2009年2月14日土曜日

03008■田村麻呂と鬼伝説




大多鬼丸伝説

阿武隈高地の大滝根山を中心に、遠い祖先から、人や場所と結びついた過去の物語が真実と信じられ、それを代々受け継いで人々に語り継がれたものである。

                                                   
 伝説は史実ではないが、それは私たちの心のふるさとでもあります。


平安時代の頃、陸奥の国は朝廷が強い力で押さえつけ、弱い立場の陸奥人を長い間苦しめてきた。当時、大滝根山に白銀城を築き周辺を治めていた大多鬼丸は、困る人には食を、病に伏せば良薬を与え、豊かな集落をつくっていた。大多鬼丸は、いずれ朝廷に抗して大きな火を噴かねば収まらない人物だった。
ある時、大多鬼丸のもとに「汝が支配する領土や民は皆朝廷のもの。これを都に差し出せ!」という文書が届いた。


そして、坂上田村麻呂が軍を率いてこの地に現れ、戦が始まった。



地理に明るい大多鬼丸軍は巧みな戦術で戦い続けたが、田村麻呂軍はやがて優勢となり、遂に暗闇に乗じて大多鬼丸の本陣を取り囲んだ。白銀城から鬼穴(洞窟)の中に移り指揮を執った大多鬼丸だが、とうとう力尽き、「敵の手に捕らえられては末代までの恥辱。わしはこの洞窟の中で果てることとする。」と決心した。


鬼といわれた大多鬼丸は「お伴します」という妻を斬り、返す剣で自分の首を斬った。大多鬼丸軍は将の自刃を知ると、朝廷軍に降伏して大滝根山から続々郷に降りていった。

田村麻呂は、勇猛に戦った大多鬼丸を惜しみ、その首をあぶくま山系一円が展望できる仙台平の高台の大怪石のもと丁重に葬ったという。



福島県田村市(旧田村郡)と大多鬼丸と坂上田村麻呂伝説:

福島県田村市(旧田村郡)は、田村という市名からもわかりますように、ここは、延暦14年、征夷大将軍坂上田村麻呂が大多鬼山(大滝根山)の石穴に篭る大多鬼丸を討つため、都(京都)から、東征したゆかりの土地です。大滝根山にはいわゆる地元の豪族=蝦夷の首魁=大滝丸(大多鬼丸とも)がいて、坂上田村麻呂と死闘をおこなった地であり、旧田村郡には多くの伝承の地が点在しています。

その一つに、あぶくま洞に繋がっている巨大鬼穴ドリーネにある鬼穴は、大多鬼丸が立て篭もり死闘のすえ自害した場所と伝えられ、仙台平カルスト台地(870m)の頂上には、大多鬼丸の首塚が大滝根山(1192m)を背景にたたずんでいます。そのほかにも、大滝根山のすぐ南東の山は鬼ヶ城山(887.3m)といい、また大滝根山周辺には鬼五郎などの「鬼」地名が多いことから、その戦いは死闘・激闘であったことが想像できます

(ヤマトは手強い蝦夷の抵抗があった地に「鬼」の地名をつける傾向が顕著であったようです)。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

0 件のコメント: