にっぽん文明研究所さんから
秋田へはいり、『物部文書』が伝わる唐松神社があることに気付いた。『物部文書』の付いて知ってはいたが、未だ物部氏の末流が代々宮司職を継承する神社を訪ねたことはない。早速、同行者らの快諾を得て参拝に向かった次第。
神社の参道の両側には、樹齢二、三百年と思われる杉の大木が並立する。普通、一般的には何段か石段を上り社殿に辿り着くのだが、此処は何故か参道を徐々に下り、低地の社殿に到る。江戸初期建造とされる社殿はさほど大きくはないが、安産と子授けの神と親しまれているせいか、幼児連れの家族が多い。
参道より下がった低地に神を祀るという例は、奈良の広瀬神社などにも見られる。この低地に祀られる神は、一部には蔑まれる神という見方があるようだ。当時の事情を、少し振り返ってみたい。
まず、物部氏だが、遠祖は饒速日命である。『日本書紀』神武天皇の記述のなかで、“嘗(むかし)、天神の子有(みこま)しまして、天磐船に乗りて天より降止(いでま)せり。號(みな)を櫛玉饒速日命と曰(まを)す”とある。この饒速日命は大和の豪族・長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)(亦名は鳥見屋媛)を娶り、初めは東遷の神武天皇の侵攻に対して共に立ち向うが、己れが天神であることを知り、逆に長髓彦を裏切り、これを殺してしまう。そして神武天皇に帰順する。
この饒速日命が降臨されたとする処は、何ヵ所かある。『先代舊事本紀』では天神の御祖から天璽の瑞寶十種を授けられ、河内國・河上(いかるが)の哮峯(たけ)に天降る。秋田の『物部文書』では、秋田県と山形県境の鳥見山(鳥海山)に降ったとしている。
この他、紀伊、筑前、筑後、丹波、といった処にも饒速日の降臨伝承があるが、もともとは大陸或いは朝鮮半島からの渡来系種族の、それぞれ集団毎の始祖神話が、その土地に集約した形で創り上げられたようだ。
この饒速日命から八代後が膽咋連(いくいのむらじ)である。『日本書紀』では、仲哀天皇が崩御し、政情不安になることを恐れた神功皇后は竹内宿禰と諮り、一時期その死を隠そうとする。その際、相談する四名の重臣のなかに膽咋連が登場している。
唐松神社の秋田物部家の家系図では、この膽咋連を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名はなぜか表に出た形で記載されず、守屋の子、つまり尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。
仏教が公然と伝来したのは欽明朝(五三九~五七一)だが、日本の神を奉斎する排仏派の尾輿と守屋は、帰化系氏族と結んで新たに台頭して来た崇仏派・蘇我氏と、神仏の宗教戦争を引き起こす。
用明天皇崩御の年(五八七)、両氏族は皇位継承をめぐって対立する。穴穂部皇子を擁立する物部守谷は、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れてしまう。百済王家出自の蘇我氏の勝利は、百済からの多くの帰化人と、当時の経済テクノクラートを押さえた結果と思われる。
蘇我氏の天下で仏教は隆盛の一途を辿るが、蘇我氏に追われた物部の一族は各地へ離散し、山間や海辺の僻地で隠れ住むようになる。『物部文書』に依ると、守屋の子で三歳になったばかりの那加世は祖父・尾輿の家臣に匿われ、奥州を転々としたという。
聖徳太子の崩後、蘇我氏は旧にも増して横暴となる。遂には太子の一族をも滅ぼし、天皇の廃立さえも企てるようになり、周囲の反感も強まる。ここに中大兄皇子、中臣鎌子等が蘇我氏打倒を目指し、蘇我入鹿の暗殺を決行する。翌日、入鹿の父、馬子の子・蝦夷は自殺し、物部氏が滅亡してから約五十八年後、隆盛を誇った蘇我氏もあっけなく潰え去った。
この六世紀から七世紀にかけ、大化改新を経て古代国家確立に向けての時代は、激動の時代でもあった。蘇我氏が天下を取っていた半世紀の間に物部本流の影は消え、祭祀についても、奉斎する神に変動があったようだ。
秋田物部家は那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。物部氏は饒速日に繋がるが、古代の歴史のなかで様々な表情を見せる。物部守屋にまつわる伝承や、物部氏を祀る神社も数多い。
先の広瀬神社は、若宇迦能売命のほか櫛玉命、穂雷命を祀るが、この櫛玉命は饒速日命のことである。饒速日は長髓彦と共に大和朝廷に刃向い、後でそれまで共に国を治めて来た長髓彦を裏切って殺している。また、物部氏と蘇我氏の闘争で敗れた物部氏は、朝敵として追われている。
守屋の子孫達が神社を建立するにしても、朝敵となった自分たちの祖神を祀ることを、朝廷に対しての気遣わなくてはならない。また、祖神の行動を認めないという証明として、低地に祀ったのではないか…。これから先、物部の神の復権はあるのか…。
もとは秋田物部家の邸内社という天日宮は、周囲に花が綺麗に活けこまれ、何十万個かの天然石で築造されている。変わった神社建築の空間のなかで、ふと時の経つのを忘れてしまった。
(奈良 泰秀 H16年6月)
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