2010年11月12日金曜日

■日本中央の碑(’つぼのいしぶみ)発見秘話






【引用です】

日本(ひのもと)の中央で愛をさけぶ 梅編

2007-03-05 11:08:31 | レイライン


「いやいや、しばらく~」と管理さんとは
城攻防ユダヤナチス歴史研究家の父上とは
同級生とのことであった。
うむぅ~、コレも何かの因縁で石に呼ばれたか。

明治八年(1875)明治天皇が東北巡幸する際に合わせ、
地元では千曳神社の下に「壷の碑」が埋められていると
いう伝説が伝えられていたので、発掘して天覧に供そうと
いうことになったが、結局発見されなかった

だが、1949年6月21日、東北町千曳の川村種吉氏によって
同町石文集落付近の赤川支流の湿地帯よりあっさり発見される。
川村氏は、家の馬頭観音として奉る石を探していたが、
そんなとき、半分土中に埋もれた大石があると聞いて、
青年団員の手伝いで掘り起したのが、コトの発端であります。

発見直後(昭和24年)伝説の「壷の碑」が発見されたとして
かなり話題となり、多くの学者先生等により調査されたが、
未だに賛否両論であり、確定されてない。
それはそれでよろしい。

今、目の前に石が存在すると云う事実だけがある。

実はもう何十回も見学しておるのですが、初めて見た時
風雨を凌ぐだけの粗末な小屋に置かれてときとはエラい違いで
うっすらとこの世のものではない妖しい光を放っている。
歴史公園に奉られる前に、よう磨かれた加工されたようでありますが、
石英粗面石の大石は、正面だけではなく側面にも文字の様なモノが
みられる。ペトログリフか星座を記したものか。

非常にギザ美しいのであります。

父上は、昔はもっと文字がはっきりくっきりして
いたとおっしゃる。

日本は当時、倭とか大和の国と呼ばれていて
日ノ本とは奥州を意味するのでした。
十三湊の安東氏は日ノ本将軍と呼ばれたし、
陸奥 北海道 千島を含めたエリアが日ノ本で
都母が大体その中央であった。

征夷大将軍坂上田村麻呂は、実は岩手県水沢あたりまで
しか来ていない。
3代目征夷代将軍文屋綿麻呂は、青森県浅虫温泉辺りまで来ているので、
彼らが刻んだ文字ではなかろうかと推測する。

発見場所には、他に同じ様な石は無いという。
自然に1.5mの石が地面に立っているのは、非常に不自然で
あるため、誰かが意図的に奥州レイラインの目印に
置いたのではなかろうか。
そして、「日本中央」と刻むず~っと前から時の移り変わりを
見守っていたのでなかろうか。

管理人さんが、見てないスキにマチュピチュのシャーマンみたいに
額を当て、石の記憶を読ませて頂こうと思ったが、
額に「日本中央」と転写されると、ヴィレッジヴァンガードのゴスロリ
姉さんに凝視されると思うのでやめた。


発見場所まで行ってアレを感じようかと思ったが、雪のため
また、降りられないとのことでございます。

正式には”ひのもとのまなか”と読むのだそうです。
マナカナ。

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