これまでのクロマンタの東西南北ラインおよび冬至・夏至ラインを調べました。
1、東西南北ライン

鈴木陽悦著「クロマンタ」より

2、冬至・夏至ライン
こちらは吉祥姫さんからです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このブログは「壁を突き抜ける生き方」をする人だけが共鳴できるものです。 北東北の不思議な地域、クロマンタ、大湯ストーンサークルを中心とする縄文文化の真実を探究する研究会です。 ■右側のラベル分類からもお入りください。 ◆スライドショーはクロマンタのゼロ磁場調査の様子!!
奥の細道はスパイ行 (情報収集) |
十和田湖をめぐって、いろいろ伝説などがあります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「ナーニアドヤラドヤ」の解説が載っていますが「東北縄文文化研究会」ではあまり共鳴していませんので省略 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 十和田地方民謡は太古其のままの音声を伝えているいうのです。 ついでながら鹿角地方の「ダイノサカ」の唄はこれを記してみますと ダイノサカ ナノハヤエ オヤエ マガルジャエ ソリャエヤー サカヒヲクラス ヤエデヤ オサエキ サハエノ ソリャ エヤエー と大湯の草木地方で唄ってるのを記しましたが、他にもいろいろとあると思いますので特志の 方は教えてください。 |
この遺跡は今日の重要問題とされている。 1.動植物にわたる極めて豊富なる化石を産出し其の上に明らかに人工が加えられたと認め られることである。 2.之は少なくとも洪積層と考えられる。地質学者、古生物学者、考古学者、人類学者が組織 的に日本では初めてとも云うべき発掘を行った事である。 3.東北大、岩手の地質学者等が熱心に別々に行った。而して同じ地点を相前後して発掘に 努めそれぞれ収穫があった。 何れにしても国際的に注目される点は、日本に於ける最初の旧石器人の遺体発見の可能性 がある事である。人工物の多いことから見て必ず旧石器人の生活の様式が発見さらるる見 込みがある事である。 概括して見ると新第三紀層に此の遺跡は属する。新第三期層、上半の鮮新世の下部に当た る処に礫層があり、此部分に化石の層があるのが見られる。 出土品は 一、.ハシバミ、クルミ、松柏科に属する大部分の植物化石。 一、.象の牙が重く太い方を下にして殆ど直立の状態で立っているのは推積作用ばかりでは ないといと考えられる。何分三米-四米の長円形の部分に2000点を超える骨片が発見された と云うことである。 動物の頭骨、背ツイなどの位置もはなればなれになっている。又この象はマンモスよりも遥 かに古い型の象であると鑑定されているので従って第四氷期よりはずっと古いものである事 は確かである。兎に角これだけの化石や遺物が出た事は、日本内地又外国の地層のいず れの地層に相当するものであるかを研究する必要は大に出て来た。 早稲田大学の講師である有名な直良信夫氏は次のように言っている。 「花泉の化石層は日本では珍しい型の遺跡である。上層のものは昭和8年に私たちが発掘し た北満州クーシャントンのものによく似ている。そうして下層の出土物は兵庫県明石市の西 八木化石層のものに近いようである。此の2つのややちがった動物郡は同じ地質時代に混然 と共存していたものか、それとも若干時期を異にして生存していたものかが、今後の研究の 焦点になろう。若かりし時期に異にしたものとすれば、下層から出土するものの時代は古く、 上層のものは若干新しいと云うことになるだろう。ヨーロッパのムステリアンには寒暖2つの文 化期があった。花泉でそれが確かめられ発掘された色々の遺物や化石が十分に検討された 暁には日本だけでなく、世界の人類発達史に大きな貢献をなす事になろう」。 |
(吉祥姫さんの解説) 陸中花泉町とは、おそらく現在の岩手県花泉町だと思われます。その裏づけは何もありま せんが、諏訪先生の研究範囲からして十和田高原に最も近い花泉町だと考えられます。 同町のHPなどを見ても当時の様子を伺い知るDataは残念ながら見当たりません。 とういうことは上記の記事が「期待していた内容と違うことが判明された」あるいは「上記内 容を裏付ける十分なDataを得られずに忘れ去られた」…のこの二つだと思われます。 その後の経緯は不明ですが、とかくアカデミックな学説においては「起こり得ない事、あり得 ない事」は抹殺されるケースが多々あるようです。 昭和21年に製作される十和田高原の大湯環状列石調査報告書でも、測定結果は 「5万年前の地層の下から出土」が「4500年前の地層の下から出土」 に書き換えられました。 なぜ、アカデミック学説は計算通り、ひな形通りでなければならないないのでしょうか。 仮にいく点かの間違いがあるにしても大湯環状列石は5万年前の地層の下に埋まっ ていたのです。 諏訪先生は、その事実を伝えたくて、上記「陸中花泉町に於ける氷河時代遺跡」の記事を 書いたのではないかという気にさえなります。 現在の進化論においての文明成立の年代は、もしかしたら、一桁さかのぼるのではないの でしょうか…氷河期遺跡 |
あり、野中堂及万座の現に見られる殆んど全貌を現はした。当時大湯の高木新助氏の関係 して居られた新聞紙に依って一部の報道を呼ぶれば下記に見られるようであります。 昭和17年8月5日の東京日日新聞秋田版「国立公園十和田湖の外廊とうべき高台になって いる鹿角郡大湯町字中通りの万座台の火山灰のうちから神代文化の遺跡が発掘された。之 は昭和10年ひもろご研究の旅を全国につづけている東京市京橋区築地会館にある神代文 化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治氏が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った 際に非情に珍しい土器の壷を見て田多井氏は発掘現状を視察し何事かうなづいて帰京した が、その後あらゆる角度から土器の壷発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物 のあることを同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪氏の協力を得 て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘調査が進めら れているが、未だ嘗て全国にその例を見ぬ、日本神代文化を研究する上に絶対必要をされ ている。 直径20間と30間の川原石で組み立てられた建造物の大きな遺物及び東西南北をはっきり 示したいろいろな川原石ででたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中か ら発掘され田多井、小寺、諏訪、三氏を狂喜させめている。又この外前記の遺物発見現処よ り余り遠く離れていない所で深さ7尺、直径4尺の縦穴を発掘したところ、この縦穴の中には 立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見して、穴の底は瀬戸物を焼く粘土が塗られ、穴の周 囲には朱が点々と交じっている。現在発掘された遺物は、如何なるものであるか未発表のま まであるが、田多井氏の研究発表の暁には、我が秋田県は神代文化の中心地であったので はないかといわれる。 又続々と発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る 「現在発掘作業を続けている場処から出る土器は決してアイヌの遺物ではない。発見された 破片の中には日本民俗の遺物と言われる銅鐸にかかれている模様と殆ど同様寸分たがわ ぬと云ってよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいずれも石の遺物にしろ、金鉱石の 鏡にしろ、全部が最初の火山灰の中に埋もれてあったと云うことは、いかなる学者が来られ ても事実は立派に証明している。され発掘された遺物は何であるかと云うことは只今御話し が出来ないが、私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物、神代のものだと 云うことだけはお答えできる。それは簡単に年代の判る方法は所詮火山灰がどの位の年代 が経ったらジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当 ついたなら、今発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」 |
(吉祥姫さんの解説) 昭和26年12月26日に「大湯環状列石」として国指定特別史跡に指定された鹿角市十和田大湯の「大湯環状列石」(俗にストーンサークル)という名称で知られています。 その遺跡の発見は昭和6年と言われています。その後幾多の困難を克服しながら上記17年には諏訪氏などの功労によって本格的な調査が展開されます。 私も本文献の紹介作業を初めてから本文内から幾つもの新事実を発見しています。意外にも国の調査報告は型通りのものでしかないかが良く判ります。 別の章でもご紹介していますが、国の発表は、基本的に前例になぞった報告書が作られています。大湯環状列石でこれまでに見当たらない事実があったとしても、それは未確認事項としてあつかわれているようです。したがって、前例の無い事実は埋もれている可能性がとても高いと感じます。 実際に、「金鉱石の鏡」などはほとんど知られていません。 また、これに類似した事実で、鉄剣の発掘報告もあり。 闇から闇に葬りさられた、聞き捨てならない事実は相当量に及びます。 本章は「金鉱脈の鏡」の存在を確かに伝えています。大湯環状列石における鉄器の有無は考古学に於いては論外の報告かもしれませんが、出土していることは事実です。 これを知った皆さんも一種の証人になり得ます。そでも大湯環状列石は単なる4500年ほど前の縄文墓地なのでしょうか… |