2009年2月24日火曜日

03011■菅江真澄スパイ説「天明の密偵」









菅江真澄の真実に迫ったものに出会いました。



中津文彦の『天明の密偵』は、この菅江真澄の生涯に迫った歴史小説である。
 
だがそれ以上に圧巻なのは、真澄を松平定信派の密偵としたことだろう。真澄が活躍したのは、田沼意次の専横を快く思わない一派が、松平定信を担いで反田沼の狼煙(のろし)を上げた時期と重なる。田沼意次が蝦夷地の開拓で米を増産し、北方貿易でも利益を得ようとしたのは歴史的な事実である。その意味で定信が蝦夷地を探ることで、意次失脚の証拠を掴みたいと考えるのは無理がないし、そのために密偵を送り込んだとしても不思議ではない。
考えてみると、真澄が旅に出たのは二十九歳の時。同年には浅間山が大噴火し、東北では飢饉が続いていた。
真澄は、この時に旅立たなければ次の機会がないという年齢ではない。世の中が落ち着くまで待つことができるのに、あえて旅を続けたのは何故か?

真澄=密偵説を採るならば、その理由が見事に説明できるのである。また現代であれば、大学なども数多いので学問で身を立てることは難しくないが、江戸時代に能力があるだけの無名の人物が、学問で成功するには莫大な金銭が必要だった。真澄も同様で、学問には絶対の自信がある一方で、その前途には常に不安を抱えていた。密偵となることで幕府首脳に認められ、出世の糸口になるならば、その任務に人生を賭けたかもしれないのだ。
『天明の密偵』は、こうした実際にあったかもしれない可能性を積み重ね、真澄の生き様を活写していくが、緻密な考証から生み出される仮説が、小説としての面白さに直結していることも忘れてはならない。
真澄は密偵なので、田沼派の追手に注意しなければならない。特に蝦夷を支配する松前藩は、松平定信の密偵を警戒し、厳重な入国管理を行なっている。この警戒網をいかに突破し、どのような手段で必要な情報を集め、江戸に報告書を送るのか。真澄が松前藩に到着する中盤以降はスピーディーかつスリリングな展開が続くので、上質なスパイ小説を読むような興奮がある。

同時に、浅間山の大噴火、天明の大飢饉、田沼意次の失脚と、続く寛政の改革、蝦夷地での活動を本格化させたロシアの影、松前藩の過酷な政策に蜂起するアイヌの人々など、真澄を時代の転換点となった大事件の目撃者とすることで、庶民の視点から歴史を評価していく手法も実に鮮やかだ。

真澄の探索行は、意次と定信の政治的な暗闘のために行なわれたものである。若者らしい自意識と、自分が修めた学問への傲岸不遜なまでの自信を持つ真澄は、定信派に付くことで自分の生きた証を残そうとしていた。だが密偵として各地を旅し様々な挫折を経験した真澄は、政治的な野心を抑え、人間界の欲望を超越した境地に至る。もちろん、ここには人間的な成長を描くという側面もあるだろう。だが単なる教養小説風な枠組みだけでなく、歴史を真に動かしているのは政治家や武将といった歴史的な有名人ではなく、地道な活動を続けた〈名も無き人々〉であるという認識が込められているように思えてならない。作中で、田沼意次の密偵として蝦夷地を探索したものの、意次の失脚によって職を追われた青嶋俊蔵や佐藤玄六郎らの活動がクローズアップされていたのも、そのためだろう。

天明期は、幕藩体制の矛盾が噴出した時代である。激動の時代に翻弄されながらも、自分の人生を切り開いていった菅江真澄を描いた『天明の密偵』は、同じような混迷の時代を生きる現代人に投げ掛けられたメッセージなのである。


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(まとめ)
・松尾芭蕉を調べていくと真実らしく思えてきます。芭蕉と東北の歌枕については別途にいっぱい書きます。
・菅江真澄は秋田に定住前と・秋田に定住後とに分けて考えるべきなのですね。
 ここが分からないと、菅江真澄研究も片手落ちですね。
・秋田の「菅江真澄研究家」たちは、この観点から調べたら面白いと思うのに・・・・。
 「真澄スパイ」などとは「とんでもない!!」でしょうね。純粋ですね!!

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