2009年6月16日火曜日

013151■歌枕の地は黄門さまが決めた



荒俣宏は、旅の始まりには、歌枕は地誌の「アイコン」であると感じていた。
しかし・・・・・














しかし、東北歌枕の旅をスタートさせたとたん、予想していた大問題が発生した。(P25~)

1、歌枕とはここか、とピンポイントで確認できる明瞭な証拠を示した場所なぞ、おおむね実在せず、したがってただしくそこへたどりつくのは不可能なのである。

2、しかし現地には、ここが歌枕の地である、と晴れ晴れしく記した看板や石碑は立っているのだ。

3、だが、ほとんどの場合、歌枕の地と比定されたスポットは、江戸時代の水戸藩主・徳川光圀、白河藩主・松平定信といった日本史と日本文化に深い関係をもつ大名たちをはじめとする後世の人々が、悪く言えば勝手に決めた所にすぎなかった。

4、歌枕の地へ行けない理由
①古代と現在とでは各地の地形が一変してしまっていること。その代表が象潟である。大地震が発生して改訂が隆起し、陸地と化してしまったため。

②もっと深刻な理由。地名とは元来「固有名詞」ではなく普通名詞だったのであり、ある一つの場所を特定しなかった、という事情である。ある地形が東北なら東北に特有で、近くにいくつもあるのに、他の地域からはユニークに見えるならば、それに類した地形はすべて同一の地名、同一の「歌枕」でくくることができる。
その実例が「末の松山」「室の八島」など。

③ほとんど決定的なパンチ。歌枕として登録されたその名が、実は地名ではない、というケースである。地名でないものを探そうとしても、みつかるわけがないではないか。
その実例が、「信夫文知摺」や「壺の碑」である。現に「壺の碑」と主張する土地は東北に二カ所ある。

・西行も芭蕉も、よくまあ「歌枕」の旅に出て、みごと現地に着けたものだと、あきれてしまう。

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(まとめ)
・徳川光圀が決めた歌枕の地。
・壺の石碑も光圀がこれが本物だと決めたものです。
(政府が決めたから、学会が決めたから・・・同じですね)

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