唐松神社に見られる異様さは、この神社が、物部氏と深い繋がりあることと関係していると推測されているらしい…。物部氏は、古代日本で蘇我氏と権力を争った名家であったが、仏教の導入を巡って崇仏派の蘇我氏と対立。6世紀後半、聖徳太子と組んだ蘇我馬子によって、日本の神を奉斎する排仏派の物部氏は敗れ、その血筋も歴史の表舞台から消え去るという運命を辿った。
唐松神社の祭神は、物部氏の遠祖とされる饒速日命(ニギハヤノミコト)であり、また、この神社の宮司は代々、物部姓を名乗って来たそうだ!いわば、歴史の傍流へと追いやられた敗者の側に立つ神社こそ唐松神社なのではないでしょうか?
では、なぜ畿内にあった物部氏が、当時、辺境であった東北へとやって来たのでしょうか?この辺りの事情を説明してくれるのが、長らく外部者には見る事を禁じられてきた秘中の秘とも言える文献「物部文書」である。「物部文書」は、唐松神社の代々の宮司が一子相伝で継承してきた文献で、「古事記」や「日本書紀」と同様、神々が織りなす神話の世界から、日本という国の成り立ちを説明している。この書は、昭和58年(1983)になって、ようやく一部が公開されたが、大部分は依然として未公開のままになっているというのが現状だ…。
物部家の子孫が神社を建立する際には、中央の朝廷に対し気を遣わなくてはならなかったでしょうね…。それゆえに自らの遠祖を低地に祀ったと考えるのは、私のイメージだけでしょうか?
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