2013年2月22日金曜日

■大湯ストーンサークル昭和17年発掘について


昭和17年発掘

 
 この発掘は大東亜戦争中でもあったが当事者の熱情は之の困難を超えて発掘したものであり、野中堂及万座の現に見られる殆んど全貌を現はした。当時大湯の高木新助氏の関係して居られた新聞紙に依って一部の報道を呼ぶれば下記に見られるようであります。
昭和17年8月5日の東京日日新聞秋田版「国立公園十和田湖の外廊とうべき高台になっている鹿角郡大湯町字中通りの万座台の火山灰のうちから神代文化の遺跡が発掘された。之は昭和10年ひもろご研究の旅を全国につづけている東京市京橋区築地会館にある神代文化研究所理事、神代文化の権威者田多井四郎治氏が大湯町の諏訪富多氏宅に立ち寄った際に非情に珍しい土器の壷を見て田多井氏は発掘現状を視察し何事かうなづいて帰京したが、その後あらゆる角度から土器の壷発見現状を調査研究の結果7年目に神代文化の遺物のあることを同氏は確認、神代文化研究所の主事小寺小次郎氏を同道、諏訪氏の協力を得て去月23日以来20名の人夫を雇い本格的な発掘を開始した。今盛んに発掘調査が進められているが、未だ嘗て全国にその例を見ぬ、日本神代文化を研究する上に絶対必要をされている。
 直径20間と30間の川原石で組み立てられた建造物の大きな遺物及び東西南北をはっきり示したいろいろな川原石ででたものが、十和田湖の最初の噴火に降ったその火山灰の中から発掘され田多井、小寺、諏訪、三氏を狂喜させめている。又この外前記の遺物発見現処より余り遠く離れていない所で深さ7尺、直径4尺の縦穴を発掘したところ、この縦穴の中には立派な鏡の如く磨かれた金鉱石を発見して、穴の底は瀬戸物を焼く粘土が塗られ、穴の周囲には朱が点々と交じっている。現在発掘された遺物は、如何なるものであるか未発表のままであるが、田多井氏の研究発表の暁には、我が秋田県は神代文化の中心地であったのではないかといわれる。又続々と発掘されているいろいろな土器の破片を自ら洗って調べている田多井氏は語る「現在発掘作業を続けている場処から出る土器は決してアイヌの遺物ではない。発見された破片の中には日本民俗の遺物と言われる銅鐸にかかれている模様と殆ど同様寸分たがわぬと云ってよい非常に珍しい模様が出ている。これ等はいずれも石の遺物にしろ、金鉱石の鏡にしろ、全部が最初の火山灰の中に埋もれてあったと云うことは、いかなる学者が来られても事実は立派に証明している。され発掘された遺物は何であるかと云うことは只今御話しが出来ないが、私には大体の見当はついている。兎に角日本民族の遺物、神代のものだと云うことだけはお答えできる。それは簡単に年代の判る方法は所詮火山灰がどの位の年代が経ったらジワ土になるか、又十和田湖の最初の噴火はいつ頃であったかということが見当ついたなら、今発掘されている遺物に対する見通しがつく筈である」
 昭和26年12月26日に「大湯環状列石」として国指定特別史跡に指定された鹿角市十和田大湯の「大湯環状列石」(俗にストーンサークル)という名称で知られています。
 その遺跡の発見は昭和6年と言われています。その後幾多の困難を克服しながら上記17年には諏訪氏などの功労によって本格的な調査が展開されます。
 私も本文献の紹介作業を初めてから本文内から幾つもの新事実を発見しています。意外にも国の調査報告は片通りのものでしかないかが良く判ります。別の章でもご紹介していますが、国の発表は、基本的に前例になぞった報告書が作られています。大湯環状列石でこれまでに見当たらない事実があったとしても、それは未確認事項としてあつかわれているようです。したがって、前例の無い事実は埋もれている可能性がとても高いと感じます。
 実際に、「金鉱脈の鏡」などはほとんど知られていません。
 また、これに類似した事実で、鉄剣の発掘報告もあり。
闇から闇に葬りさられた、聞き捨てならない事実は相当量に及びます。
本章は「金鉱脈の鏡」の存在を確かに伝えています。大湯環状列石における鉄器の有無は考古学に於いては論外の報告かもしれませんが、出土していることは事実です。
 これを知った皆さんも一種の証人になり得ます。そでも大湯環状列石は単なる4500年ほど前の縄文墓地なのでしょうか…

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