2010年11月7日日曜日

03030■秋田の田村麻呂と大嶽丸

■古四王神社とは

古四王神社概要: 古四王神社の祭神は大比古命(こし王)と武甕槌神の2神です。創建は不明ですが当時四道将軍の1人と云われた大彦命が蝦夷遠征の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀ったこととされています。高清水にあった古代の秋田城の四天王寺(その為、地域も寺内と呼ばれた)と結びつきました。代々、秋田城介の崇敬を受け、江戸時代に入っても佐竹氏から六拾石を賜り秋田領十二社にもなり、明治9年に県社、明治15年には國幣小社に列せられました。古四王神社には「越王」、「胡四王」、「腰王」、などの呼び名があり秋田から新潟の日本海側に多く分布しています。現在の社殿は明治19年の俵屋火事で焼失した後、明治21年に再建されたものです。写真一番右側は古四王神社の境内社である田村神社です。延暦21年(802)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のときの戦勝祈願をしたことが創建とされています。

2010年10月7日木曜日

03034■古四王神社と齶田浦の神と恩荷




なまはげの郷、秋田県「男鹿(おが)」の語源にもなった肉食習慣のある蝦夷「恩荷(おんが)」が信奉していたのは、『日本書紀』によって「齶田(あぎた)浦の神」であることがわかります。

 この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。
 つまり、)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。

 新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。

 さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。
 不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。

 かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。

 つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。

 三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。
 日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。




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恩荷(おが、おんが、生没年不明)は、7世紀半ばの飛鳥時代に日本の秋田地方にいた蝦夷(えみし)の人物である。現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。658年阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、倭国の朝廷への服属を誓い、小乙上冠位を与えられた。


恩荷は『日本書紀斉明天皇4年4月条の阿倍比羅夫の北航の記事中にだけ現れる。この月に阿倍比羅夫は、180隻の船団を率いて本州日本海岸を北上した。齶田と渟代の二郡の蝦夷はこれを眺めて怖れ、降った。比羅夫の軍が齶田の浦に船を連ねると、齶田の蝦夷恩荷が、「自分たちは官軍と戦うために弓矢を持っているのではない。肉を食べるためである。もし官軍のためであれば、齶田の浦の神が知るだろう」云々と朝廷に服従を誓った。比羅夫は恩荷に小乙上を授けた。比羅夫はさらに北上し、渟代と津軽の郡領を定め、有間浜渡島蝦夷を集めて大いに饗応して帰った。
事績
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――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より――
夏四月、阿倍臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を討った。秋田・能代二郡の蝦夷は、遠くから眺めただけで降伏を乞うた。


比羅夫の侵略に対し、蝦夷は戦わずして降伏しております。そしてこの時、秋田の蝦夷の恩荷(おんが)は不戦降伏の理由について次のように言上しております。


――引用:前述書――
「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がおとがめになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」


 恩荷は齶田(あぎた)浦――秋田浦――の神の神意に基づいた決断をとったと見られますが、古四王神社の前身はこの齶田浦の神であったと考えられております。
 さて、前述秋田市内の古四王神社の境内案内板では、齶田浦神とはオオビコが奉斎した武甕槌(たけみかづち)のことであるとされておりました。
 そこにオオビコの裔である阿倍氏によってオオビコ自身が合祀され、それが古四王社であるとされておりました。



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2010年10月5日火曜日

030291■行基は渡来人の末裔

今日のNHKBS2の奈良時代総集編で行基は渡来人の末裔、および聖武天皇との関係が興味深く見ました。

文太郎の施行DNAさんにすべてが載っていました


第30回 渡来人 757 渡来人に姓をの詔

2010.04.09 第30回 渡来人 757 渡来人に姓をの詔

・45日間奈良一周

45日間奈良時代一周 第30回 757年 渡来人 渡来人に姓をあたえる詔


この年、
757年、武器や馬の所有制限がなされた。不穏な権力闘争を牽制するため。きな臭い戦乱の幕が開けようとしていた。
57年、渡来人に姓を与える詔。高麗・百済・新羅の人たちで望む者には姓を与えよ。
日本の人口の30%に達するという説もある。





「行基」
行基は、渡来人の末裔。行基の出身というのが分かって、その家が渡来人の末裔だった。行基が渡来人の末裔であることは、間違いない。
「行基」は、聖武天皇の時代、大仏建立に協力した僧。その素顔はどんなだったのだろうか?奈良時代に最も活躍した渡来人だ。

「続日本紀」

「小僧 行基」といわれ、よくない僧だった。仏教は国のもの、と「僧尼令」で、僧侶は寺の外で庶民に仏法を説いてはならない、と禁止されていた。
行基の民間布教は、重大な違法行為だった。行基は、国の秩序を乱す危険人物とみなされ、警戒されていた。

<飛火野>(とぶひの)

ここで行基は数千、数万の人を集めた。

<妖言>
行基は、民衆のカリスマ。どのような人々が集まったのか?当時の納税台帳。「逃」という文字が多い。重い税に耐えきれず、土地を捨てて平城京に逃げてきた人。地方から税を平城京に持ってきて、お金が尽き果て帰れなくなり、そのまま平城京に残った人。こういった人々の支持を集めたのが行基だった。
恵まれない人たちに仏の教えを説いて救済していた。

行基は大坂で生まれた。大阪。
行基は、近畿一円を歩き回った。
<堺市>
行基の開いた寺がある。土で作った塔。全体が瓦で覆われている。土で作ったという。高さ8.6m。土で出来た仏塔。

「土塔」

土の十三重塔。2009年に復元完了。一辺が53m。かつて、この頂上にはお堂のようなものが建てられていた。
土塔は、高度な土木技術で作られていた。行基は優れた土木技術を持っていた。
当時の僧侶は知識階級。仏教だけでなく、様々な学問に通じていた。
行基が土木技術に長けていた理由の一つには、渡来人が多く住んでいた場所に生まれ、そこには技術と知識が一杯詰まっていた地域だった。

<土塔の瓦>
行基がいた頃の瓦で、本物だ。
皆で行基を助けて、皆が瓦を出し合った。狭山池、堤防などを作った。その堤防は今でも活躍している。木津川に掛けた橋、「泉大橋」。
行基をバックアップしたのは渡来人だ。

橋の全長、383.6m。
行基の存在の大きさ。行基の元で働くことは徳を積むことだと信じる人が力を合わせた。その結果、行基が率いた工事は驚異的な早さで進んだ。

<喜光寺>
大仏の造立が始まった。
行基が認められるようになった。様々な社会事業を行う行基に、国造りに協力して欲しいと、聖武天皇は考え始めた。
聖武天皇は行基に「大僧正」の位を授けた。
行基は大仏建立の立役者。行基の協力なしでは、大仏の造立は不可能と考えた。
人望・実力・技術・人気。国民的なお祭りとなった大仏造立。庶民も仏教に近付いた。

行基は、大仏の完成を見届けることなく、この「喜光寺」で81年の生涯を閉じた。

<竹林寺>(奈良)
行基の墓。

行基が後世に残したもの。

寺        49
橋         6
ため池      15
無料宿泊施設    9
船着き場
堤防
用水路
等々

生前から菩薩と慕われていた行基。今、行基像は、待ち合わせの場となっている。行基像の視線の先には、完成をその目で見ることが出来なかった「東大寺の大仏殿」。


2010.04.09
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(まとめ)
・やはり行基は渡来人
・もっとも日本人の30%が渡来人であった???
・日本全国に行基開設のお寺がある・・・・田村麻呂伝説と同じです


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2010年9月29日水曜日

01125■イギリスのエイヴベリーニに「クロマンタ」が!









久しぶりですね、投稿は
グーグルアースでストーンヘンジやエイヴベリーを見ていたら、この情報に会いました。
エイヴベリーの小高い山のルベリー・ヒル(高さ39・5メートル)がクロマンタにそっくりだと!!

イギリスの巨石めぐり


イギリス巨石めぐりの旅12(ストーンヘンジとエイヴベリーの遺跡)  「ヨーロッパ旅行(23179)」
[ 不思議な世界 ]    

ストーンヘンジとエイヴベリーのストーンサークルが南北一直線上に並んでいるのは偶然ではありません。ちゃんと経線(南北線)を測量して配置したんですね。

なぜそんなことがわかるのか、ですって?

それは、私がその測量をした本人だからです(笑)。

本当に私が測量した技術者集団の一員だったかはさておき、エジプトから日本まで天空浮船で飛来し、東経137度11分に羽根ラインを築いた天空浮船(気球)族なら、ストーンヘンジとエイヴベリーに南北一直線上に二つのストーンサークルを配置するのはさぞ簡単だったろうな、と考えるわけです。

そもそもエジプトにいた天空浮船族がどこから来た一族なのか、わかっていません。もしかしたら、イギリスの巨石群を構築した後、エジプトに渡ったのかもしれないし、あるいはエジプトから四方に散って、一部がイギリスまでたどり着いたのかもしれません。

私たちの古代人や古代に対する見方は偏見に満ちていますから、まさかそれほどの技術はなかっただろうと思い込み勝ちです。しかし、私が退行催眠で見た前世ビジョンや秋山さんの前世リーディングにより浮かび上がった前世の映像を見ると、かなりの古代において、彼らが空を飛んでいた姿が浮き彫りになってきます。

そう考えると、彼らがイギリスや世界各地の巨石群を空から測量しながら、あるいは天空浮船の力を利用しながら巨石を運んで、それらを造った可能性もあるのです。

私たちはストーンヘンジ巨石群の複合施設とみられるウッドサークルを見た後、エイヴベリーのストーンサークルへと車を飛ばしました。もちろん空は飛びませんよ、念のために(笑)。

直線距離で28キロですが、道はくねくね曲がっているので、50分ほどかかったと思います。

エイヴベリーに着いて、最初に出迎えてくれたのが、この小山でした。

silbury hill

ヨーロッパ最大の人工マウンド(盛り土)とされるシルベリー・ヒル(高さ39・5メートル)です。まるで日本の古墳みたいですね。

私はこのマウンドを見た瞬間、エイヴベリーのストーンサークルがこの小山を含んだ複合施設であることを直感します。なぜなら、これはまさに秋田県大湯のストーンサークルと黒又山(クロマンタ山)の縄文遺跡とそっくりなんですよね。大湯のストーンサークルでも、サークルとクロマンタ山の位置関係がいろいろと論じらています。

そしてこの後、私たちは一つの村を包み込むほど大きいエイヴベリーのストーンサークルを見ることになります。

(続く=おそらく夜の更新となると思います。前回のブログに出てきた岐阜県の金山巨石群については、拙著『竹内文書の謎を解く』のP172「飛騨王朝のその他の巨石群」を、今回のブログに登場した大湯ストーンサークルとクロマンタ山に関しては、同P135「太古の神都・十和田高原 大湯ストーンサークル」をご参照ください)


最終更新日  2010年06月19日 17時17分39秒
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2010年8月24日火曜日

03029■タガノコフは多賀の国府でない









ホツマは鳥居礼さんの著書から、ヒタカミのヤマテ宮、タガのコフは多賀の国府としてきましたが、このような見方があるのですね。
私は多賀ではないと睨んでいますから、うれしい説です。

ヒタカミ、ヤマテ宮、タガは大変重要なキーワードなのです。資料として。 
鳥居礼さんのホツマの見方についても教えています。


真名の日本巡礼さんから


最後に、漢字表記とかな表記について、一言しておく。
ホツマについて、筆者は、漢字表記の恐ろしさを十分に理解していないと考える。
漢字表記を行うこと自体はかまわないが、それは、高度の研究者が、十分な注意を払って行うべきである。
日本でそれが許されるのは、池田満氏一人であろう。
ヲシテ文献について、学会での再検討を必要とする業績をあげているのは、事実上、池田氏一人であると言ってよい状態だからである。
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鳥居礼氏の書籍は、労作であるが、しかし現代語訳本にとどまるであろう。
その池田氏が、漢字表記に対して徹底的に慎重な態度を守っていることを、wikipediaの筆者は尊重するべきであろう。
なお、普通の研究者なら、漢字表記の恐ろしさは当たり前の前提であり、議論の余地はない。
Wikipediaのまさにその「外部リンク」から例を挙げる。

「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々

▲ オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下したような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
 日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年(七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
 もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それを伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものではない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴重な手掛かりとなりうるものである▲


この著者は、「タガのコフ」を、「多賀 国府」と訳してある。

しかし、原文にはもちろん「多賀 国府」なんて書かれてはいない。 当然であるがヲシテで書かれている。

イサナギ、イサナミのフタカミは「タガのミヤ」で治世を行った。
社会秩序の乱れや精神の闇を直して明るい、幸福に暮らせる世の中をもたらしたことを「タガ」と呼んだことが、ヲシテ文献から読み取れる。
オシホミミは、ヒタカミにミヤを移すのに際して、その治世を慕い、それを手本として治世を行うことを「タガ ノ コフ」と呼んだのである。

「タガ」はフタカミのミヤの名前であるのとともに、ヤミを治めるという意味が掛け詞になっている。
「コフ」は、フタカミの治世を恋い慕うといった意味であり、そのミヤをヒタカミに移植したということである。

そのような意味は、漢字はもちろん、カタカナからも脱落している。
ヲシテを見ないと理解できないようになっている。

そこには、「国府」という意味はないのである。



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2010年5月9日日曜日

011241■温泉から塩製造は特殊温泉



中央構造線研修で、遠山郷の鹿塩温泉で温泉から塩製造に出会いました。どこでもできるのではないようです。前に書いた大湯温泉でも塩製造か・・・は違うのではないかと想います。

1、鹿塩温泉

ここは、長野県、南アルプスのふもとにある大鹿村。

鹿塩温泉 塩湯荘は、創業明治三十七年。

山奥なのに塩辛い、不思議な温泉の宿です。

【引用はじめ】

ちょっと、寄っておいきて。

みんなは、大鹿村がどこにあるか、知っとるかなむ?

伊那谷から、南アルプスに向かって、まっと、ずう~~~っっ・・・

・・・・・・・・っと(20km)山奥に入った、山奥谷なんだに。

そこには、昔っから海のようにしょっぱい塩の泉があってなむ。

鹿がそれを飲んでおったから、見つかったっちゅうことで、

平安の時代から、ここは、鹿塩(かしお)と呼ばれとった。

こんな山奥じゃあ、塩は何ちゅっても貴重だったで、

ここは特別な所な。

不思議だなむ。

2、塩を製造している



















3、成分はマグネシュウムが非常に少ない
onsen_column_vol4_02.jpg

謎の鹿塩塩泉は、海水と同じぐらいの塩分を溶かしています。

塩分といっても、いろいろな成分があります。

鹿塩塩泉と海水の成分(グラム/リットル)
成分(イオン)鹿塩塩泉海水
ナトリウム10.6010.77
カリウム0.160.40
マグネシウム0.071.29
カルシウム0.360.41
塩化物19.3019.35
臭素0.040.07
硫酸0.012.71
炭酸水素-0.24
サラサラの食塩泉
圧倒的に多いのが、食塩分、塩化ナトリウムです。
ナトリウムイオンと塩化物イオンをあわせて
1リットルに3グラムもあります。
この濃さは海水と同じです。
けれども海水に多いニガリ分、
マグネシウムイオンは、ほとんどありません。

やはり海水に多い硫酸イオンもほとんどありません。
カルシウムイオンは、海水よりやや少なめです。

このように、鹿塩塩泉は海水よりも純粋な食塩水にちかく、
ベトつかない塩水です。
原水の塩分は海水よりも濃い
塩泉は、地下のどこかにある"もとの水"と、
ふつうの地下水がまざって湧いてきたものです。
鹿塩の"もとの水"の塩分は、海水よりもずっと濃いはずです。


4、なぜ山で塩が
海のない信州で塩採取!?

なぜこの地に塩泉が湧き出るのか解明しようと乗り出したのが、黒部銑次郎でした。

明治9年から黒部は岩塩鉱を求めて発掘を始めましたが岩塩は発見できず、その後黒部は製塩を開始しました。

当時発掘作業時に掘った洞窟が現在も存在し、洞窟には実際に入る事も出来ます。


現在黒部銑次郎が半生をかけた塩泉の遺志を受け継いで製塩事業と旅館を営むのが


「山塩館」4代目主人平瀬長安さん(67)。


明治38年に塩の専売法の施行で途絶えてしまった塩作りを近年復活させ、


宿の敷地に製塩施設を設け、塩を作っています。


隣接して流れる川は真水ですが、川床から10mも掘ると塩泉が湧きでてくるそうです。


一般的な食塩は、ほぼ塩化ナトリウムによって構成されているのに対して、


山塩は口の中で苦味やべったりとした印象を与えるマグネシウムが少ないので、


さらりとし、ショッパイ中に甘みを感じる特徴的な味わいです。


また塩分のほかに、温泉成分も含まれています。


「どうして山でこんな美味しい塩がとれるのか原理を証明する事は出来ないが、


キレイな水と空気、緑から出来る塩だから美味しい。


わからない事を追い求めた男のロマンを受け継いでいきたい」と主人は語ります。


この塩を使って山塩館では、お風呂のお湯も塩泉を使用し柔らかい肌触りで良く温まるそうです。


また食事も岩魚や特産の鹿肉、豆腐を塩で食べるなど山塩を存分に堪能することが出来ます。


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(まとめ)
・塩が取れる温泉はありますがごく少ないようです。
・何故かの原理もよくは分からないようです。
・鹿塩温泉の塩の成分はマグネシューム(にがり)が極端に少ない。
・マグネシュームが少ないことは今の人工の塩に近いのでしょうか。


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2016/4/9
秋田市新屋温泉で「温泉から食塩」
秋田魁新報より

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