2009年12月8日火曜日

030261■行基は秋田には来ていない?

大日堂のことを調べていけば行基が出てきます。(行基図でおなじみです


1、行基は秋田に来ていない

比内独鈷大日堂の神成忠正元宮司のお話に出てきます、三つの大日堂のご神体は行基作と伝えられているが、学校の先生が「いや行基は東北には来たが秋田には来ていない・・・」「いや将来東北の歴史が判明したときには日本の歴史の1ページが変わるぞ!」と言われたとあります。(宮司さんは、やっぱり来たのだと言っています)

これは、「坂上田村麻呂伝説」と同じことになりますね。

(はりつけ)
それから聖武天皇。
大仏を造る、ということも思いつきました。それも、巨大な大仏。これを造れば、きっと世の中は平和になるに違いない、こう考えたのです。しかし、度重なる旅行と都の造営に人々は疲れ切っていました。この上に大仏とは・・・。

そこで聖武天皇。ひらめきます。
「危険な宗教家としていてマークしていた、僧の行基。あのカリスマを利用すればいいじゃないか。」
さて、この行基とは何者か。実は、それまで朝廷からは危険人物としてマークされていた人物です。なにしろ、当時の仏教は国家の統制にあったにもかかわらず、積極的に民衆へ布教し、民衆のために用水施設を造ったり、交通施設を造ったりと社会福祉に貢献していたので、人々から人気があったんです。一歩間違えれば朝廷にとって脅威となります。 

しかし、この人気を利用し、大仏建立のために中心となって働いてもらい、庶民を動員してもらうことにしました。こうして、大仏建立の詔が出され、まずは聖武天皇が都を移していた紫香楽宮で大仏を造り始め、しかししばらくして平城京に戻ったため、ここで再び大仏を造りはじめ、完成したのが東大寺です。行基は完成直前に亡くなっていましたが・・・。

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年代西暦年齢事項天智 7年6681この年、行基 河内の大鳥郡蜂田の里に誕生(現在の家原寺)。天武  元年6725壬申の乱おこる。   
2年 67363月、川原寺で一切経写経。   
11年68215行基出家する。
文武  2年69831薬師寺の建立ほぼ終わり、衆僧を住まわす。    
4年700333月10日道昭死す(72歳)、栗原にて火葬。 
大宝 元年701348月3日、大宝律令なる
慶雲 元年70437行基、生家を改め家原寺とする。   
3年70639行基、和泉国和泉郡に蜂田寺を建てる。   
4年70740行基、生駒の山房に移り住む。
和銅 元年70841行基、和泉国大鳥郡に神鳳寺を建てる。  
3年71043平城遷都。   
5年71245諸国の役民、都の造営に駆り立てられる。奔亡や、帰郷のとき飢える者多く、行基の布施屋設置はこのころからか?
霊亀 2年71649河内の大鳥・和泉・日根の3郡を和泉監(特別行政区)にする。行基、大和国平群郡に恩光寺を建てる。
養老 元年717504月23日、行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧する。   
2年71851元興寺建つ。僧徒の乞食を禁じる。薬師寺を平城に移建する。行基、大和国添下郡に隆福院を起工する。  
4年72053行基、河内国河内郡に石凝院を起工する。  
5年72154行基、寺史乙丸より屋敷を寄進され菅原寺を起工する。
養老 7年72356三世一身の法発布される。
神亀 元年72457聖武天皇即位。行基大鳥郡に清浄土院(高渚寺)と尼院を建立する。 
2年72558行基、河内国交野郡に久修園院を起工する。    3年72659行基、大鳥郡に檜尾池院を建立する。  
4年72760行基、大鳥郡に大野寺と尼院を起工する。
天平 2年73063行基、摂津国西成郡に善源院・尼院、兎原郡に船息院・尼院、嶋下郡に高瀬橋院・尼院を起工する。   
3年73164行基に従う61歳以上の優婆寒と55歳以上の優婆夷らに入道を許す。行基、摂津国河辺郡に楊津院・崑陽施院、河内国丹比郡に狭山池院・尼院、山城国紀伊郡に法禅院、葛野郡に河原院・大井院、乙訓郡に山崎院、大和国添下郡に隆福尼院を起工する。行基の狭山池修造はこのころか?   
5年73366行基、河内国茨田郡に救方院・薦田尼院を起工する。   
6年73467行基、和泉国和泉郡に隆池院、大鳥郡に深井尼院、山城国愛宕郡に吉田院、摂津国住吉郡に沙田院・呉坂院を建立する。  
9年73770行基、和泉国大鳥郡に鶴田池院、大和国添下郡に頭施院・尼院を起工する。 
10年73871このころ成立した大宝律令の注釈書に行基を精進錬行の大徳と記す。


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4、秋田県の行基に関連するもの

・温泉   湯沢市 鷹の湯温泉

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追記 2010・11・16
副島隆彦氏より


その前には、行基(ぎょうき)という男が聖武天皇(しょうむてんのう)のわきにいて、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)、奈良の大仏さまをつくる事業をした。おそらく2000人ぐらいの部下を率いていて、各地で土木事業を行っている。こういう技術も中国から伝来してきたものだろう。大事なことは水銀を持っていたということだ。この水銀を持っていないと、鉱山から、金を銅から分離することができないということがあったからだ。そのような技術を持っていた人々だろう。それが経済、あるいは生産活動としての初期の仏教が持っていた奇跡、あるいは、霊能者の才能に近いものとして、認められていたのだと思う。


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