2011年1月26日水曜日

■民話と伝説の違い

錦木塚物語は民話から伝説へ変化したとあります。

ウィキより

昔話・伝説・世間話の違い [編集]

口承文芸は無文字時代から存在し、一般に、昔話伝説世間話などの民話、新語作成、新文句(新句法)、諺、謎、唱え言、童言葉、民謡、語り物などに分類される。
このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「」「」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。「桃太郎」は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。
伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。しかし一部の土地では「炭焼き長者」や「子育て幽霊」などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。
世間話は体験談や実話として語られる民話である。
昔話、伝説、世間話の違いを表にすると以下のとおりとなる。 [要出典]
種類語られる人物・時・場所語られ方語り・話のかたち
昔話不特定事実かどうかわからない(おそらく事実ではない)あり
伝説特定少しは事実かもしれない(少しは信じてほしい)なし
世間話特定事実である(信じてほしい)なし

2011年1月24日月曜日

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(5/5)

尊敬する安村二郎氏の鹿角市広報掲載文です。

八十七(9/10)
要  約

・「錦木山観音寺縁起」
長文でしかも難解な縁起の原文の全文掲載。

要約を次号に










































八十八(10/10)
要  約
・「錦木山観音寺縁起」の要約
①縁起の起源は、はるか神代にまでさかのぼり、記紀伝承の十三代成務天皇御代奥州に戦雲動き、大いに乱れる。
②成務帝は景行天皇第四子である。景行天皇は熊襲を親征後、皇子日本武尊を派して東国エミシを平定。
③成務天皇は、北奥州五郡の郡司にオオナムチノミコト(出雲の大国主命)の子孫、狭名太夫(さなのきみ)を派遣、地理境界を明示す。
④かくて、天皇は大国主命子孫の狭名太夫(さなのきみ)の善政を愛でられ、豊岡郡を狭郡(けふのこおり)と改められる。
⑤狭名太夫(さなのきみ)八代目政子姫は、鳥の毛を混じえ細布を織る技を工夫し、人々の難儀を救う。
⑥草木村の長の子は、政子姫のもとへ通い、門に錦木を立て続けるが、姫の父大海は中に入れるを許さず、千日に及ばんとす。
⑦村長の子ついに病となって、涙川に身を沈めたという。
⑧姫も悲しみにひしがれ、五日の後に命を絶った。時は推古天皇七年(597)のこと。
⑨父の大海悲しみに深く、姫と村長の子を同穴とし、千束の錦木も共に埋め、人々は錦木塚と呼んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■鹿角の古代を彩る歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥年代は、すでに歴史に明らかなこと。
能因法師の時からであることは、明々白々なのである。そうであるのに、

⑩ほぼ六八〇年後の江戸後半の延享二年、鹿角初公開の形で羽州新庄の修験家阿保権之助提供の「錦木山観音寺縁起」においては、年代を古代初頭六世紀にまで遡らせ、場面を仏教伝来直後の政争にとり、崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏の対立から蘇我馬子のため物部守屋敗死(587)の後とした。

⑪敏達天王の第五宮は守屋の娘・岩手姫を生んだ皇子、皇子の位を除かれ奥州へ配流となり、奥州の鹿角豊岡に宮造りして住んだ。

⑫その五二年後皇極天皇元年(642)五宮七〇才勅免となり上京、毛布細布三百反、砂金百両を献上す。

⑬藤原鎌足が毛布細布の由来を叡聞に達し、帝御感涙の上、狭名は勲功の臣政子女に至り、家断絶とは痛哭に堪えず。

⑭一寺を草創し、亡魂を慰霊せよとありがたき勅命をこうむり、同四年五宮ににより、錦木山観音寺創建。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■このように架空の物語に大きく変容した。


■ここで錦木伝説は、だんぶり長者伝説と完全に習合(相異なる教義と折衷・調和すること)することになった。

疑問(3)
■どうして信縁起まで作り上げ、だんぶり長者伝説との習合をはからねばならなかったのでしょうか。

・小豆沢の大日堂は天台宗別当・・・すべて羽黒山末社の現実化をはかるためではないか?

・しかしこの縁起は、地元鹿角の人々の広く知るところまではいかなかった。

・菅江真澄でさえ、天明5年(1785)鹿角大里で縁起を書き写しながら、それを話題としたのは三十六年後の文政四年でした。

以上





















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(4/5)

尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報掲載文です。

八十五(7/10)
要  約
・初回の幕府巡見使(江戸初期)に、地元古川村錦木の古人・黒沢覚平が語ったものは変わっていないと判断、幕末(天保9年)の「御巡見御用控」による。

・「錦木塚の伝記」 長い長い物語が記されている。

・ただし、この物語には、古いなじみの政子姫など全く現れなかったことに、大きな疑問。












































八十六(7/10)
要   約

・前回紹介の「錦木塚の伝記」は、最終回の九回目となる幕府巡見使(天保九年)に代々説明役の黒沢覚平の案内内容だった。

・概要
前半
①古川村赤森近く芦田原(現錦木付近)の市にて、鳥や兎の毛を織り交ぜた細布を売る美しい娘と、草木村から錦木を売りに出る若者と、いつしか愛し合う仲となる。
②若者は娘の親の許しを得るため、三年近くも錦木を娘の門に立てたが、親は一向に取り上げてくれない。若者も娘も悲しい想いが募り、ついに男は涙川に身を投げ、娘もその跡を追い空しくなる。
③親たちは嘆きのあまり、男女を一緒に葬り、三年立て置いた錦木をもつかに埋めたので、人々は錦木塚と呼んだ。
④その後も、男の通った道筋の狐崎より狐騒ぎ、松桂が谷のフクロウのさえずりもかしましく、帰り道涙を洗った涙川、その通い路をけふの細道というなど。
⑤塚のほとりに現れる美しい女の機織り姿は、かえって遠く離れた物見坂からだけ見える。

・昔の室町時代初期の世阿弥が書いた謡曲「錦木」の筋を通日に語り継いで、説明の前半部分を終えている。

後半
・前半との脈絡を絶つが如く
①天長年中(824~834)淳和天皇勅命にて錦木を改め「錦木山観音寺」とした。

②三大日を建立。万谷田中の中台寺、小豆沢の喜徳寺、長牛の仁量寺

③古えの歌書・謡本に伝わる通り、前代まで塚の中から機織る音が聞こえるのを、大湯の領主不思議に思い、中に有るは何かと掘ってみたところ、その後」一切機の音は無くなった。で終わる。

・疑問(2)
この後半の説明内容は、果たしていつの時代に、何を根拠とし、突如といってよいほど、近世中期に及んで追加されたのだろうか。

・私の結論は
延享二年(1745)黒沢覚平自らが公開した、「奥州狭郡錦木山観音寺縁起」の外には考えられない。

・短期間のうちに鹿角はもちろん、全国的に流行をみたのは、毛馬内桜庭家中の文人集団の献身的案内活動にあった。

・その内容は次回




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(3/5)

尊敬する安村二郎さんの鹿角市広報に掲載された文です。


八十三(5/10)
要  約
1,歌枕が鹿角へ里帰り

11世紀半ばの歌枕の時代から、二百六十年余の江戸時代寛文年号、ようやくのこと、本来鹿角をまことの故里とする歌枕「錦木」「毛布の細布」が里帰り。

2,「鹿角由来記」

数多くの秀歌と室町文化の粋たる謡曲・狂言の筋に彩られる形で里帰り、「鹿角由来記」。

・そのご次々と発展的変化を遂げ、やがて全国的な注目を浴び、南部領の代名詞的存在となった。

3,疑問(1)

鹿角が歌枕「錦木」「毛布の細布」の発祥の地であることを、古代から江戸時代に入るまでの長い長い間、ほとんどの人々が気づかなかったのはなぜなのか。

・鹿角は余りにも京都から離れた北の僻地なこと。その上鎌倉御家人として入部した鹿角の4人一族は、弱小国の領主、京都との交流など及びもつかなかった。

・またその頃より鹿角は京都に似るとして、京郡(きょうごおり)と呼ばれた。南部藩のなかでも鹿角郡のみ「狭布郡(きょうのこおり)」と表記し、古い歌枕に強いこだわりをみせるのでした。

















































八十四(6/10)
要  約

・室町幕府初期、世阿弥が謡曲「錦木」で、平安時代からの歌枕「錦木」と「毛布の細布」こそ陸奥
狭布の里の習とて、綿々と人々の胸を打つ。

・その後、能・狂言・謡曲は京都を中心に全盛期を迎える。ただこの時代には北奥の鹿角に住む人々には知る由もなかった。

・戦国末期、南部が鹿角全域を領域に加える。

・江戸時代、南部藩の居城を盛岡に定めた城主は、家臣に下付する知行状の鹿角分ほとんどに「京郡きょうのこおり何々村」と認め、鹿角郡こそ古き歌枕の地錦木塚所在の場所として特別のこだわりをみせた。

・このように本来歌枕の地である「狭布の里」「錦木塚」が鹿角郡に特定されることとなった。

・さらには、もっと強固な保証を政治的に与えられた。
寛永10年を初回とし、「錦木塚」が幕府巡見使の立ち寄り場所となった。幕府巡見使は将軍が変わるたびに旗本三人一組で諸国に派遣されたもの。

・巡見使はお茶屋でしばらく休憩ののち、塚の辺りを歩行。出立の際は細布料として一巻につき金百両が下げ渡された。















































・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(2/5)

尊敬する安村二郎氏の鹿角市広報掲載文です。


八十(3/10)


要  約
1,平安時代の末、前九年合戦終末期

に端を発した歌枕「錦木」「けふの細布」は、北みちのく風俗の機微を見事に表現する歌ことばとして、その後鎌倉時代・南北朝時代に及ぶ三百数十年間、多くの和歌集・歌学書に連綿と歌いこまれてきました。

・しかし、意外なことに、その長い間、一体歌枕の地とは何処をさすものかなど、具体的な特定はほとんど無かった。
・例えば藤原行家「みちのくのけふの郡に織る布の狭きは人の心なりけり」


2,室町時代初期、世阿弥により、

謡曲「錦木」が作られた。出典は「袖中抄に記された=錦木伝説に細布伝説を織りまぜたもの」としている。

・こ謡曲「錦木」の中の用語が、そのまま近世の錦木伝説に移されているものに、狭布の里、狭布の細布、涙川、錦塚、松桂に鳴く梟、蘭菊の花、狐住むなる塚などがある。
・また間狂言の、鳥の羽根にて布を織り、幼な子をさらう鷲・熊鷹への呪法とするという場面はその通り伝説に取り入れられて、江戸期の錦木伝説が多く謡曲「錦木」に基づいて語られている。

3,なぜ世阿弥が

室町時代に至ってまで謡曲「錦木」が京都の世阿弥の手に成ったのか。

・その背景を想像するに
歌枕発祥の地京都と南部氏の関係は、南部氏が津軽を支配したころ、南部氏は全国第一の馬の大名となり「公方お召の御馬」進上を果たすことで、諸国守護と同格のとなり京都御扶持衆として、たえず上洛、能楽師との交流もあったと想像される。













































八十一(4/10)





























・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■安村二郎:錦木塚伝説の変容(1/5)

安村二郎さんのシリーズ「錦木塚伝説の変容」を掲載します。(鹿角市の広報掲載)
読み直してみれば、また安村さんの素晴らしさを感じます。荒俣宏さんもこれを参考にしたのではないでしょうか。

七十八(1/10)

1,要約

・鹿角は全国に聞こえた伝説の里。とくに十和田湖と八郎太郎、錦木塚、だんぶり長者の三大伝説は、ともにスケールの大きさ、史実との関連性、修験信仰との習合などにおいて、いずれも東北地方の代表的なものとの評価を得ている。

・とくに錦木伝説の特色をあげるとすれば、発端となったのは人物でなく、鹿角を含む古代みちのくの珍しい風俗・習慣ともいうべき「錦木」「けふの細布」という、歌枕そのものが主人公でした。

2,「錦木」の解釈いろいろ

①薪だとする説:毎日の薪集めは娘の持前、思う娘の手を荒らすまいとして、そっと門の外に置く  薪一束のこと(柳田国男説)
②錦木をアイヌのイナウとみ、イナウは神を招き降ろす時に立てる木幣のこと(金田一京助説)
③いずれにしても、錦木とは色どり飾った木を求婚の印に女の門に立てたもの、女に承諾の心あ  れば家の中に取り入れ、その心なければいつまでも門の外に晒すという、文字を知らぬエミシ社  会の風俗であった。

3,「けふの里」の解釈
北地の防寒具、平安後期のほとんどの歌学書には、けふの細布とは機はりせまき布、鳥や兎の  毛を織り込んだ布。小袖のように下に着るもので、胸まではかからないもの。

4,平安貴族の好個の「歌枕」となった。
①「錦木」・・・みちのくの鄙びた風俗である錦木仲人木としてたてる求婚法
②「けふの細布」・・・細布の幅が狭くて胸が合わないという悲恋のイメージ

・この歌枕が最初にあらわれたのは、能因法師「錦木はたてながらこそ朽ちにけれけふの細布むね あわじとや」、
・能因法師は前九年の役終息期・・・源氏武者が京に話を広めたと想像する。




クリックで拡大してご覧ください













































七十九(2/10)

要 約
1,錦木伝説の発生は

前九年合戦に重なる。源氏軍団の将兵が戦線参加のため米代川を行軍・駐屯の折に、初めてエミシ村の珍しい習俗と物語に接触し、帰京の度ごとに京都の人々に披露。

2,やがて貴族たちの関心をとらえ、

「錦木」「けふの里」が歌枕として競って和歌に詠み込まれた。

・このように歌枕的情感を込めて温かくエミシ社会を理解するということ自体、かって九世紀初頭エゾ平定の際、坂上田村麻呂将軍の助命嘆願も空しく、エゾを鬼畜に等しい存在とみる公卿たちの反対により、アテルイやモレが非情にも処刑された時代に較べ、まさにエミシ認識の革命的変化であった。

3,十一世紀半ば過ぎの前九年合戦

からわずか四十年足らず後、見事実現した王朝国家のエミシ政策転換に、実はわが鹿角歌枕こそ原動力の一つに数えられてよいようにさえ思う。

4,その後、鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」に

平泉二代基衡が仏師雲慶への礼物とした奥州選り抜きの特産物、円金、鷲の羽、アザラシの皮、安達絹のつぎに「けふの細布二千反」がひときわ目立ち、其の存在を明らかにしている。

5,「錦木」が再び世に現れるのは、

室町時代の初期、世阿弥の謡曲「錦木」によってでした。
しかし内容は陸奥狭布の里の地名の外、無名の男と女と旅僧三人の綿々たる語りに終始するものでした。



























/



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年1月23日日曜日

■クロマンタの麓に7つの沼が(動画)

地元の人に教えていただきました。

動画でお伝え
http://www.youtube.com/watch?v=ySGiZQLt1_w



グーグルアースが精密な画像を提供してくれます。
米代川添いのみですが。クロマンタは含まれています・・ありがたい!



















2011年1月17日月曜日

■ストーンサークル渦巻き

グーグルアースが地方までの精度アップしてきました。
大湯ストーンサークル、クロマンタの属する、米代川流域沿いが恩恵の被れます。

この図の作成方法

①グーグルアースをコピー・・・ウインドウズ(ビスタ&7)に付属しているスピニングツール(これは便利です、web上であれば何でもJPG(?)写真化できます)で切り取る。

②①をワードに挿入する(写真と同じ)

③ワード上で図形(今回は 丸)を描く、文字を入れる。

④再度、スピニングツールで取り込む。

⑤ブログに写真添付と同じ方法で下記のとおり。

どんな加工でもできますね!!これからいろいろと!!

2011年1月2日日曜日

■地中レーダーによる「遺構土は人工的」

地中レーダー調査の渡邊広勝氏のHPを改めて読みました。


ローム層での遺跡調査

1.データ表現の基本
地中探査レーダーデータ(以下データ)は、電波の地中での反射模様である。
この反射模様をパターンと称する。         1993-社・日本測量学会 Terra
これをすべて該当地の地盤状況により、調査目的を確認して分析する。
表現されるデータには、電波の地中での動きを示している。
この動きはデータ中に様々に表現される。
この中からパターンの特徴を求め反射範囲の特定、反射形態の特定をする場合が在る。
データの表現は、その土地の土質により異なり、また含水率により影響を受ける。
2.ローム層調査でのデータ
我が国の火山に隣接する表層堆積地盤の土質層は、通称ローム層(以下ローム土)である。
*電波の透過
地中探査レーダーでは、ローム土でデータに状況表現が良好に表される。その理由としては、土質の均質性が高いことにある。 また含水率も比較的安定していて、電波の透過に対して乱雑な伝播質でないことにある。
*自然生成黒色土(以下黒色土)の表現
ローム土は通常地盤では上部に黒色土がある。
ロームと、黒色土では電波の伝播速度が極めて異なる。
ロームと黒色土は、その生成過程で相互の境界を画一的な面で生成していることはまれであり、様々な要因により黒色土がローム内に浸透している。
電波の反射は、それぞれ物質の持つ電波の伝播速度の異なる境界で発生する。
室内実験のような人工的な積層では、黒色土とローム土の境界はデータに,明確に表現するため反射が発生するが、自然堆積でははっきりしていないため、データ上も境界を正確に示すことは出来ない。
*遺構土層の表現 (以下遺構土)
遺構土は主に黒色であるが、黒色土と異なる点は人工的に生成されていることであり、素材、密度なども黒色土とは異なる。 また形態も人工的に構築配置されていることである。
このため自然堆積土との間にはっきりとした境界線が出来る。
従ってこの相互間の境界では、電波の伝播に対し明快な時間差が発生する。
時間差は反射波の発生となる。反射波の発生は、データの表現体となる。
このように遺構土とローム土・黒色土との境界面は良好な反射面である。<
以上は電波のローム土内での反射の性質について示した。
ただすべての遺構土が反射を正確に示すとはいえない。
また、雑土がローム内に撹乱で混入すると、強い反射物となり状況によっては遺構と間違える場合もある。
以下特徴有る遺構土表現データを展示する。
*有機質土と無機質土
「有機質土と無機質土」の表現で、土中での電波の反射を区別することがある。
遺構土は有機質土で、ローム土は無機質土である。
この境は良好な反射面を作るため遺構調査には重要な表現である。
電波の伝播速度の違いによる反射波の発生は、土質や土地の環境経過、砂層、礫層などの粗粒子土層や粘土層、砂鉄層・人工地盤・地下構造物・廃棄物などおいても同様の反射が発生する。
調査地区によっては、地盤経年の情報収集に注意を要する。
3.ローム層における遺構
下図は、傾斜面部に形成された遺構で、図中左下写真は調査時のデータである。
下図2枚は平坦地での住居遺構である。層状部分が住居跡確認。縄文中期。

図1、図2は遺構構成地盤のデータである