2009年10月21日水曜日

01119■クロマンタの東西南北ライン



これまでのクロマンタの東西南北ラインおよび冬至・夏至ラインを調べました。


1、東西南北ライン


鈴木陽悦著「クロマンタ」より































2、冬至・夏至ライン
こちらは吉祥姫さんからです



















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2009年10月20日火曜日

01118■小林世征氏のクロマンタ透視



渡邊広勝氏のクロマンタレポートー2のクロマンタ内部のイメージ図に対して、霊能力者:小林世征氏が現地で透視したレポートです。

1、クロマンタレポートー2の内部イメージ






























平成18年11月に現地調査したものです、私も同行しました。


「古い時代ほど、この山には大勢の人間が来て活気に満ちていたようですね。
地面のすぐ下には強く透視しなくても石の建物が埋まっているのが分かりますが、上ってきた人たちが列をつくって入っていくのが見えました。
すべての核心部分は、やはり今も噴き出しているエネルギーです。

神様に祈る場所というよりは、もっと実利的な、治療所、健康センターみたいな施設だと思う。

ただ、誰も来なくなって荒れ果てた時期が何代もあって、一番強いイメージが見えたのは、岩部屋の中にひとりだけ立つ若い女性です。
どうも縄文時代や弥生時代の日本人ではなく、竜宮城の乙姫みたいな派手な衣装を着て、キンキラのアクセサリーをつけていました。




僕が見ているのに気づいていたようですので、たぶん強い霊能力をもったシャーマンだと思います。

その女性がこの大のエネルギーと最後に関わった人間で、それまでは見晴らしのいい場所だったのに、彼女がいなくなってからは、山全体が今と変わらない感じとなった。

でもここから噴き出すエネルギーは今も全然弱まっていません。この周辺に医療施設があるのは当然です。

山の内部ほど、ひとかかえくらいの岩をたくさん積み重ねた頑丈な造りで、現代の高性能爆薬を使っても簡単には壊せない。だから恒久的なエネルギー装置としては完成品と言えます」



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2009年10月19日月曜日

01117■鈴木旭氏の「クロマンタ原理」



クロマンタ調査隊の鈴木旭氏の「クロマンタ原理」を掲載しなければ、クロマンタ調査の道に外れそうですので、元祖調査隊のレポートを、吉祥姫さんからいただきました。



時は人の記憶を風化させる否応なしに人の記憶は消え去って行く…黒又山の第三次総合調査(平成5年)以来、すでに4年間の歳月が去ったいま、改めて時の流れを実感している。

これに対し、「秋田県支部通信(環太平洋学会秋田県支部発行)Vol・1」は次のように総括している。
「これまでの研究の成果はその都度公表され第三次調査報告書(平成6年度)に至るまで、4冊出されてきた。しかし、これによって第三次調査終了でクロマンタの解明ができたのではい。むしろ多くの課題が浮き彫りにされたのである。要するに問題が整理された段階といってよいだろう。それによる今後の研究課題としては地中遺物の有無と実態確認、さらに山頂周辺部の発掘調査。周辺祀り場の確認、祭祀方法と祭祀対象。大湯環状列石との関連性。などが上げられよう」


調査研究が終わったわけではない。そればかりか、問題が整理され、今後の研究課題が浮き彫りになってきたというわけであるが、いったい、それによって何を明かにしようとしているのだようか。

つまるところは次の2点に要約できるのではないだろうか。

第1は、黒又山ピラミッド(古代山岳祭祀遺跡)であったのか否か、という点。

第2は、黒又山周辺の神社群は黒又山ピラミッドに付随する古代祀り場だったのか否か、そして、夏

至や冬至、春分・秋分における太陽の運行に対応するものかどうかという点である。


しかもそれらの状況は黒又山だけの特殊例外的な出来事であってはならないし、広い範囲で確認される一般的な現象でなければならない。つまり、普遍的な原理を表するものでなければならないということである。
筆者(鈴木旭氏)は、それを“クロマンタ原理”と名付け、すでに複数の事例を通じて一般的に見られることを確認している。



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もう一つ、吉祥姫さんから、




Kuromanta Report/クロマンタ・レポート
太陽を拝する山・黒又山(クロマンタ)
クロマンタ総合調査隊員 柳沢 兌衛
クロマンタの頂上には昔から信仰の為の祭祀場がありました。近世中期には大宮が祀られ、くだって薬師神社が祀られ。現在は鳥居に「本宮神社」と掲額されています。

この例のごとくクロマンタには様々な信仰要素が付与されて現代につながっていることがわかります。しからばこの信仰形態はどこまで遡りうるかといった場合、それを明言できるところまでは至っていません。
環太平洋学会で調査に取り組んだ際「クロマンタの性格の一つの属性に太陽を拝する信仰があった」として、解明のテーマとしました。



この度は、この点に焦点をあてた調査資料を紹介することにします。
はじめに鹿角(秋田県鹿角市)の盆地の特徴を概観することにします。四方を山に囲まれた盆地は南北に細長く、東に1,000メートルクラスの山が連なり、西側には300~500メートルクラスの山が連なっています。盆地内の河川は一つになって西側低山帯の一箇所「男神・女神の峡谷」から流れ出ています。そして、クロマンタは東側高山帯に近い所に位置しています。

(続きはこちらから)
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(まとめ)
・クロマンタが古代祭祀場跡か・・・そうですね。
・周辺神社の配置がクロマンタに付随するものか・・・そうですね。
・東西南北線、日の出、日没ラインも重要ですね。
・太陽崇拝・・・そのとおりですね。
・東北縄文文化研究会では、まだまだ何かありそうだと考え、追及しております。
だんだん分かってきました・・・・。
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2009年10月18日日曜日

03023■やはり芭蕉はただの隠密ではない















東北の歴史を見ていくと、田村麻呂伝説の延長線上に芭蕉「隠密説」が出てくるようです。

1、まずは、こちらからwebで学ぶ情報処理概論」さんからです。



奥の細道はスパイ行
(情報収集)


松尾芭蕉は元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良をただ一人伴って、奥州への旅に出る。 そして、北陸路を経て、九月美濃大垣に帰り着く。この旅の紀行文が有名な「奥の細道」である。

この芭蕉の旅は、実は、情報探索、すなわち、スパイ活動を目的としたものであったとの説がある。

Basho 芭蕉は伊賀上野の赤坂農人町(現在の上野市赤坂町)に、松尾与左衛門の次男として生まれる。 伊賀上野は忍者の里である。家は無足人と呼ばれた郷士・地侍級の農家である。 十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として仕える。 この時、主君の良忠と共に俳諧を学ぶ。 しかし、芭蕉二十三歳の時、良忠が病没したので致仕し、その後は専ら俳諧の道を歩むことになる。  ここで、彼の生家が「無足人」と言われる階級の家であったことが、まず注目される。 伊賀は甲賀と並び称せられる忍者の里である。 かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。 彼らが無足人である。芭蕉隠密説が第一の根拠とするところである。

他方、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものである。 ところが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。 これが、芭蕉隠密説の第二の根拠である。

芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。

では、芭蕉は何を探索しようとしたのか。 最上川上流における紅花の技術を探ろうとした産業スパイであったと云う説もある。 これは、尾去沢の紅花問屋に十日近くも滞在して、 「眉掃きを俤 (オモカゲ) にして紅花 (ベニ) の花」と云う句を作っているからである。

しかし、最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。



2、次は副島隆彦氏の「学問道場」から

・・・忍者のことを隠密というのですか。

副島:そうです。千石時代は、乱破(らっぱ)とか素破(すっぱ)と言いました。恐ろしい戦場の謀略人間    たちです。刺客も忍者ですね。
    私は4年前、「伊賀もの」の本場である、三重県の伊賀上野市に講演会で招かれて行って、地元  の経営者たちにあちこち親切に案内してもらってわかりましたが、「奥の細道」の松尾芭蕉も公儀隠  密(政府の隠密)なんでしょうね。

    彼は、まさし伊賀上野の人です。記念館がいくつも残っています。本当に4百年前の芭蕉が、生  活した家なのかは不明です。ですが観光名所になっている。実に枯れ果てた感じの、芭蕉の庭園つ  きの居宅もありました。
   弟子の俳諧師の、向井去来や、与謝野蕪村も同じ系統の人でしょう。伊賀上野の地元の人たち    は、平気でそういう噂をしていましたね。現地に行けばたいていのことは分かります。 

   俳諧師、連歌師というのは、まさしく徘徊師で、全国の諸藩を、密貿易の「抜け荷」の証拠を  探って回っていたのでしょう。だから、芭蕉は「奥の細道」のような長い旅行をしていますが、   相当に特別な鑑札(証明書、許可状)がなければ、諸藩の国境(くにざかい)の関所を越える  ことはできなかったはずだ。

   彼らは、はたして、町人なのか太字、武士なのか、百姓なのか身分が分からない。今では、すぐれた日本の文学者たちですが、一体、何で生計を立てていたのか、分からない。藩主である藤堂高虎の藤堂家に仕えていたことははっきりしている。

・・・句の中にそれを隠して詠んだそうですね。

副島:その可能性もあるでしょうが、まだ解明されていない。彼らは、枯れ果てた精神をした人間たちですから、いっさいの記録を残していない。おそらく本当に隠密だったのでしょう、鑑札も許可状もないのに、あの時代に日本中をふらふら歩けるわけがないのですから。



3、荒俣宏の「歌枕 謎ときの旅」からp155~
芭蕉が「壺の碑」の前後の奇妙な行動

さて、いよいよ奥州歌枕の核心にせまりだした芭蕉だが、このあたりからかれの行動が謎めいてくる。
①たとえば、芭蕉は笠嶋というところをめざし、一句を詠んだのだが、体が疲れたことを理由にして現地に行かず仕舞にしてしまった。この塚は西行も見て歌を詠んだところなのに。

②さらに妙なことがある。芭蕉は重要なポイントで日数をごまかすのだ。「おくの細道」によれば、芭蕉はその後に岩沼に宿り、武隈の松、壺の碑などを訪ねて、その夜に目盲法師の琵琶を聞くことになる。しかし、曾良の日記などによって、芭蕉が岩沼には泊らなかった事実が明らかになっている。

③おまけに、さかのぼって仙台に入ったときに、画工の加右衛門を訪ねている。芭蕉は彼から地図をもらい、これを頼りに旅して壺の碑に到着しているのだ。

④ これを整理すれば、芭蕉は案内や地図まで頼んで「壺の碑」へ向かっていたことが分かる。だとすれば、この数日間の旅は壺の碑に行くことが主たる目的だった、と考えられる。そして壺の碑に到着した感激を「疑ひなき千歳の記念、いま眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、旅の労を忘れて,泪も落ちるばかりなり」と綴っている。

調査をさせ、画図を描かせ、しかも用意周到の下で辿り着いた壺の碑。この執念は、単に西行や能因が行きつけなかった幻の名所を発見したいという文人の執念によるのではない。千年前を偲ぶ歴史的な視点がそなわっていたからだろう。

⑤壺の碑につづく次の平泉の旅でも奇妙な行動がみられた。石巻に一泊したとことが偽りな可能性があり、そうだとすれば、ここでも一日の空白を稼いでいる計算になる。


⑤これらの事情はいったい何を暗示するのだろうか。
答えは一つしかないと思う。芭蕉は壺の碑を見て、「これは坂上田村麻呂が建てたという日本中央の碑ではない」と気づいたからだった。ここではなく、どこか別の場所に本物の石碑があるはずだと信じて、多賀城周辺を訪ね歩いたとしたら、どうだろうか? これで、芭蕉がこのあたりで日数をごまかした理由も明らかになる。また壺の碑で発句していない理由もあきらかになる。歌枕に地でないと分かったところでは、心をいつわって句を詠めないのだ!

であるとすれば、芭蕉にとって歌枕「壺の碑」は、かなり重要な「現実の土地情報」となっていたことになる。芭蕉の時代になると、歌枕はフイクションを脱して、そのまま具体的な地名になりつつあった。本当に歌枕の地を探しあてることができると考えられていた。

⑥多賀城は、大和の国を蝦夷から守る最前線の城砦だったが、同時に蝦夷に何度も襲われている。それは大和の東北経営の心細い拠点で会った以上に、蝦夷たちの反抗や抵抗を今に伝えるシンボルで会ったのだ。

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(まとめ)

4、芭蕉は「壺の碑」で悟った

・芭蕉隠密説は上記1,2で決定ですね。
・でも、この東北縄文文化研究会では、芭蕉隠密が抜け荷を調べた・・・程度では満足できません。
わが秋田県と縁がある、菅江真澄ならエゾ地の抜け荷調査で納得ですが・・・。

・芭蕉は多賀城の「壺の地」ですべてを悟ったと解釈したらどうでしょう。
①ホツマからは多賀城が日本の「3つ壺」の一つであることが分かります。(他は富士山と琵琶湖)
②憧れの壺の地に来て「壺の碑」を見た。(徳川光圀公が定めたもの)
③世に言われる「日本中央」とは書かれていなかった・・・芭蕉は分かっていたのではないか。
芭蕉は蝦夷への鎮魂のために「壺の碑」を訪ねたのではない。

芭蕉が求めた「壺の地」とは坂上田村麻呂の時代ではない。はるか縄文の時代であるのだ。だから「日本中央」と書かれたものは論外で、現地で見たものは里程が記された「壺の碑」であった。芭蕉が思い描いていた「壺の碑」とはほど遠かったのだった。

④したがって、まだ何かあるはずだと探し求めたのだった。しかし、時間がなく諦めたが、「奥の細道」には「・・・・泪も落ちるばかなり」と書いておいた。 としたらどうでしょう・・・。
東北縄文文化研究会はこう解釈しております。

結果的には、芭蕉も田村麻呂伝説以来大和朝廷・・幕府・日本政府が行ってきた延長線上のものとなってしまったのです。


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2009年10月17日土曜日

01116■古代から伝わる地元の歌



十和田湖周辺には古来からの歌が残っています。




十和田高原

十和田湖をめぐって、いろいろ伝説などがあります。

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「ナーニアドヤラドヤ」の解説が載っていますが「東北縄文文化研究会」ではあまり共鳴していませんので省略

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十和田地方民謡は太古其のままの音声を伝えているいうのです。

ついでながら鹿角地方の「ダイノサカ」の唄はこれを記してみますと

ダイノサカ ナノハヤエ オヤエ マガルジャエ ソリャエヤー サカヒヲクラス

ヤエデヤ オサエキ サハエノ ソリャ エヤエー

と大湯の草木地方で唄ってるのを記しましたが、他にもいろいろとあると思いますので特志の

方は教えてください。


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(まとめ)
・謎の地「草木地区」の民謡です。
・草木地区とは、クロマンタ南北ラインの南に位置します。
・「錦木物語」の青年の居住地です。
・「八朗太郎物語」の八朗太郎の出身地でもあります。

・ここはクロマンタ解明の重要な地区となりますね。
・この歌の解明はどなたかできないものでしょうか。

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2009年10月16日金曜日

01216■大湯ストーンサークルは5万年前の地層から




スタジオ吉祥姫に掲載されている、諏訪富多氏の「太古の神都 十和田高原」より


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(はりつけ)
陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡


この遺跡は今日の重要問題とされている。

1.動植物にわたる極めて豊富なる化石を産出し其の上に明らかに人工が加えられたと認め

られることである。

2.之は少なくとも洪積層と考えられる。地質学者、古生物学者、考古学者、人類学者が組織

的に日本では初めてとも云うべき発掘を行った事である。

3.東北大、岩手の地質学者等が熱心に別々に行った。而して同じ地点を相前後して発掘に

努めそれぞれ収穫があった。

何れにしても国際的に注目される点は、日本に於ける最初の旧石器人の遺体発見の可能性

がある事である。人工物の多いことから見て必ず旧石器人の生活の様式が発見さらるる見

込みがある事である。

概括して見ると新第三紀層に此の遺跡は属する。新第三期層、上半の鮮新世の下部に当た

る処に礫層があり、此部分に化石の層があるのが見られる。

出土品は

一、.ハシバミ、クルミ、松柏科に属する大部分の植物化石。

一、.象の牙が重く太い方を下にして殆ど直立の状態で立っているのは推積作用ばかりでは

ないといと考えられる。何分三米-四米の長円形の部分に2000点を超える骨片が発見された

と云うことである。

動物の頭骨、背ツイなどの位置もはなればなれになっている。又この象はマンモスよりも遥

かに古い型の象であると鑑定されているので従って第四氷期よりはずっと古いものである事

は確かである。兎に角これだけの化石や遺物が出た事は、日本内地又外国の地層のいず

れの地層に相当するものであるかを研究する必要は大に出て来た。


早稲田大学の講師である有名な直良信夫氏は次のように言っている。

「花泉の化石層は日本では珍しい型の遺跡である。上層のものは昭和8年に私たちが発掘し

た北満州クーシャントンのものによく似ている。そうして下層の出土物は兵庫県明石市の西

八木化石層のものに近いようである。此の2つのややちがった動物郡は同じ地質時代に混然

と共存していたものか、それとも若干時期を異にして生存していたものかが、今後の研究の

焦点になろう。若かりし時期に異にしたものとすれば、下層から出土するものの時代は古く、

上層のものは若干新しいと云うことになるだろう。ヨーロッパのムステリアンには寒暖2つの文

化期があった。花泉でそれが確かめられ発掘された色々の遺物や化石が十分に検討された

暁には日本だけでなく、世界の人類発達史に大きな貢献をなす事になろう」。




(吉祥姫さんの解説) 

陸中花泉町とは、おそらく現在の岩手県花泉町だと思われます。その裏づけは何もありま

せんが、諏訪先生の研究範囲からして十和田高原に最も近い花泉町だと考えられます。

同町のHPなどを見ても当時の様子を伺い知るDataは残念ながら見当たりません。

とういうことは上記の記事が「期待していた内容と違うことが判明された」あるいは「上記内

容を裏付ける十分なDataを得られずに忘れ去られた」…のこの二つだと思われます。

その後の経緯は不明ですが、とかくアカデミックな学説においては「起こり得ない事、あり得

ない事」は抹殺されるケースが多々あるようです。


昭和21年に製作される十和田高原の大湯環状列石調査報告書でも、測定結果は

「5万年前の地層の下から出土」が「4500年前の地層の下から出土」

に書き換えられました。


なぜ、アカデミック学説は計算通り、ひな形通りでなければならないないのでしょうか。

仮にいく点かの間違いがあるにしても大湯環状列石は5万年前の地層の下に埋まっ

ていたのです。

諏訪先生は、その事実を伝えたくて、上記「陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡」の記事を

書いたのではないかという気にさえなります。

現在の進化論においての文明成立の年代は、もしかしたら、一桁さかのぼるのではないの

でしょうか…氷河期遺跡








陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡


この遺跡は今日の重要問題とされている。

1.動植物にわたる極めて豊富なる化石を産出し其の上に明らかに人工が加えられたと認め

られることである。

2.之は少なくとも洪積層と考えられる。地質学者、古生物学者、考古学者、人類学者が組織

的に日本では初めてとも云うべき発掘を行った事である。

3.東北大、岩手の地質学者等が熱心に別々に行った。而して同じ地点を相前後して発掘に

努めそれぞれ収穫があった。

何れにしても国際的に注目される点は、日本に於ける最初の旧石器人の遺体発見の可能性

がある事である。人工物の多いことから見て必ず旧石器人の生活の様式が発見さらるる見

込みがある事である。

概括して見ると新第三紀層に此の遺跡は属する。新第三期層、上半の鮮新世の下部に当た

る処に礫層があり、此部分に化石の層があるのが見られる。

出土品は

一、.ハシバミ、クルミ、松柏科に属する大部分の植物化石。

一、.象の牙が重く太い方を下にして殆ど直立の状態で立っているのは推積作用ばかりでは

ないといと考えられる。何分三米-四米の長円形の部分に2000点を超える骨片が発見された

と云うことである。

動物の頭骨、背ツイなどの位置もはなればなれになっている。又この象はマンモスよりも遥

かに古い型の象であると鑑定されているので従って第四氷期よりはずっと古いものである事

は確かである。兎に角これだけの化石や遺物が出た事は、日本内地又外国の地層のいず

れの地層に相当するものであるかを研究する必要は大に出て来た。


早稲田大学の講師である有名な直良信夫氏は次のように言っている。

「花泉の化石層は日本では珍しい型の遺跡である。上層のものは昭和8年に私たちが発掘し

た北満州クーシャントンのものによく似ている。そうして下層の出土物は兵庫県明石市の西

八木化石層のものに近いようである。此の2つのややちがった動物郡は同じ地質時代に混然

と共存していたものか、それとも若干時期を異にして生存していたものかが、今後の研究の

焦点になろう。若かりし時期に異にしたものとすれば、下層から出土するものの時代は古く、

上層のものは若干新しいと云うことになるだろう。ヨーロッパのムステリアンには寒暖2つの文

化期があった。花泉でそれが確かめられ発掘された色々の遺物や化石が十分に検討された

暁には日本だけでなく、世界の人類発達史に大きな貢献をなす事になろう」。


(吉祥姫さんの解説) 

陸中花泉町とは、おそらく現在の岩手県花泉町だと思われます。その裏づけは何もありま

せんが、諏訪先生の研究範囲からして十和田高原に最も近い花泉町だと考えられます。

同町のHPなどを見ても当時の様子を伺い知るDataは残念ながら見当たりません。

とういうことは上記の記事が「期待していた内容と違うことが判明された」あるいは「上記内

容を裏付ける十分なDataを得られずに忘れ去られた」…のこの二つだと思われます。

その後の経緯は不明ですが、とかくアカデミックな学説においては「起こり得ない事、あり得

ない事」は抹殺されるケースが多々あるようです。


昭和21年に製作される十和田高原の大湯環状列石調査報告書でも、測定結果は

「5万年前の地層の下から出土」が「4500年前の地層の下から出土」

に書き換えられました。



なぜ、アカデミック学説は計算通り、ひな形通りでなければならないないのでしょうか。

仮にいく点かの間違いがあるにしても大湯環状列石は5万年前の地層の下に埋まっ

ていたのです。


諏訪先生は、その事実を伝えたくて、上記「陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡」の記事を

書いたのではないかという気にさえなります。

現在の進化論においての文明成立の年代は、もしかしたら、一桁さかのぼるのではないの

でしょうか…氷河期遺跡


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(まとめ)

・岩手県花泉町の移籍は氷河時代マンモスの頃。
・しかし、抹殺されている。

・ストーンサークルも5万年前の地層から出ているのだ、しかし4千年前とされていることの不思議。

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01215■昭和17年発掘調査で「金鉱石の鏡」出土


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(はりつけ)

著者 諏訪富多氏






昭和17年発掘調査

この発掘は大東亜戦争中でもあったが当事者の熱情は之の困難を超えて発掘したもので

あり、野中堂及万座の現に見られる殆んど全貌を現はした。当時大湯の高木新助氏の関係

して居られた新聞紙に依って一部の報道を呼ぶれば下記に見られるようであります。


昭和17年8月5日の東京日日新聞秋田版「国立公園十和田湖の外廊とうべき高台になって

いる鹿角郡大湯町字中通りの万座台の火山灰のうちから神代文化の遺跡が発掘された。之

は昭和10年ひもろご研究の旅を全国につづけている東京市京橋区築地会館にある神代文

化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治氏が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った

際に非情に珍しい土器の壷を見て田多井氏は発掘現状を視察し何事かうなづいて帰京した

が、その後あらゆる角度から土器の壷発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物

のあることを同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪氏の協力を得

て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘調査が進めら

れているが、未だ嘗て全国にその例を見ぬ、日本神代文化を研究する上に絶対必要をされ

ている。


直径20間と30間の川原石で組み立てられた建造物の大きな遺物及び東西南北をはっきり
示したいろいろな川原石ででたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中か

ら発掘され田多井、小寺、諏訪、三氏を狂喜させめている。又この外前記の遺物発見現処よ

り余り遠く離れていない所で深さ7尺、直径4尺の縦穴を発掘したところ、この縦穴の中には

立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見して、穴の底は瀬戸物を焼く粘土が塗られ、穴の周

囲には朱が点々と交じっている。現在発掘された遺物は、如何なるものであるか未発表のま

まであるが、田多井氏の研究発表の暁には、我が秋田県は神代文化の中心地であったので

はないかといわれる。


又続々と発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る

「現在発掘作業を続けている場処から出る土器は決してアイヌの遺物ではない。発見された

破片の中には日本民俗の遺物と言われる銅鐸にかかれている模様と殆ど同様寸分たがわ

ぬと云ってよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいずれも石の遺物にしろ、金鉱石の

鏡にしろ、全部が最初の火山灰の中に埋もれてあったと云うことは、いかなる学者が来られ

ても事実は立派に証明している。され発掘された遺物は何であるかと云うことは只今御話し

が出来ないが、私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物、神代のものだと

云うことだけはお答えできる。それは簡単に年代の判る方法は所詮火山灰がどの位の年代

が経ったらジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当

ついたなら、今発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」





(吉祥姫さんの解説)

昭和26年12月26日に「大湯環状列石」として国指定特別史跡に指定された鹿角市十和田大湯の「大湯環状列石」(俗にストーンサークル)という名称で知られています。

その遺跡の発見は昭和6年と言われています。その後幾多の困難を克服しながら上記17年には諏訪氏などの功労によって本格的な調査が展開されます。

私も本文献の紹介作業を初めてから本文内から幾つもの新事実を発見しています。意外にも国の調査報告は型通りのものでしかないかが良く判ります。

別の章でもご紹介していますが、国の発表は、基本的に前例になぞった報告書が作られています。大湯環状列石でこれまでに見当たらない事実があったとしても、それは未確認事項としてあつかわれているようです。したがって、前例の無い事実は埋もれている可能性がとても高いと感じます。

実際に、「金鉱石の鏡」などはほとんど知られていません。

また、これに類似した事実で、鉄剣の発掘報告もあり。

闇から闇に葬りさられた、聞き捨てならない事実は相当量に及びます。


本章は「金鉱脈の鏡」の存在を確かに伝えています。大湯環状列石における鉄器の有無は考古学に於いては論外の報告かもしれませんが、出土していることは事実です。


これを知った皆さんも一種の証人になり得ます。そでも大湯環状列石は単なる4500年ほど前の縄文墓地なのでしょうか…








昭和17年発掘


この発掘は大東亜戦争中でもあったが当事者の熱情は之の困難を超えて発掘したもので

あり、野中堂及万座の現に見られる殆んど全貌を現はした。当時大湯の高木新助氏の関係

して居られた新聞紙に依って一部の報道を呼ぶれば下記に見られるようであります。


昭和17年8月5日の東京日日新聞秋田版「国立公園十和田湖の外廊とうべき高台になって

いる鹿角郡大湯町字中通りの万座台の火山灰のうちから神代文化の遺跡が発掘された。之

は昭和10年ひもろご研究の旅を全国につづけている東京市京橋区築地会館にある神代文

化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治氏が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った

際に非情に珍しい土器の壷を見て田多井氏は発掘現状を視察し何事かうなづいて帰京した

が、その後あらゆる角度から土器の壷発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物

のあることを同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪氏の協力を得

て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘調査が進めら

れているが、未だ嘗て全国にその例を見ぬ、日本神代文化を研究する上に絶対必要をされ

ている。


直径20間と30間の川原石で組み立てられた建造物の大きな遺物及び東西南北をはっきり

示したいろいろな川原石ででたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中か

ら発掘され田多井、小寺、諏訪、三氏を狂喜させめている。又この外前記の遺物発見現処よ

り余り遠く離れていない所で深さ7尺、直径4尺の縦穴を発掘したところ、この縦穴の中には

立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見して、穴の底は瀬戸物を焼く粘土が塗られ、穴の周

囲には朱が点々と交じっている。現在発掘された遺物は、如何なるものであるか未発表のま

まであるが、田多井氏の研究発表の暁には、我が秋田県は神代文化の中心地であったので

はないかといわれる。


又続々と発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る

「現在発掘作業を続けている場処から出る土器は決してアイヌの遺物ではない。発見された

破片の中には日本民俗の遺物と言われる銅鐸にかかれている模様と殆ど同様寸分たがわ

ぬと云ってよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいずれも石の遺物にしろ、金鉱石の

鏡にしろ、全部が最初の火山灰の中に埋もれてあったと云うことは、いかなる学者が来られ

ても事実は立派に証明している。され発掘された遺物は何であるかと云うことは只今御話し

が出来ないが、私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物、神代のものだと

云うことだけはお答えできる。それは簡単に年代の判る方法は所詮火山灰がどの位の年代

が経ったらジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当

ついたなら、今発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」


(吉祥姫さんの解説)

昭和26年12月26日に「大湯環状列石」として国指定特別史跡に指定された鹿角市十和田大湯の「大湯環状列石」(俗にストーンサークル)という名称で知られています。

その遺跡の発見は昭和6年と言われています。その後幾多の困難を克服しながら上記17年には諏訪氏などの功労によって本格的な調査が展開されます。

私も本文献の紹介作業を初めてから本文内から幾つもの新事実を発見しています。意外にも国の調査報告は型通りのものでしかないかが良く判ります。

別の章でもご紹介していますが、国の発表は、基本的に前例になぞった報告書が作られています。大湯環状列石でこれまでに見当たらない事実があったとしても、それは未確認事項としてあつかわれているようです。したがって、前例の無い事実は埋もれている可能性がとても高いと感じます。

実際に、「金鉱石の鏡」などはほとんど知られていません。

また、これに類似した事実で、鉄剣の発掘報告もあり。


闇から闇に葬りさられた、聞き捨てならない事実は相当量に及びます。


本章は「金鉱脈の鏡」の存在を確かに伝えています。大湯環状列石における鉄器の有無は考古学に於いては論外の報告かもしれませんが、出土していることは事実です。


これを知った皆さんも一種の証人になり得ます。そでも大湯環状列石は単なる4500年ほど前の縄文墓地なのでしょうか…



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(まとめ)
・すごいことが書かれています。
・「鏡の如く磨かれた金鉱石を発見」・・・知られていませんね。
・発掘時には銅鐸と同じ文様が描かれていた。
・吉祥姫さんの「鉄剣の発掘」・・・知られていませんね。

・発掘で素晴らしいものが出ても、報告書では無視(抹殺)されていることは何を表すものでしょうか。
①学会が、今まで信じていた日本の歴史がひっくり返ることの恐ろしさで無視。
②大和朝廷の「田村麻呂伝説」以来連綿として続く、日本政府の「蝦夷=東北人」対策そのものでしょ  うか。(出典:荒俣宏「歌枕 謎ときの旅」)


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