2013年1月11日金曜日

◆十和田湖の神秘「八郎太郎と男装坊」TOP


プロローグ
【十和田湖の神秘】
日本は古来東海の蓬莱嶋と称えられただけあって、国中到る処に名山があり、幽谷があり、大湖があり、大飛瀑があり、実に世界の公園の名に背かない風光がある。
中にも風景絶佳にして深き神秘と伝説を有するものは十和田湖の右に出づるものは無いであらう。自分は今度東北地方宣伝の旅を続け、その途中、青森県下その他近県の宣信徒に案内されて、日本唯一の紫明境なる十和田の勝景に接する事を得ると共に、神界の御経綸の深遠微妙にして人心凡智の窺知し得ざる神秘を覚る事を得たのである。
十和田湖の伝説は各方面に点在して頗る範囲は広いが、自分は凡ての伝説に拘わらないで、神界の秘庫を開いて爰に忌憚なく発表する事とする。さて十和田の地名については十湾田、十曲田などの文字を宛はめているが、アイヌ語のトーワタラ(岩間の湖)ハッタラ(淵の義)が神秘的伝説中の主要人物、十和田湖を造ったという八郎(別名、八太郎、八郎太郎、八の太郎)が伝説の中心となっている。
次に開創鎮座せし藤原男装坊も南祖、南宗、南僧、南曽、南蔵等種々あるが、今日普通に用いられている文字は南祖である。しかし王仁は伝説の真相から考察して男装坊を採用し、この神秘を書く事にする。






八郎太郎の出生と十和田湖の主まで

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【八郎太郎の祖先は独古の大日堂から】
昔、秋田県の赤吉(どっこ)と云う所に大日別当了観と云う有徳の士が住んでいたが、たまたま心中に邪念の萌した時は北沼と云う沼に年古くから棲んでいる大蛇の主が了観の姿となって妻の許へそっと通った。その大蛇の主というのは神代の昔神素盞嗚尊が伯耆大山即ち日の川上山に於て八岐の大蛇を退治され、大黒主の鬼雲別以下を平定されたその時の八岐の大蛇の霊魂が凝って再び大蛇となり、北沼に永く潜んでいたものであった。間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落したが、あたかも出産の当日は朝来天地晦冥大暴風雨起り来りて大日堂も破れんばかりなりしという。了観はその恐ろしさに妻子を連れて鹿角へ逃げその男子を久内と名付けて慈しみ育てた。その後三代目の久内は小豆沢に大日堂を建立したるも身魂蛇性のため天日を仰ぎ見ること能はず、別当になれない所から草木村という所の民家に代々久内と名告って子孫が暮していた、さてその九代目に当る久内の子八郎が神秘伝説の主人公である。

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【八郎太郎は鹿角の草木で生まれた】
 何時の世にか、青山緑峰に四方を繞まれたる清澄なる一筋の清流を抱いて眠る農村の昔、秋田県鹿角郡の東と南の山峡に草木という夢のような静寂な農村があつた。この村に父祖伝来住んでいる久内夫婦の仲に儲けた男の子を八郎と名づけ、両親は蝶よ花よと慈しみ育くむ間に八郎は早くも十八歳の春を迎える事となった。八郎は天性の偉丈夫で、母の腹から出生した時、既に已に大人の面貌を具え一人で立ち歩きなどをしたのである。八郎が十八歳の春には身長六尺に余って大力無双鬼神を凌ぐ如き雄々しき若者であったが、又一面には至って孝心深く村人より褒め称えられていた。八郎は持ち前の強力を資本に毎日深山を駆け廻って樺の皮を剥いたり、鳥獣を捕えては市に売捌き、得たる金にて貧しい老親を慰めつつ細き一家の生計を支えていたのである。 
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【八郎太郎たちが十和田湖へ】
ある時八郎は隣村なる三治、喜藤といふ若者と三人連れにて遠く樺の皮剥きに出掛けた。三人は来満峠から小国山を越へ遥々と津久子森、赤倉、尾国と三つの大嶽に囲まれている奥入瀬の十和田へやってきた、往時の十和田は三つの大嶽に狭められた渓谷で、昼尚暗き緑樹は千古の色をたたえその中を玲瓏たる一管の清流が長く南より北へと延びていた。三人は漸々此処へ辿りついたので、流れの辺りに小屋をかけ交り番に炊事を引受けて昼夜樺の皮を剥いて働き続けていた。

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 【八郎太郎岩魚を食べてしまう】
数日後のこと、その日は八郎が炊事番に当り、二人の出掛けたる跡にて水なりと汲みおかんとて岸辺に徐々下り行くに、清き流れの中に、岩魚が三尾心地よげに遊泳しているのを見た。八郎は物珍らしげに岩魚を捕って番小屋に帰って来た、そして三人が一尾づつ食わんと焼いて友二人の帰りを待っていたが、その匂いの溢れるばかりに芳しいのでとても堪らず一寸つまんで少々ばかり口に入れた時の美味さ、八郎は遂に自分の分として一尾だけ食ってしまった。 俺は未だこんな美味いものは口にした事は一度も無いと彼はかすかに残る口辺の美味に酔うた。後に残れる二尾の岩魚は二人の友の分としてあった。けれども八郎は辛抱が仕切れなくなって何時の間にかとうとう残りの分二尾とも平げてしまった。アッしまったと思ったが後の祭りで如何とも詮術がなくなった。八郎は二人の友に対して何となく済まないような気持を抱くのであつた。
 

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八郎太郎が龍となる】
間もなく八郎は咽喉が焼きつくように渇いて来た、口から烈火の焔が燃へ立ってとても依然としておられなくなったので、傍に汲んで来て置いた桶の清水をゴクリゴクリと呑み干したが、また直ぐに咽喉が渇いて来るので一杯二杯三杯四杯と飲み続けたが未だ咽喉の渇きは止まらず、かえって激しくなるばかりである。 アア堪らない、死んでしまいそうだ、是は又何とした事だろうと呻きながら沢辺に駈け下るや否や、いきなり奔流に口をつけた。そしてそのまま沢の水もつきんばかりに飲んで飲んで飲み続け、ちょうど正午頃から、日没の頃まで、瞬間も休まず息もつがず飲みつづけて顔を上げた時、清流に映じた自分の顔を眺めて思はずアッと倒れるばかり驚きの声を揚げた。 ああ無惨なるかな、手も足も樽の如く肥り、眼の色ざし等、既にこの世のものでは無かった。折から山へ働きに行っていた二人は帰って来て、この始末に胆を潰すばかり驚愕してしまった。オオイ八郎八郎と二人が声を合せて呼べば、その声にハッと気付いた八郎は漸くにして顔をあげ、恐ろしい形相で二人の友をじっと眺めてからやがて口を開いた。 八郎は夕刻二人の友の帰ったのを見て少時無言の後やっと口を開き、「お前達は帰って来たのか」と云えば二人は「オイ八郎一体お前の姿は何だ。如何してこうなった。浅間しい事になったの。さあ住所へ帰ろうよ」と震え声を押し沈めて言った時、八郎は腫れあがった目に一杯涙を浮べて、「もう俺はどこへも行く事はできない身体になってしまったのだ。何と云う因果か知らぬが、魔性になった俺は寸時も水から離れられないのだ。これから俺は此処に潟を造って主になるからお前達は小屋から俺の笠を持って家に残っておられる親達へこの事を話して呉れろ。アア親達はどんなに歎かれるだろう」と両眼に夕立の雨を流して嘆ずる声は四囲の山々に反響して又どうと谺するのであつた。かくては果じと二人は、「八郎よ俺たち二人はここで永の別れをする。

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【八郎太郎が十和田湖の主となる】
八郎よさらば」と名残惜し気に十和田を去った。二人の立去る姿を見すましてから八郎は尚も水を飲み続ける事三十四昼夜であったが、八郎の姿は早くも蛇身に変化し、やがて十口より流れ入る沢を堰止めて満々とした一大碧湖を造り二十余丈の大蛇となってざんぶとばかり水中に深く沈んでしまった。かくして十和田湖は八郎を主として、年移り星変り数千年の星霜は過ぎた。永遠の静寂を以て眠っていた一大碧湖の沈黙は遂に貞観の頃となって破られるに至ったのである。



男装坊の出生と十和田湖まで

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 【京の藤原関白が奥羽へ放浪の旅】 
貞観十三年(西暦八七一年)春四月、京都綾小路関白として名高い、藤原是実公は讒者の毒舌に触れ最愛の妻子を伴い、桜花乱れ散る京都の春を後に人づても無き陸奥地方をさして放浪の旅行を続けられる事となった。一行総勢三十八人は奥州路を踏破し、やがて気仙の岡に辿りついてここに仮の舎殿を造営し、暫時の疲れを休められた。間もなく是実公他界せられ、その嫡子是行公の代となるや、元来公家の慣習として、何んの営業も無く、貧苦漸く迫り来りたる為、今は供人共も各自に業を求めて各地に離散してしまい、是行公は止を得ず、奥方のかよわき脚を急がせつつ、仮の舎殿を立出で、北方の空を指して、落ち行き給いし状は、実にあわれなる次第であった。
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【祖先が三戸を安住の地に】
斯くて日を重ね、月を閲して三ノ戸郡の糖部へ着かれ、何所か適当なる住処を求めんと、彼方此方尋ね歩行かれたが、一望荒寥とした北地の事とて、人家稀薄依るべきものなく、村らしき村も見えず、困苦をなめながら、やがて馬淵川の辺りまでやって来られたが渡るべき橋さえもなく、又船も無いので、途方に暮れながら夫婦は暫時河面を眺めて茫然たるばかりであった。かくてはならじと二人は勇気を起し川添いに雑草を踏み分け三里ばかり上りしと思おしき頃、目前に二三十軒の人家が見えた。是行公は雀躍して、奥よ喜べ、人家が見えると慰めつつやがて霊験観音の御堂〈図二、現在の斗賀神社拝殿〉へと着かれた。そして其夜は御堂内に入りて足を休め又明日の旅路をつくづく思い悩みつつ、まんじりともできなかったのである。

その翌日是行公の室へ這入って来た別当は威儀を正して「何処となく床しき御方に見え候も、何れより御越しなるや、お構いなければ大略の御模様お話し下されたし」と言葉もしとやかに述ぶる状は、普通の別当とは見えず、必ずや由緒ある人の裔ならんと思われた。是行公は、「吾等は名もなき落人なるが、昨夜来より手厚き御世話に預り、御礼の言葉も無し。願わくは後々までも忘れぬため、苦しからずばこの霊験観音堂の由来をきかせ玉え」と言葉を低うして訊ねるに、彼の別当は襟を正しながら、「さればに候、拙者は藤原の式部と申す者にて、そもそも吾祖先は藤原佐富治部卿と申す公家の由にて讒者のため都より遥々此処に落ち、柴の庵を結びこの土地を拓きて住めるなり、現在にては百姓も追々相集りかくの如く、一つの村を造りしものにて、この観音堂は村人が我祖先を観音に祀りたるものにして、近郷の産土神にて候、さて又御身は都よりの落人の由、何故この様なる土地へとお越し遊ばされしや」と重ね重ねの問いに是行公は懐しげに、式部の顔を打ち眺め「あ、さては貴公は吾一族なりしか、吾祖先も藤原の姓、父上までは関白職なりしも、無実の罪に沈み、かく流人となりたり。只今承はれば貴公も藤原と聞く、系図なきや」と問はれて式部は早速大切に蔵めてあった家の系図を取り出し、披き見るに是行公は本家にて、式部は末家筋なれば、式部思はず後に飛び去って言うには、「さてもさても不思議の御縁かな。
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【念願の子が授かるも女子であった】
是と申すも御先祖の御引合せならむ。この上は此処に御住居あらば、我等は家来同様にして、御世話申す可し」と是より是行公と式部は兄弟の契を結び、是行公は兄となつて、名を宗善に改め給うたのである。 爰に藤原是行公の改名宗善は式部の計らいに由って、三ノ戸郡仁賀村を安住の地と定めて何不自由なく暮していたが、只々心に掛るは世継の子の無い事であつた。

アア子が欲しい欲しいと嘆息の言葉を聞く度に奥方は秘かに思うよう、もうこの上は神仏に祈願を篭めて一子を授からんものと霊験堂の観音に三七二十一日の参篭を為し、願はくは妾等此の儘にして此土地に朽ち果つるとも、子の成人したる暁は再び都へ帰参して、関白職を得るような器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈っている中、ちょうど二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐へ兼ね思わず神前にうとうととまどろめば、何処ともなく偉大なる神人の姿現はれて宣たまうよう、汝の願に任せ、一子を授けむ。されどもその子は必ず弥勒の出世を願う可し、夢々疑うなかれ、我は瑞の御霊神素盞嗚尊なりとて御手に持たせ給える金扇を奥方玉子の君に授けて忽ちその御姿は消へさせられた。
夢よりさめたる奥方玉子の君は、夫の宗善に夢の次第を審さに告げられしが、間もなく懐胎の身となり月満ちて生れ落ちたは玉のような男と思いの外女の子であつた。夫婦は且つ喜び且つ女子なりしを惜しみつつ蝶よ花よと育みつつ七歳となった。夫婦は男子なれば都に還りて再び藤原家を起し、関白職を継がせんとした望みは俄然外づれたれども、今の間に男装をさせ、飽くまでも男子として祖先の家名を再興させんものと、名を南祖丸と付けたのであるが、誰いうとなく女子が男装しているのだ、それで男装坊だと称えるようになったのは是非なき仕儀と言はねばならぬ。
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【一を聞いて十を知る南祖丸】
然るに生者必滅会者定離のたとえにもれず、痛ましや南祖丸が七歳になった秋、母親の玉子の君は不図した原因で病床に伏したる限り日夜病勢重るばかりで、最早生命は旦夕に迫って来たので南祖丸を枕辺近く呼びよせて言う。 「お前は神の申し子で母が一子を授からんと霊験堂へ三七(二十一)日間参籠せし時、瑞の御霊神素盞嗚神より、生れたる子は弥勒の出生を願うべしとの夢の御告げありたり。汝はこの母の亡き後までも此の事ばかりは忘るなよ」と苦しき息の下から物語りして遂に帰らぬ旅に赴いてしまったのである。 
南祖丸はじめ父の宗善、式部夫婦等が涙の裡に野辺の送りをやっと済ませた後、父宗善は熟々南祖丸を見るに、年は幼けれども手習い学問に精を出しあたかも一を聞いて十を悟るの賢さ、是が真正の男子ならば成人の後京都に還り祖先の名を顕はして吾家を関白家に捻ぢ直す器量は十分であらう。しかしながら生来の女子如何に骨格容貌の男子に似たりとて妻を娶り子孫を生む事不可能なり。乳児の頃より男子として養育したれば世人は之を女子と知る者なかるべし。如かず変生男子の願いを立てこのまま男子として世に処せしめ、神仏に仕へしめん。誠や一子出家すれば九族天に生ずとかや。亡き妻の願望に由りて神より与えられたる子なれば家名再興の野心は、流水の如く捨去り、僧となって吾妻の菩提を弔わしめんと決心の臍を固め、奥方の死より三日後、同郡五戸在七崎の観音別当永福寺の住僧なる徳望高き月志法印に頼みて弟子となし、その名も南僧坊と呼び修行させる事とはなった。 
然るに不可思議なる事は如何なる悍馬も宗善の厩に入れば直に悪癖が直り名馬と化るのを見て、里人は何れも之を奇とし宗善の没後には宗善の霊を祀りて一宇を建立し馬頭観音と称へ其徳を偲んでいるが、奥州南部地方の習慣として馬頭観音を蒼前(宗善)と言い、又宗善は絵馬を描く事を楽しみとしてゐたので後世に至るまで絵馬を御堂へ奉納する風習が残つたのである。そして永福寺へ弟子入をした南僧坊は日夜学問を励みその明智、非凡絶倫には月志法印も舌を捲いて感嘆するのであった。
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【十三才、紀伊へ出発】
かくてその後数年を過ぎ南僧坊はここに十三歳の春を迎ふるに到った。 円明鏡の如き清らかな念仏修行、はらはらと散る桜花の下に南僧坊は瞑想に耽っていた。幽寂の鐘の音は止んで夕暮近き頃、瞑想よりフト我に帰って彼方の大空を眺め、亡き母が臨終の遺言をじっと考え込んだ。アア我母上は枕頭に吾を招き苦しき息の下から「弥勒の出世の大願を忘れるなかれ」と言われた。アア弥勒、弥勒出世の大願、しかしながら自力にてはとても叶うべくも無い。是より吾は紀伊国熊野へ参詣して神力を祈りながら大願成就せんものと決心を固め師の坊月志法印へ熊野参詣の志望を申し出でたが、まだ幼者だからとて許されなかつた。南僧坊は今は是非なく或夜密かに寺門を抜け出し七崎の村を後に遥々紀伊路を指して出発してしまった〈図五の写真は現在の永福寺である普賢院〉。
 
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【熊野三社の男装坊】
さて紀伊国熊野山は本地弥陀の薬師観音にして熊野三社と言われその霊験いやちこなりと伝えられる霊場地であって、三社の御本体は、瑞の霊(三ツの魂)の神の変名である。南僧坊は一ケ所の御堂に廿一ケ日宛三ケ所に篭もって断食をなし、日夜三度づつ、水垢離を取って精進潔斎し一心不乱になって弥勒の御出世を祈るのであった。ちょうど満願の夜半になって、南僧坊は不思議の霊夢を蒙ったので、それより諸国を行脚して凡ての神仏に祈らんと熊野神社を後に第一回の諸国巡礼を思い立つ事となった。 神勅に由って熊野三社を立出でた男装坊は先づ高野山に登り大願成就を一心不乱に祈願し終って山麓に来かかると、道傍の岩石に腰を下ろし休んでいた一人の山伏がつかつかと男装坊の前に進んで来た。

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【男装坊と山伏の法力比べ】
見れば身長六尺余、柿色の法衣に太刀を帯び金剛杖をついて威勢よく言葉も高らかに、「如何に御坊修行は法師の業と見受けたり。汝男子に扮すれども吾法力を以て観じるに全く女人なり。女人禁制の霊山を犯しながら修行などとは以ての外の不埒ならずや。必ずや仏の咎に由って修行の功空しからん。万々一修行の功ありとせば吾前にて其法力を現すべし」と言葉を掛けられて男装坊は暫時ぎょっとしたるが、直に心を取り直し満面笑みを湛えながら、「汝吾に向って女人なれば不埒とは何事ぞ、衆生済度の誓願に男女の区別あるべきや。
吾に修行の功如何とは愚なり。三界の大導師釈迦牟尼如来でさえも阿羅々仙人に仕えてその本懐を遂げ玉いしと聞く。况んや凡俗の拙僧未だ修行中にて大悟徹底の域に達せず。御身においては又修行の功ありや」と謙遜しつつも反問した時、彼の山伏は鼻高々と答うやう、「拙者はそもそも大峰葛城の小角、吉野にては金剛蔵王、熊野権現は三所その他山々渓々にて極めし法力によって空飛ぶ鳥も祈り落し、死したる者も生かす事自由なり。
いざ汝と法力を行ひ較べん」と詰めよるにぞ、男装坊は静かに答へ、「さらば貴殿の法力を見せ給へ」「然らば御目に掛けん、驚くな」と山伏は腰に下げたる法螺の貝を取って何やら呪文を唱えると見えしが、忽ち炎々たる火焔を貝の尻から吹き出してその火光の四方に輝く様は実に見事であつた。
男装坊は泰然自若として暫時打ち眺めいたるが、やがてニッコと微笑みながら静かに九字を切つて合掌するや忽ち猛烈なりし火焔は跡なく消え失せて了った。山伏は最初の術の破れたるを悔やしがり、何を小癪な今度こそは思い知らせんと許り傍の小高き所へ駈け上りざま、珠数も砕けよと押しもんで一心不乱に祈れば見る見る一天俄に掻き曇りピューピューと凄い風は彼方の山頂より吹き下りて一団の黒雲瞬く間に拡がり雪さえ交へて物さみしい冬の景色と変ってしまった。その時に異様の怪物遠近より現はれ出で笑ふもの叫ぶものの声天地に鳴り轟きさも恐ろしき光景を現出した。しかれども男装坊は少しも騒ぐ色なく、「さてもさても見事なる御手の内」と賞めそやしながら真言即言霊の神器を用いれば、今までの物凄き光景は忽ち消滅して再び元の晴天にかへった。 
山伏は之を見て、「恐れ入ったる御手の内、愚僧等の及ぶ所に非ず。御縁も在らば又お目に懸らん」と男装坊の法力に征服された山伏は叮嚀に会釈を交して何処ともなく立去ってしまった。


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紀州の尾由村  カット


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【男装坊六十三年の諸国行脚】
果してその翌晩からは何事もなくなったので男装坊は止むる家人に、「急ぎの旅なれば」と別れを告げるや主人は「名残惜しき事ながら最早是非もなし、些少ながら」とて数々の進物を贈ろうとしたが、「拙僧は身に深き願望あつて、諸国を廻るもの、一切施し物は受け難し。去りながら折角の御厚志を無にするも何んとやら、又一つには病人より離れた鳥どもはこのままにして置いてはさぞや迷いいるならんも心許なし、今一つの願ひあり、是より東に当つて一里ばかりの所にある竹林の中へ一つの御堂を建立し、額に鳥林寺と銘を打ち給わらば幸なり」と言い残してから家人に再び別れを告げて道を急いだ。

それより男装坊は二名の嶋へ渡り数々の奇瑞を現はし、九州に渡って筑紫の国を普く廻り所々にて病人を救い、或は御堂を建立する事数知れず再び本土に帰り、熊野に詣で三七日間の祈願を篭め第二回目の諸国行脚に出た。 

男装坊は弥勒出世大願の為に国々里々津々浦々遣る隈なく修行しつつ、十三才の頃より七十六歳に至るまで前後を通じて殆んど六十四年間休みなく歩き続けたが、この間熊野三社に額きし事三十二回に及んだ。
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【枕元に鉄の草鞋と杖】
そしてちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜思わずとろとろと社前に微睡した。と思うと夢とも現つとも判らず神素盞嗚神、威容厳然たる三柱の神を従へ現はれ給い、神々しいその中の一柱神が「如何に男装坊、汝母に孝信として弥勒の出世を願う事不便なり。汝はこの草鞋を穿きこの杖の向くままに山々峰々を凡て巡るべし。此の草鞋の断れたる所を汝の住家と思い、そこにて弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残し、神姿はたちまち掻き消す如くに隠れ給うた。男装坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば鉄で造れる草鞋と荊の杖が一本置かれてあつた。


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【全国の旅に出る】
男装坊は蘇生歓喜の涙にむせびながら、「アア有難し有難し我が大願も成就せり」と百度千度社前に額きて感謝をなし、「さらば熊野大神の神命に従い、国々の山々峰々を跋渉せん」と熊野三社を始め日本全国の高山秀嶽殆んど足跡を印せざる所無きまでに到ったのである。 それより男装坊は日本全洲の霊山霊地と名のつく箇所は残らず巡錫し、名山巨刹に足を止めて道法礼節を説き、各地の雲児水弟の草庵を訪いて法を教へ且つ研究し、時々は病に悩めるを救い、不善者に改過遷善の道を授けて功徳を積み累ねながら、北方の天を望んで行脚の旅を十幾年間続けたる為、鬚髯に霜を交える年配となり、幾十年振りにて故郷の永福寺に帰ってみれば、悲しきかも恩師も両親も既に已に他界せし後にて、ただ徒らに墓石に秋風が咽んでいるのみであった。

2-12


【男装坊八甲田山目指す】
男装坊は今更の如に諸行無常を感己が不孝を鳴謝し、ねんごろに菩提ぼだいを弔ひ又もや熊野の大神の御誓言もあるところより何時迄も故郷に脚を停る訳にもゆかなかつた。
 陸奥の国人たちより大蛇が棲めりと怖れられ人の子一人近寄りしことの無き赤倉山ま、言分山ま、八甲田山などへ登つて悪魔を言向やわさんと、又もやその年の晩秋風吹き荒さぶ山野を行脚の旅に立ち出でづることとした。
 降に降しく紅葉の雨を菅の小笠に受け、積もる山路の落葉を鉄の草鞋に掻き分け悲しげに鳴く鹿の声を遠近の山の尾の上へや渓間に聴きつつ西へ西へと道もなき嶮山を岩根木根踏みさくみつつ深山に別け入いった。

2-13

妙齢の美人の項   カット



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【男装坊は十和田湖が目的地であった】
それより又もや幾日にち幾夜よを重ねて上へ上へと登り詰め、ある山の頂きに登りて見れば意外いにもかかる深山の中にあるべしとも思れぬ宏大なる湖水が目の前に展開してゐた。
男装坊は驚き且つ喜び湖面や四囲の山並の美しい風光に見惚てゐると、不思議なるかな足に穿がちたる鉄の草鞋の緒がふつつりと切れた。

次ぎに手に持つた錫杖がたちまち三段に折れて見る見る木の葉の如く天に飛び上がり大湖の水面に落ちてしまつた。男装坊は思うやう、さては幾十年の間だ夢寐にも忘れざりし吾が成仏の地、永住の棲家とは此処のことであつたか。

かかる風光明媚なる大湖が吾が棲家とは実に有難たやかたじけなやと天を拝し地を拝し八百万の神々を拝脆し、それよりすぐさま湖畔に降りて之れを一周し吾が意に満てる休屋や附近の浜辺に地を相し、笈をおろして旅装を解き幾十年未だ嘗て味はなかつたところの暢々した気分となり安堵の胸を撫でおろすのであつた。



十和田湖での八郎太郎と男装坊の戦い


3-1

【不眠不食の坐禅】
それより男装坊は湖畔に立てる巨巌今篭森の上へに登りて七日七夜の間、不眠不食して座禅の行を修し一心不乱に天地神明に祈願を凝らし終るや湖水に入定して十和田湖の主となるべく決心し御占場の湖辺に至り岸辺の巌上に立ちよりして又もや神明に祈願した。
時あたかも十五夜の望月、団々皎々たる明月は東天に昇りて湖上に月影を浮かべ大空一片の雲もなく微風さへ起こらず水面は凍つきたる如く静寂であつた。男装坊は仰いでは天空に冴ゆる月を眺め、俯しては湖上の月を眺め天地自然の美に見惚れ居ることやや暫し、やがて入定の時刻も近づいて来た。瞑目合掌して最後の祈願を捧げ今や湖水に入定せんとする時、今迄静寂にして鏡の如く澄み切りし湖面俄かに荒浪立ち起こり円満具足の月輪の影千々に砕けて四辺に銀蛇金蛇の乱泳ぐかと思はるる折もあれ不思議なるかもその波紋は次第次第に大きくなり遂には中の湖の辺りより鼎への涌く如くに洶涌きようようし其の中より猛然奮然ふんぜんとして躍り出でたるはこの湖の主として久しき以前より湖中に棲んで居た八郎の化身の竜神である。

3―2


【先住の主八郎太郎が牙を剥く】
頭上には巨大なる二本の角を生じ口は耳まで裂け、白刃の牙をむき出し眼は鏡の如く爛々と輝やき幾十丈も計り知られぬ長躯の中央をば大なる竜巻の天に冲したる如く湖上に起こし、男装坊をハツタと睨み付け「ヤヨ男装坊よく聞け、この湖には八郎と云ふ先住の主守りあるを知らぬか、我身の位置を奪わんと狙ふ不届者の汝の身命の安全を願わば一刻も早く此の場を退却せよ」と天地も震動する大音声をあげて叱咤し牙をかみ鳴らし爪をむき出し、只だ一呑とばかり押し寄せ来たる。

3-3

【七日七夜の戦い】
男装坊は吾れは戦を好むものにあらず、三熊野の大神の御啓示に由つて今日より吾れは此の湖の主となるべし。神意に逆らはず穏かに吾れに譲り渡しいさぎよく此の地を去れ、と説き勧むれど怒りに燃えたる八郎の竜神いかで耳をかすべき、十和田湖の主八郎の猛勇無比、精悍無双なるを知らざるか、この痩坊主め気の毒なれども我が牙を以て汝が頭を噛み砕き、此の鋭き爪にて汝の五体を引き裂かん。覚悟せよと怒鳴りながら飛びかかる。男装坊も今は是非なく法術を以て之れに対し、互ひに秘術の限りを盡くし戦へども相互の力譲らず不眠不休にて相戦ふこと七日七夜に及び何時勝負の果べくも思はれぬ状況であつた。

3-4

【八頭十六腕となり再び七日七夜の戦い】
ここに於いて男装坊は止むを得ず天上に坐す天の川原の棚機姫の霊力を乞ひ幾百千発の流星弾を貰ひ受け之れを爆弾となして敵に投げ付け、或ひは雷神を味方に引き入れ天地も破るる斗りの雷鳴を起こさしめ大風を吹かせ豪雨を降らせ、幾千万本の稲妻を槍となしたる獅子奮迅の勢にて挑み戦へば、八郎もとても叶はじとや思けむ、暫しの間だ手に印を結び呪文を唱へ居たりしが、忽ち湖中に沈み再び湖底いから浮かび出たるその姿は恐しくも一躯にして八頭十六腕の蛇体と変り、八頭の口を八方に開き水晶の如く光る牙を噛み鳴らし白刃の如く研ぎ磨いた十六本の腕の爪をば十六方に伸ばし風車の如く振り廻しつつ敵対奮戦するために又も其の力ら相い伯仲して譲らず、再び七日七夜、不眠不休の活躍、何時勝負の決すべしとも予算がつかぬ状況である。

3-5
男装坊は神仏に頼る】
男装坊思ふに我が為に斯の如く永く天地を騒し奉るは天地神明に対して誠に恐懼に堪へぬ。今となつては止むを得ず神仏の力に縋るより他に方法なしと笈の中より神書一巻、神文一巻を取り出し之れを恭しく頭上に高く掲げて神旗となし朝風に靡かせ八郎の大蛇に打ち向へば、嗚呼不可思議なるかな神書神文の一字一字は残らず弓矢となりて抜け出し、激風に飛ぶ雨や霰の如く八郎に向つて飛びゆき眼口鼻耳と云はず全身五体寸隙の残るところなく刺って深傷を負はせた。

3-6

【八郎は無学さで敗れる】
八郎は勇気と胆力とにかけては天下無双の剛者なれども惜しいことには無学なりしため神書神文の前に立つては男装坊に対抗して弁疏(べんそ)すべき方法を知らず、信仰力を欠いでゐたのでさすがに剛勇を以つて永年間この附近の神々や鬼仙等を畏服せしめ居たりし八郎の竜神も、此の重傷に弱り果て今は再たび男装坊に向つて抵抗する気力もなく、腹を空に現はして湖上に長躯を横たへ苦しげに呻吟するばかりとなつた。その時全身幾万の瘡口より鮮血雨の如くに流れて湖水に注ぎたちまちのうちに血の海たらしめたのであつた




敗れた八郎太郎は八郎潟へ


4-1
【八郎太郎が青森県三戸へ】
ここに八郎は男装坊に破れ千秋の怨をのんで十和田湖を逃げ出し小国ケ岳、来満山を経て更に川下へ落のび、三戸郡下に入つてこの辺一帯の盆地を沼となし十和田湖に劣らぬ己が棲家を造らむとせしが、この地方は男装坊の生ひ立ちし為、男装坊にとつて縁故の深き土地なるがため、此の附近の神々は一同協定結合して八郎を極力排斥することとなり、四方より巨石を投じて攻撃されたるため、八郎は居たたまらずして又もやここを逃げ去り、

4-2

【八郎太郎が鹿角から八郎潟へ】
山々を越えて鹿角郡に入り郡下一円を大湖と化し、十和田湖よりも大きなる湖水を造り、おもむろに男装坊に対し復讐の時機を待たむと企だてしも、附近の神々や鬼仙等などは十和田湖に於ける男装坊と八郎はの戦を観望して男装坊の神の法力、遙かに八郎の怪力を凌ぐに余ることを知つてゐるため、今は八郎の威令も前の如くには行なはれず此の附近の守護神なる毛馬内の月山神社、荒沢の八幡宮、万屋地蔵その他た数千の神社の神々は大湯に集まり、これに古川は錦木の機織姫まで参加の結果、大会議を開き男装坊の味方となり、八郎を排撃することと決し、月山の頂上に登りて大石を瓦礫きとして投げ付けたるため、八郎は居たたまらず十二所扇田の流れを下りて寒風山の蔭げに一湖を造り、此処に永住の地を見出したが八郎の名に因で後世の人之れを呼んで八郎潟潟と称ふるに至れり。


4-3
【男装坊は弥勒出現を待つ】
かくて男装坊は三熊野の三神別けて神素盞嗚尊の神示によりて弥勒の出現を待つ。



4-4
 弥勒再生云々については省略します。
詳細

(完)



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