2010年4月21日水曜日

01124■クロマンタの薬師、大日、阿弥陀



二宮翁夜話に(第90夜)

仏教の考え方というのは誠にすぐれたもんだな。太陽が朝、東方に出るときの恩徳のことを「薬師」と名づけ、中天に照らすときの太陽の功徳を「大日」といい、夕日の功徳を「阿弥陀」といっている。だから薬師、大日、阿弥陀といっても、その実こういう仏があるわけではなく、みな太陽の恩恵をこういう仏の形にして教えたんだよ。
また大地の恩徳を「地蔵」といい、空中の恩恵を「虚空蔵」といい、世の中の情報をとらえ、これを見分ける力を「観世音」と言ったんだ。
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クロマンタに当てはめて調査をしました。

1、クロマンタの東西南北




























1、薬師神社
クロマンタの頂上、東向きになって立っている。

2、大日堂
ほぼ真南に位置する。大日堂舞楽の大日堂です。

3、月山神社
ほぼ西側の茂谷山に位置する。
月山神社は、山形県の出羽三山のHPから、月山の本地仏は阿弥陀如来となっている。

WIKIより
それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。羽黒山に3社の神を併せて祀る三神合祭殿があり、宗教法人としての社務所も羽黒山(鶴岡市羽黒町手向7)に置かれている。
現在、多くの参拝者を集め賑わっている出羽三山ではあるが、参拝者の多くは信者ではない観光客であり、出羽三山の数十年後の未来を担う若い世代の信者は少なくなっている。信仰の継承が未来への課題である。
山名社名祭神本地仏所在地
月山月山神社(がっさんじんじゃ)月読命(月山権現)阿弥陀如来鶴岡市・庄内町・西川町
羽黒山出羽神社(いではじんじゃ)伊氐波神・稲倉魂命羽黒権現正観世音菩薩鶴岡市・庄内町境
湯殿山湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)大山祇神大己貴命少彦名命(湯殿山権現)大日如来鶴岡市・西川町境
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(まとめ)
*仏教は神道のずっと後に日本にわたってきたものですから、クロマンタを仏教で解こうとするのもおかしなものでしょうが、薬師についてはまだ途中ですが、おもしろいkン系が出てきました。

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2010年3月20日土曜日

01228■大噴火の様子(開聞岳の事例)



十和田湖の噴火を追求するにあたって、鹿児島の開聞岳の大噴火の様子が秋たさきがけに掲載されていました。参考資料として。

記事
「大地を灰で覆い尽くす火山の噴火は、時に集落や農地を復興不可能な状態にした。・・・・・
天皇の命で編纂され901年に成立した歴史書「日本三代実録」によると、噴火は874年3月25日夜に発生した。『開聞岳の山頂に炎が立ち上がり、噴煙が天を覆った。夜が明けても光が差さず、昼間も夜のように真っ暗だった。細かく黒い砂が降り続けた』 約10km北東の遺蹟周辺では、火山灰がわずか一日で0.5~1mほど積もったとみられる。」
































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(まとめ)
・これほど大きな噴火は正式な記録として残っているのですね(874年)。

・大変参考になる資料です。
十和田湖の噴火(915年)が同じころなのに、地元に記録がなく、地域の地質学者も考えたこともないと言っているのに・・・です。

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2010年3月15日月曜日

04016■東北縄文の歴史を深く耕す




秋田さきがけ新報に石川好さんの「秋田の歴史を耕そう」が掲載されています。

1、秋田の歴史を耕そう









































■要旨は
①横手市の大鳥井山の山城発見が素晴らしいものとニュースとなった。
②文書に残らなかった歴史が東北にはあった。歴史についての見直しが必要でしょう。
③「遅れている」と無自覚な秋田県民はどう理解し、生かして行くか。
④秋田県内の歴史遺跡を耕してみれば、可能性としての秋田の未来が現れる。
秋田に自信と誇りを蘇らせよう!!

2、児桜町内子ども会「児桜貝塚跡調査」
なぜ児桜町内会は(子ども会中心ですが)縄文時代の児桜貝塚跡調査を行ったか。
それは行政の発掘調査は天平時代の秋田城址が目的です。中央政府がわれわれ蝦夷(エミシ)つまり縄文の昔からここに住んでいた人々を征服した頃の調査なのです。だからわれわれは、我々の住む児桜の丘に、縄文時代にすでに集落があり生活していたことを深く調べたくなったものです。



























3、刻字作品「耕してやまず」











私の巡堂工房作品に「耕不尽」(たがやしてやまず)があります。
その前の大館市の実業家Kさんには「深耕」を希望され彫って差し上げてあります。

石川さんと同じく、すべてのものを今より更に深く掘り下げて行けば、必ず原点に立ち返ることが出きて、今ある壁を突き抜けることができるのです。
そして、その継続です。耕してやまず!!

4、東北縄文文化研究会も同じ目的です
私のもう一つの顔は「東北縄文文化研究会」主宰です。特に鹿角市のストーンサークル、クロマンタが中心です。東北の縄文時代は律令国家が国をあげて歴史を封印したものです。たとえば「田村麻呂伝説」というのがあります。岩手県でアテルイと10年戦争をしてついに捉えた大将軍ですが、実は岩手県真でしか来ていないのに、山形県にも、秋田県にも、青森県にも来た事になっています。しかも来てない各地に神社が一杯建っています。

教え込まれている常識というのは本当にアテにならないのです。歴史を深く耕すことで、その常識の壁を突き抜けて良ければ明るい未来がひらける、と石川好さんは言っているのですね。

ますます、「東北縄文文化研究会」もやる気がでてきました。

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2010年3月8日月曜日

03028■四道将軍とは(wiki)











ウイキで四道将軍を確認しましたら、なんと鹿角に遺跡のある「田道将軍」は入っていませんでした。


四道将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、
大彦命(おおびこのみこと)、
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、
丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。


『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、

西道、丹波に派遣された。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと

将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させ

て凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀

人物とされている。概要

 [編集]

古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して
取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦
命は別名で記載されている。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命
の父である彦坐王が記述されている。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル
伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト
王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があ
る。事実その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重な
っている。

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(まとめ)
・なんと鹿角に来た田道将軍がいません。
・秋田市の古四王神社に四道将軍の一人「大彦命(おおひこのみこと)」
が越の国から遠征したことになっています(大いに疑問に思いますが)
(古四王神社 はりつけ)
社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命蝦夷を平定するため
陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(「あぎ
たのうらのかみ」は日本書紀に記載されている。

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2010年2月2日火曜日

03027■真名井神社と久次岳





















鳥居礼氏の「ホツマ物語」(P76)には丹後の久次岳こそが東北の伝承とともに封印された、偉大なる宇宙祭祀者トヨウケの墓なのではないか。とあります。3年前に現地を訪れ神聖さに感動したことが思い出されます。
(でも、場所は違卯のですね。ホツマからは隣接の山と考えていましたが違うのですね)

1、比沼麻奈為神社(真名井神社)

久次に、式内社比沼麻奈為神社があります。ここには豊受皇大神を主神として崇神の御代より現身で鎮座され、元伊勢の本地であるといわれてます。 
















2、久次岳


二つの峰のうち
左が久次岳

























 久次岳は真名井岳ともいわれ神の山です。地元の人達もあまり足を踏み入れない聖なる山です。
登り始めて半腹と思われる所の鬱蒼と したスギ林の中に上が平らな大石があります。(写真下右)
大石は大饗石ともいわれ、上部が平たく3mに6m位の長方形の石で、注連縄が回してあります。もと
もとこの石は山頂にあったものがここに落下したものだといわれ、土地の古老の話では、豊受大神の
死形が下になっているそうだ、とのことでした。ここで、この石にまつわる地元(鱒留区)の考証文の概
要を紹介します。

 「咋石嶽は豊受大神現身の移り住まわれた地で、神代に月読命を饗膳したことにより斬り殺された土
地である。今も大饗石があるがこれは饗膳を供した霊跡である。その下に御手洗滝があるが、これ
は豊受大神を切った月読命が手を洗った神跡と伝わる。その上には大神社 というところがある。その
右の方に来迎山がある。これは月読命を豊受大神がお迎えした古跡である。切果渓(この谷の下に桐
畑村あり)は豊受大神を月読命が切り果たした地であると伝わる。」



3、「ホツマ物語」の久次岳
 京都府京丹後市峰山町には比沼麻奈為(ひぬまない)」神社があり、その背後に久次岳・・別名真名井岳・・がある。ここにはトヨウケが人体であった昔、この地を訪ね五穀の作り方、養蚕の仕方など、数々の濃厚技術を人々に教えたという伝説がある。また、「丹後国風土記残欠」にも、トヨウケが真名井を掘って水田・畑を作り、民を教化したと書かれているのだ。
 さらに久次岳の山頂には“降臨岩”という巨岩があり、中腹には“大饗石”という、捧げ物を置く八畳ほどの平らな岩もある。この久次岳こそ、古代日本の言霊思想、東北の伝承とともに封印された、偉大なる宇宙祭祀者トヨウケの墓なのではないか。また、この地には朝日宮との関係を思わせる、平安時代に奉納神楽にたずさわっていた“朝日中務”という人物もいた。


4、トヨウケとはどんな神人(ホツマより)
 アメノミナカヌシの生まれ変わりで、全世界的楽園である常世の国を造ったクニトコタチの子孫は、日高見(東北)の聖地高天の原で神を祭るタカミムスビの系統と、その外に出て神々の教えである天成る道を広める系統に分かれている。
 タカミムスビの五代目はトヨウケである。トヨウケはアマテルと並び称される程の偉大な神人であるが、いったいどのような業績を残したのだろうか。
 トヨウケは天界に静まっている言霊の四十九の神すべてを、日高見の高天原の神殿に移し祭ったのである。これにより天地の交流はますます強力になった。言霊の威力によって五穀は豊かに稔り、民の暮らしが潤った。人々は豊かさを天界から受けた神という意味で“トヨウケ”とたたえた。
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2010年1月30日土曜日

03303■歴史学とは文字が必要

副島隆彦氏は「歴史学とは何か」から


1、歴史学は文字があってこそ

歴史学とは、近代学問における定義中の重要な事実であるが、文字、すなわち刻文その他の文献があって初めて成り立つものである。
文献考証とその意味づけからしか歴史学は出発しない。


2、考古学は古代史額の対象でない

文字の使用以前の段階にある新石器時代の土器や遺構は考古学の対象であって、古代史学の対象ではない。
歴史学は、文字の有無によって先史と古代に分けられるのである。
これが世界基準での学問区分である。
青森県の三内丸山遺跡の発見以来、わが国では縄文文化の見直しが盛んだが、文字や文献は発見されていないのであるから、そうした遺跡に対して「高度な文明」などという不正確な言葉を使ってはいけない。

3、日本に文明の発祥はない

残念ながら、日本には「文明(シビライゼーション)」の発祥はない。文明と呼べるのは、東アジアでは「黄河文明」だけである。「日本文化」はあるが、これは紀元五,六世紀以降になって、東アジア古代文明=黄河文明の東端として、その影響下に出現したとしか語りえないはずである。


4、日本の歴史は華僑がつくった

属国」としての日本の歴史は、紀元前1世紀の漢帝国の時代に始まる。この時期に中国から商人たちが日本を訪れるようになり、現地人である倭人と交易を始めている。
彼ら「華僑」が、7世紀には日本という国家を建国させる原動力になっていく。
645年 大化の改新
662年 仁申の乱
667年 天智天皇
その後 天武天皇
720年 「日本書紀」完成


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(まとめ)
・これからいきますと、「日本書紀」の720年までは日本は、土着人のただの鼻たらしということになります。

・このショックで、しばらくブログが書き込めませんでした。

・しかし、エハンデラヴイの情報で、「死海文書」が1945年ころ発見されて注目されていることから、
「ホツマ」と同じではないか、と改めて意欲が湧いています。
また書きます。
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(死海文書とは:はりつけ)

聖書には原本がなく、最古で10世紀前後の写本が伝えられていた。ところが第二次世界大戦直後の1947年、 約2000年前の写本、「死海文書」が発見された。
ベドウィンと呼ばれるアラブ系の遊牧民が暮らし、エルサレムの東方に位置するクムランという地で、1人の少年が 迷子になった山羊を探すために、死海近くの崖を登っていた。 崖の途中にある洞穴(幅 180 cm 奥行き 720 cm)から偶然に発見した数千の資料は、「エステル記」を除く旧約聖書の写本であり、 その当時の聖書と内容を照らし合わせても、重大な違いはなく、聖書は忠実に語り継がれていたことがわかった。 しかしながらこの遊牧民が発見したと言う話は、真実かどうかは不明である。というのも、発見当時の事情を このベドウィンに確認した時には、発見から2年もの月日が経っていたというのと、 密輸で生計を立てていたと思われるベドウィンは、警戒心から真実を語っているかどうか?という点などがあった。 とにもかくにも、羊皮紙(獣皮紙)に葦のペンで書かれたこのヘブライ語の文章、巻物は奇蹟的ともいえる 発見であった。


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2010年1月7日木曜日

03302■副島隆彦[華僑が日本をつくった(部分)]

なんと! 日本という国は776年に華僑によってつくられた。その前に文化としての日本はなかった!!

・この説は
①、岡田英弘東京外語大学名誉教授の「日本史の誕生を元として

日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った (ちくま文庫)


②副島隆彦氏が「天皇の伝説」のなかに「天皇と華僑 聖徳太子は蘇我入鹿である」として掲載したものです。

天皇の伝説 (オルタブックス (001))

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全文は下記リンクにあります。このページにはその一部としてアタマ出ししたものです。
あまりにも衝撃的な説ですので、私もまだ消化しきれていません。


聖 徳 太 子 は 蘇 我 入 鹿 (そがのいるか) で あ る 」
副島隆彦 著

(編集部によるイントロダクション)
日本は原住民である倭人(わじん)と交易を求めてやって来た華僑(中国人)が年月をかけて混血してゆくことによって出来た王国である。西暦776年に「近江令」(おうみりょう)の中に初めて出現した「日本」という言葉をもって日本建国の年と考えるべきである。従来の日本歴史学を統合する「属国・日本史論」の古代史編をここに始める。

(はじまり)
私は日本史についても調べて書きたいと思っていた。
私がこれまで考えてきた日本通史の概要のうち、ここに掲載する古代に関する部分は、一九九七年五月に五月書房(ごがつしょぼう)から刊行された『属国・日本論』のために書き下したものである。ところが、「著者を守る」という理由で、出版社側の判断により、この古代史の部分は、採用原稿から削除されため、発表の場を失っていた。今回、オルタブックス編集部の依頼により、単行本用に書いた原稿に若干の加筆をし、ここに初めて発表するものである。 1997年9月   副島隆彦

拙著、『属国・日本論』の第三部「属国日本の近代史」で私は、古代から中世、近現代に至るまでの日本の歴史を、日本はじつはずっと文明の周辺属国(トリビュータリー・ステイト)であったのだ、という観点から祖述しようとした。しかし出版社側の判断によって実際には近現代史の部分しか掲載されなかった。祖述(expound イクスパウンド)するとは、特定の先人の学説を受け継ぎ、それを土台にして更にその上に自説を展開して、同じ諸事実に対して別の角度から光を当てて自説として、そのことによって学問(サイエンス)(=科学)を推し進めることをいう。
私の日本史学についての知識は、きわめて限られている。私は日本史学者ではないので、専門的な歴史資料 ( 一次資料としての古文書や国家外交文書 ) の 古代漢文のまま読み込みや正確な文献読解 ( text critic テキスト・クリティーク )などはできない。そのような学問的な訓練は受けていないし、また、フィールド・ワークとしての歴史学を志したこともない。自分の人生時間をその領域に投入しようと思ったこともない。
それでも 私は、「属国」日本論という大きな観点からの日本通史 ( 古代から現代まで通して叙述した歴史 )を 概略、俯瞰的な 全体像として呈示せねばならないと思ってきた。それは日本人の誰かがやるべきだったのに誰もやっていないと長年強く感じてきた。
私の考えは、日本が紀元前後からの丁度、二千年間は中国歴代王朝の藩国・冊封国であったとするものだ。そして、150年前のペリーの黒船来航直後は、アメリカの属国になりかけたが、アメリカ国内での南北戦争(ザ・シビル・ウォー)の勃発で、アメリカの日本支配が一時停止した。その間に、西欧列強(ヨーロピアン・パワーズ)の中の最大の大国であったイギリス(当時は、大英帝国 The British Empire である) の属国を続けた。その後、1945年8月の第二次世界大戦での敗戦の後は、アメリカ合衆国の属国なって現在に至る。これらの大柄な日本歴史の基本性質を、歴史上の諸事実(ヒストリカル・ファクト)に照らして、大胆に叙述していくことが私の日本思想家としての構えである。
むろん、私の日本史論を素人の仕事だと無視するのはいっこうにかまわないし、私の説 ( 歴史事実への別な光の当て方 ) の細かな誤りを指摘して反駁して下さることも自由である。私は明らかな事実であることでそれが周囲の事実との関係でほぼ確実に明らかであるとされることに対してはすべて認める、という態度を取る。私は要らぬ隠し立てをする態度は一切取らない。ただ勉強時間不足の為に自分が知り得なかったことで新たに知ったことでそれが事実であることの自然な推論が立つことは、すべて認める、という姿勢である。
私の説は、「属国としての日本通史」という従来とはまったく別の観点に立ち、かつ、「世界史の一部としての日本史」という太く大きい一本の柱に貫かれているのであって、この「属国」日本という視角は、十分に学問(=科学)的な条件を備えたものであると考えている。もし私への反論があるなら、同じく、世界史の一部としての大柄な日本論であってほしい。

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以下はこちらからどうぞ、全文掲載しております。



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全文を読んだうえで、まとめております。上記論を全文お読みの上、まとめをご覧ください。

(まとめ)

・余りにも衝撃的な説に出会いカルチャーショックを受けています。私の中でどう受け取り、組み立てたらいいか迷っていますので、とりあえず資料として掲載しています。
これを読んで今考えていることは
・東北縄文文化研究会としては、縄文時代に古代日本文化がなかったというのには異論がありますが
・776年から正式な日本というのは、華僑が日本をつくったという説に立てば
1、これで「空海」の謎がほとんど解けたことです。なお私は四国お遍路「四国八十八ケ所・空海の言葉刻字奉納」を三年間かけて完了しています。全部の奉納は香川県の施設にしております。
  ①空海が生まれ地は瀬戸内沿いの香川県です(華僑の拠点地区)。したがっていろいろな経緯がありますがついに遣唐使の一員に加わったこと。
  ②上陸後、書の国・中国人をうならした「書の腕前」はなぜか。
  ③なぜ中国本土に行っても、中国人に十分に通じる言葉がペラペラ話せたのか
  ④大量の資金を持参できたのはなぜか(水銀持参との説があります=貴重な朱となるため、貴重で高価)
  ⑤誇り高い中国人の中でいながら、密教を恵果阿闍梨から受け継げたのはなぜか。
こんなところが、
ほんとうに空海が華僑の流れをくむものだとしたら、私はなるほどと納得できます。


2、坂上田村麻呂はもちろん華僑系であり
  すべての資料に渡来人とありますから、渡来人というより華僑の一員で納得できます。
③慈覚大師、行基、

  この偉人たちは、西の空海・東の慈覚大師ですから、華僑かどうかは別として、国家公務員又は
律令国家の伝道師なのでしょうか。
④芭蕉、菅江真澄 などの姿がすべて理解できます。

  江戸時代ですから、華僑とは関係なく、「芭蕉スパイ説」のような捉え方が正しいと思っています。
普通の人なら、お金も持っているはずはないし、第一関所をすんなり通れるのでしょうか。
(別途に書いております芭蕉はただの隠密ではなかった


まだまだ言葉足らずら、不勉強さがあると思いますが、衝撃の説に出会った段階での意見です。
(2010・3・9追記)
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