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2014年7月6日日曜日

■逆説・田道将軍の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します


上毛野田道は大敗するが大蛇が仇を撃つ伝説を創作する

 第十六代目の仁徳天皇紀では、公認史においても、上毛野田道(かみつけぬのたじ)将軍は、朝貢しない新羅を攻撃し、潰走させるほどの名将であったが、「蝦夷」には敗北して戦死している。たしかに「蝦夷」は「勇猛で」「一をもって千にあたる」ような手ごわい存在であった。『日本書紀』仁徳紀は田道の敗北は認めざるをえないが、以下のように彼の墓から大蛇が出てきて、報復する物語りに仕立てあげられている。現人神(あらひとがみ)の皇軍が、連戦連敗では格好がつかないのである。
 「(仁徳)五十五年、蝦夷が叛いた。田道を遣わして、討伐させた。そのとき、蝦夷に敗れて、伊峙水門(いしのみと)で死んだ。そのとき、従者がいて、田道が手にまいていた玉を取り収め、その妻に届けた。そこで田道の妻はその玉を抱いて縊死(いし)してしまった。時の人は、これを聞いて泣き悲しんだ。その後、また蝦夷が襲ってきて、人民を略奪した。そのとき田道の墓を掘ると、大蛇がいて、目をいからして墓から出てきて咬(か)んだ。蝦夷は、ことごとく蛇の毒をうけて、多くの者が死んでしまった。ただ、一人か二人が、免れることができただけであった。そこで、時の人は、『田道は死んでしまったけれども、ついに (あた)に報いた。どうして死んだ人に知覚がないといえようか』と言った」
 「日之本東日流古事録 一」では上毛野田道将軍の征夷について、次のように展開されている。具体的な地名や派遣軍の数字も出てくるので『日之本文書』のほうが史実に近いだろう。
 「我が丑寅の国は、金銀銅鉄みな保有している。これが倭国に聞こえが高かったので、丑寅日本国を討って略取するべく征夷を起こしたのは、上毛野田道である。彼は三万の軍人を率いて船で塩釜に上陸し、伊津水門に攻めてきたが、日本将軍安倍安国がこれに応戦し、一日を経ずして討伐した。伊津水門とは、現在の伊豆沼あたりのことである。この時から倭人が秘密に入りそうな要所に関を設けたり、柵を造ったり、飼馬を軍に用いることも、山靼人の戦法で、騎馬軍が大いに活躍した」
 『日之本文書』にあるように、征夷軍は船で塩釜にまで至り、上陸して栗原郡の伊豆沼あたりまで侵攻するが、一日ももたずに討伐軍のほうが「討伐」されてしまう。エミシは散発的なゲリラ戦しか展開できない未開人ではなかった。むしろ荒覇吐国として高度な戦略戦術を有した強力な国家が存在し、彼らは山靼人の騎馬軍戦法を採用していたので、倭国の征夷軍をもってしても、歯が立たない存在であった。ただし、「日之本東日流古事録 一」の文章に出てくる「日本将軍安倍安国」は、もう少し後代の王なので、この部分の記述は誤りであろうと思われる。
 伊峙水門については、上総国夷隅(いすみ)郡か、陸奥国石巻(いしのまき)に比定される場合もある。『東日流外三郡誌』では泉の伊津水門とか、東日流の中山伊津水門(いしのみと)とか書かれているが、宮城県の塩釜から上陸して、伊治の伊津水門で討たれたとするのが妥当ではないか。
 このほかに「蝦夷征伐」に上毛野形名(かみつけぬかたな)、上毛野朝臣小足(かみつけぬのあそんおたり)など上毛野氏がしばしばし登場している。彼らは陸奥国司、陸奥守などとして、北関東(群馬県)を拠点に、大和朝廷による陸奥と越経営の先陣部隊の役割を果たしたのであろう。彼らもまた坂東エミシの末裔であったのか。
                 

■逆説・出羽の民族

日之本文書へリンク
秋田県に関することを抜き出します

出羽の民族

 「北鑑 第五十四巻 附書 一ノ二」
 「奥州に先住する民族があった。渡島のクリル族、東日流の阿蘇部族、宇曽利の津保化、陸羽の熟族(にぎぞく)、陸奥の麁族(あらぞく)である。いずれも国をして境を作らず、移住、定住、自在である。古(いにしえ)から山靼とも往来自由であり、異民の帰化も自在である。
 大王をオテナ、長老をエカシという。各地のコタンのエカシによって、大王が選ばれるが、世襲とはせず、エカシに選ばれなければ、退位した。このような政治は、山靼から渡来した帰化人によって律法されたという」

 「丑寅日本国古事抄」[語部録抄壹之巻]
 「歴史をさかのぼれば、丑寅の日本は、国を始める大王の一世を安日彦といい、耶馬台の落人として、東日流に落着した。安日彦を安日王と称し、負傷した弟の長髄彦を助けて、東日流に退却した。
 一族は大挙して奥州にたどり着き、後に長髄彦沢と呼ばれた沢に湧く温泉に湯治して、傷を癒した。この地は今に安日山(あっぴさん)と名付けられている。このようにして東日流という地には稲をもって暮らす民ありとして、この地に永住することを決めた。
 東日流に住む二族があって、それは阿蘇部族、津保化族と称し、その長老エカシは安日彦を奉じて、石塔山に日本国大王一世として、即位させることになった。
 この年、東晋の群公子一族が、東日流に漂着し、安日彦に救済された。以来、国を広め、陸州の麁族、羽州の熟族が、これに従い、坂東までも領域を広げ、富士山を領内に安倍川から越の糸魚川(いといがわ)に至る地域を日本国と称した。
 安日彦王は、領内の部族百八十五族を併せ、これを荒覇吐の民として信仰を統一せしめて、よく国治をまっとうしたという」




 出羽地方は荒覇吐王国の南分倉で重要な役割を果たしている。『總輯 東日流六郡誌 全』[王政処移宮之抄史]において、荒覇吐王国の高倉、分倉について述べている。
 「荒覇吐王国が高倉は、十個処に移れりという。東日流、荷薩丁、厨川、矢巾、閉伊、胆沢、東山、桃生、宮沢、来朝(くるま)である。ただし、この王政処所在地は、年代順ではなく、後代において、北に移ったものもあると伝わる。
 領域の東西南北に置かれた分倉も、高倉の移宮にしたがって、次のように移っている。西分倉は、怒志呂(ぬしろ)、土崎、大内、楢橋、大蔵、朝日、岩船、黒崎、加茂、怒足(ぬたり)である。東分倉は、宇曽利、糠部、久慈、宮古、釜石、大船、吉元、女川、多賀、四郎丸である。南分倉は、鹿角、払田、増田、村山、米沢、会津、白河、矢板、川越、藤枝である。北分倉は東日流、美唄(びばい)、松前、東日流上磯、厚岸、豊頃、江別、志海苔(しのり)、福島、東日流十三湊である。もっともこれも時代順ではないこと、高倉と同じである」

■逆説・坂上田村麻呂の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

京都・清水寺の田村神社

 『「日之本文書」とエミシ・アテルイの戦い』より
  
  坂上田村麻呂
 軍神にまで神格化された坂上田村麻呂

 倭国公認史である『日本後紀』では、坂上田村麻呂について、次のように祭り上げられている。
 「正四位上(坂上)犬養の孫、従三位(坂上)苅田麻呂(かりたまろ)の子である。その先の阿智使主(あちのおみ)は、後漢の霊帝の曾孫である。田村麻呂は赤面黄鬚(おうしゅ 黄色のひげ)、勇力は人を超え、将帥の器である。桓武帝はこれを壮として延暦二十三(八〇四)年、征夷大将軍に召す」
 田村麻呂は、倭国では国家的歴史的英雄であり、征夷大将軍の代名詞となり、軍神として神社にも祀られ、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身とまで言われる。延暦十六(七九七)年には「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼陸奥守鎮守将軍」という長ったらしい肩書が付くようになる。伝記によれば「怒って眼(まなこ)を巡らせば、猛獣もたちまち倒れ、笑って眉を緩めれば、子供もすぐになつく」などと文字どおり伝説的に描かれている。彼の先祖をさらに逆上っていけば、スキタイ・サカ族の渡来人にまで至るだろう。「赤面黄鬚」はそこからくるだろう。スキタイ・サカ族とは、中央アジアに発生した騎馬民族であるが、イスラエル系などの血脈や文化が浸透している。
 しかし、『日之本文書』の田村麻呂への評価はこれとは正反対である。「奥州隠誌大要」[奥州殲隠史抄]は、田村麻呂について、次のように述べている。
 「坂上田村麻呂と父親の刈田麻呂の父子は、漢の霊帝の後裔といって自画自賛をたくましくして、大和朝廷を威圧するのはしたたかである。また、倭朝に和睦策を受け入れさせ、奥州に和平の官人を入れたのも、狙うのは産金貢馬のみの利益を得るがための手段である」
 坂上田村麻呂が「征夷大将軍」を名乗ってから、日本の最高権力者は、一時期の中断はあったものの、征夷事業が中止された後も、江戸時代まで約一千年間もこの称号を誇らしげに使った。単に軍事の最高権力者であるだけでなく、政治の最高権力者でもあり、征夷大将軍府は天皇府との二重権力の一方を担っていた。いかに「蝦夷征伐」が大和朝廷にとって、重要な事業であったかがわかるだろう。しかし、『日之本文書』も主張しているように、征夷大将軍の肩書を背負っていても、征夷に勝利した将軍は一人もいないのが実態なのだ。

 桓武王朝は百済王族の亡命政権でもあった

 いわゆる「蝦夷征伐」を敢行した桓武天皇とは何者か。彼の父親、光仁天皇(白壁王)は百済亡命貴族、百済王文鏡であり、母親の高野新笠(たかのにいがさ)も百済王の武寧王(ぶねいおう)の血を引いている。桓武天皇は純粋な百済人であり、純粋な渡来人である。桓武は父親である光仁天皇が死んだときに「天皇哀号」、つまり「天皇がアイゴーといって悲しんだ」と『続日本紀』にも記されてある。彼は百済の言葉、母国語で泣いたのである。
 桓武王朝は、百済王族と藤原氏(スキタイ・サカ族が主流)によって要職を占められ、そのバックの後見人として秦氏が控えていた。百済王族は、白村江(はくそんこう)の戦いに敗北し、日本に亡命したが、新羅系王朝で冷遇され、百済系の桓武王朝になってようやく厚遇されるようになった。百済亡命貴族の主な者を挙げてみよう。武鏡が敬福の子供であり、俊哲が孫であり、教俊がひ孫といった具合に、桓武王朝の主要なポストが、一族郎党によって固められていた(括弧内は主な役職)。
 百済王敬福(陸奥守、常陸守、宮内卿、外衛大将)
 百済王文鏡(内舎人、出羽守、光仁天皇)
 百済王武鏡(主計頭、出羽守、周防守)
 百済王俊哲(陸奥鎮守将軍、下野守)
 百済王教徳(上総守、宮内大輔、刑部卿)
 百済王英孫(陸奥鎮守権副将軍、出羽守)
 これをみれば、百済の王族が、陸奥や出羽の「蝦夷征伐」「陸奥経営」の最前線に立ったことになる。そして文鏡のごときは光仁天皇に成り上がっているのである。それぞれ従五位上とか従五位下とかの位が与えられている。

 桓武征夷の目的は百済王族のための土地と金属の略奪と軍馬の無力化

 大和朝廷はなぜ、「蝦夷征伐」を敢行したのか。その理由はひとつではない。大きなものは、以下の五つである。
 第一の理由は、五百年以上にもわたって、日本列島の支配権をめぐって死闘を繰り広げてきた日高見国(荒覇吐国)を打倒し、倭国の安定した支配権を獲得することである。日高見国は、列島の先住民、耶馬台族、荒覇吐一族、物部一族、新羅系亡命者などからなる強力な連合国家であり、渡来系の豪族連合国家としての倭国にとっては、九州王朝と並び最大のライバルであった。
 第二の理由は「渡来人」という名の「亡命貴族」「亡命王族」のために土地、奴隷を獲得することである。白村江の戦いに破れた百済王族、貴族は、念願の光仁、桓武の百済王朝ができると、彼らは国家の全面的バッグアップを受けて新天地をめざした。日高見国の北上川流域は「水陸万頃」、水田稲作に適した広大な土地が広がっていた。
 第三の理由は、武器や農具や工具としての鉄の生産地を抑えることである。鉱山資源、製鉄技術、鉱山労働力の確保を狙ったのである。日高見国は日本でも有数の鉄の生産地であった。荒覇吐一族は大和朝廷経由ではなく、古くから独自の、北方経由の、南海シルクロード経由の製鉄技術を習熟していた。
 第四の理由は、権力や富の象徴としての金の産地を押さえることである。八世紀に入って、大和朝廷は陸奥の黄金に注目しはじめた。北上川流域の栗原、和賀などの砂金である。朝廷は貢金を調庸の中に組み込み、献納させた。産金、冶金の業にも渡来人が進出した。
 第五の理由は、戦闘用、農耕用の馬の無力化である。ここでは軍馬の重要性について詳述しておこう。馬も鉄同様、エミシの武器になった。エミシは馬上から、片手で使用できる蕨手刀を巧みに操り、朝廷軍と互角以上に戦った。陸奥国は「馬飼の国」ともいわれ、広く馬の放牧がなされていた。その馬はユーラシア大陸の騎馬民族国家である靺鞨(まっかつ)国などから取り寄せたものが多かっただろう。
 『東日流外三郡誌 第四巻』[靺鞨国往来]では「靺鞨国の酋長が東日流に馬を積んで交易した。東日流の海辺の広野は、馬また馬に増殖した」と述べられている。前述のように阿弖流為、母礼は山靼地方の靺鞨族の出身の可能性がある。
 大和朝廷による「蝦夷征伐」が本格化すれば、馬は朝廷側、エミシ側双方とも軍馬としての重要性も出てくる。馬が抵抗する「麁蝦夷(あらえみし)」に渡れば、朝廷側にとって脅威となる。
 『続日本後記』は「弓馬の戦闘となると、これは蝦夷にとっては生まれつきの戦法であって、攻める内民たちは十人をもってしても、蝦夷の一人に勝つことができない」と認めている。
 『日本後紀』では「軍事用として馬は一番重要である。にもかかわらず安易に取引されて、価格が高騰し、混乱が続いている。強壮の馬は取引を禁止し、警護に備えよ」という禁令が布告されている。

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田村麻呂は武力では制圧できずに謀略を仕掛ける

 「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。「江刺の翁(おきな)、物部但馬(たじま)という人物から聞き書きしたものである」という寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
 「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
 大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
 日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか。よって率いてきた者が宿泊する柵の造営を許可願いたい、と多賀城、玉造柵、伊治城、雄勝(おがち)柵、胆沢(いさわ)柵、徳丹(とくたん)柵、払田柵、秋田城跡に市場を築くことを請うた。
 ときに阿弖流為はひとり合点(がてん)がいかず、日本将軍の安倍安堯(やすあき)に申したところ、市場ならばとして、濠がなく、柵がないように築くという条件を約束して許可を得た。しかるに阿弖流為が一見要塞としか見えない市場造りに不審をいだいて、これぞ倭朝の議に偽りがないかと田村麻呂に何度か問うたが、田村麻呂は曰く、我も倭の大王に言わしめれば蝦夷なり、何事あって丑寅日本を憎むだろうか、とその都度答えた」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
 『總輯 東日流六郡誌 全』[田村麻呂奥州経略]においても、田村麻呂が蝦夷征略の一切を任せられ、武器を持たない民団を派遣し、日之本将軍安倍安東から日高見国での駐在を許され、各地に神社仏閣、城柵を建設した。これに阿弖流為、母礼が「戦いなき心の侵略」「日高見はみな倭のようになってしまう」と疑念をもち、それを安倍将軍に告訴したが、聞き入れられなかったとしている。
 延暦年間には安倍安国、安東、国治(東)、安堯らの日之本将軍の名が『日之本文書』に出てくるが、安倍一族の年譜と照らし合わせると時代的なズレが見られ、その存在自体が希薄に感じられる。田村麻呂と直接対峙していないためか、日之本将軍による彼に対する警戒心が乏しかったように感じられる。大和朝廷による攻勢によって、荒覇吐国家と日之本将軍の統率力が弱まったようにも感じられる。日之本将軍の田村麻呂に対する警戒心が足りなかったことが、大きな悲劇を生み出すことになったのである。

2014年7月4日金曜日

❏逆説・阿倍比羅夫東征の真実

日之本クリルタイ運動さんから引用
秋田県に関することを抜き出します

斉明征夷と秋田エミシ

 斉明征夷軍の将軍安倍比羅夫は安倍一族の出身であった

『東日流外三郡誌 第二巻』に真実を聞いてみよう。「元禄十年正月二日 藤井伊予」の署名のある[安東一族抄]はいう。この短文に倭国史が語らない興味深い史実が少なからず含まれている。
 「孝元帝の流胤(りゅういん 子孫)である安倍比羅夫は、朝廷から奥州東日流の蝦夷討伐の勅を奉じてきたものの、もとより比羅夫は荒覇吐一族に系ずるものなので、戦いをもってなさず、和をもって親交しようとしたことは歴史にいささか残っている。
 荒覇吐族の五王もまた、比羅夫に習って姓を安倍と号して、ここに安倍安国を姓の創めとした。                        
 すなわち、東日流から政処を閉伊に移してから、荒覇吐族の政治的な統一が成り難く、東日流の馬武(うまたけ)、宇曽利の青蒜(あおひる)、飽田の柿美、都母の宇佐、爾薩体(にさたい)の阿羅、閉伊の安邦らの荒覇吐五王の掟を破るものが出て、奥州一統の権は安倍安国が陣頭に、奥州一統の治司を布告して、従わない者は討伐した。
 安倍安国がまず兵を備えることを第一義として、軍馬となるべき種馬を靺鞨(まっかつ)から入手せしめて、祖来の騎馬軍を指揮せしめ、日下(ひのもと)将軍として奥州に大君臨した」
 この文章で、安倍比羅夫が荒覇吐系の一族であること、なぜ、荒覇吐族が安倍の姓を名乗ることになったのか、荒覇吐一族にも内部対立があったこと、荒覇吐族が軍馬を靺鞨から入手していたことなどが認識できる。靺鞨というのは、中国北東部に住むツングース系の騎馬民族で、粛慎と人種的にも、文化的にも、居住地域も重なる部分がある。
 『日本書紀』では征夷軍が、蝦夷に禄物と冠位と領土を与え、饗応して、戦闘を交えずに、荒覇吐軍を屈服させたことになっている。そして、朝廷の政庁を作って、役人を任命し、帰国している。つまり、征夷軍の遠征は成功裏に終わったことになっている。しかし、……。

 斉明天皇と安倍比羅夫による懐柔策も失敗
 
 前記の『日本書紀』の記述と『日之本文書』の記述を比較してみよう。まったく正反対のことが書かれてある。『東日流外三郡誌』には、荒覇吐族が手を変え、品を変えのさまざまな懐柔策にもだまされず、いかにして斉明天皇が派遣した安倍比羅夫の征夷軍を撃退したかを事細かく、より具体的に描かれている。『東日流外三郡誌』[東日流国古今抄]から。
 「斉明帝元年、難波の倭王宮に柵養荒覇吐族郡司九人、東日流荒覇吐族長老六人が招かれ、騎馬軍人六百人を従えて談義する。
 しかるに荒覇吐の居住地において、五王の制を異土の習として改め、彼らが倭国王の習に従うべきと言われたが、即答はせずに、比羅夫を赴かせて証明すべしということになり、冠二階を与えて帰した。
 同帝四年に比羅夫は船百八十艘を率いて東日流に赴き、荒覇吐族との体面を求めたが、倭国王に帰属するという答を得られず、空しく有浜に布陣し、いざ荒覇吐族討伐に兵を挙動しようとしたが、荒覇吐族はこれを察し、陸と海から安倍軍団を囲んで、あわや惨事の兆を起こした。
 時に比羅夫は、その討伐の準備を鹿狩とあわてて取り繕いはじめて、兵は弓楯を踊り用に変えて、大円形に後方の原野を踊り詰め、人垣に囲まれた獣、すなわち鹿二十匹、兎六十八匹、狐七匹、狸二十八匹、熊三匹、野生馬十七匹、山鳥三十一羽の狩をなして、荒覇吐族の蜂起をかわした。よってそのまま大饗を催して、獲物を供しながら、唄い踊ったという。
 このようにして危うく難を逃れたが、荒覇吐族を倭国へ従属させるという目的を果たすことができず、比羅夫は軍船に荒覇吐族と取引した北の海産物をもって、彼らの貢と称して退却し、朝廷の宮人に対して、取り繕った。
 比羅夫の一行は、このような失敗、失政をさらに取り繕ろうために、その翌年、軍船二百艘をもって荒覇吐族を再び討とうして、強くて勇気のありそうな者をそろえて来襲したが、東日流に討伐を避けて、粛慎へ遠征して帰ったという」
 比羅夫が作ったとされる政所については『東日流外三郡誌 第一巻』[安倍一族暦録]は「荒覇吐一族の長に安倍の姓を授け、ここに和交が成立して、東日流有間浦の恵留間崎に司津を置いて、阿部津刈丸にその任を与えたが、これは名前だけで、一族の暮らしに変わったことはなにもない」とこきおろしている。彼らの懐柔策は失敗に帰しているのである。

 安倍比羅夫の征夷を跳ね返した族長たちは荒覇吐王になっている

 面白いことに『日之本文書』には、『日本書紀』などにも出てくる荒覇吐一族の側の人物名も特定できるもの幾つかあるのである。『東日流外三郡誌 補巻』の[安倍大系譜控]という文書には、以下の王の代、王名、国名、君臨地、生地まで記載されている。
        代      王名             国名             君臨地               生地
 二百十一祖 青比留(青蒜) 稗抜(稗貫)      飽田         黒盛
 二百十二祖 青荷(恩荷)  宇曽利       皮内(下北川内)   錦渓
 二百十三祖 馬武      東日流       有澗         大里
 二百十九祖 安倍安国    来朝(くるま 宮城)多賀         衣川
 四人の代が集中しているので、同時代に活躍した人物とみてよいだろう。『東日流外三郡誌』にも『日本書紀』にも東日流の馬武、飽田の恩荷と記述されていたが、君臨地、生地もほぼ一致している。既述のように[安東一族抄]に「安倍安国を姓の創めとした」とあるように、安倍安国は第二百十九代の荒覇吐王で[安倍一族之事正伝大系譜]では飽田高清水主の安国日高見丸、[安倍大系譜控]では安倍安国と安倍姓をはじめて名乗っていることがわかり、衣川で君臨している大王である。
 前述のように『東日流外三郡誌 第一巻』[日下抄]では「荒覇吐族の勇者津刈丸の従臣、馬武、青蒜らの戦功が大なり」と描かれているが、おそらく津刈丸は荒覇吐五王の一人、馬武、青蒜は、この時には津刈丸の従臣(青蒜は県主)であったかもしれないが、後には彼らも荒覇吐王になっていたのである。いずれにしろ、安倍比羅夫の征夷に対して、荒覇吐国全体で対抗したと考えられる。
 『日本書紀』は「蝦夷に冠位や物品を与え、饗応したら蝦夷は屈従した」というような書き方をしているが、朝廷側の勝手な創作であるにすぎない。与えたとされる冠位の大乙上は大化五年に制定された位の中で下位のもので、小乙下にいたっては最下位のものである。これで誇り高い荒覇吐族が納得したとは到底思えない。

 海戦での多様な荒覇吐族の戦術で安倍比羅夫軍を撃退

 荒覇吐族の戦術は多様を極め、たとえば『東日流外三郡誌 第一巻』[東日流外三郡誌抜抄篇 第一」では、秋田の「地湧(じわき)の油」、つまり石油を燃やして上陸を阻んだり、ハタ舟という小舟を操って軍船を囲み、火箭を海に放なって軍船を炎上させる模様が生き生きと描かれている。『東日流六郡誌絵巻』では、比羅夫軍と荒覇吐軍の海戦については、次のように述べている。
 「顕慶(唐の高宗時代の年号)戊午(つちのえうま)三(六五八)年(斉明四年)、阿倍比羅夫は、越において軍船百八十艘を造り、奥州沿海を侵領略奪し、東日流の吹浦に上陸しようとしたが、浜辺に黒煙が昇るとすぐに海上に炎が上がり、比羅夫の軍船百艘に燃え移った。海を燃やしたのは地に湧く油であり、荒覇吐族の武器である戦意を失った比羅夫は降(くだ)って飽田(秋田)の県主(あがたぬし)の青蒜に貢(みつぎ)し、帰遁した。
 翌年、比羅夫は再び戦いの準備を整えて、東日流外浜に来襲した。このとき宇曽利の波舵(ハタ)、都母(つも)の波舵が、木葉のごとくかの大船に戦いをいどみ、油火弾弓によって炎弾を撃ち射れば、阿倍の軍船は移り火を消している間に、舵を荒覇吐族に破られて、迷走しながら沈没した。
 比羅夫が再び降るときに、東日流の馬武、宇曽利の青荷、粛慎の役舎因(やくしゃいん)らが、比羅夫を赦免にするか、死罪にするかを談義した。赦免にすると決定したので、残った船二十艘に詰め乗せて放逐した」
 これらの『日之本文書』を読めば、荒覇吐族は、東日流の馬武、宇曽利の青荷、飽田の青蒜が共闘し、さらには大陸の粛慎、渡島のアイヌとも連携していたのである。また、飽田の石油、宇曽利(恐山)の硫黄も武器に使い、宇曽利と都母の荒吐船の波舵(ハタ)を動員している。すなわち荒覇吐一族の抵抗は、荒覇吐国家の総力戦に近いもので、とても倭国の征夷軍が勝利できるようなものではなかった。荒覇吐族は同族に免じて、比羅夫を赦免したのであろう。