なまはげの郷、秋田県「男鹿(おが)」の語源にもなった肉食習慣のある蝦夷「恩荷(おんが)」が信奉していたのは、『日本書紀』によって「齶田(あぎた)浦の神」であることがわかります。
この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。
つまり、齶田浦の神と、それを信奉する恩荷(おんが)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。
新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。
さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。
不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。
かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。
つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。
三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。
日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。
比率が逆であれば語呂がよかったのに、という幼稚な洒落はさておき、せっかくなのでこの三文字さんのデータをもう少し詳細に眺めてみます。
まず、「ミ」系28社のうち「三輪」を冠するものは5社、「ミ“ア”タリ」と称するものは5社でした。
そして「ニ」系42社では、社名に「鶏」を掲げるものが4社、「鬼渡」系は6社、「ニワタ“シ”」系は2社でした。この「鶏」「鬼渡」「ニワタシ」を合わせた12社を差し引いて無理やり少なく見積もったとしても、結局ニワタリ系は30社もあり、しかも鶏4社のうち一社は鶏足(にわたり)と読ませております。やはり私はこの信仰を「ニワタリ信仰」と呼ぶのが最も自然であろうと考えます。
さて私は、この神祀りは「二羽の鳥」に見立てられた外来在来二つの勢力の絆により生まれたものではないか、と想像していたわけですが、つまり私の仮説で言うならば、この神には少なくとも二柱分の性格が混在していることになります。
それが、「二羽の鳥」の韻から「鶏」に変遷し、そこに慈覚大師円仁を掲げて東北一円を教化した天台密教一派、あるいは南朝勢力と後醍醐天皇仕立ての真言立川流などの影響を経て、「鶏」という韻から弥勒下生に重要な「鶏足山(けいそくせん)」が重なり、仏教色が強まったものと想像しております。
日本海側の古四王(こしおう)が、蝦夷の信奉する齶田浦の神に、進出してきた中央氏族が奉斎してきた武甕槌(たけみかづち)命なり大彦(おおびこ)命なりが習合し、四天王を経て仏教色が強まっていったように、その顛末と極めて似通った歴史を辿ったのが太平洋側においてはこのニワタリではなかったか、と私は考えているのです。
さて、三春秋田氏の祈願所「真照寺(しんしょうじ)」にある古四王堂は当然秋田氏すなわち安倍氏によるものとして、この三春周辺の25社中7社ないし9社にも及ぶ集中的なミワタリ信仰は一体何者の影響によるのでしょうか。
ここで私は三春以外の集中地区にも注目するのです。
前述の三文字さんがとりあげたレジュメ『北上川と白鳥信仰』――1996年北上市で開催された「古代の北上を考える市民のつどい」配布資料集――にある『旧仙台藩領における庭渡社の分布』によると、ベスト5は以下のとおりです。
この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。
つまり、齶田浦の神と、それを信奉する恩荷(おんが)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。
新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。
さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。
不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。
かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。
つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。
三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。
日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。
比率が逆であれば語呂がよかったのに、という幼稚な洒落はさておき、せっかくなのでこの三文字さんのデータをもう少し詳細に眺めてみます。
まず、「ミ」系28社のうち「三輪」を冠するものは5社、「ミ“ア”タリ」と称するものは5社でした。
そして「ニ」系42社では、社名に「鶏」を掲げるものが4社、「鬼渡」系は6社、「ニワタ“シ”」系は2社でした。この「鶏」「鬼渡」「ニワタシ」を合わせた12社を差し引いて無理やり少なく見積もったとしても、結局ニワタリ系は30社もあり、しかも鶏4社のうち一社は鶏足(にわたり)と読ませております。やはり私はこの信仰を「ニワタリ信仰」と呼ぶのが最も自然であろうと考えます。
さて私は、この神祀りは「二羽の鳥」に見立てられた外来在来二つの勢力の絆により生まれたものではないか、と想像していたわけですが、つまり私の仮説で言うならば、この神には少なくとも二柱分の性格が混在していることになります。
それが、「二羽の鳥」の韻から「鶏」に変遷し、そこに慈覚大師円仁を掲げて東北一円を教化した天台密教一派、あるいは南朝勢力と後醍醐天皇仕立ての真言立川流などの影響を経て、「鶏」という韻から弥勒下生に重要な「鶏足山(けいそくせん)」が重なり、仏教色が強まったものと想像しております。
日本海側の古四王(こしおう)が、蝦夷の信奉する齶田浦の神に、進出してきた中央氏族が奉斎してきた武甕槌(たけみかづち)命なり大彦(おおびこ)命なりが習合し、四天王を経て仏教色が強まっていったように、その顛末と極めて似通った歴史を辿ったのが太平洋側においてはこのニワタリではなかったか、と私は考えているのです。
さて、三春秋田氏の祈願所「真照寺(しんしょうじ)」にある古四王堂は当然秋田氏すなわち安倍氏によるものとして、この三春周辺の25社中7社ないし9社にも及ぶ集中的なミワタリ信仰は一体何者の影響によるのでしょうか。
ここで私は三春以外の集中地区にも注目するのです。
前述の三文字さんがとりあげたレジュメ『北上川と白鳥信仰』――1996年北上市で開催された「古代の北上を考える市民のつどい」配布資料集――にある『旧仙台藩領における庭渡社の分布』によると、ベスト5は以下のとおりです。
1、牡鹿(おしか)――現:宮城県石巻市周辺――22社
2、宮城11社
3、伊具(いぐ)9社
4、志田(しだ)8社
5、桃生(ものう)6社
2、宮城11社
3、伊具(いぐ)9社
4、志田(しだ)8社
5、桃生(ものう)6社
2位の宮城郡は別枠記載の首府仙台城下の2社も含めると13社になるわけですが、これは伊達家以前にこの地を支配していた國分氏によるものでしょう。國分氏はニワタリを氏神と称しておりましたからほぼ間違いありません。
それにしても、牡鹿の22社は異常な集中です。隣接の桃生の6社を合わせれば28社も集中しており、ニワタリ信仰の本場として疑うには申し分がないと思います。はたしてこの地を領していた大物氏族とは一体何者なのでしょうか。
とりあえず、鎌倉期以降は坂東武士の葛西(かさい)氏でありました。
しかし、葛西氏は頼朝からこの地を賜ったものの奥州の安定をみるまではしばらく下総の地からこの地を遥任してきたことから考えると、もしニワタリが葛西氏による奉斎神であれば、本領である下総郡葛飾(かつしか)――現:東京都葛飾区あたり――周辺にも集中的に確認できてよさそうなものです。
また、葛西氏だとすれば陸奥国全域への思想的影響力や飛び地的な三春周辺の集中の説明が難しくなります。
したがって葛西氏が運んできた神というセンは弱いと思われます。
それでは、葛西氏以外で牡鹿を拠点に陸奥国全域に影響を及ぼせるような氏族とは一体誰でしょうか。
これはもう「道嶋(みちしま)氏」でしょう。
道嶋氏は、元々古代の有力氏族「和邇(わに)」氏の部民「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)」氏であり、蝦夷としては異例の大出世を遂げていたことが『続日本紀』によってもあきらかになっております。
実は、三春を含む古代の「安積(あさか)郡――現:福島県郡山市周辺一帯――」は、この丸子一族に大変縁が深い地でもあるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(まとめ)
・するどいお方です。ファンになりました!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それにしても、牡鹿の22社は異常な集中です。隣接の桃生の6社を合わせれば28社も集中しており、ニワタリ信仰の本場として疑うには申し分がないと思います。はたしてこの地を領していた大物氏族とは一体何者なのでしょうか。
とりあえず、鎌倉期以降は坂東武士の葛西(かさい)氏でありました。
しかし、葛西氏は頼朝からこの地を賜ったものの奥州の安定をみるまではしばらく下総の地からこの地を遥任してきたことから考えると、もしニワタリが葛西氏による奉斎神であれば、本領である下総郡葛飾(かつしか)――現:東京都葛飾区あたり――周辺にも集中的に確認できてよさそうなものです。
また、葛西氏だとすれば陸奥国全域への思想的影響力や飛び地的な三春周辺の集中の説明が難しくなります。
したがって葛西氏が運んできた神というセンは弱いと思われます。
それでは、葛西氏以外で牡鹿を拠点に陸奥国全域に影響を及ぼせるような氏族とは一体誰でしょうか。
これはもう「道嶋(みちしま)氏」でしょう。
道嶋氏は、元々古代の有力氏族「和邇(わに)」氏の部民「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)」氏であり、蝦夷としては異例の大出世を遂げていたことが『続日本紀』によってもあきらかになっております。
実は、三春を含む古代の「安積(あさか)郡――現:福島県郡山市周辺一帯――」は、この丸子一族に大変縁が深い地でもあるのです。
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(まとめ)
・するどいお方です。ファンになりました!!
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