年縞による海面高さの図 | 歴 史 年 表 |
このブログは「壁を突き抜ける生き方」をする人だけが共鳴できるものです。 北東北の不思議な地域、クロマンタ、大湯ストーンサークルを中心とする縄文文化の真実を探究する研究会です。 ■右側のラベル分類からもお入りください。 ◆スライドショーはクロマンタのゼロ磁場調査の様子!!
2009年8月27日木曜日
2009年8月26日水曜日
04010■秋田杉の森は3500年前から
「秋田杉の森が形成されたのは3500年前から」
「1000年前には男鹿で大開墾が行われた」—。
男鹿市北浦の一ノ目潟のたい積物を調べる年縞(ねんこう)調査を行っている国際日本文化研究センター(京都)の安田喜憲教授(61)が14日、県庁で年縞分析の中間報告を行い、これまで解明されていなかった気候や森林環境の変動、新たな歴史観などを明らかにした。2006年11月に行った湖底のボーリング調査で、安田教授ら研究チームは37メートルのたい積物を採取。世界でも類を見ないほど美しいしま模様が1年ごとに刻まれており、安田教授は「過去3万年の歴史を年単位で記録した『地球のDNA』であることが判明した」と発表した。
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秋田、大雪で古墳造れず? 男鹿・一ノ目潟の地層分析
国際日本文化研究センター(京都府)の安田喜憲教授の研究グループは14日、男鹿市の一ノ目潟で行った年縞(ねんこう)の発掘、分析調査の中間報告を発表した。
古墳時代(3世紀末―7世紀)の秋田県は冷涼多湿な気候で、現在の約1.5倍の降雪量があったとみられ、大雪のため古墳文化が根付かなかった可能性があると指摘した。
一ノ目潟の湖底で、2006年に深さ37メートルから採取した堆積(たいせき)物は、過去3万年分の年縞と分かった。安田教授らは堆積物に含まれるスギやマツなど、178種類の花粉量や有機物量を調べ、約1年かけ最上部の5メートル、過去4800年分を分析した。
古墳時代の花粉量から、当時の年平均気温が現在より3度前後低く、冬の降水量が400ミリ多いことが判明。安田教授は「秋田県に古墳が少ないのは、古墳が造れないほど大雪が降っていたからではないか」と解説した。
現在、県内各地に自生する秋田スギは、3500年前に花粉量が急増した。世界的に気候が寒冷化した時期で、県内が冷涼湿潤化したことに伴い、秋田スギが一気に拡大したとみられる。
平安時代末期の1000―1150年ごろ、秋田スギやブナの花粉量は激減した。わずか20年程度でスギは8割減少し、ブナは9割減ったとみられ、当時、大規模な森林伐採が行われた可能性が高まった。
安田教授は「前九年の役、後三年の役と時期が重なるが、当時の地方豪族は野山を積極的に開墾し、勢いがあったと推測できる。豊かさゆえ、豪族の争いも絶えなかったのでは」と指摘した。
一ノ目潟は河川の流入が少ないため、全国でも例のない良質、鮮明な年縞が発掘されている。
[年縞]湖沼の堆積物が形成した白と黒のしま模様の地層。春から夏にかけ、湖沼底にたまる植物性プランクトンが白い層を作り、秋から冬にかけて粘土鉱物などが黒い層を作る。1年ごとにしま模様を描くため、年単位で気候変動など自然環境の変遷が分かる。
2008年03月14日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/03/20080315t45027.htm
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04009■寒冷期には人間が順応
文明が誕生・発展するのは寒冷期 人間は寒い気候に適応している
――気候変動によって、過去の歴史が変わった実例はあるのでしょうか。
安田: 人類の文明が誕生するのは、常に寒冷期なんですよ。
例えば、1万5000年前に起きた温暖期から寒冷期への移行によって、人類は絶滅の危機を迎えました。それを乗り切るために発明されたのが、農耕です。
5700年前の都市文明が生まれたのは、「ヒプシサーマル」後の寒冷期ですし、
一神教が生まれたのは3200年前の寒冷期、
そして現在の人類の文明を支えている科学革命は17世紀の小氷期に起きています。
―なぜ寒冷化で文明が発達するのですか?
安田: 一言でいえば、寒冷化はゆっくり進行するから、人類は対応できるんですね。
例えば、現在に至る直前の氷期、具体的には一番気温が低かったのは約2万年前ですが、当時の気温は今よりも7度も低かったのです。その氷期において、最初に冷え始めたのは11万5000年前ですから、8万年以上かけてゆっくり冷えてきたことになる。これが大きなポイントなのです。
地球の気候は、氷期約8万年と間氷期(温暖期)約2万年を10万年単位で繰り返しています。人類が誕生してから現在に至るまでの約20万年のうち、17万年は氷期でした。つまり人類は、寒い気候に適応しているのです。
中世の温暖期は今よりも1.5度ほど、縄文時代の温暖期は2度ほど平均気温が高かった。このくらいの温度上昇には、人類はなんとか対応してきた。
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01414■ケフの狭布・・・広辞苑、ホツマ
ケフ
- 【狭布】ケフ -広辞苑より-
古代、陸奥国から調進された、幅の狭い布。 和歌に「狭布の細布」の如くよまれ、その「狭布」は地名として受け取られている。
ケフノホソヌノ
ケフの細布。雄鶴の羽根(24筋)を縦糸に雌鶴の羽根(24筋)を横糸に織った細い布。 四十八備わりハタレマの障りを除く。 腹帯(日立帯・五腑帯)に使う。 トヨケがカツラギ山の世嗣社に祈った時に、丹イトリの羽が落ちてきたことに始まる。
【狭布の細布】ケフノホソヌノ -広辞苑より-
歌語として「今日」「胸合はず」「逢はず」などに懸けて用いられる。きょうのさぬの。きょうのせばぬの。
後拾遺恋「錦木は立てながらこそ朽ちにけれ―胸あはじとや」
ホツマ
『羽根を 撚り正し 雄鶴を経に 雌を緯に ケフの細布 織り以つて 四十八備わる 御腹帯』16紋
『天より授く ケフの帯 天に則りて 父の丈 比ぶる帯に 母の息 ヒタチとなるは イタクなり 天よりイタキ 地に編みて 連なり育つ 子の例し 父の恵みは 頂く天 母の慈し 載する埴』16紋
『後にカトリの宮にゆき 語りて共に ヒタカミに告ぐれば君も 喜びてケフの細布 織らしむる』16紋
(ホツマで解明・・・重要な神器の腹帯=岩田帯のことでした)
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ケフノオビ
ケフの帯。
ケフの細布で作った妊婦帯。 夫の背丈の長さに作る。
=タマキネの教えの帯=孕みの帯=ケフの帯=ヰワタ帯=ヒタチ帯=サツサ腹帯。
(ホツマで解明・・・重要な神器の腹帯=岩田帯のことでした)
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2009年8月25日火曜日
01106■ピラミッドの螺旋・内部トンネル説
テレビで納得の内部トンネル説を見ました。やっぱり「らせん構造」ですね、しかもトンネルとは!!
エジプト考古学博物館に保管されている王のミイラ。それが保管されたとされるピラミッド。その建築の謎に迫る建築家のウーダンさん。トンネルがめぐらされていたと仮説をたてているがその実証状況を取材。
ナイル川流域に栄えた世界最古の文明のひとつ。誕生以来3000年に渡って栄えた。そのうち3つ栄えた時期がある。
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エジプトの首都カイロ。ギザの3大ピラミッドへの基地。今回放送は40階だてビルの高さに相当する最大のクフ王のピラミッドを取材。東西南北を正確に刻む4辺からなる。
大回廊は高さ8m。7cmずつ内側にせり出す特殊な構造。そして突き当たると石棺のある部屋王の間。花崗岩の天井など重いものをどう持ち上げたのか謎が多い。
4600年前に作られたとわかっている。労働者たちが暮らした町の発掘も進んでいる。4000人が20年で作り上げたという。
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謎1、300万個もの石をどうやって運び上げたのか。
石灰岩で作られており、2.5tの重さの石でできている。2分に1個の割合で積み上げたことになる。
謎2、王の間の天井は5層構造。6m以上の花崗岩。60tもの重さのものもある。どのようにして重い石を運び上げたのか。
ジャン・ピエール・ウーダンさん。フランスの建築家。建築家なので「どうやって作ったか」にテーマを置いた。
まずは今までの方式の検証
①直線傾斜路方式説・・・頂上に達する頃には1.6kmにも達する。そうなると傾斜路作りにも大量の石や土が必要。また石切り場からの切り出しは青銅のノミを作って切り出すが、1.6kmだとわざわざ迂回してその先まで運ばなければならない。
②周囲螺旋傾斜方式・・・細い傾斜路で作業をすれば、灼熱の地で常に緊張感を保つ作業になる。また稜線が見えなくなるため、きれいな四角錘になりにくい。
そこでウーダンさんはピラミッドに残る線と、4隅の不思議な窪みをきっかけに、内部トンネル説を考え出した。
らせん状にトンネルが掘られ、ソリで効率的に積み上げられ、一定の高さになるとトンネルを伸ばす。トンネル工事の石も使用できる。
内部トンネルの総延長は1.4kmにもおよび、今もトンネル内に眠っているという。
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崩れたピラミッドに調査に向かったウーダンさんとボブ・ブライアー博士。ピラミッド建造と同じ時代に内部トンネルを作る技術があったことが証明された。
ウーダンさんは次ぎにパリに向かった。今までの調査結果を閲覧するためだ。重力計による調査も行なわれており、ビュイ博士の調査でらせん状の空洞があることがわかっていた。科学的な予測を加えるとウーダンさんの話による推理と一致する内部トンネルの存在が示唆された。
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もうひとつの謎、60トンの石をどうやって上げたのか。
高さ60mくらいの位置にある王の間の天井。60トンだと600人が引くだけの力だいる。しかし回廊にはそのような広さも無い。
ウーダンさんは「大回廊」に着目した。何らかの儀式につかわれたのではといった推理がされているが、ウーダンさんは・勾配が急であること。・擦ったような傷があること。これらからウーダンさんは大回廊に台車が走っていたのではないかと考えた。
ウーダンさんはエッフェル塔のつりあい錘台車による観光客のエレベータ搬送にヒントを得た。
巨大な石を台車と労働者の力で、エレベータのように石を持ち上げたと考えた。
この仮説の検証に、ブライアー博士を呼んで、すべりをよくするために潤滑油を注いだ部分が黒いシミになっているのではということ。
それと大回廊に整然と並ぶ不思議な溝。この溝が台車のスピードを制御するために作られたものではないかという。
この説に残された課題は「強度」、綱ロープや木枠(レバノン杉)が石の重さに耐えられるのか。傾斜が耐えられるのか。コンピュター技師のリシャエル・ブライトナー氏が、検証を繰り返す。その結果、ロープも木枠も十分耐えられること、さらに労働者も600人も不要で185人程度で済む事もわかった。
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ウーダンさんの説を強く後押しする事実が、4隅の窪み。
ブライアー博士とともに窪みの調査に乗り出す。1時間半かけて登って窪みに到着。そこは平らな空間が広がり、この場所が内部トンネルが交差する場所ではないかと考えた。石を積んできたものを方向転換する場所だ。
ブライアーさんはさらにその奥に高さ2.5m、横幅3mほどの空洞が続いていた。そのさらに奥に溝があった。
ウーダンさん「トンネルが見えなかったのは古代エジプトの人が入り口を塞いだからではないか。」
01413■ケフの狭布資料各種
749年の産金以来、砂金は陸奥国を代表する特産物であった。
令制が施行されたとき、それまで布であった陸奥国の調庸(律令制度下での租税制度)は、多賀城以北が金、以南が布とされた(寺崎1983)。
『延喜式』の交易雑物にも砂金三百五十両が見える。
そして、十世紀半ばまでには、百姓に調庸として課していた狭布を財源として、それを徭丁(ようてい)に支給して砂金を採掘させていたこと、鎮守府が国府から請け負って調達していたこと、年料化されていたことなどが明らかにされている(熊谷 1994)。
2、101 狭布とは
参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
「倭訓栞 前編九計」けふ 狭布をけふといふは音を略す、けふのほそぬのといふは文選読の如し、
御拾遺集に、 けふのほそぬのむねあはじとやと見えたり、けふのせばぬのともいふとぞ、
津軽のあた りには、田を種る服に製す、たくりぬのといふともいへり、弘仁元年(810)の官符に、 応陸奥国浮浪人准土人輸狭布事と見えたり、
会津風土記に、細布出伊北郷と見ゆ、今布 の名にいほうあり、是なり 「袖中抄 十八」けふのほそぬの みちのくのけふのほそぬのほとせばみむねあひがたき恋もするかな
顕昭云、けふのほそぬのとは、みちのおくにいてくるせばきぬのなり、せばければ狭 布とかきて、やがて声にけふとよみて、訓にほそぬのとよむ也、その声訓をあはせてけ ふのほそぬのと云也、さればむねあはぬよしをよむなり、やがてけふのせばぬのともよ めり いたふみやけふのせばぬのはつはつに あひ見てもなほあかぬけさかな うのはなのさけるかきねはをとめごが たがためさらすけふのぬのぞも
「類聚三代格八」太政官符 陸奥国浮浪人准土人輸狭布事 右当道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使
藤原朝臣緒嗣奏状称、陸奥守従五位上勲七等 佐伯宿禰清峯等申云、件浮浪人共欸云、土人調庸全輸狭布、
至浪人特進広布、織作之労 難易不同、斉民之貢彼此為異、望請一准土人同進狭布者、国司検察、所申有実
但黒川 以北奥郡浮浪人、元来不在差科之限者、臣商量、此国地広人稀、辺冦惟防、不務懐柔、 何備非常、
望令依件送者、右大臣宣称、奉勅依請 大同五年(810)二月廿三日 「延喜式 二十四主計」
凡諸国輸調、(中略)狭布二丁成端、長三丈七尺、広一尺八寸、(中略) 陸奥国(註略) 調、広布廿
三端、自余輸狭布米穀、 庸、広布十端、自余輸狭布米 出羽国(中略) 調庸 輸狭布米穀、(中略) 越後国
(中略) 庸、白木韓櫃十合、自余輸狭布鮭 「吾妻鏡 九」文治五年(1189)九月十七日甲戌、寺塔已
下注文曰、衆徒注申之(中略 ) 一毛越寺事(中略) 此本尊造立間、基衡(藤原)乞仕度於仏師運
慶、運慶注出上中下之三品、基衡令領状 中品、運功於仏師所謂(中略)希婦細布キフノホソヌノ二千端、(中略)
此外副山海珍物也
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03021■エミシとエゾとアイヌ
1、蝦夷・エミシ・エゾ・・読みかた
蝦夷という語はふつう「エゾ」と読むが、古代にはまだ「エゾ」という読みはなく、蝦夷と書いて「エミシ」と読んだ。「エゾ」とう読みの出現は平安時代後期である。
「エミシ」という語のもともとの意味は、大和の人々にとって、自分たちの勢力に服していない東方の人々のことであった(西方に人々については熊襲や隼人という語があった)。つまり東方の「まつろわぬ人」ということである。したがって、日本古代国家の領域の変化とともに、「エミシ」とされた人々にも変化があった。
2、エミシの時代変動
①5世紀以前
最も早い段階でエミシとみなされたのは、主として東日本の住民であった。この段階の「エミシ」は時に大和の勢力と戦うこともあった東国人をひろく意味していた。
・「エミシ」には、強い人たち、恐るべき人々、故にいささか敬意をはらうべき人たち。「毛人」と書いた。
②6世紀~7世紀前半
大和勢力と地方との関係は支配する者とされる者という関係に変わる。
③7世紀後半
日本海側では信濃川・阿賀野川の河口以南、太平洋側では阿武隈川河口以南が国造制によった。
したがって、国造制の範囲外の人々が「エミシ」と呼ばれた。周竜は仙台平野など東北地方中部。
④大化の改新から平安時代初期
国郡制が施行。陸奥国と出羽国が置かれた。盛岡市と秋田市を結ぶ線以南に、多賀城、胆沢城、秋田城が造営され、政府軍の大軍が組織され、蝦夷の軍との戦いが行われた。
普通に、古代の蝦夷(エミシ)という場合は、この段階及び次の段階のことである。
⑤平安初期から平安末期(平泉・藤原時代)
秋田市と盛岡市のライン以北が蝦夷の地域である状態は同じく続いた。
この段階での蝦夷(エミシ)は、秋田市と盛岡市を結ぶライン以北の本州及び北海道の住民である。
政府の直接支配の外の住民という「エミシ」の語義は失われていない。が異文化の担い手である北方の異族という側面が強くでてきた。
この段階の末期に「蝦夷」の読みが「エミシ」から「エゾ」に変化し、後には「エゾ」は北海道の住民をさす語として定着するが、初期の「エゾ」には東北北部の住民も含まれており、むしろ「エゾ」の主体は東北北部と道南の住民であった。
3、大和朝廷の支配は稲作農耕民だけ
ただし朝廷は、稲作農耕民集団が主体でない地域を支配する術を知らなかったし、律令制、王朝国家でもなお、非水田稲作民を主体とする地域をも支配機構に組み入れることができる国家形態は想定外であった。
平安時代末まで、東北北部が制度的には朝廷の直轄支配の外にある蝦夷(エミシ)の世界であったのも、鎌倉時代以降も北海道が幕府の直轄支配地ではない「蝦夷地(エゾ)」であったのも同じ理由である。
しかし、稲作農耕民集団が主体ではない、または稲作を行わない蝦夷の世界にも、縄文文化を受け継いだ、安定した生活を営むことができる豊かさがあった。そして各地域には、交易品としての価値が高い、地域の特産物があった。東北北部の砂金・馬はいうまでもなく、北海道を含む地域の昆布・アシカや
オットセイなどの海獣の皮、熊野毛皮や胆嚢、鷲やタカ、テンなどの毛皮獣などである。蝦夷の世界は、これらの交易品を媒介に、日本史だけではなく、世界史の上に姿をあらわすのである。
4、東北とアイヌ
北海道のアイヌ語による地名と同じタイプの地名が東北北部に多く存在する点については、
考古学上からいえば、北海道における縄文文化の時代からアイヌ文化の段階までの、文化の変遷には断絶がなく、アイヌ民族の主流は北海道縄文人の子孫と考えられる。
現代アイヌ語は、かって東日本・北日本の縄文人が話していた言語のなかの北海道縄文人の言語の系統をひくものなのであろう。
東北地方、とくに北東北でも、かなり遅くまで(平安時代までか)、やはり縄文人の系統の言語が話されており、その段階の地名が多く残存しているのである。
東北地方の言語はその後日本語へと変換したが、北海道では後代まで変換がなかったのであろう。
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上記で十分ですが、「こころのくすり」さんから
明治から第二次大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。
このように縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていない。
しかしながら近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化や続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張しているし、小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している。
ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある。
このように縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていない。
しかしながら近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化や続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張しているし、小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している。
ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある。
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2009年8月21日金曜日
04008■縄文歴史年表(WIKIを補正)
時期 区分 | 主なできごと | |
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草創期 約13000年前 ~ 約10000年前 | ||
気候環境 | この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。 | |
生活 住居 | 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。 | |
石器 | 局部磨製石斧がつくられる。呪術的なものか? 槍・弓矢の製作・使用。 | |
土器 | 隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫つくられる。 | |
貝塚 | ||
早期 約10000年前 ~ 6000年前 | ||
気候環境 | 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、はじめの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。 | |
生活 住居 | 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。 | |
石器 | 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すりつぶしたりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。 | |
土器 | 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器がつくられた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶がつくられる。 | |
貝塚 | 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域につくられていた。貝塚はヤマトシジミが主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先刈(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。犬を人と一緒に埋葬。屈葬。 | |
前期 約6000年 ~ 5000年前 | ||
環境 | 気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4~5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚つくられる。常緑照葉樹と落葉照葉樹。 | |
住居 | 竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。湖沼の発達により丸木船がつくられる。漁労活動開始。 | |
石器 | 木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石がつくられる。 | |
土器 | この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。 | |
遺跡 | 耳飾り・勾玉・管玉などの装身具がつくられる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。 | |
中期 約5000年 ~ 4000年前 | ||
環境 | ||
生活 住居 | 集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。 | |
石器 | 海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。 | |
土器 | 石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。 | |
遺跡 | 貝塚。人口26万1300人。 | |
後期 約4000年 ~ 3000年前 | ||
環境 | ||
生活 住居 | 大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。 | |
石器 | 大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。 | |
土器 | 村の一角に土器塚が出来る。製塩土器。 | |
遺跡 | ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。 | |
晩期 約3000年 ~ 2300年前 | ||
環境 | 気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。 | |
生活 住居 | 木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。 | |
石器 | 北九州・近畿でも縄文水田。 | |
土器 | 夜臼式土器。 | |
遺跡 | 貝塚。人口7万5800人。 |
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