2010年11月12日金曜日

■桓武天皇の蝦夷政策


はての塩さんより

桓武天皇の征夷政策

 東北地方の歴史的観光名所を巡っておりますと、頻繁に出てくる人物名があります。
「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」「源義経(みなもとのよしつね)」「松尾芭蕉(まつおばしょう)」他にもまだまだ見かけますが、特にこの四名はよく見かけます。
そして不思議にこの四名は、時代を超えて同じような場所に名が連なっていることに気づきます。芭蕉であれば比較的時代が下り、本人の記録が残っているために信ずるに足る部分があるのですが、他の三名については伝承を鵜呑みにすれば超人的バイタリティでみちのくに足跡を残していることになってしまいます。
特に田村麻呂や円仁に至っては東北地方の主だった寺院を「興した」ことになっております。
東北地方の古寺には彼らが開基したというものがすこぶる多く、おそらくその多くは後世に創られた伝承かと思われますが、だからと言って所詮伝承だと切り捨てるわけにはいきません。度々申しあげておりますが、それらの伝承が残るためのそれなりの理由があるはずと思うからです。
しばし田村麻呂と円仁の各々の役割を考えてみたいと思います。
思うに慈覚大師円仁は、みちのくに既に存在していた聖地を訪ね歩いているかのように見受けられます。
いや、必ずしも円仁自身が歩いたものばかりではなく、「天台宗」の一派がそういった聖地を探し求め、寺院を開基していったのかもしれません。そんな彼ら一団が後世「円仁」としてひとくくりに呼ばれたと考えるのが自然でしょうが、そのいわゆる「円仁」は何故徹底して陸奥や出羽に寺院を開基していったのでしょうか。少し当時の歴史的背景をのぞいてみます。
円仁は、師でもある伝教大師最澄が、あたかもコンプレックスを克服するが如く求めたこともあってか唐に渡り「密教」を会得してきました。それは最澄自身が果たしえなかった悲願の達成でもありました。これによって、最澄が創始した天台宗による、言うなれば比叡山総合仏教センターが完成されたようです。
円仁の師匠最澄は天台宗こそが最上であると信じ、それが時の政権に支持され援護されました。最澄は桓武天皇の信任が厚く、その期待を担って遣唐使に任命され、見事に天台宗、いや誤解を恐れずに言うならば「大乗仏教全般」の奥儀を獲得して帰国しました。
しかし、その総合仏教センターを運営するにあたって、実は「密教」についてだけは会得した満足感を得られていなかったらしく、ライバル空海にその教えを乞うたようです。   
ところが、最澄と空海には密教に対する認識に大きな隔たりがありました。密教を一教義としてしか捉えていない最澄と、密教こそが完成された教義で他の全てをひとくくりに「顕教(けんきょう)」として区別している空海とでは相容れるものではなく、そもそも成就するわけがありませんでした。決裂は当然といえば当然の帰結だったのかもしれません。
しかし、最澄にとっては皮肉なことに、時代そのものはあきらかに「密教の呪術性」を要求していたと思われます。
桓武天皇は、ある意味で自分が歴史の中にいることを強く認識していた改革者なのかもしれないのですが、一方で、自らが無実の罪で死に追いやった早良親王の祟りをはじめとするあらゆる厄災に怯え続けた陰気な側面も併せ持っていたようです。

イメージ 1

↑奈良市薬師堂町「御霊神社」で見かけました。祭神に桓武天皇の恐怖心が滲み出ております。

 そのためか、当時最新の科学「陰陽道」を駆使したかに思われる平安京への遷都や、不吉な鬼門方位に存在する蝦夷の征伐といった途方も無い「国家プロジェクト」を連発しました。これらはいずれも怨霊封じらしき宗教的な側面を強く感じさせます。そんなところからも、どうやら呪術性を秘めた密教の活躍する余地はたぶんにあったことでしょう。
桓武天皇にとって、平安京の鬼門に存在するまつろわぬ異国の野蛮な民、「蝦夷」は耐え難い恐怖だったに違いありません。
また一方で蝦夷の地は黄金の一大産出地でもあり、欲にくらんだ政権担当者たちの煩悩を刺激しました。
蝦夷は必ずしも野蛮ではなかったと思うのですが、軍事力行使の正当化のためかそのようなイメージを創作されたようです。
いわれなき侵略を受けることになる蝦夷は蜂起しました。特に胆沢の雄「アテルイ」を頭とする軍は、巧みなゲリラ戦法で朝廷軍を撃破しました。その後10年以上も侵略政策をやめない朝廷軍を翻弄したわけですから、よくよく考えれば日本史上でも最大の抵抗勢力であり、ひょっとしたら一つの国家でも築いていたのでは―対外戦争では―ないかとすら勘繰りたくなります。
しかし、アテルイと言えども、攻めて来る軍を撃退は出来ても、平安京まで攻め上れるわけではありませんので、最終的には物量に勝る朝廷軍に勝てるわけもありません。
朝廷の雄「坂上田村麻呂」が征夷大将軍に任命されると、アテルイは徐々に劣勢となり、やがて蝦夷は敗北します。どちらかといえば、10年以上も抗い続けたアテルイを田村麻呂が懐柔したと言ったほうが正しいのかもしれません。

イメージ 2

↑悪路王(≒アテルイ?)が籠ったとされる岩手県平泉町「達谷窟(たっこくのいわや)」

 田村麻呂は蝦夷に同情的で、また京の貴族たちと異なり彼らを対等な人間として捉えていたようでした。もしかしたら、一説に田村麻呂自身が渡来系の血統であったといわれることにも起因しているかもしれません。
田村麻呂はアテルイやモレといった蝦夷の首脳陣の助命を嘆願しますが、ヒステリックに蝦夷を嫌う桓武天皇に却下されてしまいます。田村麻呂の嘆願空しくアテルイやモレは処刑されてしまうのです。
田村麻呂が東北地方においても好意的に伝えられているのは、蝦夷にたいするそういった姿勢があったからなのでしょう。

0 件のコメント: