台湾の篤学・李学勲(1920~1998)は『山海経』の解読に生涯を捧げ、その「海外東経」「大荒東経」にある黒歯国は、「お歯黒の国」すなわち日本の山形県・秋田県の羽黒山系のことであると解いた。
したがって、その黒歯国に隣接するとされる扶桑・湯谷も東北地方に求められることになる。
李は扶桑をアイヌ語ヌササン(神社)の音写とみなし、和名は「真木」であるとして、その所在を秋田県 立真木自然公園に求めた。李は、本来は国が管理すべき扶桑の史跡を県任せにしている日本行政のあり方を厳しく批判している。
元岩手県一関 市市議会議員の赤羽根広重氏は李の説を発展させ、扶桑とは本来は天地を結ぶ(と古代人に信じられた)三角形の山のことでピラミッドの原型、真木自然公園では真昼岳にあたる。
また、秋田県大湯町も湯谷の遺称地でここでの扶桑は黒又山、その祭祀遺跡が大湯環状列石(ストーンサークル)であるとした。
田中勝也氏は中国唐代の『梁書』の扶桑国・女国、『酉陽雑爼』の扶桑州・長鬚国、日本の『伊予三島縁起』の扶桑州はいずれも日本列島の東北部にある国家を指すと思われるとして、それを『日本書紀』にいう蝦夷にあてた。
ただし、田中氏は『李朝実録』にある夷千島王の使者(1482年に朝鮮李朝に入朝)の国書に現れる扶桑は日本のこととする。また、14~15世紀の地図においては、扶桑・女国を日本から離れたところ、具体的には東シベリア・沿海州・樺太・千島とおぼしき中国東北方に置く傾向があるとも指摘する。田中氏は扶桑が日本の雅号としても用いられたことや、情報の混乱から、中国における扶桑の所在の認識にも異動が生じているとするが、それでも、かつて日本の東北方が扶桑と呼ばれていたという痕跡は一貫して見出すことができるという。
なお、中国の常征氏も『梁書』の扶桑国はすなわち大漢国のことで本州島最北端もしくは北海道 にあったとする。常氏は邪馬台国すなわち倭国の中心を九州の宮崎県西都市 あたりに求め、魏志倭人伝における邪馬台国までの航路記事を延長することで、文身国を能登半島東北、大漢国=扶桑国を日本列島北端に求めることになったのである。
(参考文献)
李学勲『古代日本の風土記わたしの山海経』下巻、日野史談会、1991
赤羽根広重『日本太古事典(下巻)縄文の奇跡』月光庵、1998
田中勝也『エミシ研究』新泉社、1992
常征「扶桑国は日本であってアメリカ大陸のメキシコではない」『中日関係史学会会報』1989年2号
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