2009年6月8日月曜日

01412■鹿角と南部紫根染・茜染について




 第一次世界大戦により海外からの資源の輸入が困難になるとの見通しのもと、国内資源の見直し運動の一環として、南部紫根染復興のことが岩手県知事大津麟平氏の主唱により取り上げられ、南部紫根染研究所が開設されたもので、当時の岩手県勧業課長は筆者の祖父の従兄弟に当る藤田萬治郎氏で、その様な関係もあって京都で染色の研修中だった草紫堂初代・謙【当時27才】が主任として招聘され、研究に着手するのだが

、盛岡にはすでにその技法を伝える人が絶えて居り、明治維新まで藤田家が知行地として鹿角郡柴内村【現鹿角市柴内】を南部家から拝領していた、その様な縁故もあって、秋田県花輪地方【現鹿角市花輪】にかろうじて残って居た、21代前の祖先から紫根染・茜染を家業として営んで居られた、かなりご高齢の小田切猪太郎氏他1名の方に一年間盛岡に来てもらい、その技法を伝授された。


花輪で"鹿角紫根染・茜染"の伝統の技法を受け継いで居る栗山家は藩政時代から続く呉服屋さんだったと聞いているが、文一郎氏のお父上文次郎氏が紫根染をやろうと思い立ったキッカケは、職人さんが殆ど居なくなり、しかも残っていた方も老齢化し、このまゝでは奈良時代から伝えられて来た伝統の技が絶えてしまうことを心配し、大正7(1918)年自ら職人さんからその技を習い、自信を持って染められる様になる迄には10年の歳月を要した【平成4年か5年頃のNHK朝のテレビの文一郎氏のお話し】とのこと。

一方その始められた年が、石井博夫氏の「平安の香気」【昭和49(1974 )年8月北鹿新聞所載】では大正2(1913)年となっているが、文一郎氏のNHKテレビでのお話を聞いた時、『父の方が兄弟子なんだな』と思いながら聞いた記憶が今も鮮明に残っている。大正2年文次郎氏が独自のお考えだけで保存を決意されたと考えるよりも、盛岡での復興の動きを知って、職人さんが花輪に戻って来た直後の大正7年と考えた方がより現実的ではないかと思はれるが、どなたかNHKテレビをご記憶の方、又は真相をご存知の方が居られたら、ご一報戴けたら幸甚です。


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(まとめ)
・ストーンサークルのある鹿角市は茜染めの本場ですので、ケフの郷から受け継ぐものかと調べてきました。
・しかし、「ホツマ」の「毛布の細布」は鶴の羽とありますので、流れは引くのでしょうが、少し違うようです。
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