慈覚大師円仁というひと(高橋富雄) 日本には、古来、名僧・高徳と称される人が多い。にもかかわらず、事、東北に関する限り、名僧と言えば、まず指を、慈覚大師円仁に屈する。すこしでも古い寺があると、開基は大概、慈覚大師ということになっている。もう一つ格をあげて、行基開基ということになっていても、その次には、ハンコを押したように、慈覚 中興開山と続くのである。 「由緒のある古さ」というのは、慈覚開基ということで権威づける。これが通り相場なのである。国分寺もあった。行基さまもおられた。伝教さまも弘法さまも、それぞれにありがたい。にもかかわらず、そのようなお寺、そういう方々は、ただお話として尊いのである。自分たちの心の奥底からこみあげてくる信仰のはじまりという実感を、ここの人たちは、ついにそこにおぼえることはできなかったのである。この人たちは、それを肌で選択していた。ただ一人。慈覚からその信仰は始まったと、ここの人たちは確信していた。それが、東北慈覚伝説の背景だったのである。 東北の信仰のはじまりが、特に慈覚大師に結んで語り伝えられたについては、十分理由があったのである。 天台宗は、格別に、桓武天皇に結びついて、鎮護国家、天下第一仏教となった。その桓武天皇は、平安京をつくることと、東北のエゾ経営をすすめることとを、その政治的使命とした天皇であった。そこで天台宗は、その都を守ることとともに、エゾの辺境を鎮め護ることを、その至上命題とした。 天台宗が、東北の人たちにとって、はじめて「みんなの仏教」になったのは、このためであった。 しかし、最澄とそのすぐの後継者、義真・円澄たちのころは、天台宗創業の時であった。必死になって防衛につとめ、内をかためていた時代であった。外に向かって、堂々とおし出していくところまでは、まだきていな かった。天台宗が、内外ともに整備・充実して、他宗を圧倒し、東北でも「守護国界の王宗」の役目を確実に果すようになるのは、実に天台宗第三世座主、円仁慈覚大師の時代からだったのである。 慈覚は、天台宗を「八宗兼学の王宗」にした。最澄の時代にも「台密禅戒」と言って、天台宗は、本来の天台法華宗のほかに、密教も禅宗も戒律もみな総合しての「一乗円宗」(すべてを備えた総合宗教)であろうとした。しかし、それはまだ理想にとどまり、現実ではなかった。慈覚はこの理想をほぼ達成した天台円宗 の完成者であった。最澄の最も弱かった密教の妙理を極めて、弘法の真言宗密教、すなわち「東密」(東寺による密教)のお株を奪うような「台密」(天台宗の密教)を大成し、これを天台その他の教義と総合する「顕密一致」という統合理論を編み出すのも、かれである。「朝題目、夕念仏」と言って、朝の勤めは法華経、夕 のお勤めは念仏というように、法華往生と念仏往生の一致を説いたのも、かれ慈覚であった。 法華経は「王経」と呼ばれて、最勝の経典とされていた。天台宗は、その法華経所依の宗旨だから、「王宗」だとは、最澄の主張だったのだが、その実が備わったのは、慈覚のもとにおいてであった。諸国の国分寺や定額寺(準官寺)の僧は、多く天台宗によって占められるようになった。「天台別院」というのも各国各地に置かれて、天台布教の基地となった。その中で、新開のフロンティア東北こそは、特別にその「守護国界」の使命感に燃えて、教線を張ったところである。ほとんど「天台王国」の観があったのである。 |
慈覚ゆかりの寺々 いったい、全国に、慈覚開基とか巡錫とかの伝説を残す寺は、どのくらいあり、その中で東北はどんな状況になっているのだろうか。 『慈覚大師研究』という総合研究の中で、関口真大氏が「慈覚大師讃仰の一側面」と題されて、寺伝・縁起類にもとついて、府県別に一覧表を示されたのが、一つ参考になる。 全国およそ五〇〇か寺。地方別に示すと、東北七県九九・関東二〇〇・中部五九(新潟除く)・近畿九四・中国四一・四国二・九州五。慈覚信仰というのが、圧倒的に畿内以東の「東型信仰」であることがわかる。およそ九〇%が東日本よりに分布する。中国・四国・九州あわせて、わずか}○%。徳島・愛媛・熊本・長崎・宮崎・鹿児島の諸県では全く報告例がない。これら西日本では、弘法一色に塗りつぶされ、関東・東北中心の東日本と著しい対照を示す。 「西の弘法、東の慈覚」。信仰地図は、はっきり、そう色分けされていたのである。 近畿がお膝元なのに、比較的すくないのは、名僧.高僧たちの人気が伯仲していて、だれか一人にだけ集中可るという風土でなかったことによる。奈良県下に}例の報告もないのは、興味深い。南都と北嶺とは犬 猿の間柄だった。天台立ち入り禁止の心の立札が、長く南都に立ち続けた証拠である。なお、東日本では、山梨にだけ、報告例が同じく全くない。関東が断然多いのは、ここが慈覚発祥の地であることによる。かれは、下野国(栃木県)都賀郡出身である。かれだけでない。一世座主義真は相模国(神奈川県)、二世座主円澄は武あんね蔵国(埼玉県)、四世座主安恵の母は下野国、七世座主猷憲も下野国 の出であった。初期天台宗は「東国派」によって固められていた。その宗門が「東国型」に成長していくのは、当然のことだったのである。 東北は関東ほど多くない。しかしもともとここでは、寺の数がよその地方ほど多くない。比率的には、十分関東並と言ってよい。岩手三一・宮城二〇・山形一七・福島一三・新潟八・秋田六・青森四。およそそういった分布である。もっともわたしは、関口氏のこの一覧表は、そのよりどころとした資料の範囲内では正しくても、慈覚伝説の広がりを知るためのものとしては、やや狭きに史するのでないかと思っている。同じ本の中の、あとでふれる勝野隆信氏「慈覚大師入定説考」は、東北六県のみでも、それは三一二寺にも達していたという伊沢不忍氏の説を紹介している。 もしこの通りだとすると、東北が一番多いことになる。福島が意外に少いのは、会津中心に法相学僧徳一開基と伝える寺が多いことによろう岩手は胆沢鎮守府の城下、宮城は多賀国府の府下。一、二の順位は順当なものである。新潟では佐渡の名刹長谷寺が、慈覚伝説ゆかりの寺である。福島では、伊達の霊山、会津高田、天海僧正を出し、一字蓮台法華経の竜興寺が、慈覚開基と伝えている。 山形では山寺が慈覚入定窟を伝え、最も由緒深い。 秋田は象潟蛆満寺が古来有名であるが、 そのさらに南の金峰山寺(廃寺)が、いっそう注目される。 宮城では天下の名勝松島瑞巌寺・五大堂・石巻牧山観音・箆岳箆峰寺みな慈覚開基を伝える。岩手では、黒石寺・中尊寺・毛越寺・天台寺みな慈覚ゆかりの天台寺院である。青森では、恐山が有名である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (まとめ) ・桓武天皇は、東北からの脅威に対し、坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、渡来人を含む蝦夷の軍団と対決させた。 ・しかし、武力だけでは人心をつかめぬとみてか、唐から帰った名僧慈覚大師を送り込み、仏教による懐柔策をも並行して実施したといわれる。(荒俣宏) ・四国を封印した空海(弘法大師)・・・(四国八十八ヶ所空海のことば刻字奉納) ・歌枕でイメージ転換を図った東北。 ・田村麻呂伝説と「みんなの仏教」でイメージ転換ですか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
1 件のコメント:
ん~なるほどぉ~
政マツリゴトと宗教は表裏一体という感じですね。
訪ねてみたくなりました。
スタンプラリーみたいに縁のある場所マップみたいなモノが欲しくなります(笑)
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