工藤雅樹氏の古代蝦夷関係年表がありました。
・830年の「天長の大地震」・・・雄物川が一夜にして新国道側から西に移動した
・915年の十和田湖の噴火
古代蝦夷関係年表
工藤雅樹氏 作成 ~BC4世紀
縄文時代。 BC3世紀~ 津軽平野まで水田稲作がひろがる(田舎館村垂柳遺跡)
4世紀 会津大塚山古墳、郡山市大安場古噴、名取市雷神山古墳など。
4世紀 東北北部に続縄文文化(後半段階)ひろがる。能代市寒川Ⅱ遺跡など
東北北部の大部分は稲作が中断する。
5世紀 胆沢町角塚古墳、水沢市中半入遺跡など。
478 倭王武(雄略天皇)、南朝宋に使いをおくる。
6世紀~7世紀中頃 国造制の時代(各地の有力豪族を地方長官に任命)、
国造のクニの北限は阿武隈川と信濃川・阿賀野川の河口。
7世紀 この頃から北海道で擦文文化の時代がはじまる。
東北北部では稲作が復活しはじめる。
7世紀後半 この頃から東北地方北部と北海道の一部に終末期古墳が出現する
645(大化1) 大化の改新はじまる。東国国司が派遺される。
647(大化3) 渟足柵(新潟市)を置く。翌年には磐舟柵(新潟県村上市)を置く。
650年頃 評(コホリ)・国が設定され、陸奥国(はじめは道奥国といった)が置かれる。
658・59・60(斉明天皇4・5・6) 阿倍比羅夫の遠征。
659(斉明天皇5) 遣唐使、蝦夷を中国に帯同し、洛陽で高宗に謁見。
701(大宝1) 大宝律令施行。
708(和銅1) 越後国に新たに出羽郡を建てる。
709(和銅2) 陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍任命される。
712(和銅5) 越後国出羽郡と陸奥国置賜・最上郡をもって出羽国を置く。
713(和銅6) 陸奥国に丹取郡[宮城県北部の大崎平野]を建てる。
715(霊亀1) 陸奥の蝦夷邑良志別君[オラシベノキミ]宇蘇弥奈[ウソミナ]と
須賀君[スガノキミ]古麻比留[コマヒル]の請により、香河村
[不明]と閇村[へイムラ、宮古市附近]に郡家を建てる。
718(養老2) 陸奥国の南部の石城・標葉・行方・宇太・日理、常陸国菊多の六郡を
もって石城国を、白河・石背・会津・安積・信夫の五郡をもって
石背国を置く。[両国は724(神亀1〕年ころまでに廃止]
720(養老4) 暇夷反乱し、按察使[アゼチ] 上毛野広人を殺す。
721(養老5) 出羽国を陸奥按察使の管轄下に置く。 724(神亀1)
海道の蝦夷が反乱し、大掾佐伯児屋麻呂を殺す。多賀城が置かれる。
733(天平5) 出羽柵を秋田村高清水岡に遷す〔秋田村は秋田市附近]
737(天平9) 大野東人、雄勝村[秋田県南部、後の雄勝郡、平鹿郡、
山本郡の地域] に城柵を置くために大軍を動員するが、雄勝村の
住民の反対により断念する。
749(天平21) 陸奥国、金を出す。 757(天平宝字1) 陸奥国眺生、出羽国小勝に
柵戸[キノヘ]を配し、桃生城・雄勝城の造営が始まる(759年中に完成)。藤原恵美朝臣朝 陸奥守となる。
762(天平宝字6) 多賀城の大改修が行なわれる。 767(神護景雲1)
伊治城〔宮城県粟原郡築館町]作り終る。
770(宝亀1) 蝦夷、宇漢迷公[ウガメノキミ]宇屈波宇[ウクハウ]ら、徒族を率いて
賊地に逃げ還り、使をおくって呼び寄せても帰らず、同族を率いて必 ず城柵を侵すと言う。
774(宝亀5) 海道の蝦夷が桃生城[宮城県桃生郡河北町飯野]を侵す。按察使の大伴
駿河麻呂ら陸奥国の遠山村[宮城県登米郡]を撃つ。
776(宝亀7) 出羽国志波村[岩手県紫波郡地方]の賊と官軍とが戦い、官軍不利。
陸奥国の軍3000人を発して胆沢[岩手県水沢市附近]の賦を伐つ。
778(宝臼9) 睦奥。出羽国司以下、征峨に功ある呑2267人に叙爵。伊治公皆麻呂、
外従五位下を与えられる。 780(宝竈11) 伊治公皆麻呂の乱。
781(天応1) 賊の首として、伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代の名が見える。
788(延歴7) 征東大使に紀古佐美を任命する。 789(延歴8)
政府軍河を渡り阿弖流為[アテルイ]の率いる軍と戦い大敗。援軍5万余。
791(延歴10) 征夷大使に大伴弟麻呂を副使に坂上田村麻呂らを任命する
792(延歴11) 斯波[シワ]村の蝦夷の胆沢公阿奴志己ら、伊治村の俘にさえぎられて、
王化に帰することができないので、伊治村の俘と戦って永く降路を開き
たいと申し入れる。 794(延歴13) 征夷将軍大伴弟麻呂、斬首457級、捕虜150人、
獲馬85疋、焼落75処と
奏す。征軍10万。
797(延歴16) 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
801(延歴20) 坂上田村麻呂、蝦夷と戦う。征軍4万。
802(延歴21) 坂上田村麻呂を遣して胆沢城を造り、多賀城から、鎮守府を遷す。
大墓公阿弖流為、磐具公母禮ら、種類500余人を率いて降る。
803(延歴22) 坂上田村麻呂、志波城を造る。
805(延歴24) 藤原緒嗣、菅野真道、天下の徳政を論じ、征夷と造都を中止。
810(弘仁1) 文室綿麻呂を按察使に任命。
811(弘仁2) 和賀、稗貫、志波の三郡を置く。
文室綿麻呂を征夷将軍に任命。
出羽国、邑良志閇[オラシベ]村の降俘、吉弥侯部都留岐[キミコベノ
ツルキ]の申請により、爾薩体村・都母[ツモ]村・幣伊村の夷を攻撃させる。
830(天長7) 大地震があり、秋田城に大きな被害。
850{嘉祥3) 出羽国で大地震。
855(斉衡2) 陸奥国の奥地の俘囚が互いに殺傷し
あったため、非常に備えるために援助の兵2000人を発し、さらに近くの城の兵1000人を選んで危急に備える。
869(貞観11) 陸奥国で大地震があり、多賀城に大きな被害。
875{貞観17) 渡嶋の荒狄が叛し、水軍80艘で秋田、飽海両郡の民21人を殺す。
878{元慶2) 元慶の乱はじまる。藤原保則を出羽権守に任命。
893(寛平5) 出羽国の渡嶋の狄と奥地の俘囚等が戦闘をしようとした。
915(延喜15) 出羽国に灰が降る(十和田湖の噴火)。
939(天慶2) 出羽国の俘囚が反乱し、秋田城の軍と合戦。 10世紀後半
この頃、東北北部と北海道の一部に防御性集落が出現。。
1051(永承3) 前九年の合戦はじまる。
~1062(康平5) l067(治暦3)~1071(延久3) この頃、陸奥守、源頼俊、
閉伊七村の山徒と衣曾別嶋
の荒夷を討つ。
1083(永保3) 後三年の合戦はじまる。
~1087(寛治1) 1094(嘉保1)~1104(康和6) この間に、藤原清衡平泉に居館を置く。
1189(文治5) 文治五年奥州合戦、平泉藤原氏滅ぶ。
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