2008年7月10日木曜日

02103■白神の語源(2)

菅江真澄と白神について調べたウェブを参照させていただきました。

男鹿と白山から引用

真澄は、大小の舟が入港する戸賀のようすを書いた後、次のように続けている。  浜塩谷、浜中を経て、三ノ目潟の水がしみだした澄んだ流れのそばに、いくつもの鳥居があり、白神無動尊を祀(まつ)っていた。
 紀伊の国の白神の磯の名をはじめ、陸奥の松前の白神が崎、津軽の深浦の近くにも白神が岳などあり、白神という地名は数多くある。
 白神とは白鳥のことで、白鳥になって飛び去ったと伝えられる日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀(まつ)り、また雷神も祀っているし、白山を祀って、その主祭神である菊理姫(くくりひめ)をつつしんで祀っている。繭(まゆ)の神も白神として祀っている。  すこし行くと路ばたの草のなかに、冷たく澄んだ泉がわきだしていた。  
  草ふかきなかにかくろひくむ人も      いざしらかみの磯のまし水  
塩戸についた。戸賀の家々と湾を間にして向かいあっている景色や、あちこちにある岩の形がたいへんおもしろい。  宮島には厳島姫(いつくしまひめ)の祠(ほこら)が岩の上に祀っているが、そこへ波が軽く打ち寄せている眺めもおもしろい。  雨が強く降りはじめきたので、ここの漁師の家に泊まる。
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真澄が訪れたころも、それほど比率は変わっていなかったと推測する。  一番住民が多い戸賀に、神社がなかったすれば、白神不動尊(無動尊)が全体を統一するほど、神聖な場所だったことになる。  遙か以前に住んでいた「まつろわぬものたち」の神であったのかもしれない。  そんな幻想に思いをはせていたとき、ある勘違いをしているのではないかという気がしてきた。真澄の目的地の1つが、白神不動尊だったのではないだろうか。  菅江真澄の出自は謎に満ちていて、いくつかの説のあることを思い出したのである。
 真澄と白神との関係をホームページで検索して、「異界歴程」という本があることを知り、購入して読むと、男鹿そのものに関してはなにも載ってはいないのだが、さまざまなことを知ることができた。  私自身がよく理解していないために、まだうまく説明できないから、中途半端で終了することになるけれど、いくつか箇条書きにする。  最北の椿で、別説もあると述べた八百比丘尼は、柳田国男の説では白山信仰の宣布者で、ツバキを植えながら信仰を広げていったので北の方までツバキが生えている。  赤神神社や増川八幡にも残っている木の仏像をつくりながら各地を回って歩いた円空は、癩者で白山の聖だったという。  映画「砂の器」の悲しいシーンを思い浮かべてしまうが、穏やかな円空仏に引きつけられる人も多く、「円空仏礼賛」の著者は、赤神神社五社堂の十一面観音に感動してから、全国の円空仏をたずね歩いている。  菅江真澄は、白山信仰と関係が深い白太夫の出自で、円空の足跡をたどって蝦夷にまで渡っている。 「戸賀地区の民俗信仰」では、信仰関係の石碑などが詳しく記述されているか、江戸時代より前のものが残っていないのが不思議な気がした。結局、新しく流行した神によって、上書きされていったのかも知れない。  いろいろな理由から、白山周辺から秋田などに、いつの時代にか移住してきた人も多いのかもしれない。人とともに文化も伝えられたことだろう。  秋田の魚、ハタハタの魚名も白山信仰と関係しているような気がする。
 菊理媛(くくりひめ)を祀っている神社が男鹿半島にもいくつかあるが、この神は謎に満ちている。  日本書紀の10番目の「一書にいう」にだけ登場する。泉平坂(よもつひらさか)でイザナミとイザナギが言い争いをしていると、「このとき菊理媛神が申し上げられることがあった。イザナギはこれをお聞きになり、ほめられた。」(講談社学術文庫 日本書紀 上)と、これだけである。


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