田村麻呂は、正三位・大納言・参議となった高官である。日本後紀は散逸した部分が多いものの、幸いにして田村麻呂の薨伝(こうでん)が残っている。
薨伝とは、三位以上の貴族が亡くなった時に、国家が編纂した正史にその人の業績と人柄を偲んで記録された追悼文であり、日本後紀弘仁2年(811)5月23日条には次ぎのように書かれている。
「(大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上大宿禰田村麻呂は)赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。帝は、それを壮として、延暦23年(804)征夷大将軍に任命した。その功を以って従三位に叙す。但し往還の間、従う者が限りなくあり、人馬を支給し難くなったことがあり、往還の路費は莫大なものであった。大同5年大納言に転じられ、右近衛大将を兼ねた。幾度も辺境の兵将となり、出ずる毎に功があった。寛容をもって士を処遇し、能く死力を尽くして戦った。今、粟田の別業に薨ずるあたり、従二位を贈られる。時に年54。」
軍神としての賞賛である。延暦8年(789)から延暦23年(804)に至る大規模な征夷戦争に、田村麻呂はかかわるのであるが、これには、時の桓武天皇の執念にも似た野望が背景としてあった。弘仁2年(811)に54歳で亡くなったとすれば、天平宝字2年(758)に生まれたと考えられる。
群書類従には、田邑麻呂伝記が収録されていて、その出自や容貌などが少し詳しく書かれている。原文は600字強の漢文であるが、その概略は次の通りである。
「大納言坂上大宿禰田邑麻呂は、前漢の高祖皇帝の流れをくむものである。応神天皇26年の時、高祖皇帝より13代の阿智王が、同属百人を連れて大和に来た。その阿智王より11代の苅田丸の二男である。(中略・叙位の履歴と、死亡当日の5月23日に賜した品々が記されている)
弘仁2年5月27日、山城国宇治郡栗栖村にて葬儀を行った。その時に天皇から勅があり、甲冑・兵杖・剣・鉾・弓箭・糒(ほしいい)・塩を中に入れ、城東に向かって立ったまま葬れという。
その後、国家に非常事が起こると、田邑麻呂の墳墓は鼓を打つごとく、或いは、雷電が鳴るごとく響いた。それ以来、将軍に任命され兇徒に向かう者は、先ずこの墓を詣で誓願することが習いになった。
大将軍は身の丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時には二百一斤、軽い時には六十四斤、その軽重は意のままであり、行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった。(後略・武芸者としての賞賛が記されている。)」
この伝記では、苅田麻呂の二男とあるが、「坂上系図」には三男とありどちらが正確なのか確証はない。しかし、このように阿智王の後裔であるとする伝記の裏には、武門として活躍した坂上家歴代の功績に加え、父・苅田麻呂の政治的手腕がある。
長女春子を嵯峨天皇の後室に入れ、葛井親王の外舅となった田村麻呂の訃報に接したその日、嵯峨天皇は一日落ち着きがなく過ごしたことが、当時の公卿の日記に記されている。
「薨伝」や「田邑麻呂伝記」にあるように、盛大な葬儀が営まれた。
この葬儀は盛大であればよい。盛大であるほど「田村麻呂の軍神としての伝説」が世を風靡し、朝廷を護ってくれる。 田村麻呂の子孫が、その後、陸奥・出羽の経営に深くかかわることにより、「軍神・田村麻呂像」は一層強化された。
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