2011年12月4日日曜日

■寺内町史にあった「大韃靼人論」

白柳秀湖の「大韃靼論」を最近発見したと思っていたら、何回も読んでいた「寺内町誌」にありました!!・・・心ここにあらざればですね。



1、寺内町誌とは

昭和22年9月5日 寺内史談会のてになる「寺内町誌」は334ページからなる、先人の努力のたまもので、我々の寺内の史跡探訪会のバイブルです。
寺内の歴史で特に面白い(!)のは「口碑伝説」です。中心をなす古四王神社も火災にあってますし、旧家にも資料が残っていないのだそうです。したがって「口碑伝説」として伝わっているのが主なことなのです。
口碑伝説を担当しているのは地元の岩谷嘉市氏です。
岩谷氏の文章の中に白柳秀湖の文章が載っていました。読んでいたのに、その時はまだ心に響きませんでした。・・・・今は、すごい人であったんだと尊敬しています。





















2、寺内町誌から引用
P169~170

『附記』
阿部比羅夫(阿部臣)、坂上田村麻呂等の征討せられた所謂「蝦夷」とは従来は今日北海道に残存せるアイヌ族の祖先と考えられて居った。
これを強く否定して韃靼人、もしくは靺鞨人(渤海人)なりと主張する学者は白柳秀湖氏である。以下白柳秀湖著「民族日本歴史」及び「国難日本歴史」より其の主張の主眼点を抜粋して参考とする。

われわれは同じ「蝦夷」の文字をその時代によって読み分ける用意がなくてはならぬ。
すなわち記、紀の上に於ける蝦夷は大体に於いて「えみし」と読むべきだ。「続日本紀」「日本後記」と歴史の進むにつれて「蝦夷」の文字は「えぞ」と訓まなければならぬ。

しかも奈良京の末から平安京にかけての蝦夷は、もうアイヌ人のことではなく今の庄内、秋田地方から北上川の流域に押し出してきた韃靼人のことと理解されねばならぬ。

日本歴史の上で「東夷」と蝦夷とがはっきり区別されなければならぬことを最初に主張して居るのは著者の知れる限りに於いては三宅米吉氏である。(中略)駿河国以東、常陸、磐城地方にかけてはびこって居た東夷は黒潮本流の支配によって分布されたインドネシア人と見なければならぬ。従ってこれは九州では隼人と呼ばれ、大和、紀伊地方では何々の八十梟師と呼ばれて居た勇猛精悍なる南種の一派で「蝦夷」とは全く別人種見なければならぬ。

斉明天皇の四年には、高志(越)の国司阿部比羅夫が、積極的に会場から飽田(顎田、秋田)淳代(能代)の靺靼人植民地を襲った。
これは陸路をとって出羽の境に入るよりも、遥かに得策であった。
さしもの靺靼人も、阿部比羅夫の鋭鋒にあたりかねたものと見え、その酋長恩荷なるものが出で迎えて降伏した。そこで朝廷は恩荷に授くる小乙上の冠位を以ってし淳代、津軽の郡領を定め、渡島の靺靼人をも有馬浜に会して大饗宴を催した。渡島とは北海道の渡島ではなく、佐渡島のことである。佐渡はその頃、一島殆ど靺靼人の占拠するところとなっていたらしい。云々。

桓武天皇の時、坂上田村麻呂が抜擢せられて征夷代将軍となり、蝦夷(大韃靼人)の経略に任じられた。
(中略)恰もこの時代のことを記録した国史「日本後記」の一部が湮滅して伝わらぬため、

田村麻呂将軍の英邁を以ってして、僅かに打克つことが出来た大韃靼人の奥羽地方に於ける動静及び官軍との戦況を詳しく知ることが出来ない。

故に日本の歴史には、坂上田村麻呂将軍の東征ということが、一面著しく魯鈍で、お人好しでありながら、他面その固有の血統と文化とに対する矜持の徒に高い為に、千年一日の如く進歩なく発展なき生活を送っていたアイヌの気まぐれな叛逆かなどのように軽く取り扱われてしまってい居る。
しかも平安京時代にはアイヌは奥羽の地には影も形も残っていなかった。

白柳氏は享保中長崎の訳官中野柳圃が翻訳して「鎖国論」と題したケンフェル(ケンペル)の「日本志」を引いて蝦夷即ち大韃靼人説を立證して居る。


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ここまで書いてあるのに・・・・


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