2013年2月22日金曜日

■ストーンサークル発掘経緯


高天原に至るまで

 
高天原に至るまで 霊泉記
本日は昭和50年2月11日建国記念日であります。ここに私は思いをいたして高天原に至るまでの発想を書くことになりました。然し今は特別史跡大湯環状列石と云う遺跡の発掘からはじめます。
大湯環状列石
此の遺跡の発見は昭和7年12月と云うことになります。大湯の浅井小魚と云う人が発見、次いで大湯郷土研究会が発足して之れを発展させたと云うことになります。今発見後から今日に至るまでの次第を申し述べるに先き立ちて、先ずその意義の重要性を概略申し述べることにします。
喜田貞吉博士の見解
昭和8年5月22日喜田貞吉調査の要点(この時は野中堂遺跡の環状の一部、約30米位現れていた)
一、我が国に例なき珍しきものなること
ニ、環状石離とは言われぬこと
三、現状を今少し発掘して、石の一部を取り除き、石の下を調べたきこと
四、土地の名称を取り「中通遺跡と仮りに名称を定めたきこと
 以上のように大湯郷土研究会の記録に乗せてありますが博士の公演のうちには
 我が国の例のないもので、その形式に於いて殆ど類例を知らない。詳細なる研究は更に全面的に発掘して全貌を観察せる結果にまたなくてはならない。
 現在に於いては全く特異の形態で、大湯式環状列石籬と云うべきものでしょう。
 現状を更に発掘して石の一部を取り除き、石の下層をも調査して見たいと思う。近いうちに再び来て調査しましょう。かつて見たことがない遺跡であるからウッカリしたことは言えない。他の方ももう一度調べて後日結論を出すことにします。
先住民中通遺跡碑の建設
昭和12年5月に左の如き碑を建てて、しばらく保存しておくことになりました。
此石標の南北ニ個処に埋没する環状石群の発見は昭和7年極月耕地整備に其の端を得且此地一帯は諸種遺物の豊富なる包含地なるが故にこの種文化将来の開明を期し暫く発掘を停止して此秘蔵を封じ置くものなり
○昭和12年5月 ○大湯郷土研究会
之は発見者の浅井小魚の文字で、大湯の高木新助氏等が主として尽力せしものであります。
短い文章が多い章ですので
『高天原に至るまで』『大湯環状列石』『喜田貞吉博士の見解』『先住民中通遺跡碑の建設』の4ブロックを合わせて紹介しました。
最初の『高天原に至るまで』 霊泉記とありますが「霊泉」とは諏訪富多の俳号です。大湯環状列石の発掘のはじまりのころの事を「高天原に至るまで」というタイトルにしているところなどは、諏訪富多の大湯環状列石に対する神話的な展開の期待が伺い知れます。
『大湯環状列石』では発見者が浅井小魚であることを明確に記述しています。
『喜田貞吉博士の見解』では当時の研究が慎重にも慎重を期して行われていたことが解ります。
また、本章の挿絵が黒又山の写真が掲載されており写真説明に「大湯遺跡付近大ピラミッド」とあります。昭和の始めごろから黒又山がピラミッド視されていたことがよく解ります。
文中に登場する「太古の神都十和田高原」第7号に掲載されている「大湯遺跡付近大ピラミッド」の写真。
 ※おそらくは現在の黒又山かと思われます。

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