2013年2月9日土曜日

■特別史跡 大湯環状列石発掘史(1/2)


特別史跡 大湯環状列石発掘史
 大湯郷土研究会

1,昭和17年遺跡発掘日誌
この発掘は大湯環状列石に関しては全く一つの時代をつくる大発見でありますので、ややもすれば学術的でないとかいうて、忘れ勝ちでありますから我等はここで当事者の最大関心を以て事に当たったことを回顧します。そこで資料として最も確実な、大湯高木新助先生の「中通遺跡発掘日誌」紹介します。
日 誌
1,       昭和17年6月28日東京神代文化研究所員吉田富夫(考古学者、今名古屋の文化財委員)小寺小次郎(神代文化)両氏大湯到着。諏訪会長会見、予ねて吾が地方古代先住民遺跡に関する調査方交渉ありたるもの、今回一歩進めて実地発掘研究の目的を以って其の打合せ方々来訪したるものにて、29日会長案内して遺跡表区の調査を為し翌30日は迷ヶ平へ行き古代神都としての地勢其他の調査を為す。
2,       越えて7月8日付け書面を以て本月16日吉田富夫氏東京出発18,19日両日発掘準備、同20日小寺氏、22日もと神代文化会長田多井氏到着の旨通知あり、人夫雇人の準備する。
3,       両氏対諏訪会長の間に於いて左の取極めを行いたり。
    発掘作業に要する一切の便宜並人夫の雇傭は本会にて斡旋する事。
    所要物件購貸借人夫賃金諸雑費及調査員の宿泊費等一切の費用は神代文化研究会に於いて負担支払いを完了する事。
    出土品は全部本会に補完するものとするもの同種同型のものの内より其の選択に任せて文化研究に提供する但出土品はなるべく本会研究室に保存する事。
4,       7月17日午後3時より開催の本会総会は右発掘に関する会長の処理を承認す。
    以上 昭和17年7月20日

 日 誌  (昭和17年)

7月 8日 神代文化研究会小寺小次郎より諏訪会長宛発掘調査日程準備方申込書面到着
7月17日 本会総会を湯の上(諏訪氏本宅)に開会し右申し込みに対し会長より承諾の旨報告承認を求む満場異議なく承認し準備協議をなす。
      今日速達を以て出張予定の調査員急病に付き出発不能21日まで延期の通知あり。
7月21日 研究所員小寺小次郎主事着。
      青年学校生徒の出動を九島校長に依頼。
      遺跡管理人安村広治を招き再び人夫の手配を命ず。
      尚現状使用のテント借入現地所用の器具借入方打合す。
      テントは電話にて学校所蔵のものを借りる事にする。
7月22日 雨の為に出動し得ず休む。午後に会長田多井四郎治氏来着。
7月23日 雨晴後出動人夫4人、学校よりテント借り遺跡前にて休憩所をつくる。其他準備する。田多井氏の現状到着にて露出面踏査発掘方針きまる。
7月24日 出動人夫13人
      出土品により新に指定発掘。地表2尺5寸下に深さ5尺内径4尺に近き定洞(尤も掘返し土充満)カメ型の穴に掘り当たる。南区石群より6,7間を距る正北にあたる地位なり。(宇野中堂)
      同日北区にも着手。(字万座)

7月25日 快晴 出動人夫12人 
      田多井氏の指示にて南北両方面人夫を分けて掘る。(図1、2参照)



      田多井氏曰くかく如き石群の環状をなせるものは既往の各地踏査中かって見 
                   ざるものなり。出土品につきては其の紋様により断じてアイヌ族先住民の製
                   作にあらずして日本人のもの、わずかに大和民族の特徴を見る。飛騨の高山方面のものと同一なるも土器硬度に於いては飛騨の方まさる。
      
      新たに発見したる穴の底部より出土した楕円形の丸石は人工を加えたるものにして既ち此の花崗岩質の石の霊代(ミタマシロ)という小鏡にかたどりたる石の(壱個ありたる)出でたるによりて全く墓なりと断ずべし、南北両面に渉る石群の連鎖状に存在するものは何たると断言するのは尚早なればよく研究を為すべし云々。
      楕円形の石は反面は滑らかに光沢を有し半面は崩壊したる粗面なるも肉眼に見得る金粒の付着せるは珍重とす。外には研磨の用に供したるものと推定せらるる砂岩の極小なる(全面的に光沢を放つ)銀色の細粒を密集せるもの長さ7寸、巾23寸の湾曲せる石の出土せるは同墓穴の上部より発見するもの人夫等は金剛砂砥が出たとはやし立てたる程なり。土器の破片は例により多数多片にして其模様も種々なりしも完成形なるは1個もなし。


7月25日 午後4時田多井氏は毛馬内駅より乗車帰京せらるべく出発。作業完了後に再来調査せらるる由なり。
      本日北方地区へ木戸を結び、立入禁止の木札を掲げたり、南方地区へは神代文化研究発掘作業場の立札と許可なくして入るべからずと立札を建つ。昨夜午後7時より学校に於て田多井氏の神代文化に就いての約2時間に渉る長講あり、研究会員の出席20余名聴衆の少さは突然の催しにて会員のみ通知を発したるが為なり。
      当日現場に参観したるは浅井小魚、内藤与一、諏訪貞治、大村顕竜、学校長九島与次郎、木村次郎、大里愛身、柿崎一郎、高木新助、諏訪会長の諸氏。
      諏訪会長は連日欠席なく現場に出張。
7月26日 快晴 出勤人夫10人
      人夫賃金3円にて日払せり。本日の掘方を以て一時停止。明日より研究所より調査員来着の筈。
      排土は当分其儘。覆土還元せざる事として次の調査に便する事と打合す。
      本日会員、米田泰次郎、内藤与一、高木新介、現状にのぞむ。
      小寺主事より会長及び高木に対して、鹿角全体の地図、現場より見たる四周の山垣、遠近の展望を写生的に作成する事の希望あり。尤も小寺主事の写真及び発掘の記事は追って報告発表ある筈なり。印刷一部は郷土研究会に寄贈を約す。
      帰途学校に立寄り四周の山々写生を校長に依頼、快諾せらるる。
7月27日 休養
7月28日 晴 人夫6人
      昭和17年7月24日掘り当てる。中は黒ボク火山灰の金剛せるものにて充実せるも鍬先には頗る柔軟の感あり木炭の尚形を存するもの。土壌の黒化せるもの等存在せり。出土物としては楕円形の花崗岩質の金粒を付着せるもの1個。穴の底部北方より出でたり。果たして金粒なるや疑問なり。穴の広さは人夫一人スコップにて土を自由にかき上ぐるに差支えなく底部に立てば周辺は丁度胸部に当れり。
      本日は南区中央部に於いて完全なる次の石群を発見(図4)。

      之は当時のまま、現存せるものと推定す。其の形状の中立石の頂点は火山灰層の底部に接続す。
      各石の外輪の形状な四角を構成し繋ぎの長方形石は横臥す中央に一本、四隅に各一本ずつ、立体の内部に何者も存せず。其の隣接には乱雑せる石群の2,3組存在せり。
      神代文化研究所より理事石井作次郎、理事長中村愛作の両氏来着。
7月29日 晴 石井、中村両氏現場視察の上小寺氏帯同下山。
       前日発掘の方形石群は全く従来の乱雑形状と反して其の存在立脚の正確なるに驚き且つ其の意図の那辺に存するやを研究判断する要、切なるが故に更に其の近隣地に金棒を挿入し探査したるに確かに手答えあり。之を掘策せるに果たして建設当時姿勢のままなるものを発見するを得たり。建設当時の姿勢を現存する既に不可思議と感ぜらるる以外、その建設意図の昭和現代人の構想にも似て更に古代人の智力の累積がかかる逞しき建設を果たしたる文化の表現として紋仰ぐ外なく、尚深く研究を進めて古代文の偉大なる生活様式を明徴ならしむべきものと信ず。
      (此 日誌に挿入しているもの)
      『出ました驚き入り申し候 本日埋める考えです。
        昭和17年7月29日                       

諏訪 富多


             
  
       第二の発見は本図(図―5)の如く大丸石を繋げば東西南北指し、中央立石は長さ三尺に近く、花弁即ち十六の御紋章に似て、立石より放射する丸石間には四方四個特に長大なるを布置せる何たる偉観、何たる壮観、数万年を埋没経過したる此の建設物は古代人が当時既に其の理智構想に於いて一大文化を有する民族にたるを語るものとして、唯々驚嘆の目をみはり、感激の声を発せざるを得ざるなりき。
       あゝ幾万年の星霜を閲したるべき此の地下三尺に埋没せられ、聊かも外圧震動為に享くべき破損の瑕疵、移動もなく、建設当時其の儘の状態を存せる点、尚其の構想の表現に於いて、何等か正確なる意図を有するものと見るべきは方位の正確なる指示に立脚せる点、かかる深奥なる理念の上に構成せられたるべしと感ぜらるる点をのみ総合して考察するも、当時既に文化を有し、天文学的の高き思索の錬成を遂げたるものなるべし推定せざるを得ず。
       更に此の中通地域一帯は土堤区画内は言うに及ばず、其の連担せる埋蔵を全面的に発掘、その全貌を露呈せしむる必要を痛感すると共にかくて後、始めて結論を求むるの適切なるを信じる。
       かって本会が発掘発見当時に於いて、かかる重大性の埋没を予見予期したるものとは公言せざるも、必ずや学会の重要資料の宝蔵たるを確信して、昭和12年此の本会意図の下に、進んで保護管理の責に任じ、先住民中通遺跡と名称し、碑のウラ面にその由来と期待を刻して篤学権威の到来にまちたるもの、今回神代文化研究所理事の田多井四郎治先生来湯、即時ヒモロギ、イワサカと(墓地)断定せられたる点は聊か我等の理解に遠しとするも、必ずや学会の注目に値し、問題の重要性を発揮させるべし。故に今後の掘索作業は北方地区は尚広汎なる大規模の地域たるを想像せらるるに依り、先ず南方研究の決論的結果により、更めて探査の歩を進むべきものとして、現在の掘索は中止して南方に専念する事を希望した。

7月30日 晴 出動人夫4人
     此日掘索主任安村広治氏実弟 応召出発に付き休
      来訪者、浅井小魚、米田文子姉、ホテル夫人其他女性多数。
      国民学校職員多数。
      中村理事長来場、第一、第二の発見に驚嘆の声を挙げられたり。

7月31日 晴 出勤人夫3人
      本日正午迄、田多井氏再来、掘索跡を一巡して環状石群内に更に一環の石群発見と第一、第二の建設完全出土物に対して多大の感激を声言せられ、此平原に存布する石群は、従来かって類例なきものにして其の何たるやは今直ちに断言を為し得ざるものなるも、ヒモロギ、イワサカと目すべき構想たるは疑いなし、よく考究すべしと、少魚翁の天文文学的観測説並に舟形石は供物台として見るべしとの推定説に対しては注意を喚起せらるたるものの如く、少魚翁は方位石と仮定して研究を続ける。
      午後4時中村氏は現場より毛馬内駅に出で帰京せらる。
      同氏談に此区域の掘索は大湯状内の全面を掘り上げて見る事と、周囲及び柵は何か人の余り立ち入らざるよう保護施設の必要あれば諏訪君に後事を御願して一切の採索工事を監督し小寺君も東京に用便の為め出京中は代理施行を願うべしとの意を表べられた。
      来場者は浅井、内藤、高木、米田恒太朗氏、其他花輪高等女学校生百余名受付、教員に引率参観された。
      此日の掘索は第一より右へ更に環状の石群が顕れたるを見る。

8月 1日 晴 出動人夫8人
      8月2日 雨 出動人夫5人
      大館中学生百名産館す。
      尚掘索を継続し、且つ出顕建設物の保護保存の方法を購究する為め、一時的作業を中止する事に決定。田多井、小寺両氏は各、明日出発帰京せらるる事になり、予期以上意外の収穫を収め得たるは、本会積年の期待を満足し、汎ろく学海の問題ともならば、重大なる社会的貢献たるべし。2日夕刻より大湯ホテルに於て両氏慰労の意を表する為め、有志晩餐会を開会、席上座談として田多井氏の見解披瀝は会員に深き感銘を与えられたり。会者、諏訪会長、浅井小魚、諏訪重忠、上野実、柿崎直一郎、米田泰次郎、松橋鉄之助、千葉盛、米田恒太郎、高橋、大村顕竜、内藤与一、安村広治、高木新助、諏訪才郎、谷地政人の諸氏。会費弐円(食膳代)
      酒類其他は会計より支出す

八月 3日 出動人夫2人
      本日は掘上土の片付、テント諸道具借入器具の返却運搬に従事。
      小寺氏午後二時バスにて出席帰途につく。出発に際し会長と次の口約をなす。再着手なるや否やは不明なるも、9月末に決定。依て其間一昨日の掘残部分は継続せられたく、まずその賃金費用として金五十円を会長に預け置き、精算後不足ならば、早速送金すべし、保存方法につきては帰京後、研究の上申上ぐるべきも、とりあえず適当と思惟せらるる方法にて立ち入り触手を拒ぐ方法を講ぜられたしと。但し此会計に対しては本会としては関知せざるものとす。
      夕刻安村は諸道具を運び来たれり、予て明日より人夫4名だけ出働、昨日の接続地を掘索する事を依頼す。
      此日馬淵写真屋、写真を仕上げ受け取る。大判4枚、小判二つ、八つ。
8月 4日 半晴 人夫50 諏訪会長監督す。
      此日南地区南端に鍬を入れせるに又々連続して石群の布置せられたるを発見、
益々全面排土の必要を通関す。

8月 5日 半晴後雨 人夫5人
      同上大環状以外の地区を索探せるに必ず当る。弥々大規模の計画を樹立して全面的に覆土を排除して布石の全貌を顕し、然る後研究の歩を進無べきと断ず。
      営林署主事岸部二郎、委嘱せる測量図出来。

        
      (図-6)地殻構成の見取り図
       昭和17年8月5日現地北方対岸腰廻上ミノ崖崩れして明瞭に看取し得る地点。数字は目測推定なれば正確を保てず高木新介先生の日誌のうちに次の新聞記事が挿入されている。これは昭和17年8月5日野東京日日新聞秋田版であります。

      「国立公園十和田湖の外郭ともいうべき、高台になっている鹿角郡大湯町中通万座台の火山灰の中から神代文化の遺物が発掘された之は昭和11年ひもろぎ研究の旅を全国につづけていた東京市京区築地3の6築地会館にある神代文化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った際に非常に珍しい土器の壺を見て田多井氏は発見現場を視察し、なに事かうなづいて帰京したが、その後あらゆる角度から土器の壺発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物のある事を同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪市の協力を得て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘作業が続けられているが、未だかって全国に其の例を見ぬ日本神代文化を研究する上に絶対必要とされている。直径二十間と三十間の川原石で組み立てた建設物の大きな遺物及び東西南北をはっきりしめしたいろいろな川原石で立てたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中から発掘され、田多井、小寺、諏訪三氏を狂喜せしめている。又此の外、前記の遺物発掘場所よりあまり遠く離れていない所で深さ七尺直径四尺の縦穴を発掘下ところ、この縦穴の中には立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見そして穴の底はセトモノを焼く粘土が塗られ、穴の周囲には朱が点々とまじっている。現在発掘された遺物は如何なるものであるか未発表のままであるが、田多井氏の研究発表の暁にはわが秋田県は神代文化の中心地であったのではないかといわれる。又続々発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る。
       「現在発掘作業をつづけている場所から出る土器は決して、アイヌの遺物ではない。発見された破片のなかには日本民族の遺物といわれる銅鐸に書かれてある模様と殆ど同様、寸分たがわぬといってもよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいづれも石の遺物にしろ金鉱石の鏡にしろ土器の破片にしろ全部が最初の火山灰のなかに埋もれてあったということは、いかなる学者が来られても事実に立派に証明している。さて発掘された遺物は何であるかという事は只今お話は出来ない。然し私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物神代のものだということだけはお応えできる。それに簡単に年代の判る方法は所謂火山灰はどの位の年代が経ったら、ジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当ついたなら、いま発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」
       と言い、田多井氏は5日小寺氏を現状に残して一まづ東京、これまでの発掘経路と遺物について同研究所理事会に詳細報告する。」
       
       岸辺二郎氏に委嘱せる実測図二葉あるも、いまこれを略す。後年昭和21年に後藤守一教授実測せられたものある為に。此時木村健二郎先生(当時東京大学化学主任教授)を所長に頂いた地球科学研究所の生徒等に手伝わせたのである。これは主として、大湯出身の理学博士浅利民弥氏の御尽力に於いて諏訪氏本宅に設立した塾であったが、研究は却って東京が条件がよくなり引き上げられた。(霊泉記)8月某大会社重役、鉱山会社技師長某氏。
       
(これは高木先生某氏の名誉の為に特に名を秘された)出土品現地調査の希望を会長まで申出あり、会長先導案内す。道々重役氏曰く、「十和田湖の爆発は人類が此地に発生前の事実にして少なくとも二万年以上昔の事故、火山灰下に御話の如き造営物ありとせば其の火山灰は十和田湖爆発物にあらず」と力説しつつ現場に至り、現実を見て驚き且つ其の構想に深く感謝し、先刻までの主張を撤回せられ、尚喜田博士が当時言われた言葉を告げたるに「イヤ博士にして其言ありしとせば後輩の我々が云々の資格もなき
次第」と哄笑。

8月2日に発掘を中止、更に第二次の日程は、神代文化研究所理事会に於て、協議の上決定するとの事なり。跡作業は会長に於て処理すべく打合せられたり。尚第二次の工程は会長筆記することとす。

 
2,保存考察
       野中堂の絵図(略す 霊泉曰く大湯郷土研究会煮保存)
1,       南区緑色の部は全面掘索を試み出土物あるときは之に応じて其の周囲を土盛りする。
2,       褐色の部分は捨土を利用したる高さを適宜に定めて関連する通路とする。
3,       周囲区画土堤は竹矢来を結ぶも積雪のため案外短命なるべし。依って生垣を造成する。樹種は考究の上。
4,       発掘せられた部分は覆土せず。其儘とし新掘索部は一体に平等深度に排土する。
土器類写生図  (略 研究会に保存)
岸部氏実測帳  (研究会に保存)
       大橋教授片信写
       前略古代人類遺跡に関し愚考するに今日我々が方法を云々するに北を基準にとするは日本古来の思想にあらず、支那伝来の風に如うるに欧州文化の拍車をかけられし結果ならん。文化低き民族にも東と西は認識し易く殊に日本海側に面する地方(裏日本の名は不可)に於いては西を基準として他の方位を定めたる事まことに自然なりと存じます。磁石を用いる我等の生活から離脱して判断すれてば前記の如く容易に解し得られるに非ずやと考えます。
       一寸参考までに
          10月6日   大橋 良一
       上は9月下旬三叉鉱山調査来湯節帰途、中通遺跡跡実見の際、案内に起たれたる諏訪会長に対し方位石と仮称する構造物に対する見解の一端を述べられたるもの、片言の一部を適録したるものなり。
       高木先生の日誌は以上を以て終わり、第二次中通発掘日誌、担当諏訪会長として、次の如く綴られている。

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