2009年8月21日金曜日

04007■年縞から見た歴史的事件と環境




ここで、私たちの開発した年縞の分析技術によって明らかにした環境と歴史的事
件との関係を渤海の盛衰を例にとってみてみよう。




図2
どちらが先?
白頭山の噴火と
渤海国の滅亡









年縞を調べてみると白
頭山の噴火が渤海国の
滅亡よりも後であること
が明らかになった。さら
に渤海国の滅亡の3年
前に気候が寒冷化した
ことがわかった。渤海国
は急激な気候の変化に
対応できずに滅びたの
だろう。
渤海は8世紀頃に中国東北部から朝鮮半島北部を中心に栄えた国である。
15代続いたこの国は926年に滅びたのだが、その原因は中国と北朝鮮国境
に位置する白頭山の大噴火ではないかと言われていた。ところが青森県小川
原湖の年縞を調べたところ、白頭山の大噴火が937年に起きたことがわかっ
た。渤海の滅亡以降のできごとだったのだ。さらに、年縞に含まれるケイソウ
の種類を分析したところ、渤海滅亡の3年前から気候が寒冷化していることが
わかった。渤海は気候の寒冷化による冷害などで滅びたのだろう。年縞はこ
のような考えを支持する。

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(まとめ)
・このように」年縞は年代を正確に歴史的事件と対応できるのですね。
・この例は、平安時代のことですが、縄文時代の事例研究も欲しいですね。

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2009年8月20日木曜日

04006■地球の年輪で気候変動がわかる



木に年輪があるように、大地にも縞模様の年輪があるという。
安田喜憲氏の専門は、特定の条件を有する湖の底に形成される縞模様、それを「年縞」といい、「年縞」の研究である。年縞で何がわかるのでしょうか。

1、年縞の標本











年縞が採取される地点











男鹿半島 一の目潟








2、なぜ縞模様になるのか
固定では春から夏にかけて珪藻が繁殖して白い層が形成される、秋から冬にかけては珪藻が繁殖せず、かわりに湖水に含まれる粘土鉱物が静かに堆積して黒い層をつくるためである。

この年縞には、ちょうど木の年輪のように、その時々の環境変化が年単位で刻みつけられている。






3、年縞は厳密な年代決定ができる
この年縞からは厳密に年代決定ができる。年縞は一年に一枚づつできるから、それを一枚づつ数えていけば、1000枚目は限りなく10004年前に、1万枚目はかぎりなく1万年前に近い年代を示している。
年縞の中には、珪藻や花粉の化石あるいは中国から飛んできた黄砂、さらには湖に生息したプランクトンの市外など、過去の環境の変動を示すものがいくつか含まれる。
そうした過去の気候変動や森林の変遷を示す化石を分析することで、過去の気候や森林などの周辺環境の変遷が、一年単位で詳細に解明できる。その分析・研究が私の専門である。


4、過去の海面状態もわかる
気候や森林の状態だけではない、年縞に含まれる珪藻を分析すると、過去の海面の変動、湖水位の変動、あるいは汚染の状態が年単位で定量的にわかってくる。
私たちのチームがそれを分析した結果が、科学誌「サイエンス」に掲載された。

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(まとめ)
・「年縞」をグーグルで検索すれば常に「エラー」となります。ブロックされていますね。
・「年縞」が新しい年代標準になるのですね。

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04005■大地の年輪により解き明かされるもの



去の森の変遷や気候の変動が年単位で復元できるように
――  地球温暖化が話題となっています。先生は、日本の八世紀から九世紀を「大
仏温暖期」と名付け、地球規模の「中世温暖期」に当たる時代があった、とおっしゃいます。このようなことは、ご専門の花粉分析、つまり、土に含まれる花粉の化石を取り出し、花粉の種類や量を調べ、過去の植生や環境を類推する、という方法でわかるのでしょうか。
安田 最近、花粉分析も技術が進みました。
 これまでは放射性炭素14による年代測定という方法で年代を調べていましたが、その年代はプラス・マイナス50年、100年という統計上の誤差がつきます。
ところが、2000年に我々は
「年縞

というのを発見しました。湖底の堆積物の中に縞々の模様があることがわかったんです。福井県の水月湖というところで一番最初に見つけました。ここは原子力発電所のある敦賀市の近く、三方五湖にあります。 そこでボーリングをして湖底の堆積物を見たら、ずうっと縞々の模様が連続してあったものですから、一体何だろうと調べたら、湖は春先から夏にかけては珪藻という藻が繁殖するんです。秋から冬にかけてはそういうものが繁殖しません。珪藻が繁殖した層は白いんですが、繁殖しない秋から冬にかけては黒い層です。白黒がセットになって、年輪と同じようなものが堆積していたのです。




 そこに含まれている花粉や、珪藻、いろいろな微化石を復元すると、過去の森の変遷や気候の変動が年単位で復元できるようになったんです。 これは非常に画期的なことで、2003年1月にアメリカの科学雑誌「サイエンス299号」に載りました。今、世界が注目しています。
 今まで過去の気候変動を年単位で復元できるものに年輪がありました。年輪の中に含まれているセルロースという成分がありますね。セルロースは炭素を含んでいますから、炭素(C)の同位体を測ることによって、水温の変動がわかります。木が水を吸い込みます。水温が高いときに形成されたセルロースと低いときに形成されたセルロースによって、C13とC14の比が変わってきます。それを測ることによって、過去の歴史代の気温の変動がわかってきました。
ところが、いくら屋久杉でも、屋久杉の真ん中は空洞ですから、結局測れるのはせいぜい2000年くらいです。それより古い時代の話はできなかったんですが、それが年縞を見つけることによって、10万年くらいまで話ができるようになりました。今は一万年前の気候変動でも年単位で調べることができます。
だから、むしろ人間の歴史のほうがついていけない。歴史代には文書があり、西暦何年という記事がありますから、はっきりしているわけですが、文書のない時代になってくると、遺跡の年代を決定する方法は、今のところ炭素14による年代測定しかないですから、逆に人間の歴史のほうがあいまいで環境の歴史のほうが逆に細かくできるようになったんです。
―― そうすると、過去の温暖化などは簡単にわかるわけですね。


安田 そうです。「サイエンス299号」に載った論文の内容はどういうことかというと、地球の温暖化は15000年くらい前に始まります。氷河時代が終わって、地球の年平均気温が一気に5度から6度ほど上がります。今まで気候の変動は、南極が暖かくなれば、北極も温帯地域も暖かくなると思っていました。ところが、15000年前の急激な温暖化には気候変動のズレがある、ということがわかったんです。15000年前にいち早く気候が温暖化したのは、我々のモンスーンアジアで、北極やヨーロッパは約500年ずれる、ということがわかりました。

―― 時間差があるわけですね。
安田 大きな規模の気候変動には時間差や地域差があることがわかってきました。
今、北極は確実に温暖化していますが、南極は温度が下がってきていると言い出してきた。
気候変動は必ずしも地球全体が暖かくなるのではなくて、どこかは暖かくなったが、どこかは寒くなる、地域差や時間差があるという方に、今、大きく気候変動の流れがシフトしています。
「サイエンス299号」に論文が出たら、三か月後に僕の弟子の中川毅君にイギリスのニューカッスル大学から電話がかかってきて、「面接に来なさい」と。すぐ行ったら、「あなたをうちの助教授に採用します」と言われて、今、向こうの助教授になっています。また僕は、今年の4月にスウェーデンの王立科学アカデミーの会員になりました。びっくりしました。やはり仕事が評価されたんですね。


04004■縄文日本海の海面変動



縄文時代の日本海の海面変動から読み取れるもの。田喜憲氏の「生命文明の世紀」より


1、過去1万年の日本海の海面変動図


















この図から、通説の縄文海進がよくわかります。

2、縄文海進が科学的にわかる

縄文海進

土器と並んでもうひとつの大きな契機は、地球温暖化による縄文海進と呼ばれる海水面の上昇である。いま、地球温暖化が地球的規模の大問題になっているが、今から約6,000年前には、今より1~2度気温が高かったという。関東地方が沖縄県の気候に近かったらしい。最終氷期が終わって、徐々に温暖化が進んだ結果だった。

日本列島を囲む海面は、今より3~5メートルも高かった。日本列島はかなり奥まで海であったのだ。関東地方で言えば、東京湾は春日部を通り越して、古河のあたりまで入り込んでいたらしい。そして、そこには豊富な魚介類が生息していた。


3、4200年前の大激動がわかる
この図からわかるとおり、4200年前の大激動とは、ユーラシア大陸の気候の大変動である。気候が寒冷化したのである。その変動が大規模な民族移動を引き起こしたことも、最近わかってきた。
中国山東半島のつけ根にある臨璽遺跡から出土した人骨のDNAを分析した。60体の人骨分析したが、2500年前の人骨のうちの約6割が、じつは白人と同じDNAをもっていた。山東半島のつけ根・・・すなわち黄河文明のど真中に住んでいた人々が、なんとフィンランド人やドイツ人と同系なのである。
この臨璽遺跡の人骨のDNA分析結果は、民族の大移動とは無縁と考えられていた東アジアにおいても、かって民族の大移動にさらされた事実をはじめて明らかにした。


4、東アジアの民族大移動



















4200年前の気候変動はおそらく大規模な民族移動を東アジアの世界に引き起こしたでろう。
黄河流域の人々は、この時代の気候悪化の影響を最も強く受けた人々だった。彼らは寒冷化と旱魃で疲弊した黄河流域の大地を捨て、水に恵まれて温暖な長江流域に大挙して南下したのである。そして、長江流域に暮らしていた人々を次々と蹴散らしていった。
黄河流域の人々はなぜ、長江流域の人々を蹴散らして支配することができたのだろう? それは彼らがすでに金属器をもち、馬を足として使いこなしたからである。
そして、4200年前以降の北西方からの大民族移動によって、長江流域にいた人々は圧迫され、北や東、南、あるいは日本列島へ逃げて行った。

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(まとめ)
・縄文海進がよくわかります。
・4000年まえ頃に大激動があったことはいろいろな本に出ていますが、実証されたのですね。
・「ムー大陸」のこともわかってくるのでしょうか?

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04003■縄文土器は世界最古




安田喜憲さんの「生命文明の世紀へ」を本人のサイン入りでいただいておりました。昨年小坂町でのフオーラムでお会いしたときです。改めて読み直して感動しています。
















縄文人が世界最古の土器を作れた理由
(p63~)
1、考古学者・芹沢長介の主張

約50年前(1959)、横須賀市の夏島貝塚から出土した縄文早期の夏島式土器の測定結果が9000年前だったことから、「日本の縄文土器は世界最古である」と主張した。
とじの最新技術であった放射性炭素年代測定法を駆使した調査に基づ
き主張したのであった。しかし、大半の考古学者はその年代測定結果を受け入れなかった。


2、なぜ考古学者は受け入れなかったのか
ヨーロッパ文明の基盤となるメソポタミア文明では、土器の出現は農業誕生以後の出来事だったからである。
そのことをふまえ、考古学者たちは「縄文時代の人々はまだ農業をやっていなかった。農耕もやっていない縄文人が土器をもつはずがない」と決めてかかっていたのである。 
多くの考古学者は、年代測定結果を信用せず、縄文土器は4000年ないし5000年前のものだと考えていた。それに対し、芹沢氏は「縄文土器は世界最古である」という主張を展開していた。だが、その主張を受け入れる学者は皆無に等しかったのである。
明治以降、日本の学者の大半は、いわば“欧米の学問の色眼鏡”を通してものを見てきた。たとえ目の前に真実があっても、色眼鏡をかけていたらそれが見えないものである。

3、その後の研究で裏付けられた

その後の研究によって、いまや、芹沢氏の主張の正しさが見事に裏付けられた。
中国の玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から出土した、約15,000年前の土器は、厚さ1.5センチもある。日本最古の縄文時代草創期の土器(花見山遺跡)は、厚さ1.5センチぐらいである。16,000年前に作られたにもかかわらず、日本の土器は中国の土器の三分の一の厚さなのだ、縄文時代の日本が、いかに先進的な優れた技術を持っていたかの証左である。

4、東アジアは他地域より500年早く温帯に
 

安田チームが2003年に「年縞」分析の成果を、『サイエンス』に掲載したもの





















私たちの住むモンスーンアジアが、地球温暖化に際して他地域より500年以上も早く、広葉樹に象徴される温帯の生態系に移行したことがわかる。
「日本およびモンスーンアジアの各地域が、まだ農耕すら始まっていなかったにもかかわらず、世界最古の土器をもつことができたのはなぜか?」という謎の答えが、ここにある。

モンスーンアジアは、氷期から後氷期への移行期に、地球温暖化による生態系の遷移が世界に先駆けていち早く引き起こされ、いち早く温帯の生態系に移行した。その新たに出現した温帯広葉樹の豊かな森の資源を利用するために土器革命が、世界に先駆けて成し遂げられたのである。

■「縄文土器が世界最古である」ということは、「縄文人は世界で最も早く家族をつくった」ということにほかならない。
いまや「野蛮な未開な時代」ととらえてきた縄文時代だが、そうではないのである。

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(まとめ)
・すばらしいですね。現役の学者がこのように縄文に科学的に証明してくださるのは。
・「ホツマ」などなど、定性的な見解はたくさんありますが、科学が本当に役にたつ(失礼!)時代となったようです。
・「年縞」調査は、わが秋田県男鹿半島の「一の目潟」ですから、うれしいですね。
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04002■縄文時代時計と土器




縄文紀行さんのWEBはすばらしいですね。

縄文時代の時代時計をお借りしました。




















時代時計
縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けられる。
開始から終末まで1万2千年以上だ。まさに悠久の時を感じる。
縄文各期の時期は諸説あるので、ここでは岡山大松木武彦准教授著「日
本の歴史列島創世記」の付表に拠る。
古代は飛鳥時代から平安時代末期まで、中世は鎌倉時代から明治維新
までとした。



C13,000~BC9,000~BC5,000~BC3,500~BC2,500~BC1.200~
草創期早期前期中期後期晩期
室谷洞窟遺跡(新潟)
花見山遺跡(神奈川)
多摩ニュータウン遺跡(東京)
夏島貝塚(神奈川)
幸田貝塚(千葉)
糸井宮前遺跡(群馬)
三内丸山遺跡
笹山遺跡(新潟)
大森貝塚
(東京)
亀ヶ岡遺跡
(青森)
世界は→→新石器時代(農耕、家畜の飼育が始まる)オリエント
青銅器文化
エジプト
第一王朝
殷王朝
ハムラビ王
周王朝
ギリシャ文化


欠落部分は縄文紀行さんをご覧ください。




■風水図(四神相応図)都市


ラージスケールの風水
理想の風水スポットとは?
 はじめに、山や川といった大きな部分での風水をみてみましょう。
 風水では、良い気(生気)をいかに多く取り入れるかが重要です。
気持ちの良い自然を取り入れようとするとき、風水師が判断の基
準としてきたのは、「山、水」と「方位」です。韓国や中国では、建
物は①北、東、西を山に囲まれ、②一方が開けていて、③南方に
川や池など「水」をたたえ得るような地形環境に建てるのが最も
良いとされます。ここで、理想的な風水モデルを説明しましょう。





















上のイラストは、快適エネルギーを一つも逃さない完璧な吉相図です。
北の山脈aは祖山、bは宗山(そうざん)といい、気のエネルギーが発
生するところです。
 fは穴(けつ)と言い、人体で言えばツボにあたる、生気が満ちあふ
れる最高の場所です。
気は山の麓へ流れ降りて穴にいったん貯えられます。
 集まった気を散らさないように穴を護る、南を向いての左壁dを青
龍(せいりゅう)・左砂(ささ)と呼び、右壁eを白虎(びゃっこ)・右砂
(うさ)と呼びます。しかし、左右の砂がない場合、松のような常緑樹
を抱護(ほうご)の松(c)として植えるのです。
 gは明堂(みょうどう)と言い、気が集まる広場です。できるだけ大
きく開かれていることが強運を呼びます。
 iは集まった気を止めるために川や池があればいいのです。水に
は気を鎮め、エネルギーを受けとめる作用があります。北の山から
来たエネルギーを南の水が受ける、南北軸は生命エネルギーの経
路なのです。
 hの案山もjの朝山も、穴を護っている南の砂です。小さい方が気
の流れを邪魔しません。

 後方(北)に玄武(げんぶ)という亀の怪物(どっしりした山)、前方
(南)に朱雀(すざく)すなわち不死鳥、左(東)に青龍(せいりゅう)、
右(西)に白虎(びゃっこ)。これらの四霊獣が四方を護っているよう
に見える地形環境を、「四神相応(ししんそうおう)の地」と呼びます。

平安京は風水ハイテク都市!!


 



 794年に桓武天皇が遷都した平安京についてみてみましょう(イラスト)。




















 山の配置を見ると、北に鞍馬山(くらまやま)と、丑の刻(うしのこく)
参りで名高い貴船(きふね)神社のある貴船山(つまり玄武)、東に青
龍となる東山山系、西に白虎である嵐山があります。これらの山が
強力な砂(さ)になっています。
南に平たい盆地が広がり、鴨川と桂川が合流して淀川をつくるポイ
ントになっています(朱雀)。淀川は気を貯えつつ、ゆっくりとこれを
流します。

 このほかに案山となるものもあり、船岡山(ふなおかやま)のほぼ
南にある神奈備(かんなび)山がそれにあたります。平安京は、四
方を十字を形成する四つの山に囲まれていたわけです。これを「十
字天心(じゅうじてんしん)の法」といい、都市の中心を決めるため
の秘中の秘なのだそうです。これだけという形がきれいに実現され
た土地も珍しいのです。

 ラージスケールの風水が、古代の京を選定するにあたって使わ
れていました。古代において、今でもよくわかっていない都市づく
りテクノロジー、つまり古代ハイテク技術を一手に引き受けていた
のが、陰陽博士(おんみょうはかせ)という古代日本の万能魔術
博士でした。一般に安倍晴明でおなじみの、陰陽師と呼ばれる
人たちの知識のメインコースに、風水が「でーん!」とあぐらをか
いていたはずなのです。

 それではわたし達に一番影響のある、家の風水はどう見たら
いいでしょうか。

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(まとめ)
・ストーンサークル・クロマンタのある大湯地区は何となく当てはまりそうな気がしますが、まだ解けません。
・でも、時代が・・・大湯の方が古いのです!! 全然的外れ化も知れません。
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