タマキ宮(垂仁帝)八十八年六月十日のこと(329年)
タジマモリ、常世国(とこよくに)と橘樹(たちばな) |
九十年二月一日、タジマモリに君の詔がありました。
「タジマモリ、橘樹(カグ)を求めに常世国(トコヨ)に行けよ。我れ思うに、カグの木は、クニトコタチがトコヨ宮前に植えて国を開いたという御世(みよ)の花である」
九十九年七月一日、この年君は百三十七歳で崩御されました。
皇太子は喪中最後の四十八日目の夜、埴輪建物(ハニタテモノ)の製造を命じ、自らの喪服を脱いで陵に納めました。
十二月十日、スガラフシミ(菅原伏見)陵では盛大な葬送の式典が夜っぴいて繰り広げられました。無数の松明(ダビ)に写し出された飾り建物の埴輪達は列をなし、人々の悲しみに打ちふるえる心を写して、心なしか涙に濡れていました。
満天の星空の下、透明な御柱(みはしら)を伝って、天上サゴクシロの宗宮(ウジミヤ)に御幸(みゆき)される大君の御魂が放つ一閃(いっせん)の光芒(こうぼう)を誰もが心深く憶いて、君の再来を信じて日の出を待っていました。
明る春弥生、タジマモリが常世(とこよ)の旅から帰ってきました。君との約束を果たして土産は、トキシク橘果(カグツ)を二十四籠(かご)、及び橘樹(カグノキ)四竿(ヨサホ)を、供の者に担(にな)わせて、多くの困難を乗り越えて帰って来ました。
しかし、帰ってみれば君はすでにこの世にはなく、君の喜ぶ笑顔を見たい一心で一路急いだ京への遠い道も、君の温かな御心に触れるねぎらいの言葉を心の支えに急いだ夜道も、雨や日照りから、カグの鮮度を保つために心をくだいた配慮の数々も、それもこれも君への一途の思いがあればこそ、何の苦にもなりませんでした。
タジマモリは土産の半分を東宮(わかみや)に献上して、残る半分を君の陵(みささぎ)の御前(みまえ)に捧げ、涙ながらに復命いたしました。
「君の命を受けて、このタジマモリは橘樹(カグノキ)を求めにはるかなトコヨに行ってまいりました。トコヨの国とは、神仙の隠れ住むという、他に比べ得えない程説明しがたい仙境でした。彼の地の言葉や風習も全く変わっていて、習慣に馴染むのにも十年の年月がかかってしまいました。
今こうして困難にもめげず君の奇霊(クシヒル)に守られて、やっと帰ってまいりました。が、君は今すでに世を去り、そのお声、そのお姿を拝することとてもうできません。
臣(とみ)はどうして、君のいないこの世を生きてられましょうか」と、涙ながらに泣き伏して自ら死んで行きました。
居並ぶ群臣たちも皆、一途で素直なタジマモリの思いに涙しつつ、橘樹(カグ)四本を正殿前に植樹し、残りの株四本をスガワラの陵に植えて、君とタジマモリへの手向け(たむけ)のよすがとしました。
実はタジマモリは遺書を東宮(わかみや・オシロワケ、タリヒコ)に残していました。皇子(みこ)はこの文(ふみ)を見たまいて、「橘君(カグキミ)の娘ハナタチバナ姫は、彼(タジマモリ)の妻である。早速オシヤマスクネを彼の地に派遣してタチバナモトヒコ(橘元彦)親子を京に呼び寄せよ」と申しつけると、父モトヒコとともに娘のハナタチバナ姫が上京してきました。皇子(みこ)は大変喜ばれて父子を迎えると、モトヒコに御依(みは)を賜わり、タジマモリの喪を勤めさせました。ハナタチバナは懐妊していましたので、君の配慮で宮中に留め置くよう手配が整えられました。
サツキの末に、姫が産んだ女児に君は詔して、「故人(ムカシノヒト)の魂(たま)の緒(お)を止めているので、良く似て美しい子だ。オトタチバナ(乙橘)姫と名付けよう」と言い、名付け親となられました。ハナタチバナ姫には、生前のタジマモリに顔や姿が良く似ているオシヤマに母子共に嫁がせて、深き恵みを垂れたまいました。
このような深い縁が結ばれた結果、後にヤマトタケル(タケ)の東征を可能にし、成功に導くキッカケの本縁(もとおり)となりました。
タジマモリの墓は、現在奈良市尼辻町にある垂仁天皇の大きな前方後円墳の周濠中に浮かぶ小島が彼の墓だと言われています。又、持ち帰った橘はその後、垂仁天皇の纒向珠城宮(マキムクタマキ)のあった穴師(アナシ)の里に植えて広められ、ここのミカンは代々天皇に献上されるようになり、現在でも十二月の暮れから春先に掛けて山の辺の道を歩くと、一面のミカン畑が色づいて香(かぐ)わしいかおりに包まれています。
”タジマモリの墓は。。。。。包まれています。”までは、
「歴代天皇100話」林睦郎監修 を参考にさせていただきました。
終り
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