2008年11月4日火曜日

01302■世阿弥について





「あの人の人生を知ろう・世阿弥」から

【世阿弥】


12歳の美少年世阿弥の愛らしさにメロメロになった。以降、義満は観世座の熱心な後援者となる。
義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えていたという。側近たちはこれを嫉妬し、内大臣は当日の日記に「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書きつけている。


1384年(21歳)、父が巡業先の静岡で急逝。世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐ。

観世座の能が大衆向けで演劇色の濃い、物真似中心の「面白き能」であったのに対し、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。
義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇する。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人でもあり、世阿弥も素直に犬王を絶賛、もろに影響を受けて自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していった。

1400年(37歳)、「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」など父の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著す。風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、このような書物は世界にも殆ど例がない---

能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。


1408年、45歳の時に義満が死去し、4代将軍義持の治世に。義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手・増阿弥を寵遇した。増阿弥の持ち味は賑やかであるはずの田楽の中で、尺八を使う「冷えたる能」。尺八の渋い音色は舞を“冷えに冷えた”美にした。都は増阿弥が主催した公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。しかし、世阿弥の長所は柔軟さにある。彼はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が、高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって高め続けられた。また、立ち止まって能という芸の深さをじっくり考える時間ができたこともあり、能楽論を次々と執筆していった。

1428年(65歳)、義持が他界すると6代将軍義教が就任した。ここから世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。義教は兄弟の義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、また能役者も世阿弥よりも音阿見を好んでいたので、世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。

66歳、世阿弥親子は突然御所への出入りを禁じられ、翌年には元雅が猿楽主催権を奪われ、義教はそれを音阿弥に与えた。こうした事態から未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。
世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗したところ、将軍に謀反した重罪人として逮捕され、実に71歳という高齢で佐渡に流されてしまう。

1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳になっていた世阿弥の配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で亡くなった。


現在、能の演目は全部で240番。このうち確実に世阿弥の作品だと判明しているのは

『高砂』『忠度』『実盛』『井筒』『江口』『檜垣』『砧(きぬた)』『老松』『頼政』『恋重荷』『野守(のもり)』『西行桜』など50番以上ある。そしてこれらがすべて傑作揃いというからスゴイ!

「能を舞うだけでは能を究められない、作ってこそ奥義に到達できる」と考えた世阿弥は、歌舞と幽玄の魅力を最大限に引き出せる理想的な作品を自分の手で作った。
そして大半の曲が650年前に完成した当時と同じ詞章(ししょう、脚本)で演じられている。和歌を詠むように響く言葉、心に染み入るメロディーの楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇になっている。


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(まとめ)
・世阿弥の謡曲(錦木)は、田村麻呂伝説に続く蝦夷の歴史をカモフラージュするものとにらんでいますが、まだこれでは分かりません。

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