているだろう。このように[阿弖流為軍鑑]の名簿は『日之本文書』の真実性を表現しているのであり、偽書派の何の根拠もない批判にさらされても、少しも揺らぐものではない。

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2014年6月5日木曜日

❏菅江真澄「水の面影」現代語訳全文(写真版)

2014・2月に完成し、500部を印刷しましたがすぐ無くなりました!
私のグーグルドキュメントにPDF版を載せましたが・・・印刷屋さんのブロックが
かかっていたようで、見ることが出来ないようですので

改めて載せます、写真版ですから少し不便かもしれませんがご利用ください。

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以上です。

2013年7月31日水曜日

■915年十和田湖噴火は本当にあったのか?

915年十和田湖噴火の疑問が未だ融けません

1,2009年11月18日のブログ
県立図書館で一の目潟の年縞を見ての疑問でした
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秋田県立博物館の「年縞」展示と、その解説の中での十和田火山に」関する疑問点です。

1、年縞展示です
青札の上が白頭山の噴火の火山灰(938)
下が十和田a噴火の火山灰(915)




左が白頭山火山灰
右が十和田a火山灰

これは別途資料


3、男鹿で確認された広域火山灰




赤の囲いが十和田a火山灰(915年)といわれるもの。





黒の囲いが十和田八戸火山灰(1万5千年前)









4、火山灰・降灰分布図




十和田a火山灰の範囲は西側にはほとんど来ていませんが、どうして男鹿に火山灰の跡が残っているのでしょうか。







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2,改めて年縞調査記録


第 3 章 
地域環境史調査
本調査研究では、秋田のローカルをグローバルに直結させるために、2006年11月に男鹿市で年縞に
関する国際ワークショップを実施したほか、2007年3月には、国際的機関IGBP、AIMES、GES、IHOPEと日本学術会議、地球環境戦略研究機関、環境省と共催で国際シンポジウム「地球と人類の未来-アジアから考える」を秋田県大潟村で開催した。この国際シンポジウムでは、目潟の年縞に関する分析結果を報告することによって、目潟が世界の目潟として認識された。なぜ年縞のある美しい大地で文明が発展しえたのかを、そしてこれからの地球と人類の未来はどうなるのかについて、年縞を核にした比較調査研究を実施することによって、秋田のローカルがグローバルに直結した。そのことがとりもなおさず美しい年縞のある秋田県北西部の人々の自信と誇りにつながり、美しい地域の風土への愛着をもたらし、秋田県の人類文明史における位置と未来を予測する上で大きく役立つはずである。
 〔国際日本文化研究センター教授 安田喜憲〕


3,915年十和田湖噴火が見えない

ネットでこの資料を見つけましたが、この資料発表の後で見つかったのでしょうか・・・
抜き出して記します
 なお、本コアには残念なことに10世紀の十和田火山起源のTo-aテラフが認められなかった。この原因については、偏西風や地上風の風向のほか湖底での堆積物重力流による削剥などが考えられるが、現在のところ不明である。

4,やはり疑問

2009・11・20日前後のブログに疑問点をたくさん載せています
・本当に噴火があったのか
・なぜ「やませ」で西の男鹿半島まで飛んだのか
・博物館展示と今回の論文の違いは何か

・・・・・・

謎解きの楽しみが続きます・・・・・


2015・7・12追加です

「やませ」と同じ冷たい空気が動く様子です。


桜島の噴火情報も合わせて

8月18日、鹿児島市の桜島で大規模な噴火が発生し、噴煙が5000mの高さにまで到達。

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2012意識のルネッサンスを経て
既存のすべての壁が壊れています。すべての事の真実がわかってきます。