2013年2月9日土曜日

■特別史跡 大湯環状列石発掘日誌(2/2)


昭和17年に第二次調査まで行なっています。



3,第二次発掘日誌
昭和17年
9月11日 午後毛馬内駅出発、12日午前5時35分東京上野着。午前9時直ちに神代文化研究所訪問す。
       (京橋区銀座西二丁目3-8)
       小寺君に面会。本日田多井氏及び中村理事長等に面会、親しく協議することを話す。
       田多井氏の事務所に至り同氏と面会。中通遺跡発掘の重大意義を話合い、之を継続して益々日本の神磧を中外に宣揚する決心なる事を確め、種々話合す。中村理事長も来り、発掘継続を大に希望しゆくゆくは此の事業を
       八紘為宇の参謀本部の基礎とせんと期待し、猶理事会の決議に附し、相当額の費用を支弁する話合いあり、夜6時58分上野駅発帰途、此時田多井氏は更に15日迄に大湯に来着視察する事に決し、15日迄に人夫の手配を依頼せられたり。
  14日  高木氏訪問 東京事情話合す。安村広治君の来訪を求め15日より更に第二回発掘継続する事を依頼す。
 
9月15日  正午田多井氏到着、直ちに同伴現場に赴く。
       此日安村君等4人にて小屋掛及行手の右方遺跡の一部を発掘す。之は左方の巳発掘す。之は左方の巳発掘せる遺跡と異なり環状の周辺は三間以上の幅をなせる事及び構造雄大なる事を発見していまさらに驚嘆せり。
       田多井氏は更に穀物遺跡の保存方を話合い安村君に依頼して、安村君引受く。
       夜米田君を加え田多井氏と三人で会食す。更に遅れて浅井、内藤のニ氏来り、飲みながら話す。

9月16日  現場に出張(田多井氏、米田と三人)当日は人夫7人出稼ぎ。周辺の石群益々雄大の構想を出現す。中央にも石群の存在するを確認す。
9月17日  出張(田多井氏、諏訪、米田、内藤君)
       此日巳に祖先の墳域たるを確認し得たるを以て祭りをなさんと決す。
       神官祝詞を奏上、各自礼拝す。参拝者に田多井氏。諏訪、米田、木地二郎氏夫人、外二人(加藤大工の妻及び健六の母)、安村君及び人夫7人。
       初穂料は神代文化研究所出し、海山の御供物及び御酒は諏訪出す。
       午後2時過ぎ田多井氏帰京。
       午後出張現状を調査す。中央の一部出現、環状の如し、周辺は更に雄大に現わる写真撮影の便を計りヤグラを構築す。

9月18日  雨降りたるを以て出張せず。然るに黒沢勇次郎等人夫10名午前中作業し周辺の環状の半分露出したる由。安村君来り判明す。

9月19日  雨
  20日  雨
  21日  雨

9月22日  雨 安村君来り人夫等休まず、作業せりとの事にて出張す。
       周辺の環状地帯は殆んど土を取り除け石群現れたり。
       九戸海岸地方のメノーの石の小石を発見す。(之は貨幣の様に思われた)其他石群の内多少変あり、益々古墳の面目を呈す。
       人夫等16人。

9月23日  雨時々、東京の大学生参観す。
       安村君等土の取除け作業及び中央部の円形を現すに努む。
       長方形の四尺位の大石五個現れ、古墳中の変化認む。
       人夫15人。
9月24日  大湯町の祭典なるも発掘に努むる所左の如く現わる。(図7)
       先きの野中堂発掘に見る放射型と同型と思わる。
       人夫11人。


  25日  継続作業  人夫7人

  26日  写真師馬淵殿同伴出張。左の三ヶ所写さしむ。
       周辺の石群状況
       中央部の巨石群
       放射型
       人夫10人

27日  本日午前浅井氏同伴、竪穴を発掘す。深さ十尺。
     穴の周囲は拡張するものの如し。(図8)
     日時計式のもの現わる。更に図の如く直線型石群約三十間約三十間以上出現。幅1米。
       
  28日  人夫11人 浅井氏同伴す。
       竪穴はトンネル式にあらず、カメ型のもにして6尺以上の直径の穴にて壺類及び石器類多類多数出づ。
       先きの直線型と思びし石群は、先は曲線か或は屈折せる如く思う。  
       小坂鉱山花田氏来観。

9月29日  竪穴は遂に全部掘り上げたり。朱及びくるみの炭など出ず。
       み魂代(円形)出ず、土器に入れたり。
       但し土器は破損しいたり。
       直線は愈々屈折せり。
       竪穴の周囲の穴は浅く掘りたるものあり。
       県の人々及び毛馬内の巡査等来観せり。

  30日  安村君、勇次郎等依頼し監督せしむ。

10月 1日 当日米田文子より電話あり、石井柏亭先生の同伴参観の申出あり、直ちに同行。集宮より上げて現状に到る。発掘中の線状は直線型にあらず、多少
       変化あり。
       石井柏亭先生菊型を写生す。旭谷君同伴、米田、文子等同行。

    2日 直線型の北部に当り、径弐間半位小円形の箇所を発見す。
       付近の円形の高所を掘りたるも別に得る所なし。
       安村君と四角獄及び中岳の竹払の事議す。晴天ならば人夫募集切払する予定なり。
   
    3日 本日早朝雨模様なりしも安村君等、四角、中嶽の竹の切払いに出動せり。(以上は遺跡の四角獄方向とは何等かの方角的関係あるものと考えたり)黒沢勇次郎君を主として大石群の後方の竪穴修理せり、猶写真をとらんとする。東方石群の草刈り及び土掘りなす。

    4日 現状西方石群の後方に竪穴式の諸所に現る。
       東方石群の周辺を草刈り及び土揚げせり。然るに周辺石群の巾次第に拡大し西方石群の周辺と同様のものとなれり。
       本日田多井氏及び考古学の吉田氏来り、現状の雄大なるに驚く。而して直線型石群に対しては何等の考えなしと言われ他日の研究を待つ。全く中通り遺跡は如何なるものか、全貌を見ざれば見当付かざる感あり。
  
    5日 東方の石群の周辺拡大に努む。益々石群多数現わる。猶次の如きもの現わる。
       依って考うるに遺跡の構造基本は次の如きものより成れるものの如し。
(1)  放射型
放射状及び方位日時計の如きもの。
(2)  方位型  
方位を示し日時計式
(3)  複雑型
周囲に石群をめぐらし中に幾つかの長方形の石を併べたるもの。この様式は解釈に苦しむ。
        以上の如き基礎石群が更に複雑性を持ち或いは渦巻き型に、或いは巴形に次第に拡大の石群を形成す。

        田多井氏の丘陵ヒモロギ、イワサカの説も亦一説とすべし。殊に培塚の考に至りては研究の余地大にあり。余は太古の靖国神社の如きものと思う。
  

10月 6日 田多井氏帰京。余は吉田氏と現状に行く。
       現状は竪穴の処愈々複雑となり、諸処に派生するものの如し。吉田氏も竪
穴の意外の深さと複雑性に驚く。西側の北部に更に横穴の如きもの見ゆるも一先ず打ち切りとせり。
東側の石群拡張も一先ず打ち切りとして、石群発掘は本日を以て一先ず修了せり。

10月 7日 吉田氏、浅井氏同行。
       東側外側の南寄りの畑を掘り土器、石器の発掘をなす。 
       石群の西に当たる処に又竪穴を見付け。掘り進む中、種々なる土器、石器多数出づ、中に小形の杯は頗る面白し。又すかし彫りの土器出づ。

    8日 吉田氏同行。 
       前日の竪穴より壺類多数出づ。其他諸種の土器出でたるも本日を以て愈々全部の打ち切り修了。

10月 9日 吉田氏帰京。
       以上を以て会長担当分の記載は終わっている。

                    完






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