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2009年7月13日月曜日

01811■ストーンサークルは「壺」

ストーンサークルは明らかに「壺」の形をとっています。

1、大湯ストーサークル

万座環状列石






こちらがよくわかります。
壺の口がよくみられます。









2、北秋田市 伊勢堂岱遺跡





















こちらも壺の形がよくわかります。


















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(まとめ)
・ストーサークルの「壺」は、地球の「壺」と関係あるような気がしますが・・・。
・「枕詞」とのつながりも調べる必要があります。

・形が壺の形であること。
・発掘で壺がたくさん出てくること・・・胞衣(エナ)壺=家の戸口に埋め、るのは、踏めば踏むほどその子が丈夫に育つ力がつく、賢くなるなどの理由があるそうです。

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01810■古代世界は「壺」と「うず巻き」

宇宙は壺、宇宙は子宮(「知られざる古代日本」鳥居礼)より


1、ウツボは大壺
 「ウツホ」「ウツボ」は、大壺(うつぼ)、動壺(うつぼ)のいみであることが、「ホツマツタエ」より推測できる。
そして、古代世界の人々、特にギリシャや日本で壺を大切にし、その周辺にうず巻きの文様をたくさんつけることにつながる。


2.宇宙人体=宇宙の擬人化
 すなわち、古代世界の人々は、みな宇宙の形を壺と認識していた。この壺は万物万象を生み出す、大いなる子宮なのである。なぜなら、
これも世界共
通に、古代世界では宇宙が巨大な人体でと考えられていたからである。


3、プラトン
 プラトンの大宇宙、小宇宙、あるいは、ユダヤ教の人は神と同じ形に創られたというアイデアからもうかがい知ることができるのである。


4、うず巻き
 
巨大
な宇宙神の人体の中の子宮である大壺から、巨大な回転とともに万物が生み出されていく。回転は渦巻きである。
 ギリシャの壺にも縄文の壺にもうず巻きがたくさん記されているのは、この宇宙創成の様相を文様化したにほかならない。
 ちなみに、パンドラの壺(箱は誤り)もまた、原初に大壺からさまざまなものが出現し飛び出してきたことを物語っているものと考える。

2009年7月12日日曜日

01809■多賀城はいつ頃からか

俳聖 松尾芭蕉 みちのくの足跡」

東北の太平洋側では、南は福島県南部の白河から北は宮城県南部の日理(亘理)、伊具にかけて評が置かれ、多賀城成立の礎となる「道奥国」(のち陸奥国)が設けられた。それ以北は政府の支配下から外れた蝦夷の地だったが、7世紀半ばになると支配領域の拡大が図られ、7世紀後半には宮城県北部の玉造や新田にまで及んだ。

天武天皇の時代に移ると、皇族中心の政治権力を背景にして律令制国家の建設が強力に進められ、大化の改新から半世紀ほど経過した701年に大宝律令が制定された。地方行政については、全国を畿内と七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)に分け、さらに国、郡、里に分けて役人を配置し、地方組織の強化を図った。

律令においては、北陸道の越後国、東山道の陸奥国、出羽国など東北地方の国に対して多くの特例が設けられ、その中には、「蝦夷の様子をうかがう」、「蝦夷を服従させる」、「蝦夷を討つ」といった国守の職務規定まであり、蝦夷対策が律令政府の大きな課題であったことが窺い知られる。

下記年表に、東北地方における郡の分割や新設、国の再編が度々行われたことが書かれるが、これはそうした蝦夷対策の一貫として行われたもので、律令制支配を徹底させることが狙いだった。霊亀元年(715年)になると、陸奥国の更なる充実経営のため、坂東6ヶ国から1000戸の住民移動が行われた。

こうした経緯の中、陸奥国支配の本拠地として多賀城が創建されるに至り、政府は、此処に、陸奥国府と蝦夷の反乱を鎮める鎮守府を設置し、陸奥出羽按察使・陸奥守および鎮守府将軍を兼任する国守を駐在させた。

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(まとめ)

・大和朝廷が蝦夷支配のため設置した時から
・古代の多賀城はどうなのでしょうか??

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01808■多賀城碑(壺の石碑)は誰が


 碑は、自身と同質である砂岩の基部全体を土中に埋め、正面をほぼ真西に向けて建っている。一般に砂岩はもろいとされるが、碑石に使われたものはアルコース砂岩と呼ばれる硬質のもので、今も碑面の風化はほとんど見られない。昭和40年代の前半に碑近くの丘陵から同質の石が出たことから、多賀城碑に使用された石材は建立地近辺から掘り出されたものと推測されている。

多賀城市撮影の「多賀城碑」拓本


多賀城碑は、江戸時代に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたと見られており、その時期は、新井白石の「同文通考」によれば、芭蕉が訪れた15年~30年程前の万治・寛文の頃(1658~1673年)という。
仙台藩四代藩主伊達綱村(1659~1719)のころ、仙台領内の数々の歌枕の地が大淀三千風らによって整備されたが、当時すでに市川村(現多賀城市市川)に本碑が構え、三千風はこれを撰集「松島眺望集」の中で「壷の碑」として取り上げて碑文とともに紹介している。本碑は、多賀城(跡)に存する石碑であるから「多賀城碑」の称は然るべきだが、これを「壷の碑」と呼んだのはどのような謂れからか。

大淀三千風について

 

歌枕「つぼのいしぶみ」の成立過程は定かでないが、文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」が、その伝承に大きな役割を果たしたようである。


顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。) 私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。(袖中抄)

[要旨] 陸奥の奥地、日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあって、碑面に、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかけるところ)で彫った「日本中央」の文字が書かれ、それを石文(いしぶみ)という。藤原信家の侍従によれば、石の長さは4、5丈(約12~15m)ほどで、彫り付けられて窪んだところを「つぼ」という。みちの国は東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい。

歌枕「つぼのいしぶみ」が、こうした伝説や和歌によって後世に伝播されていく中、多賀城碑は、江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された。石碑は一般に「石文(いしぶみ)」または「立石(たていし)」と呼ばれることから、発見当座も、まずはそうした呼び名であったろう。それが彼の事物と絡められて一体化し、次第に「壷の碑」と称されるようになった、というのが事の真相かと思われる。

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(まとめ)

・多賀城碑は江戸時代(1656~1719ころ)発見された。

・同年代に大淀三千風が「壺の石碑」と詠んでいた。(荒俣氏は水戸光圀公が決めた)

・歌学者の藤原顕昭が1190ころ、田村麻呂将軍が書いたと「袖中抄」に記した。(これが田村麻呂伝説の一貫)

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・多賀城跡が古代日本の「壺」であることは「ホツマ」で納得できる。

・しかし多賀城の「石碑」は田村麻呂以降のもので「歌枕」として成立した過程はわかった。

・私が求めるのは「壺」と同時代の「石碑」のことで、歌枕でなく「枕詞」の「壺の石碑」を求めているのです。そうすれば、多賀城では納得できないのです。

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2009年7月8日水曜日

01807■「壺」とはなにか

日本の「壺」という概念を述べます。(「宇宙原理ホツマ」・・・P190~

1、壺とは
周知のように「壺」には容器としての意味のほかに、見込んだところ、重要なところ、急所、肝所、灸をすえる体の定まった位置などの意味があります。











2、語源説では
 古くは清音の「ツホ」であったともされ、ウツホ(空)の義【言元梯】、ウツボ(虚洞)【和語私臆鉯】などの語源説が知られています。
 しかし、この語源説は逆で、「ウツボ(ホ)」は「大壺」「生壺」「初壺」「動壺」の義で、「ツボ」という語から「ウツボ」が派生したといえましょう。
 
3、日本のツボ
 このように日本では、大宇宙や虚空を「ウツボ」という具体的な器物に見立てて表現するために、逆に「壺」が大宇宙を反映凝縮する小宇宙とみなされるわけです。
 日本上の「壺」にあたる多賀、富士山、近江の三カ所が、とくに宇宙との強力
な交流拠点として重要視されていたために、ものの急所や見込んだところを、それにたとえて「壺」というのです。










4、世界の母なる「壺」
 世界的に見て「壺」が「子宮」や「腹」を象徴する「母なる壺」としての要素をもち、「大壺」もまたすべてを包括し、すべてを生み出す器である「宇宙母胎」としての大いなる子宮を意味する。








5、宮中のお局(おつぼね)とは
 宮中の部屋のことを「坪」もしくは「局(つぼ)」といいます。九中の部屋にはそれぞれ内庭があり、その庭を「坪」とと呼ぶことからくる名称であるとされていますが、それは誤りです。もともと「ツボネ」は天君の子孫を繁栄させるための大切な「子宮」なのであり、「子宮」としての「壺の根」という儀と考えられます。
その壺にあわせ、後世壺庭を配したのでしょう。世界的な観念として、「壺」は「子宮」を象徴するのです。

6、パンドラの箱は間違い
 パンドラの「箱」は間違いで、本当はパンドラの「壺」が正しいのであり、原初に大壺からさまざまなものが飛び出したことを物語っているのである。(「知られざる古代日本」より)


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(まとめ)
・枕詞の「壺の石碑」の「壺」を探るためには、壺の宇宙論を探る必要があります。
・日本のツボ・・・日本の重要な地点

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2009年7月7日火曜日

01806■日高見の多賀の壺若宮

宮城県多賀はタカミムスビであるトヨウケ神が、天上「高天の腹」の精奇城(さごくしろ)の宮に鎮座する、四十九の言霊の神々を、地上の御座に遷座し、地上の「高天の腹」としての<宇宙祭祀>を執行された所でした。現在多賀城市高崎に多賀神社が存在し、この御座と深く関係するものと考えられます。(「宇宙原理ホツマ」)

1、日高見多賀の壺若宮

原文に
日高見(ひたかみ)の 御座(みくら)の跡に
また都  遷して名づく
多賀の守(こふ) 壺若宮(つぼわかみや)の(11-1)

とあります。

アマテル神の御子ヲシホミミノ尊は、近江の多賀から、日高見の多賀城市にある祖父トヨウケ神の御座の跡に都を遷し、宮の名は多賀の守(こふ)「壺若宮」と名づけたことがわかります。すなわち多賀城市の多賀とは、近江の多賀(多賀大社)からとった名前だったのです。
















2、みちのく・多賀は日本の壺
 ところで、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五カ国の古称を「陸奥(みちのく)」といいます。しかし、なぜ
「ミチノク」とうのかは知れていません。『ホツマツ
タエ』によれば、アマテル神(天照大神)が若きころ、日高見の多賀に坐すトヨケ神のもとで天の道を学ばれ、そこで<道の奥(奥儀)>を捧げられたことによる名称であることがわかるのです。「ミチノオク」がちぢまり「ミチノク」となったのです。

 松尾芭蕉もこの日本の壺としての道の奥多賀にある「壺の碑(つぼのいしぶみ)」
を訪ね、古をしのんで涙がこぼれそうだったと「奥の細道」に記しています。芭蕉もこの地で、俳諧の<道の奥>をさとったのではないでしょうか。芭蕉は壺の碑との出会いが契機となって、羽黒山で「不易流行」の考えにいたっているのです。




多賀は、日本の「壺」であり、宇宙祭祀拠点である地上「高天の原」である

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まとめ)
・ホツマでは、多賀城が日本の重要な拠点・・・「壺」である。

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01805■ホツマの宇宙原理と宇宙祭祀拠点

「つぼのいしぶみ」「壺の石碑」を研究するに当たって、「壺」について調べていくと、単なる入れ物の「壺」だけでないのです。宇宙原理が秘められていることがホツマツタエで分かってくるのだそうです。

鳥井礼さんの「宇宙原理ホツマ」から、P133~「高天の腹の宇宙原理」











1、世界の民族伝承に伝わる<宇宙人体>
 洋の東西を問わず、古代においては、「大宇宙」と「小宇宙」としての人体が照応すると考えられていました。それゆえ、人々は神や宇宙を人体と考え、あるいは、人体に宇宙をあてはめて考えていたのです。









2、日本の記紀には
 極度に中国化した奈良時代に成立した「記」「紀」は、「天つ神」「国つ神」に関する伝承をはじめとして、すでに多くの古伝正伝を欠いていたのであり、「高天の原」についての伝承もその一つだったのです。そして、世界の宇宙観に共通する正しい「高天の原」像は「ホツマツタエ」「ミカサフミ」でしか知ることができません。

3、ホツマツタエでは
 「ミカサフミ」「ホツマツタエ」によれば、「タカマノハラ」は<宇宙母胎>としての高天の腹だったのであり、その中に存在する日月星、あるいは地と人間の万有は、いわば<宇宙胎児>と考えられていたことがわかるでしょう。擬人化され、極度に親和性に満ちた高度な宇宙原理が、わが国にも存在していたことが分かるのです。
  高天の原=高天の腹 
  高天の腹(宇宙母胎)・・・・地球(宇宙胎児)


4、高天の腹の宇宙構造
 「高天の原」は腹だとすれば、高天の腹の宇宙構造は下図のとおり

②大壺(うつぼ=子壺(子宮)

③天(胞衣(えな)

④地球(胎児)





この<宇宙母胎>としての宇宙観は、宇宙創成の過程が妊娠過程と、まったく同一原理で行われているという、「ホツマツタエ」のもう一つの重大な宇宙観とも深く関係してきます。
・・・・・(ここに、ケフノ細布が妊娠過程の岩田帯と関係があるものと推定されるのです)


5、ホツマの宇宙構造



①常静天(とこしなえ)

②精奇城(さごくしろ)

③高天の原(たかまのはら)

④大壺(うつぼ)

⑤地球(くにたま)

⑥地上の高天の腹







6、地上の祭祀拠点                

「五百継(いもつぎ)の天の真栄木(まさかき)という古代<宇宙樹>を、代々植え継ぎ治められた五代高皇産霊(たかみむすび)は、いみなをタマキネノ尊と称されたのですが、あるとき、天上「高天の腹」に鎮座されていた宇宙創成の四十九神を、地上の聖地「高天の腹」に遷されたのでした。
 神々を地上に手て祭り、宇宙祭祀拠点とすると、民はますます豊かににぎわったので、豊かさを天上より遷し受ける神という意味のトヨウケ神として讃えられたのでした」


地上の宇宙祭祀拠点とは、宮城県多賀城跡にある多賀城神社であることが判明した。

 トヨウケ神の曾孫にあたるヲシホミミ尊が、昔トヨケ神が<宇宙祭祀>を行われた神の神座(かんくら)の
跡を慕い、近江の多賀よりその地に都を遷されたことにより、この地を「多賀」とよぶようになったことも記されています。さらにここは日本の3壺の一つであり、当地に残る「壺の碑(つぼのいしぶみ)」とも関係してきます。
 宮城県の多賀城跡は、地上にて全宇宙を祭り神々と交信するための日本最古の、いや世界最古の<宇宙祭祀拠点>だったわけです。

宇宙祭祀=全宇宙を祭り、神々と交信をはかる。






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(まとめ)
・壺の宇宙観
・地上の祭祀拠点が宮城県多賀城市である
・「大壺」が帯津良一先生の「虚空」にあたります。
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2009年7月5日日曜日

01804■行基図とつぼのいしぶみ

秋田県鹿角市の大歴史学者・安村二郎さんがいう、行基図に記入されているという「壺の石踏」をさがしています。

1、安村二郎さんの記事

鹿角市の広報に掲載されたもの

「14世紀頃の百科全書『拾芥抄(しゅうかいしょう)』に、載る行基図と呼ばれる日本国図では、陸奥・出羽二国の北が津軽大里となっています。その境界線ぞいに「壺石踏(つぼのいしぶみ)」と書き込みのある、なんとも不思議な感じの古地図です。」



















2、これが「行基図」


これが一般に言われている行基図です。
ここには「壺石踏」の書き込みはありません。







ここにもありません




3、ついにみつけた?
何か記入されています



















でも「さたけ」「せんだい?」の記入のようです。


明暦二年申三月吉日[写] -- 手書図(彩色) -- -- 1舗 -- 109.1×51.7cm(17.9×12.1cm)


見出し画像


いわゆる行基図(ぎょうきず)。行基式日本図は、国々を丸みをおびた俵の形とし、これを積み重ね、かつ山城から諸国への経路を示すことで日本を表現することを特色とする。奈良時代の高僧行基により作成されたと伝えられ、現存する多くの行基図にもその旨記載されているが、もとより後世の仮託。ただしなぜそのように伝えられるようになったかには諸説がある。江戸時代初期まで作成された。本図においても「夫図行基菩薩所図也」との記載が序文にある。明暦2年板は最後に印刷された行基図とされるが、そのものは現存していないため、その写図である本図は貴重である。各国色別に着色し、上部を東,右を南とする。2本線で五畿七道を描く。安房の南方に「らせんこく」(羅刹国)の記載がある。
何か記入しているが、どうでしょうか

4、安村二郎さんに連絡したが
安村二郎さんに会いたいと連絡したが、もう高齢で体調をこわされていて、「人に会いたくない」とのことでした。まだ疑問にたどりつけません。

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(まとめ)
・偉大な歴史家・安村二郎さんが書いた・・・津軽大里と睦の境界に「壺石踏(つぼのいしぶみ)」と書き込みがある・・・は、まだまだ解明できません。
・しかし、大きなヒントです。
・境界にあること。「石踏」という文字。
・ますます想像力がわいてきます・・・絶対にあの方向なのだ・・・と。

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追記

ほとんどの事典に行基についての項目がありますが、その中に、「行基は行基図を作った」という意味の事が記されているものに○、記されていないものに●をつけます。
 行基が奈良時代に日本全図を作成した事が学会の定説になっていたとしたら、それは伊能忠敬を上回る大変な業績であって、世界でも注目されるでしょうから、事典類には必ず書かれる筈です。

(1)吉川弘文館『國史大辭典全17巻』●
〔日本図の項目に、「行基図は行基が作ったのではない」としてその理由が記されている〕
(2)河出書房新社『日本歴史大辞典全20巻』●
〔行基図という項目も無い〕
(3)吉川弘文館『日本古代人名辭典全7巻』●
〔ひじょうに詳しいが、行基図の話は無い〕
(4)小学館『日本国語大辞典全20巻』●△
〔行基図という項目が別にあり、「行基が作ったとされる地図」とある〕
(5)平凡社『大人名事典全9巻(戦前)』●
(6)講談社『日本人名大辞典』●
(7)講談社『日本史人物事典』●
(8)三省堂『コンサイス日本人名事典』●
(9)冨山房『國民百科大辭典全15巻(戦前)』●
〔行基図という項目も無い〕
(10)平凡社『大百科事典全29巻(戦前)』●
〔行基図という項目も無い〕
(11)平凡社『世界大百科事典全32巻(1950年代)』●△
〔「行基式日本図」の項があり、「日本図作成は事実だろう」とある〕
(12)平凡社『世界大百科事典全34巻(1970年代)』○
〔はじめて日本全図を作ったと伝えられる――と書かれている〕

 これら12種の事典類の中で、もっとも詳しいのは(1)と(3)ですが、どちらにも行基図の話はありません。それどころか、(1)においては、別項で、行基が作ったのではない――という説明があるのです。


◆◆◆ 4.『行基菩薩伝』と『行基年譜』 ◆◆◆

 この二冊に行基図の話が書かれているのかどうか、興味がありますが、(1)や(3)の引用の仕方からは、書かれていないように推察されます。


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(再度のまとめ)
・行基図が行基によって書かれたのではない・・・。
・これも田村麻呂伝説の一環でしょうか。

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2009年6月19日金曜日

01803■芭蕉が感動した多賀城碑

芭蕉は壺あるいはツモという土地から発見されたものもなく、「日本中央」とも書かれていないのに、多賀城碑をみてなぜ感動したのか。

荒俣宏「歌枕 謎ときの旅」(P153)
水戸光圀が、多賀城跡から発見された石碑を根拠として、フイクションの地名を実在のそれに変更したのである。
しかし多賀城跡から出た石碑は、
①西行がうたったように「外の浜風」が吹きつけるところではなかった。まったくの内陸にあった。
②壺あるいはツモという土地から出たものでもなかった。
③石面に「日本中央」と書かれていいなかった。
しかし、石碑という物証が威力を発揮した。だれもが古い石碑の存在にひれふしたのである。


芭蕉が奥州に旅した時、この多賀城碑は発見されたばかりだった。西行や能因のときには地中に埋もれていた物証に、光が当たったばかりであった。だから芭蕉は大喜びだった。
水戸光圀が認定した石碑を追いかけて東北奥地の行脚に出た芭蕉は、五月八日に仙台から塩釜に向かう道で、壺の碑を見物している。その感動のしかたも尋常ではない。

「ここに至りて疑ひなき千歳の記念、いま眼前に古人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労を忘れて 泪も落つるばかりなり」

と。ただ、古い石碑に出会えたというだけで、これだけ感動したのである。こころが千年前までトリップしたのだから、まさに縄文までさかのぼれるタイムマシンなみである。
芭蕉がなぜここまで感動できたのかといえば、歌枕も時間が経つとその場所さえ定かでなくなる場合が多いのに、まちがようのない「千歳の記念」がちゃんとそこに存在していたためである。古の人の心がここに刻まれていた、とまで述べている。

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(まとめ)
・荒俣氏はこのあと、「日本中央」と書かれていない多賀城碑なのにといろいろ書かれています。
・しかし私は、純粋に芭蕉が感動したのは、この碑に出会って縄文までさかのぼれたことで感動した方を採用したい。

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01802■壺の碑物語の変遷・荒俣論

西行」ら芭蕉にかけての、中世、そして近世にわたって、最も注目を集めた陸奥の古代遺跡は「壺の碑」であった。ツボと呼ばれる土地に建てられた石碑の意味である。


■「日本中央」幻の碑を東北に探して

1、「イシブミ」とは「ツブテ」時代
 「イシフミ」とは、藤原相之助によれば、元来「ツブテ」のことであったという。ツブテとは、何かに投げつけるための小石で、手紙のない時代には相手に石を投げて通信したという、これが石文である。
石文は、神が宿る依代とされた意志を使うため、神への通信、あるいはあの世への通信としても使われた。賽の河原の石積みや神社に玉石を置くのも、こうした週間の名残であろう。


2、石文は恋文の意味
 やがて和歌がうたわれる時代になると、石文は「文字で伝えられない想いを相手に伝える」手段となり、主として男女のあいだに取りかわされる恋文の意味になった。現代人もときどき、恋人のいる部屋の窓に向けて、外から小石を投げたりする。そういえば文知摺石や虎石だのは、まさに石文の実例だろう。


3、「新古今集」時代「イシフミ」は「石碑」
 ところが、平安を過ぎて「新古今集」の時代になると、「イシフミ」は碑すなわち石碑を意味する語に変わっていく。このとき歌枕になったのが壺の碑であった。

壺の碑は平安末期に顕昭の「袖中抄」から知られるようになった。
 陸奥の奥に「つもの石ぶみ」という石碑がある。ここに「日本の果て」と銘記されている。坂上田村麻呂が征夷の戦を終え、矢の筈を使って大きな石の表に「日本中央」と書きつけた。そこは地名を「つも(あるいはつぼ)」といった。なぜ日本の中央としたのかといえば、蝦夷の先には千島というたくさんの島々がつらなり、それらを総合するこのあたりが日本中央にあたるからである、と。


4、信じられたが、実物は発見されなかった
 西行をはじめ中世の歌人は「日本の境にあって、なお日本の中央と称する奇妙な古代遺跡」の実在を信じた。けれど、この実物は一向に発見されなかった。江戸期の東北発掘ブームで南部野辺近くの坪村、石文村、碑川というところで、千引の岩という重い石が存在するという風説が流れた。


5、多賀城に壺の碑発見
 水戸光圀が「大日本史」編纂作業にあたって、古代史の事実確認のため世に伝わる壺の碑を発掘する決心を固めた。
多賀城跡から偶然に発掘された石碑があたt。ただ当初は農民が畑で掘り起こした奇妙な石碑、という程度のニュースだった。そのうちに、発見場所こそツボでなく多賀城なのだが、もしかするとそれが本物の壺の碑かもしれない、と推理する文献があらわれ、水戸光圀の耳に入ったのである。
光圀は使者を遣わし、石碑を調べさせ、これこそ壺の碑と認定した。これが現在見学できる多賀城の「壺の碑」である。


6、「日本中央」碑発掘
 明治8年(1875)に明治天皇が東北巡幸することにあわせ野辺地近くを発掘したが発掘できなかった。
 ところが昭和24年(1949)、地元の人が雑木林に埋もれていた高さ1.5mの石碑を掘りだした。しかも、この石碑には、たしかに「日本中央」と浅く文字が刻まれていた! イメージの中で生じた架空のはずの歌枕は、ついに現物の石碑をわたしたちに掘りあてさせてしまったのです。

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(まとめ)
・「新古今集」の時代から、田村麻呂がでてくるが、これも「田村麻呂伝説」の一環と考える。
・「壺」とは何か、「いしぶみ」とは何かの原点に帰る必要があると考えます。
・「壺」「いしぶみ」が古代東北の文化であったとなれば、田村麻呂=日本中央論は消えることになります。
 ここが私の主張するところです。

・それにしても、この変遷の過程は納得できるものではありません。荒俣さんの論は他はすべて納得できますがここだけは無理です。

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2009年6月18日木曜日

01801■壺の碑とは・荒俣宏説

いよいよ「壺の碑(つぼのいしぶみ)」です。これが東北歌枕の核心だと思えます。

荒俣宏「歌枕 謎ときの旅」から

1、壺の碑とは、坂上田村麻呂が「日本中央」と書いて建てたもの。

2、古代において、東北に関するもっとも重要な地域情報は「布」「石文(いしぶみ)」であった。

3、「けふのほそ布」は陸奥の国の「いしぶみ」という場所で生産される布のことである。

4、いしぶみとは石文、つまり碑文を意味する。








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(まとめ)
・壺の碑とは田村麻呂が日本中央と書いたものと定義することが妥当なものかどうか。
・「いしぶみ」という場所とありますが、「石文・碑」とすり変わっていることが疑問である。

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